市島三千雄やその周辺について興味がなかった。
詩を書きはじめた90年代に図書室の棚で「市島三千雄詩集」や「新潟詩壇史」をよく見かけたけれども、触手が伸びなかったことを覚えている。
00年代になって、市島三千雄を語り継ぐ会が発足されても、荒川洋治氏がゲストで招かれても、気持ちがさほど変わらなかった。
興味が湧いた、きっかけはよく分からない。
2015年6月20日に、市島三千雄を語り継ぐ会で「1920年代の詩」というテーマで講師を務めさせて頂いた。準備段階で、「市島三千雄詩集」「新潟詩壇史」を、ほんぽーとから借りて読んだ。
詩を書き始めてから四半世紀すぎていた。
参加した詩人たちはみな萩原恭次郎の詩集「死刑宣告」を持参していた。
市島の詩と萩原のタイポグラフィーの観点から比較検討したかったのだが、時間も準備も足りず、次の機会に譲ることにした。
「メディアと100年詩史」という資料を用意したが、とりわけ1920年代は、詩史上、多様性が充満している。
1920年代のriricは、無意識的抒情であり、madiaは、レコードであり、cinemaはトーキーとモンタージュであり、artはバウハウスとシュールレアリスムである。私見による。
1920年代は、モダニズムが形成され、大正デモクラシーにより市民が登場した、言わば、現代詩の芽を内包した時代と言える。
そのような時代の中で、詩誌「新年」は奇跡的に生まれた。新潟という地で奇跡的に生まれた。(あるいは詩の進化から俯瞰すれば必然だったのかもしれない)
詩誌「新年」は、1920年8月10日に創刊された。ここでは、1926年という両義性に着目したい。
大正と昭和という時代性。12月25日を境目にして、大正の終わりと昭和の始まりが重層している。
詩誌「新年」の同人4人をビートルズの4人になぞらえてみたい衝動に駆られる。寒河江眞之助はポール、市島はジョン、新島節はジョージ、八木末雄はリンゴといったところか。大正時代のこの若きインテリゲンチャが交通した時空という奇蹟、あるいは必然。
「新年」5号と、11号、12号が不明というのもミステリーに充ちて興味をそそる。
一年に一度、ある消印の日に、海の見える丘を訪れる。1984年に詩人になった場所だ。その近くにはドン山があり、市島の詩碑「ひどい海」がある。あの日の午後と同じ海と空と光と風を確かめに行く。
余談になるが、先日、旧二葉中の3Fで和合亮一氏と再会した。(水と土の芸術祭の座談会場で)。20年前に磐越連合なるものを結成し、福島と新潟で互いに朗読会を開いたりした。その交流が元になり、詩誌「ヒ」となり詩誌「ウルトラ」となって結実した。
2009年以来再会したことで、3.11.以降のわだかまりのようなものは消えていた。
思えば、詩誌「新年」も新潟と福島出身の詩人達の同人誌でもあった。
和合氏と私の試みは、既に大正時代に先行されていたことになる。旧二葉中3Fの特別活動室の窓から松林を指さし、「あそこに市島三千雄という詩人の詩碑がある」と彼に伝えた。夏の午後の潮風にカーテンがゆらめいていた。
今後、抒情の時代的分析については「メディアと100年詩史」に任せることにして。「グーテンベルク病とWWW病」では、主体の時代的分析を行いたいと思っている。(本来、00年代の仕事だったのだが)
また、見附→長岡→来迎寺→小千谷というR(ルーロ)8の詩人たちとの関連性。
矢沢宰→堀口大學→山口哲夫→西脇順三郎との関連性を。
市島と同時代のプロレタリア詩人の長澤佑との比較を。
(2015年7月29日)