定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

「ツール・ド・シルクロード」トルクメニスタンの練習、武者小路実篤記念館へ

2018-12-01 19:37:27 | 国内サイクリング
   

11月18日だったと思うが、東京新聞の夕刊で武者小路実篤の「新しき村」のことを紹介していた。武者小路実篤の描いて実践した「ユートピア」が、100年後の今も続いていることに驚くとともに、人間というものに安心もした。性善説で受け止められる人間もいるんだ。頼もしい。

また、学生時代のデモ仲間の一人が「子供の頃に武者小路君の家に遊びに行くと、いっつも縁側におじいちゃんがコックリこっくりと居眠りをしているんだよ。子供だから騒ぐんだけど笑っていた」。それが武者小路実篤だったと知ったのは、デモ仲間も大人になってからの事だった。

デモ仲間も武者小路實実篤の孫も、明星学園に教師として勤めていた。二人とも明星学園の卒業生だった。また、デモ仲間には、志賀直哉の姪っ子もいた。今年(2018年)の3月にデモの50周年記念の集まりがあり、会場で会った。50歳くらいだった彼女も90歳ほどになる。当時住んでいた家は井の頭公園の脇にあったが、山梨県に引っ越していた。当時、井の頭公園の周辺には、戦前から続く文化人の家族などが住んでいて、文化の雰囲気が残っていた。
そこに集まっていた若者は、シベリア抑留じゃないけれど、青春の一時、自由を失い、大学をヨコに出てから自由業になった仲間が多かった。それでも時間は平等に過ぎている。ある仲間の髪は白くなり、ある仲間の髪は薄くなっている。昔の仲間の名前が直ぐに出てこないし、足元は不確かになっている。

こんなこともあり、東京新聞の記事に魅かれ「『新しき村』の百年」(前田速夫著、新潮新書)まで読み始めた。武者小路実篤の作品も読んだりとバタバタと来た。今日(12月1日)は、天気もいいので自転車で行くことにした。

  

古い地図を持ち適当に出発したのは、11時55分。団地から15キロほどだろうと思って、のんびりと出掛けたのだった。交通量が少ないだろうと思って選んだ道路脇には、代々続く農家らしき家。蔵もあり、武者小路実篤が存命の頃は、この道を馬車などが肥溜めなどを運んだのだろうと想像。ビルの上に看板には「曳家、家を引っ張って移動させる」といった看板もあった。子供の頃には家を移動させる様子を見る事もあった。だが、今どきそんな依頼はないだろうに。家は工場で作ったパネルを組み立てるプラモデルのような作業に変わっている。寿命は長くなっているのに、食も住も「時短第一」のインスタント時代。古い家をみんなで引っ張って、次に住みたい家族の所まで移動させる作業が子供の頃にはあった。今はない。仕事は何か。インスタントは便利だけれども、寂しく悲しい。

  

地図はなくても、武者小路実篤記念館にたどり着いた。20キロほどだったが、1時間半もかかった。武者小路実篤の自宅の敷地を活用したという記念館は、住宅街の中にあるが、武蔵野の面影を残す空間だった。

  

デモ仲間が、武者小路実篤の孫と遊んだらしい縁側は、武蔵野の雑木林の中にありながらも日当たりがよかった。もっともデモ仲間は、今や70歳を過ぎている。髪はすっかり抜けて日当たりはいい。時間は、金も地位も名誉も関係なく、何人にも平等に過ぎていく、老いてゆく。
今回は紅葉の中だった。5000平方メートルの敷地で花の咲く頃、虫の鳴く頃、鳥のさえずりが聞こえる頃、武者小路実篤は、どんな風景と共に縁側でうたた寝を繰り返し、まどろんでいたのか。体験したいものだ。

   

今日の帰り道は、途中で暗くなったころもあり2時間ほどかかった。だが、赤い夕陽の中に浮かぶ富士山を見る事ができた。その後は真っ暗な中を走ったのだが。
「新しき村」は、宮崎県にある最初の地が今も続いている。「新しき村」はその後埼玉県内に移っている。近々、行きは輪行、帰りはポタリングで埼玉県にある「新しき村」も楽しみたい。