吉野弘の詩に難解語はない。すべて平易な言葉で表現されている。詩集『北入曽』より「争う」全篇を書き出してみる。
争う
静
青空を仰いでごらん。
青が争っている。
あのひしめきが
静かさというもの。
浄
流れる水は
いつでも自分と争っている。
それが浄化のダイナミクス。
溜り水の透明は
沈殿物の上澄み、紛(まが)いの清浄。
河をせきとめたダム
その水は澄んで死ぬ。
ダムの安逸から放たれてくる水は
土地を肥やす力がないと
農に携わる人々が嘆くそうな
「静」「浄」という言葉の構成に着目した作品で難解語もないが、意味するものが深い。人間や社会を深く掘りさげている。
「吉野弘さんの詩は人間通の詩である。人間というものをよく知っている通人でなければ『祝婚歌』のような名作が書けるはずがない。」と中村稔が言った。
「奈々子に」「I was born」「夕焼け」「修辞的鋳掛屋」「ほぐす」「父と子」「生命は」「四つ葉のクローバー」などには、人間への深い考察がある。それは「どう生きるべきか」などと、大上段に振り上げた言葉ではない。だが人間の生き様(いきよう)を暗示し、考えさせられるものだ。考えさせられるのは平易な言葉で表現され、心にストレートの入ってくるからだろう。
また社会への切り込みも鋭い。「さよなら」「burst-花ひらく」「初めての児に」「香水」「豊かに」などの作品に顕著に見られる。平易な言葉の連なりで、人間と社会に深く切り込む。
哲学用語を借りれば「社会に疎外された人間の心情をすくいあげ抒情詩に昇華する」ということ。作品の端々からは作者自身の苦悩も伝わってくる。「burst-花ひらく」「ヒューマンスペース論」などの作品の末尾にそれが現れている。
何という達人なのだろうか。高校1年生の国語の授業で「奈々子に」「I was born」に出逢って以来それを考えてきた。受験校だが、詩を飛ばさずに紹介してくれた教師に感謝だ。
吉野弘の作品の深さはどこから来ているのだろうか。その理由が吉野の書いた詩論の中にあった。思想性である。思想を完全に血肉化している。だから平易な言葉で表現できるのだ。
「詩の中で思想を宣伝するのではなくて、思想が身につくことによって、それ以前には視野に入らなかった色々の現象が見えてくる。つまり経験にひろがりと深さが出来てくる。……芸術の領域で、ひとつの思想、態度に期待するのは、その思想、態度が、どれだけわれわれの認識を拡張してくれるか。どれだけわれわれの認識に新しいものをもたらしてくれるかであって、思想そのものの解説ではないんだ。」
「詩とプロパガンダ」という対談式の詩論のなかで、吉野はBなる人物の言わしめている。
この詩論の中で「短歌の調べの盲目性、無批判性」が語られているのは耳に痛い。これは第二芸術論を踏まえての論であるが、いささか異論がある。短歌でも現代の社会や思想を盛り込むのは可能である。困難さはるき纏うが不可能ではない。これは歌人の佐々木佐太郎も言っている、社会を掘りさげ、われにひきつけること。私が社会詠を詠むときの心構えだ。
平易な言葉で表現されているので。吉野弘が「現代詩のライトヴァース」と呼ばれているのを最近知った(「詩の森文庫」『詩のすすめ』吉野弘著の帯文)
歌壇のライトヴァース、ニューウェーヴと呼ばれる歌人の作品と、こうも隔たっているのかと、時々、溜息が出る。
※引用中丸括弧はルビになります。