わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第133回-山本哲也と北川透- 大石聡美

2014-09-30 18:24:18 | 詩客

世紀末の共闘を見せつけてくれた二人の詩人をめぐって

 私は、詩や短歌、小説をひっそりと、しかし内心は激しく書き続けている者である。何度か「書き続けることを辞めようかな」と思ったときに、初めて北川透に手紙をもらった十四年前のことが忘れられず、結局は書く事を辞められないのである。
 私は一九九八年末に、当時、山本哲也と北川が共同編集で出していた「九」に初めて投稿して、幸運にも、初投稿で作品が掲載された。そのときの嬉しさを超えられる経験が私にはまだない。北川とは学生時代は、はっきりとした面識もないまま、同年の秋に私は大学を去っていた。北川との出会いはむしろ、教師と学生という立場を降りてからだった。
 私は、北川の詩というより、論のほうに釘付けにされた。当時「九」の巻頭時評の北川の論を読んで、「凄まじく戦っている大人」という印象を強く持った。こういう大人になりたいと率直に思った。山口の大学は去っても、心は山口にと思い、「九」に投稿を続けた。様々な友人に勝るとも劣らぬ捨て身な青春を私も送った。いま振り返っても、そんなに捨て身に生きた時代があったことが思い出せないほどだ。
 自分たちのことはそれくらいに。北川との思い出。二〇〇六年春、大失恋した私に、「大石さん、あのね、僕は作品のことでしか、あなたに興味はないんよ」、北川が多忙を極める中、私のヘルプにそう応えてくれた。そう、詩人は、作品で勝負するしかない。「失恋した」くらいでワーワーと泣いていてはいけないのだ。私が、北川を一番近くに感じていた頃のことである。そして、北川と同じ戦い方をしたいと切実に願っていた頃のことでもある。
 そしていまは亡き山本のことを書きたい。私は学生時代、「驟雨」 という個人誌を主宰していたのだが、創刊当時、心が近くにいた詩人や歌人、私より一足先に大学院生になっていた友人に執筆依頼をした。そのときに、山本や北川にも執筆依頼をした。北川は、「若い人だけで雑誌をしたほうが、色がつかなくていい」と言った。その言葉を受けて、山本にも依頼すると、「本来ならば、北川と同じ気持ちだが、新しい雑誌に打って出る気持ち、それを応援したい」というようなレスポンスがあった。
 山口は、聖地だと思うときがある。空気がすうすうしている(笑)。私は若い頃から時折、中也生誕祭に通って、講演が見られるときは見てきた。詩人の三角みづ紀さんや内野里美さんと、月を見ながら露天風呂に入った夜のことも忘れられない。
 好きな詩人二人について語る、と言いながらだいぶずれてしまったようだ。でも私は、基本的に詩人が好きである。時に心がすれ違いながらも、私は不器用な詩人たちが好きである。若い頃は、吉行理恵、吉原幸子、白石公子、長谷部奈美江等の作品も好きで、それはいまも変わっていない。白石さんにも、以前、直接お手紙をお送りしたが、「驟雨」という私の雑誌の誌名は、白石さんの詩集内に収められていた「驟雨」という言葉から生まれたものである。
 私の好きな詩人を・・・と言われて、思わずたじろいでしまった夏である。大幅に締切り期限をオーバーしてしまった。森川雅美さんに謝罪の気持ちを込めながら私の駄文を終わりにしたい。