玄徳道

道を語るブログです。

呂洞賓 孚聖訓、修心道。

2021-08-31 04:30:00 | 道院
心を修める第一歩の工夫には、特に静坐が大切である。

しかし、坐を始めて、すぐに静となることは難しい。

それは、雑念妄想が相次いでやって来て、一つの念が治まらないうちに、また次の念が起きて止むことがない。

その原因をきわめてみると、凡てはその心が、いまだに虚空となっていないから、七情六欲が絶えず起こってくるのである。

目でいろいろなものを見るとき、目自身に何の欲望があろうか。

この欲望は心にある。

耳でいろいろなものを聞くとき、耳に何の欲望があろうか。

欲望は心にある。

鼻で嗅ぐとき、舌で味わうとき、鼻や舌がどうしてその香りや味を欲することがあろうか。

これと同じように、一身の安逸や妄心を欲するものはまた、心にある。

譬(たと)えて言えば、心に欲するところがあれば、たとえ千里を歩いても、疲れを感じないし、心に欲するところがなければ、すぐに近くであっても足は一歩も前に進まない。

どんなに美味しいご馳走を出されても、心がここになければ、食べてもその味がわからないのである。

各方は試みに考えてみよ。

妄念妄想にはいろいろな奇々怪々な想念があるが、修方(道院の修養者)である以上、殺人放火の思いを抱いたり、強姦窃盗の念を起こすことは決してないであろう。

それはこのような想念や心が無いから、このような行動を起こさないのである。

各、修方は更に詳しくこれを悟れば、雑念妄想が起こってくるのは、心が動くことより、起こってくるのである。

この故に坐を修める時に、収視返聴して竅(虚)を守るのである。

収視とは目で見たことによって起きる心の中のあらゆる想念を放下することであり、返聴とは耳で聴くことによって起きるあらゆる想念を放下することである。

しかし、目で視、耳で聴くあらゆる、想念を断絶して枯木死灰(心の熱い活動がなく、死んでいるようなさま)となってもいけないのである。

竅を守るとは、即ち虚空であって、心が何ものにも、とらわれる事が無くして、生き生きととして、はたらいている所以である。

それ故に心は人の根源であり、修道の最も大切なところであり、天地の主宰であり、道慈のかなめでもある。



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至聖先天老祖訓、五行道。

2021-08-30 04:12:00 | 道院
世間の全ての事はみな仮の事であり、たとえ自分の一身といえどもまた、幻想である。

一たび、息が止まれば、いぜん空に帰してしまう。

おもうに、色身の中に真身があり、身体の中に五行がある。

吾が修を授けるのは、その仮のものによって、その真を修めるのである。

色声身体の仮のものを借りて、真身五行の真を練磨するのである。

五行は木 火 土 金 水である。

心は火に属し、その徳は礼である。

腎は水に属し、その徳は智である。

肺は金に属し、その徳は義である。

肝は木に属し、その徳は仁である。

脾は土に属し、その徳は信である。

木 火 土 金 水は五行の性であり、仁 義 礼 智 信は、五行の徳である。

心は神を蔵し、発しては楽しみとなる。

腎は精を蔵し、発しては悲しみとなる。

肺は意を蔵し、発しては欲となる。

これが後天で具(そな)えているところの仮のものである。

人は生まれてより、先天は後天の中に混ざり、後天は先天の内より流出し、先天は後天と雑居して清まっておらず、もし、後天の仮のものを練磨しなければ先天に復(かえ)る事は出来ない。

故に後天を借りて先天を練り、先天をもって後天を化するのである。

後天が全く化されてしまえば、先天は自ら純粋となる。

この時、一粒の明らかな珠は肉体より、抜け出て、その輝きは天地を照らす事に成る。

人の真実とするところは、すなわちこの一点の真霊である。
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済仏訓、元気道。

2021-08-29 02:26:00 | 道院
人の初めの炁は天地である。

天地の炁は炁胞である。

天地人は一炁胞を本として、貫通感応するので、自ら天然の関係があるのである。

故に、人身は一小天地であり、天地は、一大人身である。

養生家の言に、天下の人は生を養うところの要点は元を保つより大なるものはないと言う。

元を保つと言うのは、元気を保存する事である。

おもうに人はこの世に生を受ける初めに、すでに定まっている分があり、この定まっている分と言うのが元気である。

これは視ようとしても見ることが出来ず、これを求めようとしても求めることが出来ず、気血の内に寓していて、気血の先を宰(つかさ)どっており、五臓の真精は、みな元気の分体である。

その根本の所在を道経では、これを丹田と言い、難経ではこれを命門と言い、内経では七節の旁(そば)に小心があり、陰陽の開閉(はたらき)がここに存し、呼吸の出入りもここに繋がっていると。

たとえ火が無くても全身みな温かであり、たとえ水が無くても五臓はみな潤っている。

いわゆる元陽真陰もまた、一が化して二となったものである。

天地の元陽は深く地中に蔵(かく)されている。

その外に現れて春夏秋冬の四季の相めぐるものは浮陽である。

人における元陽は腎の中に蔵されていて、あまねく全身をめぐっているのもまた、浮陽である。

浮陽はこれを薬とし、汗として発散することが出来るが、元陽はこれを妄動させることは、出来ないのである。

太極図(円形)の白い圏(ところ)が、即ち元陽の本来の位であり、それが陰陽に分かれるのは、皆それは白い圏意外に於いてこれが判れる。

故に元陽とは、元気の蔵するところであり、元気とは、祖(もと)の気より授かったものであると言っている。

これによっても炁胞の育むところは天地人みな一貫して相通じることを悟ることが出来る。

内経では、陽が足りれば、則ち下に固まり、陰が足りれば則ち上に水がそそがれる事になり、その人は無病でいることが出来る。

そこで疾病に侵(おか)されるのは、五運六気(木=肝、火=心、土=脾、金=肺、水=腎と風、熱、湿、燥、寒、火)の失調にほかならない。

そこで薬(漢方)によってこれを和(やわ)らげることが出来、和らげば解け、解ければ治療するのである。

これを以て世の中に推し弘めて人事に運用すれば、参証するとこを得ることが出来る。

運数とは陰陽順逆が相乗じて生じ、数の成るところ運も又、これに因(よ)り、運数が乗除して、大災劫が生じる。

これを挽化しようとすれば、端的に人力によるだけである。

人は堅 定 勇 毅の願力を以て災劫を弭化するのは、あたかも養生する者が元気を保存して、病いを退け健康を守るようなものである。

これは事の当然であり、又、理の当然である。

これを以て体得すれば、養生して身を保つことと数劫を弭化する事は、その揆を一にしている。

たとえ、その理は同じで、その事も同然とは言え、養生して身を保つ者は、必ず嗜慾を節制し、労し傷(そこ)なう事を軽減し、思慮を、省(はぶ)く事に重点をおくように、数劫を弭化する者も又、必ず功行に努め、多くの志を合わせて、気霊を融合させ、この三者を以て努力して為し、長くこれを堅持して怠ることが無ければ、その身のあるところは霊光円満に輝き、必ず全て一切を弭化して、太平安楽の世を招来する事が出来るのである。



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慧真人訓、病気の予防道。

2021-08-28 00:19:00 | 道院
人は皆、有形の病を治すことは知ってあるが、無形の病を治すことは知らない。

有形の病を取り除く事は容易ではないが、無形の病を治すことは更に難しい。

かりにも、無形の病が起きて来なければ、どうして、有形の病が生じてくるのであろうか。

そこで、無形の病が起こって来ないようにするには、どうすれば、良いのであろうか。

それは、人の予防の如何に、かかっているのである。

いわゆる、人の五臓というのは、心臓、肝臓、脾臓、肺臓、腎臓である。

心臓の病が起きて来ると、物が言えなくなる。

肝臓の病が起こってくれば、怒りの気によって損なわれる。

脾臓の病が起きれば、食べても、その味が分からず、かつ消化しないのである。

肺臓の病が起こってくれば、水を生じるはたらきが無くなってくるので、咳が出てくる。

腎臓の病が起こってくれば、五臓の最初に当たる肝臓(木)に滋養を与えることが、出来なくなる。

これが、病が有形なるものである。

それは、水(腎)が能(よ)く火(心)
を尅(剋、相手にうちかつ)して(水が火を尅する)水を調(ととの)え、火は能く金(肺)を尅して、火を調え、金は能く木(肝)を尅して、金を調え、木は能く土(脾)を尅して木を調え、土は能く水を尅して、土を調える。

このように、五臓がみな、その調和を得れば、病はどこから起こってくるというのであろうか。

ただし、これは、調えるところの方法についても皆の為に告げなければならない。

それは、喜怒哀楽の七情六欲がみな、病を招くところの源となるのである。

これを用いるのに、その中庸を得ることが出来なければ、病の原因となるのである。

喜びも度を越せば、水(腎)を傷(そこ)ない、怒りも度を越せば、木(肝)を傷ない、哀しみも度を越せば、火(心)を傷ない、楽しみも度を越せば、金(肺)を傷ない、この四つのものが一つでも傷なわれれば、土(脾)もまたこれに従って傷なわれるのである。

土は万物を生育するところの母なので、金木水火の四つのものに比べて特に大切であり、これを傷なってはならない。

故に五臓を調和しようとすれば、土が最も重要である。

しかし、この四つの中で一つでも傷なうところがあれば、土はこれに従って傷なわれる。

そこで、他のものに比べて土を調和させることは、特に容易なことではないので、これは実験によって証明すらことが出来るのである。

土を傷なうということは、もし、心に病があれば、食は必ず減少し、肝に病があれば食もまた必ず多く食べられない。

その他、肺や腎の如きも、いかなる病であろうとも一たび病めば土(脾)を傷なってしまい、健康の時のように飲食することができなくなる。

土とは即ち脾であり、脾を調和することが容易ではないということが分かるので、また土は金木水火によって病を招くことが、明白になったのであり、これが無形の病の内に発するところのものである。

また、外から来るものも気を付けなければならない。

それら陰陽風雨晦明などはみな病を招くもので、これを予防するにはどうすべきであろうか。

それには、それは陰に対しては、これを防ぐに陽を以てし、陽に対しては、これを防ぐに陰を以てし、陰陽相和すれば、病はなくなるのである。

風にはこれを防ぐに、静を以てし、動静が全て適宜であれば、病はどこから、入ってくるのであろうか。

明にはこれを防ぐに暗を以てし、明暗相交われば、自然に合致し、戻ることはないのである。

しかし、その陰陽風雨晦明というものは、皆陰に過ぎ、陽に過ぎ、風雨に過ぎ、晦に過ぎ、明に過ぎ、その中庸を得ていないところに病の原因がある。

故にこれを予防すれば、内外の病は入って来ないのである。




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至聖先天老祖訓、縁なる道。

2021-08-27 00:20:00 | 道院
道は縁によって成就し、縁は天より授けられるものである。

古来より、大道を悟り得た、多くの聖、神、仙、仏は、皆、善縁によってこれを成就したのである。

故に、その境遇の順境と逆境は、皆、我が魂を磨くのに非常に役に立つのである。

智慧のある人は、この縁を審(つまび)らかにして、それに、本づいて、自らを救うのである。

智慧の無い人は、善縁にあっても自ら悟らず、善縁より日に日に遠ざかり、邪(よこしま)な縁によって、日に日に堕落していくのである。

しかし、善い縁には、初めに逆境があり、それによって、身心が鍛えられ、戒められて、これを正しい道に復帰させようとするのである。

邪な縁には、その初めに、必ず、思うままになる、順境があって、それに迷わされて、目が醒めず、迷いの道から、いつまでも抜け出す事は出来ないのである。

そこで、修道の志のある人は、必ず、先ず心を正しくして、本源を明らかにし、驕りや虚栄心によって飾る事を捨てて、淡白となり、実質を重視して、虚名を軽んじるのであり、また、根本を重視し、枝葉末節を軽視するのである。

志を、高尚にし、言葉を少なくし、静思して、精神を統一し、黙して悟り、道の真髄を明らかにして、全ての道理に通達し、たとえ順境に、遇っても憂えず、順境と逆境にかかわらず、如何なる境遇といえども、これらは皆、修道の上において、又、成道の上に於いても、非常に役に立つのであり、これは、善縁中の最も優れた因縁である。

更に世間の全て一切の因縁は、皆、天から授けられたもので、少しでも、人為を加えて、思うままに為し、得るものでは無いと、会得するのである。

何事も天の定めであるから、その天意を受けて、努めるべきである。

このように実行すると、日に日に徳性は光り輝いて、無極という、最高の境地に到達点するのである。

しかしながら、最も一言身近な、一言一言を慎み、戒め、善を楽しむ誠を持続すべき事である。

このようにすれば、善縁は日に日に増加し、悪縁は次第に減食し、天より授けれる善縁は限りなく増大し、しかる後に道功は、自然に完成されるのである。

コメント (2)
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