振り返ってみると、これまでずいぶんいろんなプロカメラマン
と仕事をしてきました。それも海外のカメラマンと。自分は
写真を専門に勉強したわけではないのですが、海外のプロ
カメラマンからずいぶんいろんなことを教わった気がします。
正確な年は忘れてしまったのですが、今から20年も前のこと
です。何かの資料を探せばはっきり年代が特定できるのかもし
れませんが、日記をつけていなかった私には、かすかな記憶
の糸を辿っていくしか他にしようがありません。
当時日本のパソコン市場と通信市場を牛耳っていた某大手
電気メーカーの会社案内の仕事で、ボストンのデザイン会社
を使い、三人の世界的に有名なカメラマンを使い、世界各地
で写真撮影を行うというプロジェクトがありました。バブル
の絶頂期で、今では考えられない規模の予算をかけて会社
案内を作っていました。
撮影は三人のカメラマンほぼ同時期に行われたのですが、
私は、ヨーロッパおよびエチオピアという地域を担当する
ことになりました。そしてそこを担当するカメラマンは、
ニール・スレイヴィン(Neal Slavin)というアメリカの有名な
写真家でした。それまでに数々の賞を受賞していて、
1986年には “Corporate Photographer of the Year”を
受賞していました。(最近ではムービーのほうに進み、
ウィリアム・メーシーとローラ・ダーン主演の“Focus”
という映画を監督したようです)
最初に彼に会ったのは11月のパリ。それはボジョレー
ヌーボーの解禁の木曜日の夕方。ルーブル博物館のそばの
クラシックなホテルのロビーでした。山ほどの写真器材を
アシスタントが運んでいて、まずその量にびっくりしました。
これほどの量の写真器材を見たのは初めてでした。ハッセル
ブラッドのカメラ、各種レンズ、膨大な量のフィルム、
照明用ライト、スタンド、三脚、脚立、発電機複数、
ゼラチン、暗幕などなど。さすがに世界のカメラマンは違う
と思ったものでした。
パリではお客さんのパリの事務所を撮影。ポートレートを
数名撮影しました。
そこからデュッセルドルフへ、そしてミュンヘンへ。ミュン
ヘンに着いたときちょうど初雪が降り出していました。
ミュンヘンではサービスセンターを撮影。現地のお客さん
サイドに話が通ってなくて、ちょっとしたトラブル。まあ
企業もの撮影ではこうしたトラブルはよくあるものです。
各都市では、レンタカーで移動していましたが、ドイツ
ではクラシック音楽をかけながら朝もやの田舎の並木道を
ドライブするのはこれこそヨーロッパだなという感じが
したものです。
それからロンドンに一泊、そこから電車でバーミンガムの
近くのウォルバーハンプトンという駅で乗り換えて、
テルフォードという町に到着。そこでテレビを作っている
工場で撮影でした。森の中の小さなホテルで一泊したとき、
テレビの音声が英語とは全く違う言語だったのでびっくり
しました。あれはウェールズの言葉だったのでしょうか。
工場では、一人の女子工員がテレビを組み立てているところ
を集中的に撮影していました。中判のフィルムなので、
一回一回のシャッターがかなり時間がかかります。ここで
私が感心したのは、撮影している女子工員に対して、大きな
声で、しかも丁寧に、”Could you please look at the
camera”というふうに”Could you”をしょっちゅう使うの
です。とても丁寧な表現です。「ビ~ィッグ・スマ~イル!」
とか叫んでモデルになってもらっている女性のいい表情を
引き出そうとします。さすが世界一流のカメラマンは違う
なあと感心していました。
そしたらここでもトラブル発生。日本人の現地駐在の担当者
が、切れて怒りだします。「もういい加減にしてくれよな。
こんな邪魔されちゃあ生産が間に合わないんだよな」と延々
と愚痴を言い出します。しかも日本語で。日本語がわかる
人間は私しかいないのですが、その時私はジャパニーズ・
アメリカンの振りをして、ちょっとわからないふりをして
おりました。カメラマンのほうは、写真に妥協はしません。
何枚も何枚も撮り続けます。担当者が文句を言っているのは
わかっているのですが、それよりもなによりも彼はプロの
カメラマンとしての仕事を優先します。仮に工場に迷惑を
かけたとしても、それは何とか挽回できる。しかし、いい
写真は妥協をしてしまったら二度と撮る事はできない。
このときにプロカメラマンの魂を感じたのでした。
こういう情熱が写真のできばえを左右するんだなと思いま
した。その時の写真は会社案内の中で一ページフルで使わ
れました。
その後、我々はスコットランドのエジンバラへ。各場所で
一日はフリータイムがあります。私は、エジンバラ城に
行ったり、エジンバラの街を散策したりして楽しみました。
スコーンと紅茶がとても美味しかったのを覚えています。
スコットランドの半導体の工場を撮影して、私たちは最後の
目的地、エチオピアのアジスアベバに向かいました。エチオ
ピアのことはまた詳しく書きたいですが、ここは別世界で
した。カメラマンのニール・スレイヴィンは、直前になって、
できれば行きたくないと言い出しました。最悪の事態に備え
て、私は自分で撮影しようかと思ったのですが、結局彼らは
アジスアベバに着きました。当時はまだ革命後の軍事政権が
支配をしていて、戒厳令が出ていました。帰ってしばらくし
て、再びクーデターがあり、政府の役人がかなり殺されたと
聞きました。『皇帝ハイレセラシエ』という文庫本を帰って
から読み、行くのをいやがったニール・スレイヴィンの気持
ちがそのときやっとわかったのでした。
しかし、アジスアベバに着いたら、真っ青な空で、人々の眼
は澄み切っていて奇麗で、夜の満天の星はとても奇麗でした。
小学校で撮影をしたのですが、ポラロイド写真を初めて見る
子供たちのまなざしが、まさに未知との遭遇という感じで人
だかりになりました。そういえば、あのとき、子供たちに囲
まれて自分の写真を撮ってもらいましたね。あの写真どこに
あるのかな?
と仕事をしてきました。それも海外のカメラマンと。自分は
写真を専門に勉強したわけではないのですが、海外のプロ
カメラマンからずいぶんいろんなことを教わった気がします。
正確な年は忘れてしまったのですが、今から20年も前のこと
です。何かの資料を探せばはっきり年代が特定できるのかもし
れませんが、日記をつけていなかった私には、かすかな記憶
の糸を辿っていくしか他にしようがありません。
当時日本のパソコン市場と通信市場を牛耳っていた某大手
電気メーカーの会社案内の仕事で、ボストンのデザイン会社
を使い、三人の世界的に有名なカメラマンを使い、世界各地
で写真撮影を行うというプロジェクトがありました。バブル
の絶頂期で、今では考えられない規模の予算をかけて会社
案内を作っていました。
撮影は三人のカメラマンほぼ同時期に行われたのですが、
私は、ヨーロッパおよびエチオピアという地域を担当する
ことになりました。そしてそこを担当するカメラマンは、
ニール・スレイヴィン(Neal Slavin)というアメリカの有名な
写真家でした。それまでに数々の賞を受賞していて、
1986年には “Corporate Photographer of the Year”を
受賞していました。(最近ではムービーのほうに進み、
ウィリアム・メーシーとローラ・ダーン主演の“Focus”
という映画を監督したようです)
最初に彼に会ったのは11月のパリ。それはボジョレー
ヌーボーの解禁の木曜日の夕方。ルーブル博物館のそばの
クラシックなホテルのロビーでした。山ほどの写真器材を
アシスタントが運んでいて、まずその量にびっくりしました。
これほどの量の写真器材を見たのは初めてでした。ハッセル
ブラッドのカメラ、各種レンズ、膨大な量のフィルム、
照明用ライト、スタンド、三脚、脚立、発電機複数、
ゼラチン、暗幕などなど。さすがに世界のカメラマンは違う
と思ったものでした。
パリではお客さんのパリの事務所を撮影。ポートレートを
数名撮影しました。
そこからデュッセルドルフへ、そしてミュンヘンへ。ミュン
ヘンに着いたときちょうど初雪が降り出していました。
ミュンヘンではサービスセンターを撮影。現地のお客さん
サイドに話が通ってなくて、ちょっとしたトラブル。まあ
企業もの撮影ではこうしたトラブルはよくあるものです。
各都市では、レンタカーで移動していましたが、ドイツ
ではクラシック音楽をかけながら朝もやの田舎の並木道を
ドライブするのはこれこそヨーロッパだなという感じが
したものです。
それからロンドンに一泊、そこから電車でバーミンガムの
近くのウォルバーハンプトンという駅で乗り換えて、
テルフォードという町に到着。そこでテレビを作っている
工場で撮影でした。森の中の小さなホテルで一泊したとき、
テレビの音声が英語とは全く違う言語だったのでびっくり
しました。あれはウェールズの言葉だったのでしょうか。
工場では、一人の女子工員がテレビを組み立てているところ
を集中的に撮影していました。中判のフィルムなので、
一回一回のシャッターがかなり時間がかかります。ここで
私が感心したのは、撮影している女子工員に対して、大きな
声で、しかも丁寧に、”Could you please look at the
camera”というふうに”Could you”をしょっちゅう使うの
です。とても丁寧な表現です。「ビ~ィッグ・スマ~イル!」
とか叫んでモデルになってもらっている女性のいい表情を
引き出そうとします。さすが世界一流のカメラマンは違う
なあと感心していました。
そしたらここでもトラブル発生。日本人の現地駐在の担当者
が、切れて怒りだします。「もういい加減にしてくれよな。
こんな邪魔されちゃあ生産が間に合わないんだよな」と延々
と愚痴を言い出します。しかも日本語で。日本語がわかる
人間は私しかいないのですが、その時私はジャパニーズ・
アメリカンの振りをして、ちょっとわからないふりをして
おりました。カメラマンのほうは、写真に妥協はしません。
何枚も何枚も撮り続けます。担当者が文句を言っているのは
わかっているのですが、それよりもなによりも彼はプロの
カメラマンとしての仕事を優先します。仮に工場に迷惑を
かけたとしても、それは何とか挽回できる。しかし、いい
写真は妥協をしてしまったら二度と撮る事はできない。
このときにプロカメラマンの魂を感じたのでした。
こういう情熱が写真のできばえを左右するんだなと思いま
した。その時の写真は会社案内の中で一ページフルで使わ
れました。
その後、我々はスコットランドのエジンバラへ。各場所で
一日はフリータイムがあります。私は、エジンバラ城に
行ったり、エジンバラの街を散策したりして楽しみました。
スコーンと紅茶がとても美味しかったのを覚えています。
スコットランドの半導体の工場を撮影して、私たちは最後の
目的地、エチオピアのアジスアベバに向かいました。エチオ
ピアのことはまた詳しく書きたいですが、ここは別世界で
した。カメラマンのニール・スレイヴィンは、直前になって、
できれば行きたくないと言い出しました。最悪の事態に備え
て、私は自分で撮影しようかと思ったのですが、結局彼らは
アジスアベバに着きました。当時はまだ革命後の軍事政権が
支配をしていて、戒厳令が出ていました。帰ってしばらくし
て、再びクーデターがあり、政府の役人がかなり殺されたと
聞きました。『皇帝ハイレセラシエ』という文庫本を帰って
から読み、行くのをいやがったニール・スレイヴィンの気持
ちがそのときやっとわかったのでした。
しかし、アジスアベバに着いたら、真っ青な空で、人々の眼
は澄み切っていて奇麗で、夜の満天の星はとても奇麗でした。
小学校で撮影をしたのですが、ポラロイド写真を初めて見る
子供たちのまなざしが、まさに未知との遭遇という感じで人
だかりになりました。そういえば、あのとき、子供たちに囲
まれて自分の写真を撮ってもらいましたね。あの写真どこに
あるのかな?