わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第139回 詩と俳句の共感――三木露風に照らして -三木露風- 筑紫磐井

2015-01-21 23:20:07 | 詩客

 予定していた人が出稿してこないことになったので、代わりに急遽執筆する。あまり舞台にふさわしい原稿となってはいないがお許しいただきたい。一人の詩人・一編の詩を例にしての詩と俳句の本質論である。
   *      *
 現代詩と俳句が限りなく近いものと思われている時代があった。俳句でいえば、社会性俳句とか前衛俳句が一世を風靡している時代、詩人が俳句を批評し、俳人が詩を論じていることがしばしばあった。
 何の不思議もないようであるが、本当に批評しあえたのであろうか。<詩人が俳句を批評し、俳人が詩を論じている>時代のその俳人たちは実は一般的な「俳人」であったのだろうか。実はこの時代は、俳句は、伝統と前衛の熾烈な争いを行っていた時代であった。伝統の最高峰に高浜虚子が存在し、社会性俳句とか前衛俳句に批判的であった。だから、詩人たちが批評し合っていた相手とは、伝統俳人ではなく、社会性俳句作家とか前衛俳句作家――つまり「現代俳人」(現代に存在するすべての俳人ではない。変な言い方だがこういう区分をするとわかってくる文学観があるので使っておきたい)であった可能性が高い。ここで言えることは、現代詩人と伝統俳人は批評が成り立っていなかったということである(もちろん、安藤次男や木下夕爾のような例外がいたが、これはむしろ個人的資質に還元してみることにしたい)。
 現代詩と伝統俳句の関係がこんなだったからこそ、俳句の内部の世界で、前衛俳句と伝統俳句の相互批判が成り立たなかった、ということができるかもしれない。詩vs俳句の関係が、俳句一般に反映され、前衛俳句vs伝統俳句の関係が生まれたということもできそうなのである。だからそれぞれが独自の協会(現代俳句協会と俳人協会)【注1】を作り、それぞれが独自の賞(現代俳句協会賞と俳人協会賞)を作り、それぞれが独自のジャーナリズム(角川「俳句」と「俳句研究」)を形成した。
 今ではこんな関係がなくなったといわれている。例えば、かつての前衛俳句運動の中心であった「海程」の若い作家たちは前衛は死んだといっているし、別の系統の若い作家たちは前衛と呼ばれることを極端に嫌っている。平気で前衛作家と自称しているのは今日では私ぐらいになりつつある(もちろん純正な伝統俳句の人々からは相変わらず蔑称として(つまり「分からない俳句」として)、前衛という用語はまだ盛んに用いられているが)。
  しかし、実を云えば、さらに話をさかのぼり、<詩人が俳句を批評し、俳人が詩を論じている>時代にあってすら、語り合っている詩人と俳人が、本当に理解しあっているのかどうかよくわからないところがある。あの時代、詩人と俳人は理解しあっていたのか、今頃そんなことに関心を持っている人は少ないので議論になってはいないが、<詩人が俳句を批評し、俳人が詩を論じている>時代にあってすら誤解に満ちていたのではないか、と考えることは重要だ【注2】。なぜなら、詩人と俳人は相互理解を進めるための共通批評用語を持っていたのか、という問題にぶつかるからである。これはまさに現代、現在、現実の問題だからである。また永遠の問題だからである。
 非常に悲観的な前提で詩人と俳人は批評で意思疎通できることができないと仮定してみよう。それでは、共通批評用語を持っていない詩人と俳人が、実作で意思疎通を図ることができるかどうか。今回のテーマはここにある。
*      *
 長々とした前振りの後で、三木露風の詩を取り上げてみる。あまりにも有名な詩である。むしろ童謡として周知のものである。

 

   赤とんぼ

夕焼小焼の赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か

山の畑の桑の実を
小籠に摘んだはまぼろしか

十五で姐やは嫁に行き
お里のたよりも絶えはてた

夕焼小焼の赤とんぼ
とまつてゐよ竿の先


 第1連の現実の風景から回想へ、第2連の故郷の回想風景、第3連の故郷の現在(想像)、第4連の眼前の風景、と誠に巧みな展開である。露風は北海道函館のトラピスト修道院を訪れ、四年間、修道院に招かれて国語教師をしたという。この時作られたのが「赤とんぼ」の詩であり、幼少時の故郷龍野での風景を回想して作られたものだという。
 この詩自身は極めて心理状態にかなった意識の流れをたどっており無理のない展開である。当然、この意識の流れに沿って製作されたとみてよいのだろう。しかし、現実は予想を裏切る。
 第4連が先にあった。露風が12歳の時、龍野高等小学校に在学中に作られたのが「赤蜻蛉とまつてゐるよ竿の先」という俳句であった。これに、「夕焼小焼の」がつくことによって第4連がまず完成する。第4連ができれば、あとの第1~3連は自然の意識の流れとなる。
 もちろん詩人の脳裏では様々な意識が錯綜しながら詩行を完成してゆくのであろうが、その時明らかに、定型の断片あるいは全体が組み込まれてもおかしくはない。もはやそれは俳句ではないが、俳句であったものではあろう。人間の細胞の遺伝子の中には、古代に外部の生物から取り込まれた遺伝子が組み込まれているともいう。長大な詩の中にそうした部分が存在しないとも限らない。その遺伝子こそ本当に共通なものだといえるのではなかろうか。
  これが私の貧しい結論である。ゆめゆめ、詩と俳句の間で安易に批評が成り立つと考えてはなるまい。切字一つをとっても相互理解は不可能ではないか。芭蕉の「や」は詩人には永遠にわからないかもしれない。ただ実作はどこかきかっけがあるはずだ。

 

【注1】その後、もっと伝統性をピュアに追及すると主張する日本伝統俳句協会が生まれ、3協会が鼎立している状態にある。
【注2】詩人・歌人と俳人の共通批評の誤解・すれ違いについては近著『戦後俳句の探求』第3章に述べてある。