わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第114回 -西東三鬼-加藤健次

2013-12-18 15:51:25 | 詩客

西東三鬼――非<私>性を指示することばの力

 

 ずっと気になっていた三鬼の作品:

 

 小脳をひやし小さき魚をみる

 

 ふつうの散文ではないか、これが俳句なのか?と思った。5・7・5の定型になってはいるが、どちらかというと散文である。散文がそのままそこに放置されている。切れ字もなければ、季語もない。そのまま、この文字の羅列から目をそらそうとした。
 だが、なぜか引っかかる。何がひっかかるのか。それは、繰り返された「」という漢字のあいだにある「ひやし」である。「頭を冷やして」であると、冷やしては喩として働いているので、年中いつでも使う。この「ひやし」は、比喩ではない。まさに氷で「ひやし」ているのだ。夏の暑い日だから使う「ひやし」なのだ。そうか、これが季語か、「ひやし中華」のように、と俳句の素人である私は勝手に思った。
 三鬼の季語は、季節を脱いた殻のようである。
 後ろ頭に氷をあてて「ひやし」ている。後ろ頭には、小脳がある。小脳は、全身の筋肉運動や筋緊張の調節をおこない、自らの身体の位置確認をおこなう。夏の暑さで、全身が溶けそうなのだ。そういうことか、「小さき魚」とは、縁側かどこかに置かれた金魚だろう。そう思いなながらもう一度、声に出して読んでみる。
 あっ、やられた、もう一つこの作品には、これらの文字の羅列が俳句として在ることの確たる所以のような爆弾が隠されている。背筋がぞっとするほど、スリリングだ。「小さき/魚をみる」で俳句の定型は、意味の連鎖を断ち切って、「小さき」とは何がそうなのか?という問いを炸裂させてくる。たぶん「私ではない私」だろう、俳句の主語は常に「私ではない私」なのだ、とここに生じた<切れ>が語りかけてくる。そのとき文字の羅列が、漢字とひらがらの抜群の配置と、意味の揺れとして立ち上がってくる。言語以外では決して表現しえぬ非<私>性において。
 三鬼の<切れ>は、日常的連鎖のなかに潜む危険そのものである。
 比喩に流れがちな韻文が、ストレートに指し示す機能に戻るとき、突如として季節とイメージの断面(切り取られた空間)が見える。三鬼の詩は、詩的であることをやめるところから始まっている詩なのだ。