南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

からゆきさんのシンガポール

2006-07-23 21:57:36 | シンガポール
昨日、NHKの「世界の天気予報」でシンガポールは雨だと言って
いたのに、今日は雨は全く降らず、NHKの天気予報は見事に外れ
てしまいました。普段は、晴れと曇りと雨のマークが重なって
いるのですが、昨日に限って雨だと断言していました。でも、
これからも雨の降る気配はありません。NHKさん残念でした。

だいたいシンガポールで天気予報をやる意味はあまりないですよね。
台風も来なければ、寒冷前線や、梅雨前線が停滞することもない。
突然雨が降ってもおかしくないし、すぐに太陽が出てもおかしく
ありません。気温はだいたい同じです。日本では、集中豪雨で被害
が出たようですが、そういう心配はこちらではありません。

さて、この上の写真は、シンガポールのパルコの風景です。ショッ
ピングセンターのパルコです。三階建ての建物の並ぶ通路の上を
透明の屋根で覆い、この通路を挟んだ一帯がパルコになっています。
屋根があるので、この通りは雨でも全く問題がありません。

この写真はノースブリッジロード側からの入り口を入ってすぐの
あたりからの景色ですが、左側はインターコンチネンタル・ホテル
に通じています。右のほうに曲がっていくと、その先は西友です。
このまま直進すると、ビクトリアロードに出ます。パルコの中に
入っている店は、ファッションの店が多く、さらに飲食店も多い
ので、週末には若者で混雑しています。

このパルコの中の通りには、昔の道路標識が残っています。この
ノースブリジロードからビクトリアロードに真っすぐ繋がっている
のがマレーストリート、右のほうに曲がっていく通りがハイラム
ストリート、そして、マレーストリートをずっと行って、パスタ屋
さんのSketchesという店の手前を左手に曲がると、そこがマラバー
ストリートという通りになっています。

この三つの通りは今のシンガポールの地図には載っていません。
しかし、実はこの通りには、語り尽くせぬドラマがあったのです。
そんなことは、シンガポールでも知ってる人はほとんどおらず、
日本人でもほとんど知らないのではないかと思います。

山崎朋子さんという作家がいます。豊子さんではなく、朋子さん
です。代表作は『サンダカン八番娼館』という本です。ボルネオ
島(カリマンタン)の北のはずれのサンダカンという港町に娼婦
として売られていった日本人女性が、故郷の天草に戻った後、そ
の過去ゆえ村八分の扱いを受けている。山崎さんは、その女性を
訪ねていき、女性の過去を取材するという話です。数年前に読ん
だのですが、かわいそうな話で感動的でした。

その続編という形で山崎さんが書いたのが『サンダカンの墓』と
いう本です。この本は文春文庫で出ていたのですが、絶版となっ
ているようです。この本は、山崎さんが、サンダカンとか、他の
「からゆきさん」の足跡をたどって旅をする話となっています。

その中に、シンガポールの話が出てきます。大正時代から昭和の
戦争前の時期にかけて、シンガポールに遊郭があり、貧しさゆえ
日本の農村から売られていった「からゆきさん」がそこにもいた
ということでした。日本人たちはそこを「ステレツ」と呼んでい
たそうです。英語のストリートが訛っての「ステレツ」でした。

山崎さんが取材をしながらたどり着くのが、先ほど紹介した三つ
のステレツ(ハイラム、マレー、マラバー)だったのです。山崎
さんの本によれば、このステレツはチャイナタウンにあると書い
てありました。

数年前にこの本を読んだとき、この通りは今はどうなっているん
だろうと思って、チャイナタウンをぐるぐると探索しました。
しかし、そのような名前の通りを見つけることはできませんでし
た。区画整理されてしまったのかなと思って、会社にあった10年
以上前の地図を見てみました。何と、ハイラムとか、マラバーの
名前があるではありませんか。それはブギスであり、その一帯を
とりつぶしてパルコになったのだということがわかりました。

パルコに行ってみて、山崎朋子さんがかつて訪れた3つの通りが
ちゃんと通りのネームプレートまできちっと残っているではない
ですか。これには感激しました。またチャイナタウンや、インド
人街なども時代とともに場所を移っていたということもわかり
ました。

山崎さんがステレツの名残を求めて、苦労してこの三つの通りを
探しあてるのです。その時には、すでに娼館はなくなっていたの
ですが、朽ち果てた娼館の名残を見て、感慨にふけるのです。
しばらくこの通りを歩いた後、ここを去る前に、ふと立ち止まっ
てもういちどその悲しみの街の名残を眼に焼き付けるという表現
がその本の中に出てきます。具体的な表現は忘れてしまいました
が、それは映画のラストシーンのようであり、今でも記憶に強く
残っています。

私はたまたまこの本を読んだので、このような歴史を知っている
のですが、知らない人がほとんどではないかと思います。
私たちの今の繁栄は、過去の悲しみの歴史の上に築かれているん
だと思うと、のんきに浮かれてばかりもいられないのですよね。

パルコに来ると私はいつも複雑な気持ちになります。