旅で訪れた場所の砂をフィルムケースに入れて持ち帰り、コレ
クションにするのは1992年から始めたことでした。高校球児
たちが甲子園の砂を持って帰るのと同じような感じで、仕事
の写真撮影の立ち会いや、プライベートな旅行などで訪れた
場所の砂を、思い出の一部として持って帰ってきました。
上の写真の4本の小瓶は、フィルムケースから詰め替えたも
のですが、4本とも1992年の5月のものです。左から、
アメリカのユタ州モアブ、モアブの近くのアーチズ・ナ
ショナル・パークのノースポイントという場所、同じく
モアブ近郊のデッド・ホース・ポイント、そして一番右は
ユタ州とアリゾナ州の境目のモニュメント・バレーです。
モアブ近郊は、自然が作ったアーチとか、渓谷とか、不思議
な地形が多い場所。モニュメント・バレーは、西部劇などで
おなじみの風景で、ナバホインディアンの居住区になってい
る場所です。
何故このような場所の砂があるのかと言うと、某カメラ
メーカーのカメラのカタログの写真撮影でこの場所を訪れた
のです。その時に起用したカメラマンが、山の写真では
世界的に有名なゲーラン・ローエル(Galen Rowell)だった
のです。1940年生まれの彼は、登山家としても有名だった
のですが、大自然の美しさの虜になった彼は、30を過ぎて
プロカメラマンになります。被写体は山や大自然。1984年
には、アンセル・アダムズ賞を受賞します。チベットから
南極まで、彼は地球を相手に写真を撮り続けていました。
写真集もいくつも出していて、ナショナル・ジオグラ
フィックの雑誌でも活躍していました。ネイチャー・
フォトグラフィーの世界ではセレブリティーでした。
1992年といえば、私が36才、ゲーラン・ローエルは51才。
その時の彼は今の私とそれほど変わらない年齢でした。
そんなに大きくはない彼でしたが、山登りで鍛えた彼は、
じつに引き締まった身体つきで、顔つきも精悍で、西部劇
ではヒーローとして登場しきそうな人でした。今から17年
も前のことなので、記憶が定かではない部分が多いですが、
いつも毅然とした彼の立ち居振る舞いと、50を過ぎても
澄み切った眼、そして彼がよく使う”lovely”(グッドという
意味)と”pretty”(非常にという意味の形容詞)ははっきり
と覚えています。
ハワイ島での別のカメラマンとの撮影を終えて、コロラド州
デンバー経由でユタ州のモアブの町に入った私は、その小さ
な町のモーテルで彼に会いました。スーツケースが飛行機
会社の手違いで、デンバーではなくモンタナ州かどっかに
行ってしまっていたので、デイパックだけでそのモーテル
でチェックインをしていたら、そのロビーにいたのが
ゲーラン・ローエルと、彼のマネージャーでもある奥さん
のバーバラ・ローエルでした。こんなところにいる謎の
日本人は彼のクライアントに違いないと思ったのでしょう、
彼らは早速私のところに来て、挨拶しました。
西部の男ゲーラン・ローエルは当然のようにブルージーンズ
で、格子模様のシャツを着ていましたが、靴はウェスタン
ブーツではなくてトレッキングシューズでした。背筋が
すっと伸びていて、まっすぐに私を見て、握手をしました。
その握力は山で鍛えられたものでした。
バーバラ・ローエルは魅力的な女性でした。1948年1月生
まれなので、当時45才。映画とかに出てきそうな素敵な
カップルでした。ハワイ生まれの彼女は、アウトドアブラン
ドのノース・フェース(North Face)で広報の仕事をして
いたそうなのですが、1981年4月、たまたまカタログの
仕事で起用したゲーラン・ローエルとその週のうちに恋に
落ち、約一ヶ月後に結婚したのだそうです。
私がモアブで会った彼らは、結婚してから11年目。歩くとき
も手をつないでいる彼らの後ろ姿を見て、私は、あ、いい
なあと思ったりしたのでした。翌日は朝早く起きなければ
ならないので、町のレストランで、私たちは早めの夕食を
しました。初めて出会ったのに、何だか昔から知っている
友人のような気がしたのが不思議でした。バーバラは、
南米に行ったときの話や、ネパールに長期間滞在したときの
話や、ダライ・ラマと会ったときの話をしていました。
その時の私はダライ・ラマが誰かなどということは恥ずか
しながら知りませんでした。(昨年ロンドンに行った時、
偶然ヒルトンホテルでダライ・ラマに会ったときはびっく
りしましたが)
数日の撮影を終えて、私たちは車でモニュメント・バレーに
行きました。モアブから数時間かかります。何もない大平原
を通って南に向かうのですが、その車中の会話がとても楽し
かったのを覚えています。バーバラは、途中で寄ったガソ
リンスタンドの売店でポテトチップスとコーラを買ってき
ました。私がポテトチップスをぽりぽり食べていると、
「やっぱりバーベキュー味がおいしいわよね」みたいなこと
を彼女は言っていました。それから、漢字の話をして、
バーバラとか、ゲーランを漢字で書いて、その意味がとてつ
もなくへんてこな意味になったときは大笑いをして喜んでい
ました。
この撮影の話は思い出すといろいろあって語り尽くせないの
ですが、すべての風景がとても美しく、何年経っても忘れら
れません。数日間の撮影が終わって、私たちは再びモアブに
戻り、ゲーランとバーバラを近くの飛行場に送っていきまし
た。飛行場といっても、セスナ用の小さな滑走路が一本ある
だけのものです。バーバラは、ゲーランと結婚してからセス
ナの免許を取り、自分で操縦して飛行機移動しているとのこ
とでした。事務室の小さな掘建て小屋があるだけの飛行場で、
彼らがセスナで飛び立っていくのを見送ったのを昨日のこと
のように覚えています。彼らは、レンタカーに三脚を忘れて
いったので、郵送で送り届けましたが。
それが最後でした。彼らが2002年8月11日、カリフォ
ルニア州のビショップの近くでの飛行機事故で亡くなったと
知ったのはつい最近のことでした。
彼らのウェブサイトはまだ残っています。
英語ですがこちら↓です。
http://www.mountainlight.com/
クションにするのは1992年から始めたことでした。高校球児
たちが甲子園の砂を持って帰るのと同じような感じで、仕事
の写真撮影の立ち会いや、プライベートな旅行などで訪れた
場所の砂を、思い出の一部として持って帰ってきました。
上の写真の4本の小瓶は、フィルムケースから詰め替えたも
のですが、4本とも1992年の5月のものです。左から、
アメリカのユタ州モアブ、モアブの近くのアーチズ・ナ
ショナル・パークのノースポイントという場所、同じく
モアブ近郊のデッド・ホース・ポイント、そして一番右は
ユタ州とアリゾナ州の境目のモニュメント・バレーです。
モアブ近郊は、自然が作ったアーチとか、渓谷とか、不思議
な地形が多い場所。モニュメント・バレーは、西部劇などで
おなじみの風景で、ナバホインディアンの居住区になってい
る場所です。
何故このような場所の砂があるのかと言うと、某カメラ
メーカーのカメラのカタログの写真撮影でこの場所を訪れた
のです。その時に起用したカメラマンが、山の写真では
世界的に有名なゲーラン・ローエル(Galen Rowell)だった
のです。1940年生まれの彼は、登山家としても有名だった
のですが、大自然の美しさの虜になった彼は、30を過ぎて
プロカメラマンになります。被写体は山や大自然。1984年
には、アンセル・アダムズ賞を受賞します。チベットから
南極まで、彼は地球を相手に写真を撮り続けていました。
写真集もいくつも出していて、ナショナル・ジオグラ
フィックの雑誌でも活躍していました。ネイチャー・
フォトグラフィーの世界ではセレブリティーでした。
1992年といえば、私が36才、ゲーラン・ローエルは51才。
その時の彼は今の私とそれほど変わらない年齢でした。
そんなに大きくはない彼でしたが、山登りで鍛えた彼は、
じつに引き締まった身体つきで、顔つきも精悍で、西部劇
ではヒーローとして登場しきそうな人でした。今から17年
も前のことなので、記憶が定かではない部分が多いですが、
いつも毅然とした彼の立ち居振る舞いと、50を過ぎても
澄み切った眼、そして彼がよく使う”lovely”(グッドという
意味)と”pretty”(非常にという意味の形容詞)ははっきり
と覚えています。
ハワイ島での別のカメラマンとの撮影を終えて、コロラド州
デンバー経由でユタ州のモアブの町に入った私は、その小さ
な町のモーテルで彼に会いました。スーツケースが飛行機
会社の手違いで、デンバーではなくモンタナ州かどっかに
行ってしまっていたので、デイパックだけでそのモーテル
でチェックインをしていたら、そのロビーにいたのが
ゲーラン・ローエルと、彼のマネージャーでもある奥さん
のバーバラ・ローエルでした。こんなところにいる謎の
日本人は彼のクライアントに違いないと思ったのでしょう、
彼らは早速私のところに来て、挨拶しました。
西部の男ゲーラン・ローエルは当然のようにブルージーンズ
で、格子模様のシャツを着ていましたが、靴はウェスタン
ブーツではなくてトレッキングシューズでした。背筋が
すっと伸びていて、まっすぐに私を見て、握手をしました。
その握力は山で鍛えられたものでした。
バーバラ・ローエルは魅力的な女性でした。1948年1月生
まれなので、当時45才。映画とかに出てきそうな素敵な
カップルでした。ハワイ生まれの彼女は、アウトドアブラン
ドのノース・フェース(North Face)で広報の仕事をして
いたそうなのですが、1981年4月、たまたまカタログの
仕事で起用したゲーラン・ローエルとその週のうちに恋に
落ち、約一ヶ月後に結婚したのだそうです。
私がモアブで会った彼らは、結婚してから11年目。歩くとき
も手をつないでいる彼らの後ろ姿を見て、私は、あ、いい
なあと思ったりしたのでした。翌日は朝早く起きなければ
ならないので、町のレストランで、私たちは早めの夕食を
しました。初めて出会ったのに、何だか昔から知っている
友人のような気がしたのが不思議でした。バーバラは、
南米に行ったときの話や、ネパールに長期間滞在したときの
話や、ダライ・ラマと会ったときの話をしていました。
その時の私はダライ・ラマが誰かなどということは恥ずか
しながら知りませんでした。(昨年ロンドンに行った時、
偶然ヒルトンホテルでダライ・ラマに会ったときはびっく
りしましたが)
数日の撮影を終えて、私たちは車でモニュメント・バレーに
行きました。モアブから数時間かかります。何もない大平原
を通って南に向かうのですが、その車中の会話がとても楽し
かったのを覚えています。バーバラは、途中で寄ったガソ
リンスタンドの売店でポテトチップスとコーラを買ってき
ました。私がポテトチップスをぽりぽり食べていると、
「やっぱりバーベキュー味がおいしいわよね」みたいなこと
を彼女は言っていました。それから、漢字の話をして、
バーバラとか、ゲーランを漢字で書いて、その意味がとてつ
もなくへんてこな意味になったときは大笑いをして喜んでい
ました。
この撮影の話は思い出すといろいろあって語り尽くせないの
ですが、すべての風景がとても美しく、何年経っても忘れら
れません。数日間の撮影が終わって、私たちは再びモアブに
戻り、ゲーランとバーバラを近くの飛行場に送っていきまし
た。飛行場といっても、セスナ用の小さな滑走路が一本ある
だけのものです。バーバラは、ゲーランと結婚してからセス
ナの免許を取り、自分で操縦して飛行機移動しているとのこ
とでした。事務室の小さな掘建て小屋があるだけの飛行場で、
彼らがセスナで飛び立っていくのを見送ったのを昨日のこと
のように覚えています。彼らは、レンタカーに三脚を忘れて
いったので、郵送で送り届けましたが。
それが最後でした。彼らが2002年8月11日、カリフォ
ルニア州のビショップの近くでの飛行機事故で亡くなったと
知ったのはつい最近のことでした。
彼らのウェブサイトはまだ残っています。
英語ですがこちら↓です。
http://www.mountainlight.com/