わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第169回―「好きな詩人」を持たぬ人間の弁― 久谷 雉

2016-02-29 11:31:41 | 詩客

 本欄の依頼を二つ返事で引き受けてしまったのだが、締め切り間際になって気が付いた。いまの自分には「好きな詩人」がいない、ということに。
 私は作品を通じてであれ、生身の人間自身を通じてであれ、一人の書き手に傾倒したという経験がまったくない。作品単位で惚れ込むということはあっても、一人の書き手という連続性そのものを愛することが結局のところできないのである。一篇か二篇、気に食わないものがあれば、それでアウト。若い頃から「あなたは冷たい人間だ」ということをプライヴェートで時々言われてきたものだが、おそらくそういう心的傾向もこの「詩人」に対する態度には絡んでいるのかもしれない。
 十代あるいは二十代の頃に同じ依頼を受けたら、欠けている部分を埋め立てるかのように、必死に「好きな詩人」を捏造しようとしただろう。しかし三十を越したいま、そのようなことをする気はさらさらない。むしろ「詩人」に対する冷ややかな感情から逃げるのではなく、それとどうつきあってこれから生きていくのか戦略を立てていくほうが、ストレスも少なく生産的であると考えている。
 そもそも、詩集の出版や詩誌への執筆、またそれらに付随する文学賞など諸々のことに支えられていた「詩人」という存在自体を私は信じられなくなっているのかも知れない。掌にすっぽりおさまる端末さえ持てば、誰でも言葉を発信できるようになってしまった時代に、出版という制度が作ってきた「詩人」の像を信じ続けろというほうが、もしかするとおかしな話なのではないだろうか。というわけで「詩」は残るかも知れないが、連続性を持った「詩人」という存在は解体されつつある、「詩人」とは特定の誰かではなく漠然とした幻のようなものでしかなくなる時代がいよいよ迫っている……などと威勢のいいことを見切り発車的に書いてみようとおもったのだが、文学賞が発表されるたびにツイッター上で飛び交う「おめでとうございます」の嵐のことを不意に思い出し、キーを打つ手が止まってしまった。
 それにしても、このコラムを執筆するにあたり本欄で同様のことを述べた人はいないのか、ざっと目次を眺めてみたが、誰一人として「好きな詩人」を挙げられなかった人がいないらしいということに驚いた(もしも、私の見落としがあったならば申し訳ないが)。この世界はまだまだ愛情とあたたかさに満ち溢れているらしい。良いことだ。