わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第150回 -渡辺めぐみ- 谷合吉重

2015-06-06 17:17:24 | 詩客

 渡辺めぐみにおいて悲しみは先験的である。その悲しみは『光の果て』からやって来るらしい。やがて友の死、従兄の死、祖父の死等が渡辺の悲しみを実体化する。それらの苦悩を克服する手立てとして詩があった。なかでも盛夏に不帰の人となった従兄の死は特権的であるに違いない。燃えるように暑い夏に従兄は亡くなった、その死を引き受けることが渡辺めぐみの生きることだったに違いない。取り返しようもない事実に寄り添うように生きてきた証を示すために渡辺は独特の言語を操る。わたしたちは本当に言いたいことをいうためには別のことを、言いたいこととはまったく別のことを言わなければならない時がある。渡辺の詩もまた本当に言いたいことをいうために、別の言葉を発明しようと苦闘している。「わたしは幼いときから壊れていたから」(「邂逅」・『光の果て』)と語る、素直でありながら時にはひねくれていて、「悲痛な羊と快闊な羊の顔を合わせ持つ」(同前)渡辺めぐみという主体は奇妙な言語の持ち主なのである。
 渡辺の悲しみが先験的であるように、喪失もまた先験的である。喪失によってある空間にぽっかりと穴が開くのではなく、絶対的な喪失感の中で具体的な喪失を受難するのである。その困難な事態を言葉によって塗り込めることこそ、渡辺が果敢に挑戦している事柄なのである。時にはそれは「おいしくないものをおいしいということ」(「バイアスチェック」・『ルオーのキリストの涙まで』)でもあると。そういう言葉が出てくる場所といえば次のようなものである。

兄は言うだろう
地は主(ぬし)の物にあらず
非業の下賤な
時の羽の休まぬところ と 

(「内在地」・『内在地』)

 ここで兄とは亡くなった従兄のことである。神と人間との境界線のようなこの場所は多分言葉として正確であろう。「時の羽の休まぬところ」とは、渡辺が「棒立ち」(「誓願」・『内在地』)になって何かを耐える場所である。
 「根本的に治癒しない物事の近くには/白い花が咲き/蝶も飛び交うことがある/すべては幻影かもしれないが/その花を手折って活けるのではなく/その花の気持ちを育てたい」(「城址」・『内在地』)と書く渡辺には、盛夏に従兄を喪った故にか冬を描く詩句が多い。「根本的に治癒しない物事」を抱え「冬の桜が吹くだろう」(「戦禍」・『内在地』)場所で「棒立ち」になっている渡辺めぐみの姿を眼に浮かべることは容易い。しかし、渡辺はそれだけではないのだ。

チロチロのチを
わたしにください
チだけでよいですから
わたしにください         

(「四月の死角」・『ルオーのキリストの涙まで』)

 このユーモアと話体の音感の心地良さは何だろう。これこそが、ともすれば謹厳実直だけの詩になりそうな渡辺の持って生まれた所与に抗して、奇妙な明るさを灯している理由なのだ。このユーモアは何処からやって来るのだろう。おそらく「わたしは幼いときから壊れていたから」と表明する、自分の主体を敢えて壊乱する渡辺の戦略から来ているのだろう。「根本的に治癒しない物事の近くに」咲いた「白い花」は、治癒しないことを前提に生きなければならない。そう覚悟したときに生まれる捨て身のユーモアが渡辺の詩を支えているのだ。わたしはそういう場所に立つ渡辺めぐみという詩人が好きである。