わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

ことば、ことば、ことば。第7回 天才 相沢正一郎

2013-09-13 10:29:29 | 詩客

 以前、「ゴッホ展」を観に行ったとき、実際の絵画に近寄ってまじまじ見ておもったのが、炎のように渦巻く糸杉や星空の線のひとつひとつがゆっくりと丁寧に描かれている、ということ。たとえばポロックのようにパッションを直接画面に叩きつけるといった描き方ではなくて対象をきちっと見つめ確かなデッサン力のあとで崩している。
 ゴッホといえばゴーギャンとの黄色い部屋での共同生活での対立の末の耳を切り落とした事件など作品以外でも物語が豊かで、私たちは知らず知らずのうちに「炎のひと」や「悲劇の天才」といったイメージを通して絵画を見てしまう。でも、ゴッホは実際、レンブラント、ドラクロワ、ミレー、浮世絵版画など、ものすごい数の模写をくりかえし、当時最先端の点描画などを吸収、毛糸などを使っての色彩の効果を研究したりした勉強家。
 そんなことを考えたのは、陶原葵の『中原中也のながれに 小石ばかりの、河原があって、』を読んだから。近ごろ「天才」の大安売りだが、本書で「天才」ということばが使われているのは一カ所だけ。七五ページの《天才と俗人という対立項は、中原の批評の底にある構図だが、俗人と大衆とは必ずしも一致しない》というところだけ。ここで言われている「天才」は、中也が自分を天才と信じていた、という事実であって、陶原のものではない。むしろ、前のページに《たとえダダのような破壊的なものですら、その壊し方が、出会った見本(中原の場合は高橋新吉)のあまりにも生真面目ななぞりであること、古今の書を幅広くよく読み、それからうけた強い霊感が多くの作の源であること、そして優等生型とも言えるその〈学び〉は、中原の仕事を貶めることにはまったくならず、むしろ不思議なあり方で時代を超えた命、幅広い人気をつないでいる》とある。そんなことに私がこだわるのは、ゴッホ同様、中原中也もよく「天才」といったことばで語られ、わかったような気持ちになってしまいがちだが、じつは本当はなにもわからない。
 中也もまた作品の外でもドラマチックな生涯。詩人らしい風貌とともにロック・ミュージシャンに憧れる気持ちでファンになるひとも多い(私自身がそうだった。中也だってランボオの生き方に憧れていたし……)。『中原中也のながれに』のなかで、中也とは作風が正反対の西條八十がともに底のほうで共通するのは、ランボオの生涯に惹きつけられた、とある。中也、八十以外でも、小林秀雄、金子光晴、堀口大学の訳が載っているが、みなランボーの詩に訳者自身が投影されている。もちろん、好きな作者に思い入れをするのはあたりまえ、ともいえるが、ともすると「私のゴッホ」や「私のランボオ」、「私の中原中也」が死角になって、本当の作品から見えない部分が出てくるんじゃないか。
  『中原中也のながれに』を読んで、感嘆したのは作者と中也との鮮明な距離の取り方。陶原さんも石垣りんの文章にふれて《女性の愛読者は少ない》と書かれているが、(たしかに私のまわりでも立原道造ファンの女性はたくさん知っているが、中也が好きだという話は聞かない)。「私の中原中也」と男性が知らず知らずのうちに自分自身を投影していない分、客観的にみることができるのかもしれない。もっとも、正直なところ私のすぐ近くに中原中也がいたとしたら……、すごく苦手なタイプなのかも。そこで思い出したのが、本書で紹介されている、酒の席で立原が中原にからまれる微笑ましいエピソード。立原道造は中也の詩を熟読してイメージをすくいとっていたが、結局は、中也の「対話」を拒む資質に立原は疑問をもつ。「天壌玆に、声のあれ!」の章で、著者は「春日狂想」にふれ、《対話というより多分に一方通行的なこの語りかけは、もうこの世にはいない人々、彼岸との、切なる交信のようにも聞こえてはこないだろうか》とある。もしかしたら立原道造もじつはモノローグの詩人で、もっぱら死者との対話なのでは。すると、正反対なタイプだったふたりが重なってきた。また反対に、中也と道造が本歌取りやほかの作家から吸収し独特な表現に変える、といった共通の姿勢であっても、たとえば同じ点描画でもゴッホとピサロの作風の違い、また版画でも(ゴッホを尊敬する)棟方志功と(ゴッホが憧れた)浮世絵ほどの違いがふたりに出てきてしまうのはおもしろい。
 と、『中原中也のながれに』を読んだあと、中也についていろいろ考えた。三富朽葉と中也が、少女のような芸妓――高木しろ子と、長谷川泰子との愛の関係でひびきあっているところなど、はたと膝を叩き、そのほかに何度も叩きすぎて膝が痛くなったほどだが、もしかしたら膝を叩いたことよりも、大切なのはこの本を読んだ刺激によって私の中で中也が活発に動き出したこと。すばらしい詩人論とは、こうしたものなのかもしれない。


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