玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓 真修道。

2024-01-17 17:45:00 | 道院
各地では、災劫が頻発して多難である。

吾が道の堅誠にして、仁慈憐憫の士は、みな誠心でこれを弭化(災害が起こす、因果のカルマを消す)しようと、吾が師(至聖先天老祖)及び、各教の教主(釈尊、キリスト、マホメット、老子、孔子、最澄、空海、王仁師等等)、ならびに聖神仙仏に祈っている。

吾が師及び各教の教主、聖神仙仏は、各方の誠願に感じて、再三各聖神仙仏、各教教主及び、各真人菩薩に一致して、合霊弭化するように、訓を伝え、その功効は、大きくない、ことは、無い。

しかるに、災劫が出現するのは、これを推し測るのは、難しいようであるが、それは、どうしてであろうか。

化し去るところの、劫は無形にあり、それが化す、ハジから造られ、生じるハジから、有(業が形となる)となるのは、劫を造ることが、人心に在り、また、測り難いものも、人心に在るからである。

人心は、何を以て、知らずに覚(し)らずのうちに、劫を造るのであろうか。

そうではないのである。

人心には、善があり、悪があり、善となったり、悪となったりするのは、みな、物欲に因って蔽われ、私心に引きずられるからである。

時には、知っているようであったり、昧(くら)まされているようであったり、時には明らかなようでありながら、これを押さえることが出来ずに、故意に犯している。

また、定見なく、主宰なく時には、その理を明らかにせずして、ただ、目前の勢いで為すべきことを為すのみを見て、為すべからざる事を為して、それが顕現されることを見ないのである。


これを為して覚るに至っては、すでに事前に明らかに弁じ慎んでおもうことが出来なかったので、既に為した後に、過失を改めることは出来ない。

事に出くわしては、前者の鑒(かがみ)を参考にせず、遠い先の結果を明らかにすることがないのは、みな錯縦粉雑のところがあり、左右逢源(自然にこれを用いて尽きることなく、これを取りて、竭きることなく、自由自在である)で、玄微の機を徹見することが失われるのである。

これによっても、人の一心の変化は事の正理をつかまえる事は難しく、また、事ごとにその真を得て、その正道正理をつかまえることは難しことが分かるのである。

一般の人は、このような状態であり、善く修める者も、また、このような、状態である。

吾が道院の修人が求修するときは、みな、大願を発し、第一に「修」を願うのはニ字(功候・一こい願わくば、功候を修めさせ給え。)
は、大いに修めることを発顔している。

[注 道院に求修し、老祖の弟子となるには、神前にて、四つの誓願を言わねばならない。一つこい願わくば、功候を修めんことを。願わくば真諦を得さしめんことを。願わくば上乗に到らんことを。願わくば衆生を度せしめんことを。]

修めるところのものは、なんで何であろうか。

内功を修めるのか、外行を修めるのか、一心を修めるのか、一身を修めるのか。

心は身の主であり、心を如何にして以て修め、自ら、吾が心を渡(すく)うことが出来たか否か。

或いは、言うに修坐は、即ちこれ吾が心を修め、以て自ら渡(すく)うのであると。

修坐する人も心は、それぞれ同じでは、
なく、気質もめいめい異なっている。

しかし、誠で、修めることが出来れば希望がある。

ただし、いくら坐ってみても、大きな進歩がないようである。

一体いつになったら、自ら、吾が心を渡い、以て自ら吾が身を度(すく)い、以て衆生を渡い、以て、一切の災劫を有形無形の中に、化すことが出来るのであろうか。

この中の道理を話してみると、非常に容易であるが、これを行なってみると、実に、容易なことでは無い。

それは、一個人の心が後天的に成長する過程
の中において、各人それぞれ、環境があり、各人それぞれの因果があり、その各人の環境を超越することは、自分では不可能であると思っている。

君の環境を超越しないで、君はいたるところで、いろいろな事務と日用の人の守るべき道の間において、動定言行挙止の際に於いて、切実に功を用いることが出来たかどうか、顧みることが出来たであろうか。

この第一句の意義は特に重要であり、この第一句を実践することが出来なければ、上乗に到り、真諦を得て、衆生を度することが出来ないので、その上に四つの願いもみな、切実に求修することは出来ないのである。

度(すく)いは、吾が心より、する事が一切の災劫を弭化する本である。

吾が心を渡(すく)うことが出来て、はじめて吾が身を渡うことが出来、吾が身を渡うことが出来て、はじめて吾の行を修め、吾の功を成すことが出来る。

吾の功を成して、吾が心は自ら化し、吾が身の劫を化し、吾が一身の災難を化す。

吾が一身の災難を化して、吾が一心の因果罪業を弭(な)くし、はじめて、われ、自らを渡(すく)う心をもって、人を渡い、自ら、この身を化し、劫を化する事が出来る。

全ては、第一句の修は、その功を成し、功はその行を成すことに在る。

内外に偏することなく、道慈が平行して進めば、自然に、その真の功候を得られ、自然に上乗に到り、真諦を得て、一切の衆生をことごとく渡(すく)い、一切災難を弭化することが出来る。

そこで、はじめて、坐功においては、その浩然の気を成し、その先天の炁を充す事が出来る。

先天の炁は、充すことに因って、固まり、息息綿々として、上下四方に通じる。

これを真炁が発動するといって、一切の有形無形の災劫を運化するのである。

もし、四つの願いよって順を、追って進んで功候を得るとなく、心性一身の中において、功夫を用いるのでなければ、たとえ、能(よ)
く、真炁の動きが突然見えたとしても、また、それによって吾が心身を渡うことは、出来ず、かえって魄魔に乗ぜられて、一切の災劫を化することが出来ないだけでなく、吾が一心一身の因果も弭(な)くすことが出来ず、化することも出来ないのである。

これは、すなわち、大道真修の深遠な道理を平易で、身近に説いただけである。

男女、掌長監職修、各々は、みな、このこの、災劫不測の時機に、このわずかな光陰を大切にして、一切の不真不正の仮相を放棄して心を回して、渡いは、吾が心よりし、化するは、吾が心よりし、吾が一身の先後天の三宝を渡い、これを固め、これを運(めぐ)らせ、これを化し、吾が心、吾が身を渡うことが出来れば、一切の因果災劫魔難は、自ずから消え、自ら化してしまう。

先天の炁霊性を以て、一切を弭化すれば、必ず大道真諦上乗を得証して、衆生を渡化して、石門(かつて、六万年前に、先天老祖が降臨された場所。)で発顔して来たことを完成させる事が、でき、再び輪廻の苦しみを受けることは、無いのである。

これが自分(黙真人)の深く切に祝禱(いの)るところである。

時期が移り変わって、道運はこれが為に否となり、滞(とど)こうりし、従って種々の現象が発生している。

一つには、各方の功候の練磨を経て、一つには、道運のしからしめる(そのような結果に至らせる)ところである。

然し寒冬の滞(とど)こうり、塞がっていた、機は将に尽きんとして、春機の動きが、既に朕(きざ)している。

望むところは、各地の男女掌長監職修各方が、過去の一切を水に流して、新しく、合霊して、和気を保ち、以て有形無形の災劫を弭化を助けるようにし、曙光の機を凝らし、運(めぐ)らし、忠心より、誠で合し、共にその機に応じた佳(よ)い朕(きざ)しを、成じ、以て漸次、春に生じて夏に盛んになるように隆盛に転じることを期するのである。

自分(黙真人)は厚く望む。



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