わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第124回 -長谷川龍生- 服部真里子

2014-05-14 20:41:05 | 詩客

  長谷川龍生の詩「ちがう人間ですよ」とは、高校のとき、国語の教科書で出会った。
結婚式で新郎新婦が朗読するのに、これほどふさわしい詩もないと思うのだが、いまだかつてそのような光景を目にしたことはない。

*  *  *  *  *

 ちがう人間ですよ             長谷川龍生

 ぼくがあなたと
 親しく話をしているとき
 ぼく自身は あなた自身と
 まったく ちがう人間ですよと
 始めから終りまで
 主張しているのです
 あなたがぼくを理解したとき
 あなたがぼくを確認し
 あなたと ぼくが相互に
 大きく重なりながら離れようとしているのです
 言語というものは
 まったく ちがう人間ですよと
 始めから終りまで
 主張しあっているのです
 同じ言語を話しても
 ちがう人間だということを
 忘れたばっかりに恐怖がおこるのです
 ぼくは 隣人とは
 決して 目的はちがうのです
 同じ居住地に籍を置いていても
 人間がちがうのですよと
 言語は主張しているのです
 どうして 共同墓地の平和を求めるのですか
 言語は おうむがえしの思想ではなく
 言語の背後にあるちがいを認めることです
 ぼくはあなたと
 ときどき話をしていますが
 べつな 人間で在ることを主張しているのです
 それが判れば
 殺意は おこらないのです

(『直感の抱擁』思潮社、1976年)

*  *  *  *  *

 やっぱり、「殺意」とかがよくないのだろうか。縁起が悪いし。もし、こんな詩を結婚式で朗読したふたりの間に、将来、殺意が芽生えるようなことがあったら…。
 縁起が悪い?もし、将来、殺意が芽生えたら?
 将来もなにも、人間はそもそも、潜在的に他者への殺意を抱いているものではないだろうか。他者は自分の思った通りにならない。目の前に、思った通りにならないものがあれば、思った通りにしようとするのが人間の自然な反応ではないか。夫婦であろうが、親子であろうが、われわれの心の底には殺意がながれ、地表に噴き出す瞬間をじっと待っている。
 ぼくとあなたは同じ言語を話す。愛しているよ。守ってあげるよ。明るい家庭を築こうね。けれど、ぼくの「愛す」とあなたの「愛す」の意味するところは、きっとちがう。
 ぼくは、包丁を持って押し入ってくる見知らぬ男からあなたを守りたいのかもしれないが、あなたはぼくの両親から守ってほしいのかもしれない。ぼくの言う明るい家庭は、あなたが悲しみや怒りを押し殺し続ける家庭を意味しているのかもしれない。
 産声をあげて、この世に生を享けたとき、言語をもっている者はいない。言語は常に身体の外にある。身体がさらされてきた言語の歴史が、その人の言語になる。そして、われわれの誰ひとりとして、同じ身体を持っていない。だから、言語を話すことは、そのまま「まったく ちがう人間ですよと/主張している」ことになるのだ。
 「恐怖」は、「理解できないこと」と言い換えられる。相手が、なぜこんなことをするのか理解できない。愛しているよ、守ってあげるよという言葉にうなずいたのに。なぜ自分を怒らせるのだろう。怒らせる相手が悪い。なんとかして相手に、自分を怒らせないようにさせなければ。そして殺意が噴き出す。
 きめ細かく言葉を交わすことで、すれちがいを把握することはできるだろう。しかしそれは、「わかりあう」という表現が想像させる、やさしく手を取り合って野の道を歩むようなやり取りではありえまい。言葉を交わせば交わすほど、相手の姿が──自分とはまったくちがう人間として在る姿が、見えてくる。決して同一の時空に存在することのできない、ぼくの身体とあなたの身体。それゆえ、決して重なることのない言語と言語。まったくべつの身体が、それぞれの歴史を賭けてたたかうのだ。血の飛び散るような激しいぶつかりあいになるはずだ。
 
 言語は おうむがえしの思想ではなく
 言語の背後にあるちがいを認めることです


 「言語」を、一行目では「思想」で、二行目では「認めること」で受けているのに注目したい。「思想」は自分ひとりで完結できるが、「認めること」には相手との接触がなくてはならない。「思想」はその人の死後も残るが、「認めること」は生きているあいだしかできない。相手がいなければ言語でないのだ。生きていなければ言語でないのだ。逆に言えば、言語を殺してぶつかりあいをなくしたとき、ぼくとあなたは墓地に入っているのと同じになる。
 そうしてぶつかりあったところで、結論ははっきりしている。ふたりが一致することはない。ちがう人間だからだ。どれほどやさしい、思いやりに満ちあふれた人間であろうとも、われわれがべつな生命である以上、最終的には相手の目的より自分のそれを優先するほかないのだ。
相手が、どうあっても自分の思った通りにならないと悟ったとき、人はどうするのだろう。
怒り、悲しみ、耐えられずに離れていってしまうこともある。けれど、それらの感情が過ぎ去ったあとに出てくるのは、この人はどうしてこうなのだろうという、素朴な疑問なのではないか。
人間の本質は暴力だと思う、と書いたことがある。暴力とは、相手を自分の思った通りの姿に変えようとすることだと。
それなら、思った通りにならない相手を──自分とちがう人間である相手を、不思議がる気持ちを何と呼ぶのだろう。不思議だ、なにを考えているのだろうと興味をもち、わたしとちがう人間であるあなたに近づいていくことを、何と呼んだらいいだろう。