わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第125回 -アルチュール・ランボー- 神山睦美

2014-06-17 14:13:27 | 詩客

 私の中には、一つの物語の原型のようなものがあって、言葉にすると、こんな形で現れる。 

 

イエス・キリストは、すべての人々の罪を背負って十字架に架けられ、あざけりと屈辱にさいなまれながら、傷みと苦しみのうちに息絶えていった〉。

 

 このようなイエスの物語を、物語としてではなく、現実に演じてしまう者が、この世の中にはいる。そのことを、私は、アルチュール・ランボーとの出会いからまなんだ。

 

問題なのは、怪物じみた魂を作り出すことなのです。詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理にも適った壊乱を通じて見者となるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探究し、自らのうちにすべての毒を汲み尽くします。詩人は未知なるものに達し、そして彼が、狂乱して、ついに自分のさまざまなヴィジョンについての知的理解を失ってしまうとき、それでも彼はそれらのヴィジョンをたしかに見たのです! 前代未聞の名づけようもない事象を通じた、彼のそんな跳躍のただなかで、もし彼の身が破滅してしまうなら、それはそれでよいのです。他の恐るべき労働者たちが、後に続いてやって来ることでしょう。彼らは、他の者が倒れた地平から開始するでしょう!

 

 「詩人」と呼ばれ「彼」と呼ばれているのは、「イエスの物語」を演じることを宿命づけられた者だ。ランボーは、自分がやがてそういう人間の一人となっていくことをここで語ろうとしている。イエスは、すべての罪を負って、傷や拷問や鞭に耐え、最後は六時間余りに及ぶ十字架上の苦しみをなめたあげく、死に至った。そのように、「彼」もまた、すべての人間の愛や狂気や苦悩を身に受け、みずからをゴールの末裔と呼び、劣等種族と規定して、あのざらざらとした現実を抱きしめるために、砂漠へとみずからを追いやった。

 

 そのとき、何が起こったのか。自分がこの世界に存在するというだけで他へとあたえる傷みが、毒となり、狂気となって、前代未聞の名づけようもないヴィジョンをもたらす。そこでは狂乱の果て、破滅と死に至った自分を踏み越えて、「恐るべき労働者たち」が、まったく新たな地平へと向かっていくのだ。ランボーは、そのことを信じていた。その信憑の強さが、彼の言葉に預言者の響きをあたえる。

 

 そんなランボーが、十代の頃から、私のスターだった。堕天使のようなといってもいい砂漠のランボーの写真を、時に、私は眺めるのである。