寒い日が続く3月のある日。突然現れたように、太陽が照り始める。うっすらと汗をかいたなと思っていたらもう暑くなって、着ているものを一枚、ためらうことなく脱ぎ捨てる。
枝だけだった桜の木がふんわり膨らんできた。満開のときを待っている。
春になると思い出す詩がある。上野直美さんの「東京の桜」。
東京の桜 上野 直美
一羽の鳥に愛情を感じても
ぼくたちは百万羽の美を手に入れたい
むせかえるような湿った百万のつばさに
押しつぶされるそのとき
初めて空を美しいと思うだろう
いつもぼくの友人は
ふるさとの空より
このネオンのほうが美しいといって
良心の呵責に泣くのだ
そしてぼくは
せめてもの罪滅ぼしに
東京の桜のことを書きおくる
私は地方の生まれなので、この詩では「ぼくの友人」にあたる。ふるさとの空よりネオンが美しいといって泣く「ぼくの友人」の心持がわかってしまう。説明がつかないくらい、はっきりとわかってしまう。人は人それぞれで、田舎の人がすべてぼくの友人のように思うわけではない。むしろ、良心の呵責に泣くよりも、胸を張ってネオンが美しいと言うことだってできる。だけど、ぼくの友人は「むせかえるような湿った百万のつばさに/押しつぶされる」ことを夢見てしまうのだ。そのとき「初めて空を美しいと思」えるからだ。
田舎の夜空はきれいです。どこまでも高くて、星がいっぱい見えます。それは人の手の届かない美しさ、自然の美しさ。ぼくの友人が切望するのは、百万のつばさに押しつぶされるときの美しさ。このふたつの美しさは比べることができないくらい、どちらも美しい(と、つばさに押しつぶされるほうは体験したことがないから、想像のなかで思うのだけれど)。
一羽の鳥に愛情を感じても
ぼくたちは百万羽の美を手に入れたい
百万羽という大きな数字は、「一羽の鳥」への「愛情」ではなく、愛とか慈しみとかそういう言葉とは違うもの。感じる、という言葉とは別次元のもの。それが「美」。
とすれば、個人の愛とか憎しみとかそういった感情のすべてを無に還してでも、湿った百万のつばさに押しつぶされたいと思う、ということ。それは、東京のネオンを美しいと思うことと同じなんだろう。
これまで自分が体験しなかった、これからもずっと体験することがないだろうという気持ちのとき、人は自分の人生をつまらないもののように感じたり、体験しなかったことをうらやましがったりする。そんな感情を持つ前に、行動することもできる。ぼくの友人も、東京に行くことだってできたかもしれない。まぶしいくらいに夜を歩くことだってできたかもしれない。
この詩では、ぼくが友人に手紙を書く。「東京の桜のことを書きおくる」。ぼくの友人は手紙を読んで、百万のつばさやネオンや、むせかえるような湿ったつばさに押しつぶされることを想像する。
ふるさとの空よりも東京のネオンが美しいと思う友人。
罪滅ぼしに桜の手紙を書くぼく。
ふたりの関係をもまた無にするような、桜の満開を思う。一本一本が一斉に薄桃色の花びらをあけ、景色をにじませる。その白い幻の端で、小さな花びらひとつを丁寧に拾うように、ぼくは手紙を書いていく。桜の花がただ咲いている。それだけのなかに、広がっていく言葉。
東京の桜はどんなですか。
こちらはいよいよ満開のときを迎えようとしています。