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『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(3)

2021-07-30 23:20:43 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(3)

 

◎第10パラグラフ(二つの形態の相違、貨幣の支出と前貸)

【10】〈(イ)流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。(ロ)だから、貨幣は最終的に支出されている。(ハ)これに反して、逆の形態G-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。(ニ)彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。(ホ)彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほならない。(ヘ)それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである(3)。〉

  (イ)(ロ) 流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は流通から脱落して使用価値として役にたちます。ですから、この場合は、貨幣は最終的に支出されたことになります。

  さらに両者の違いを見ていくことにしましょう。
  最初の流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつために流通から姿を消します。だから貨幣は最終的に支出されてしまっています。
 
  (ハ) これとは反対に、逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として再び貨幣を取得するためです。

  これとは反対に、もう一つの逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、彼が買った商品を売って再び貨幣を取り戻すためです。

  (ニ)(ホ) つまり彼は商品を買うときには確かに貨幣を流通に投じますが、しかしそれは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためなのです。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという心づもりがあってのことにほならなりません。

  だから彼はもともと貨幣を投じて商品を買うときに、最初からその買った商品を売って、最初の投じた貨幣を取り戻すことを考えているのです。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れる心づもりがあってのことにほかならないのです。

  (ヘ) それだから、この場合は、貨幣はただ前貸しされるだけなのです。

  そしてこういう貨幣の支出の仕方を、前貸というのです。

  マルクスはケネーが貨幣の「前貸」の意味を正しく説明していると次のように論じています。

  〈資本家が労働力を買う貨幣は、彼にとっては価値増殖のために投じた貨幣、つまり貨幣資本である。それは、支出されたのではなく、前貸しされているのである。(これが「前貸」--重農学派のavance--の真の意味であって、資本家がこの貨幣そのものをどこからもってくるかにはなんの関係もないのである。資本家が生産過程の目的のために支払う価値はすべて資本家にとっては前貸しされているのであって、この支払が前になされようとあとからなされようとそれに変わりはないのである。その価値は生産過程そのものに前貸しされているのである。)〉 (全集第24巻466頁)

  要するに貨幣を価値増殖を目的に投じることを「前貸」というのであり、ただ個人的な消費を目的に投じる場合を貨幣の「支出」というのだと思います。


◎原注3

【原注3】〈3 「ある物が再び売られるために買われる場合には、そのために用いられる金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それが売られるためにではなく買われる場合には、その金額は費やされると言ってよい。」(ジェームズ・ステユアート『著作集』、その子、サー・ジェームズ・ステユアート将軍編、ロンドン、1805年、第1巻、274ぺージ。)〉

  これは本文〈彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである(3)〉につけられた原注です。
  まず細かいことですが、スティアートの著書の出版年が  初版とは違っていますが(初版では1801年となっています)、フランス語版は同じ1805年になっていますから、恐らく初版の間違いを訂正したのでしょう。
  マルクスは『剰余価値学説史』をイギリスの経済学者サー・ジェームズ・ステュアートに関する研究から始めています。冒頭、次のように述べています。

  〈重農学派よりも前には、剰余価値--すなわち利潤、利潤という姿でのそれ--は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている。サー・ジェイムズ・ステュアートは、だいたいにおいて、この偏狭さから抜けでておらず、むしろその科学的な再生産者とみなされなければならない。私は「科学的な」再生産者と言う。というのは、ステュアートは、個々の資本家が商品をその価値よりも高く売ることによって彼らの手にはいってくる剰余価値をあたかも新しい富の創造であるかのように考える幻想を共有していないからである。〉 (草稿集⑤6頁、全集第36巻Ⅰ 8頁)

  また次のようにも述べています。

 〈資本の理解についての彼の功績は、特定階級の所有物である生産条件と労働能力とのあいだの分離過程が、どのようにして生じるかを指摘した点にある。資本のこの成立過程について、彼は、--それを大工業の条件としては理解しているとしても、まだそれを直接に資本の成立過程そのものとしては理解することなしに--大いに論じている。彼は、この過程を特に農業において考察している。そして、彼においては、正当に、農業におけるこの分離過程によってはじめてマニュファクチュア工業〔manufacturerIndustrie〕がそのものとして成立する。この分離過程は、A・スミスの場合にはすでに完成したものとして前提されている。〉 (草稿集⑤10-11頁、全集第36巻Ⅰ 11頁)


◎第11パラグラフ(二つの形態の相違、場所変換の担い手、一方は貨幣、他方は商品)

【11】〈(イ)形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。(ロ)売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。(ハ)商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わる。(ニ)形態G-W-Gでは逆である。(ホ)ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。(ヘ)買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。(ト)単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。〉

 (イ)(ロ)(ハ) 形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替えます。売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまいます。商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わるのです。

  さらに両者の違いを見て行きましょう。
  まず形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替えます。穀物の売り手の農夫は、買い手から貨幣を受け取って、その貨幣を別の衣服の製造者に支払います。貨幣は穀物を買う人から農夫へ、そして農夫から衣服製造者へと二度場所を替えています。農夫による穀物の販売で始まる流通の総過程は、農夫が入手した貨幣を衣服の購入で手放すことによって終わっています。

  (ニ)(ホ)(ヘ) 形態G-W-Gではそれとは逆です。ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品です。買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまいます。

  それに対して、G-W-Gの形態ではそれとは逆です。ここでは二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品(棉花)です。買い手(商人)は、売り手(棉花製造業者)から商品(棉花)を受け取って、それを別の買い手に引き渡してしまいます。商品(棉花)は、棉花製造業者から商人に、さらに商人から棉花の買い手へと場所を二度替えます。

  (ト) 単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのですが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのです。

  単純な商品流通W-G-Wでは、同じ貨幣片の二度の場所変換が、商品の一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移します。
  しかし資本としての貨幣の流通G-W-Gでは、同じ商品の二度の場所変換が、貨幣をその最初の出発点に還流させるのです。


◎第12パラグラフ(貨幣の還流という現象の特徴)

【12】〈(イ)その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。(ロ)この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。(ハ)還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。(ニ)要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。〉

  (イ)(ロ) その出発点に貨幣が還流してくるということは、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかということにはかかわりがありません。そうした事情は、ただ還流してくる貨幣額の大きさに影響するだけです。

  しかしこの還流というのは、あくまでも私たちが単純流通のレベルで見ていることに注意しなければなりません。だから商品が買われたときよりも高く売られるかどうかということは、少なくとも今の時点ではかかわりがないということです。それは還流する貨幣の大きさに影響するだけで、還流という現象そのものは、ただ買われた商品が再び売られて、貨幣がもとに戻ってくることを意味するだけです。

  (ハ) 還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが完全に描かれさえすれば、起きます。

  つまり還流という現象は、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが最後まで完全に行なわれれば、起きることです。

  61-63草稿には次のように書かれています。

  〈このG-W-Gが、労働者と資本家とのあいだにおける貨幣--資本家が労賃に支出した貨幣--の還流を表現するにすぎない場合には、それ自体としてはなんら再生産過程を表わさず、ただ、買い手が同じ相手にたいしあらためて売り手になることを表わすだけである。それはまた、資本としての貨幣、すなわち、G-W-G'〔の場合のよう附に〕第二のG'が最初のGよりも大きい貨幣額、したがってGは自己増殖する価値(資本)であるというような、資本としての貨幣、を表わすものでもない。むしろそれは、同一貨幣額(しばしばさらにより少ない貨幣額)がその出発点に形式的に還流するととの表現でしかない。(ここで資本家と言っているのは、もちろん、資本家階級のことである。) だから、私が第一冊で(『経済学批判』全集第13巻101-102頁--引用者)、形態G-W-GはどうしてもG-W-G'でなければならないと言ったのは、まちがいであった。この形態が貨幣還流の単なる形態を表現しうるのは、私がそこでもすでに示唆しておいたように(『経済学批判』全集第13巻80-81頁--引用者)、貨幣のその同じ出発点への回流は、買い手があらためて売り手となるということによって説明されるからである。〉 (草稿集⑤495-496頁

  (ニ) つまり、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣として流通との感覚的につかむことのできる相違なのです。

  つまりこれが単純流通のレベルで、単なる貨幣の流通と資本としての貨幣の流通との感覚的に認められる相違なのです。
  以上までが二つの流通の形態における私たちが感覚的に掴みうる相違であり、区別ということができます。そして次のパラグラフからは両方の流通・循環の内容に踏み込んだ考察が行なわれて行きます。


◎第13パラグラフ(循環W-G-Wでは貨幣の還流はただ同じことを繰り返すしかない。それに反してG-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって決まってくる)

【13】〈(イ)ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W-G-Wは完全に終わっている。(ロ)それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。(ハ)もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。(ニ)私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。それは衣服商人のものである。(ホ)そこで私が第2の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第1の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。(ヘ)その貨幣は、私が第2の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れて行く。(ト)だから、流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのである。(チ)これに反して、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。(リ)この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。(ヌ)というのは、過程の第2の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。〉

  (イ)(ロ) ある商品を売って貨幣を入手しても、それで別の商品を買えば、貨幣はその時点で失われ、循環W-G-Wは完全に終わっています。もしそれでも、その出発点への貨幣の還流が起きたとするなら、それはただ全過程をもう一度、更新するか反復によって起きるだけです。

  循環W-G-Wでは、ある人が商品を売って貨幣を入手しても、それで別の商品を買ってしまえば、それで循環は終わってしまいます。もしそれでも、その出発点に貨幣の還流が起きたとするなら、それは全過程をもう一度、最初からやり直して反復した場合だけです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 例えば、私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買ったならば、この3ポンドは私にとっては完全に失われ、決定的に支出されています。私はもはやその3ポンドとはなんの関係もないのです。それは衣服商人のものです。そこで私がもう一つ別の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流してきますが、それは第1の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返した結果としてでしかありません。その貨幣はまた、私が第2の取引を終えて、また繰り返して別の商品を買うならば、再び私から離れて行きます。だから、流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのです。

  例えば私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売って、この3ポンド・スターリングで衣服を買ったとすれば、その3ポンド・スターリングはすでに私のものではなく、私の手から完全に失われています。その3ポンド・スターリングは私とは何の関係もありません。それは衣服商人のものになっているからです。
  そこで私はもう一つの別の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流してきますが、それは最初の取引とは別のものであって、最初の結果ではありません。ただそうしたことの繰り返しとしてしか貨幣の還流はありえないのです。だから第2の取引を終えて、また繰り返して別の商品を買うなら、やはり貨幣は私から離れていくのです。だから流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのです。

  (チ)(リ)(ヌ) それは違って、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって決まっています。そもそもこの還流がなければ、一連の操作は失敗したか、または過程が中断されていてまだ完了していないかでしょう。というのは、最後のGが還流していないから、つまり過程の第2の段階、すなわち買いを補う売りが欠けていることになるからです。

  それに較べますと、G-W-Gでは貨幣の還流は、その貨幣の最初の支出の仕方そのものによって決まっています。もしその支出によって入手した商品(W)が、ちゃんと売れるかどうかは、その商品によって決まるからです。もし貨幣の還流が無いということになれば、彼はその一連の操作に失敗したか、過程が中断して完了していないかでしょう。つまり商品が売れずに滞っているということです。最後のGが還流していないということは、過程の第二の段階、W-Gの過程が、欠けている、買いを補う売りが欠けているということを意味します。


◎第14パラグラフ(循環W-G-Wは使用価値を目的とし、循環G-W-Gは、交換価値を目的とする)

【14】〈(イ)循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。(ロ)それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。(ハ)これに反して、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。(ニ)それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。〉

  (イ)(ロ) 循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一つの商品の極で終わります。そうすると、この商品は流通から脱落して消費過程に入り消費されてしまいます。だからこの循環の目的は、使用価値、すなわちその消費や欲望充足にあるのです。

 循環W-G-W、農夫が穀物を売って、その貨幣で衣服を買うという流通は、穀物から出発して、衣服に終わり、そして衣服は流通から出て消費されるだけです。だからこの循環の目的は、使用価値であり、その消費あるいは欲望充足にあります。

  (ハ)(ニ) これとは対照的に、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後にまた同じ極である貨幣に帰ってきます。だから、この循環を起動する動機も規定している目的も交換価値そのものなのです。

  これとは反対に、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後にまた同じ貨幣に戻ってきます。商人は貨幣を投じて棉花を買いますが、棉花を手に入れることそのものが目的ではなく、それをさらに売って最初に投じた貨幣を回収することが目的なのです。だからこの循環は最初から最後まで貨幣が出発点であり、終決点なのです。すなわち交換価値が循環を起動する動機であり目的でもあるのです。

  61-63草稿には次のような説明が見られます。

  〈流通形態W-G-Wでは、商品は二つの変態を経過するが、その結果は、商品が使用価値としてあとに残る、ということである。この過程を経過するのは、商品--使用価値と交換価値との統一としての、あるいは使用価値としての--であって、交換価値はこの商品の単なる形態、すぐに消えてしまう〔vershwindend〕形態である。しかしG-W-Gでは、貨幣と商品とは、交換価値の異なった定在形態として現われるにすぎないのであって、交換価値は、あるときは貨幣としてその一般的な形態で、他のときは商品としてその特殊的な形態で現われ、同時に、統括するもの〔das Übergreifende〕および自己を主張するものとして、両形態のなかに現われるのである。貨幣はそれ自体〔an und fur sich〕交換価値の自立化した定在形態であるが、ここでは商品もまた、交換価値の体化物〔Inkorporation〕の担い手として現われるにすぎない。〉 (草稿集④12頁)


◎第15パラグラフ(「剰余価値」=価値の増加分、または最初の価値を越える超過分)

【15】〈(イ)単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。(ロ)それはどちらも商品である。(ハ)それらはまた同じ価値量の商品である。(ニ)しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。(ホ)生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。(ヘ)流通G-W-Gではそうではない。(ト)この流通は一見無内容に見える。(チ)というのは同義反復的だからである。(リ)どちらの極も同じ経済的形態をもっている。(ヌ)それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。(ル)なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。(ヲ)まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える(4)。(ワ)およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってである。(カ)それゆえ、過程G-W-Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。(ヨ)最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。(タ)たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られる。(レ)それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。(ソ)すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。(ツ)この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。(ネ)それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。(ナ)そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっています。つまりどちらも商品です。そしてそれらは同じ価値量の商品でもあります。しかし、それらは質的に違う使用価値であり、たとえば穀物と衣服とからなっています。だからここでは、生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材の変換が、その運動の内容をなしています。

  単純な商品流通W-G-Wでは、両方の極は同じ経済的形態(W)を持っています。すなわち商品です。そしてそれらは同じ価値量の商品でもあります。しかしそれらは質的には違った使用価値からなっています。たとえば穀物と衣服です。
  だからここでは流通の最終結果をみますと、生産物の交換、社会的労働がそこに現されている素材の変換(社会的物質代謝)が、この運動の内容をなしているのです。

  『経済学批判』から紹介しておきましょう。

  〈W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。〉 (全集第13巻102頁)

  (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) しかし、流通G-W-Gではそうではありません。この流通は一見すると無内容に見えます。なぜなら、それは同義反復を意味するだけに見えるからです。どちらの極も同じ経済的形態、つまり貨幣です。だから単純流通のように質的に違う使用価値ではありません。というのは、貨幣というのは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからです。例えば、まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換するとすれば、つまり回り道をしてただ貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換するとすれば、それはまったく無目的でもあれば無意味でもある操作のように見えます。

  しかし資本としての貨幣の流通G-W-Gはそうしたものではありません。この運動そのものは一見すると無内容なものに見えます。なぜなら、それは同義反復を意味するだけに思えるからです。この場合も両方の極は同じ経済的形態、すなわち貨幣です。しかし単純流通のように質的に違う使用価値ではありません。貨幣というのは諸商品の価値の転化したものであり、そこでは特殊な使用価値は消え去っているからです。例えば、まず100ポンド・スターリングで棉花を買い、その棉花をやはり100ポンド・スターリングと交換するなら、それは回り道をして、ただ貨幣を貨幣と交換したに過ぎません。同じものを交換するのは馬鹿げた行為であり、それはまったく無目的で無意味な操作にしか見えません。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ) つまりある貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってだけです。ということは、過程G-W-Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつことができるのです。最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられなければならないのです。たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られるというように。

  最初の部分はフランス語版では〈一方の貨幣額は、それが価値を表わすかぎり、その量によってしか他方の貨幣額と区別されえない〉となっています。つまりある貨幣額が他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってでしかないということです。だからこの流通が意味をもつとすれば、両方の極の質的相違にではなく、量的な相違でなければなりません。最後には、最初に投じた貨幣額よりも多くの貨幣が流通から引き上げられなければならないのです。例えば、100ポンド・スターリングで棉花を買い、110ポンド・スターリングで同じ棉花を販売することによって、100ポンド・スターリングが、100・プラス・10ポンド・スターリングになるということです。

  これも『経済学批判』から紹介しておきましょう。

  〈これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ぼかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。だからわれわれは、流通手段とは区別した貨幣を、商品流通の直接的形態であるW-G-Wから展開しなければならない。〉 (全集第13巻102-103頁)

  (レ)(ソ)(ツ) こうしたことから、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG なのです。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しいということになります。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼びます。

  だからこの資本としての貨幣の流通を完全な形で現すなら、それはG-W-G'でなければならないのです。ここでG'はG+ΔGの意味です。つまりG'は最初に前貸しされた貨幣額・プラス・その増殖分ということになるわけです。この増加分を、または最初の価値額を超える超過分を、私は剰余価値と呼びます。

  (ネ)(ナ) だからこの過程では、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えることになります。言い換えれば自分を価値増殖するのです。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのです。

  だから資本としての貨幣の流通では、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保持するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変えて、剰余価値を付け加えることになります。すなわち価値増殖するのです。そしてこの運動こそ、価値を資本に転化させることになるのです。

 ここではマルクスは〈流通のなかで〉とは述べていますが、「単純流通のなかで」とは述べていないことに注意が必要です。マルクスはこのパラグラフを〈単純な商品流通では〉と単純な流通の話からはじめ、単純な流通では両方の極が同じ経済的形態(商品)であり、しかし質的に違った使用価値をもっていることと、同時に価値としては量的にも同じであるという特徴を述べています。
 そして単純流通のレベルでみれば〈流通G-W-G〉は〈一見無内容に見える〉と指摘します。
 そして質的に同じものは量的違いでしか内容を持たないことを指摘し、だから〈過程G-W-G〉の〈過程の完全な形態は、G-W-G' 〉だとしています。ここではただ〈過程〉としてしか述べていないことにも注意が必要です。そしてすでに言いましたが、最後も〈流通のなかで〉とは述べていますが、それは最初に述べていた〈単純な商品流通〉のなかでではすでにないことが分かるのです。

  ところでここではマルクスは剰余価値を〈それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ〉と剰余価値を規定しています。
 これは剰余価値というものをそのもっとも直接的な表象として捉えられるままに規定しているといえます。いうまでもなく、剰余価値というのは労働力商品に投下された可変資本が、労働力商品の使用価値が価値を形成し、そればかりが自身が持つ価値以上の価値を生産するという特有な商品であることから生じます。
  しかしここではどうして価値が増殖するのか、といった問題はまったく問わずに、ただ前貸しされた貨幣額を超える増加分を剰余価値と呼ぶと述べているだけです。第3部にも次のような一文があります。

  〈剰余価値または利潤は、まさに商品価値が商品の費用価格を越える超過分なのである。すなわち、商品に含まれている総労働量が商品に含まれている支払労働量を越える超過分なのである。だから、剰余価値は、それがどこから生まれるにせよ、とにかく前貸総資本を越える超過分である。〉 (全集第25a巻53頁)

 ここから一部の論者は前貸し貨幣額を超える増加分なら利潤とすべきではないかとか、いや、そうではなく、ここて前貸しされる貨幣額というのは労働力に投下される可変資本を抽象したものだからこれでいいのだ、などと論じている人もいます。
  しかし私たちは、いずれにせよ前貸しされた貨幣額をその理由はともあれ超える増加分を剰余価値と呼ぶのだとマルクスが規定しているのをそのまま受け入れておきたいと思います。


◎原注4

【原注4】〈4 (イ)「貨幣を貨幣と交換するものはない」、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫んでいる。(『自然的および本質的秩序』、486ページ。)(ロ)特に職業上から「商業」や「投機」を論じている一著作には次のように書かれてある。(ハ)「すべて商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生ずる。パン1ポンドをパン1ポンドと交換しても…… なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨幣の交換でしかない賭博との有益な対照……。」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究。または商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年、5ページ。) (ニ)コーベトは、G-Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていないとはいえ、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めている。(ホ)ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見いだすのである。(ヘ)「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すぺて事実上は一つの投機である。」(マカロック『商業・海運関係実用・理論・歴史事典』、ロンドン、1847年、1009ページ。)(ト)これよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは次のように言う。(チ)「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食(コジキ)からはなにももうけることはできない。もし長いあいだにみなのものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ぺージ。)〉

  (イ) 「貨幣を貨幣と交換するものはない」、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫んでいます。(『自然的および本質的秩序』、486ページ。)

  この原注は〈まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える(4)〉という本文に付けられたものです。
  ここではリヴィエールの一文が紹介されています。リヴィエールの同じ文献は原注3でも引用されていました。だからリヴィエールの説明はその部分を参照してください。リヴィエールは重農主義者ですから、重商主義者に反対してこのように叫んだということでしょうか。

  (ロ)(ハ) 特に職業上から「商業」や「投機」を論じている一著作には次のように書かれてあります。「すべて商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生ずる。パン1ポンドをパン1ポンドと交換しても…… なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨幣の交換でしかない賭博との有益な対照……。」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究。または商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年、5ページ。)

  コーベトについては、全集の人名索引では〈コーベット,トマス Corbet,Thomas(1850ころ)イギリスの経済学者,リカードの支持者〉とあるだけです。『経済学批判』には、〈経済学者たちが商品の種々の形態規定を表示するやり方は、次の例からうかがい知ることかできるだろう〉というマルクスの書き出しのあと、幾つかの引用がなされていますが、そのなかに、コーベットの同じ著書からの引用があります(全集第13巻79頁)。

  (ニ) コーベトは、G-Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていませんが、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めています。

  コーベトは、商業と賭博を〈貨幣対貨幣の交換〉という点では共通しているが、商業では種類の違う諸物の交換を媒介しているから意味があるが、賭博では意味がないといいたいようです。しかしマルクスは〈貨幣対貨幣〉、すなわちG-Gというのは、単に商業資本だけではなくて、すべての資本の特徴的な流通形態だと述べています。後に(第22パラグラフ)マルクスは〈G-G’、貨幣を生む貨幣--money which begets money--、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である〉と述べています。そして次のパラグラフ(23)では、〈売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G-W-G'は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である〉と述べています。つまりG-Gは商業資本だけではなく、資本の特徴的な流通形態だということです。

  (ホ)(ヘ) ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見いだすのです。「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すぺて事実上は一つの投機である。」(マカロック『商業・海運関係実用・理論・歴史事典』、ロンドン、1847年、1009ページ。)

  コーベトは、商業と投機の共通性を認めながら、両者の違いを論じていたのですが、その次にマカロックが現われ、売るために買うことは投機することだと主張して、投機と商業との相違を取っ払ってしまったということです。
  マカロックについては以前紹介したことがあったと思いますが、『剰余価値学説史』のなかで、〈〔マカロックは、〕リカードの経済学を俗流化した男であり、同時にその解体の最も悲惨な象徴である。……そのほか、あらゆる点で俗流経済学者であり、現存するものの弁護論者であった。喜劇に終わっているが彼の唯一の心配は、利潤の低下傾向であった。労働者の状態には彼はまったく満足しているし、一般に、労働者階級に重くのしかかっているブルジョア的経済のすべての矛盾に満足しきっている〉(全集第26巻III 219頁)等と述べています。

  (ト)(チ) マカロックよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは次のように言っています。「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食(コジキ)からはなにももうけることはできない。もし長いあいだにみなのものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ぺージ。)

  ピントについては全集の人名索引に〈ピントー,イザーク Pinto,Isaac(1715-1787) オランダの取引所投機師、経済著作家〉という説明があります。〈「強制公債法案とその理由〉というライン新聞に掲載された論文のなかには〈18世紀の名高い株式投機者ユダヤ人ピントは、『流通』について論じた彼の著書のなかで、株式投機を勧めている。なるほど、株式投機は何も生産しないが、しかし、流通をうながし、ポケットからポケットへの富の異動をうながす〉(全集第5巻260頁)という一文があります。

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『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(4)

2021-07-30 20:26:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回) (4)

 

【付属資料】


●第1パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈この運動は、異なる姿態をまとって現われる、すなわち価値を生産する労働へ歴史的につながるものとして現われるとともに、また他方ではブルジョア的生産、すなわち交換価値を措定する生産の体制そのものの内部においても現われる。まず最初に、半未開の、またはまったく未開の諸民族〔Völker〕のもとに、商業をいとなむ諸民族がはいりこんでくるか、あるいは自然的に異なった生産を行なってきた諸部族〔Stämme〕が接触して、自分たちの余剰〔Uelberfluß〕を交換しあう。第一のばあいがいっそう古典的な形態である。したがってこのばあいに即して考察をつづけよう。余剰を交換することは、交換および交換価値を措定する交易〔Verkehr〕である。しかしこの交易は、ただ〔余剰の]交換を範囲とするだけであって、生産そのものに付随して行なわれるにすぎない。しかし交換を勧誘する商人の出現がくりかえされ(ロンパルディア人、ノルマン人らは、ほとんどすべてのヨーロッパ諸民族にたいしてこの役割を演じている)、一つの持続的な商業が発展すると--ただこのばあいには、交換価値を措定する活動への刺激がその生産の内部的姿態から生じるのではなく、外部から生じるために、生産する民族はまだいわば受動的な商業しか営んでいない--、生産の剰余〔Surplus〕は、たんに偶然的な、おりおり存在するものであるにとどまらず、たえずくりかえされるものであらざるをえずなこうして国内的生産そのものが、流通をめざし、諸交換価値の措定をめざす傾向をもってくる。最初はその影響は、どちらかといえば素材的〔stofflich〕である。諸欲求の範囲がひろげられる。その目的は、新しい諸欲求の充足であり、したがってまた生産をより規則的なものとして増大させることである。国内生産の組織〔Organisation〕そのものが、すでに流通と交換価値とによって変容されている。しかしまだその全表面にわたって、またその奥行全体にわたって、流通によってとらえられているわけではない。これが、対外貿易の文明化作用〔civilisirende Wirkung〕と呼ばれるものである。そのばあい、交換価値を措定する運動がどの程度まで生産の全体をとらえるかは、一部は外部からのこの作用の強さに、一部は国内的生産の諸要素--分業など--がすでに発展をとげている度合いに、かかっている。たとえば一六世紀と一七世紀初めのイングランドでは、オランダ商品の輸入のために、イングランドが〔それと〕交換に提供すべき羊毛の余剰が決定的に重要となる。いまや羊毛を増産するために、耕地が牧羊地に変えられ、小規模小作制度〔Pachtsystem〕がつぶされ、領地〔estates〕からの農民追い立て〔clearing〕が生じた、等々。したがって農業は、使用価値のための労働という性格を失い、またその剰余〔Ueberschuß〕の交換は、その内的構成からみたばあいの農業にたいして無関心である性格も保った。農業は、一定の時点でそれ自体純粋に流通によって規定され、交換価値を措定する生産に転化される。それとともに、生産様式が変革されたばかりでなく、またそれに対応する旧来のいっさいの人口諸関係および生産諸関係、つまり経済的諸関係が解体された。こうしてここでは流通にとって前提されていたのは、ただ余剰としてのみ交換価値をつくりだすにすぎない生産であった。だがそれは、もつばら流通との関連でのみ行なわれる生産に、つまり交換価値をおのれの排他的内容として措定する生産にたちもどったのである。〉(草稿集①298-299頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈{交換価値がある民族の生産を、その表層全体にわたっても、またその深部までも、まだとらえてはいないのに、単純流通--これは商品と貨幣との交換、つまり媒介された形態における商品交換それ自体にすぎないが、貨幣蓄蔵にまですすむこともある--が歴史的に存立することはありうるが、それはまさに、単純流通が単に前提された出発点のあいだを媒介する運動にすぎないからである。しかしながら同時に歴史的に示されることは、流通それ自体がブルジョア的生産、すなわち交換価値を定立する生産へと通じており、流通が直接にそこから開始された土台とは別の土台を自分のためにつくり出すということである。余剰を交換することは交換および交換価値を定立する交易である。しかしこの交易は、ただ交換行為そのものにかかわっているだけであり、生産そのものと並存して行なわれる。しかし、交換を勧誘する媒介者たち(ロンバルディア人、ノルマン人など〉の出現が繰り返されるようになり、また一つの継続的な商業--そこでは、交換を定立する活動への誘因は外部からやって来るだけであって、生産の内部的姿態から生ずるものではないから、生産を行なう諸民族はただいわば受動的商業を行なうだけである--が発展してくると、生産の余剰は、ただ偶然的な余剰、その時たまたま存在しているだけの余剰にとどまらず、たあえず繰り返される余剰でなければならないし、こうして生産物それ自体が流通をい、つまり交換価値の定立を目あてにする傾向を受けとるようになる。この作用は、最初は〔形態的であるよりも〕むしろ素材的である。諸欲求の範囲が拡張される。目的は新たな諸欲求の充足である。そしてそこから生産の規則性が増し、生産が増大してゆく。国内生産の組織そのものがすでに流通および交換価値によって変容させられているとはいえ、流通はいまだ国内生産の組織をその表層の全体にわたってとらえているわけでもないし、またその深部全体をとらえているわけでもない。これがいわゆる対外商業の文明化作用〔die s.g.civilisirende Wirkung des auswärtigen Handels〕である。この場合、交換価値を定立する運動がどれだけひろく生産の全体をとらえるかは、一方では外部からのこの作用の強さによって、他方では国内の発展度によってきまる。
  たとえばイングランドでは16世紀に、オランダの産業が発展したためにイギリスの羊毛生産のもつ商業的意義が大きくなった、また他面ではとくにオランダおよびイ夕リアの諸商品に対する需要が増大した。そこで輸出用の交換手段としてより多くの羊毛を手に入れるために、農地が牧羊地に変えられ、小規模借地制度は打ちこわされ、トマス・モアが悲嘆した(告発した)、例の完全な暴力的な経済的変革がひき起こされたのである。だから農業は、使用価値のための労働であるという--直接的な生計源泉としての--性格を喪失し、農業の余剰の交換も、これまでは農業諸関係の内的構成にはかかわりがなく、外的であったが、こうした性格を喪失したのである。農業それ自体が特定の時点で、純粋に流通によって規定され始め、純粋に交換価値を定立する生産に転化され始めた。それとともに単に生産様式が変革されただけではなく、この生産様式に照応していた、いっさいの古い、伝来の人口諸関係および生産諸関係、経済的諸関係もまた、解体されたのである。つまりここ〔16世紀のイングランド〕では、流通にとって前提されていたものは、交換価値を余剰、つまり使用価値を超過する余剰という形態でしか知らなかった生産であったのだが、このような生産が、ただ流通との関連だけで行なわれる生産に、つまり交換価値を自分の直接的目的として定立する生産に、たち帰っていったのである。これこそ、単純流通が資本、つまり生産を支配する形態としての交換価値に歴史的にたち帰ってゆくことの一例である。
  こうして〔単純流通の〕運動は、直接的な使用価値を目あてにしている生産の余剰をとらえるだけであり、それはこうした諸限界の内部で行なわれるほかはないのである。その社会の内的経済構造全体が交換価値によってとらえられている度合いがいまだ小さければ小さいほど、こうした諸限界が流通にとって外面的な--固定されており、流通に対して受動的にふるまうような--極として現われる度合いは、ますます大きくなる。〔単純流通の〕運動の全体そのものが、これらの極〔生産を行なう諸民族〕に対して自立化させられると、仲介貿易〔Zwischenhandel〕として現われる。この仲介貿易の担い手たちは、古典古代世界の空隙に住まうセム族、中世社会の空際にすまうユダヤ入、ロンバルディア人、ノルマン人のように、これらの極に対して、ある時は貨幣を代表し、ある時は商品を代表する。つまり流通の異なる諸契機をかわるがわる代表するのである。商品と貨幣とは、社会的素材変換の媒介者である。〉(草稿集③148頁)

《61-63草稿》

 〈ここですでに知ることができるのは、資本についての日常の表象に最も近く、また事実上歴史的には資本の最古の定在形態である、資本の二つの形態--これは二つの機能における資本であり、それが一方または他方の形態で機能するのに応じて、それは特殊な種類の一資本として現われる--が、なぜ、われわれが資本そのものを問題にしているここでは、まったく問題とならず、むしろ資本そのものの派生的二次的な形態として展開されねばならないのか、ということである。
  本来の商人資本では、運動G-W-Gが最も明白に現われる。それゆえ、商人資本の目的が流通に投じられた価値あるいは貨幣の増加であること、また、それがこのことをなし建ける形態は、買ったのちにふたたび売る、というものであることは、むかしから目につくことであった。……商人資本は、生産の、また総じて社会の経済的構造の、さまざまの段階にある諸国民のあいだで活動を続けることができる。だからそれは、資本主義的生産様式が少しも行なわれていない諸国民のあいだで、したがって、資本がその主要な諸形態において発展するはるか以前に、活動を続けることができるのである。
  資本のもう一つの形態は、同様に非常に古いものであり、また通俗的な見解はこの形態から自分の資本概念をつくりあげたのであるが、それは利子を得るために貸し付け〔ausleihen〕られる貨幣の形態であり、利子生み貨幣資本の形態である。ここでわれわれが見るのは、貨幣がまず商品と交換され、ついでその商品がより多くの貨幣と交換されるという、運動G-W-Gではなく、運動の結果、すなわちG-Gだけである。貨幣はより多くの貨幣と交換される。それはその出発点に復帰するが、しかし増加する。……社会の生産様式がいかに低いものであろうとも、またその経済的構造がいかに未発展であろうとも、われわれはほとんどすべての国々、歴史的時代に、利子生み貨幣を、貨幣を生む貨幣を、したがって形態の上では、資本を見いだすのである。〉(草稿集④36-40頁)

《初版》

 〈商品流通は資本の出発点である。だから、商品生産と商品流通、および発達した商品流通すなわち商業とは、つねに、そのもとで資本が成立する歴史的な前提を成している。16世紀における、近代の世界貿易と世界市場との創出から、資本の近代の生活史が始まる。〉(江夏訳143頁)

《フランス語版》

 〈商品流通は資木の出発点である。資本は、販売のための生産と商業とがすでにある発展段階に到達したばあいに、はじめて現われる。資本の近代史は、16世紀における二つの世界の商業と市場との創出に始まる。〉(江夏・上杉訳129頁)


●第2パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈資本は、まず流通から、しかも資本の出発点である貨幣から生じる。すでに見たように、流通にはいりこむとともに、同時にまた流通から自分自身に立ちかえる貨幣は、貨幣がみずからを止揚する最後の形態である。この貨幣は同時に、資本の最初の概念でもあり、その最初の現象形態でもある。貨幣は、たんに流通のなかで消え去るものとしてのみずからを否定した。しかし貨幣はまた、自立的に流通に対抗するものとしてのみずからをも否定したのである。この否定をその肯定的諸規定のなかで総括してみると、それは資本の最初の諸要因〔Elemente〕を含んでいる。〉(草稿集①293-294頁)
  〈すでにみたように、貨幣としての貨幣においては、交換価値は、すでに流通にたいして一つの自立的形態をかち得ているが、しかしこの自立的形態は否定的で消滅的な形態にすぎず、あるいは、それが固定化されれば幻想的形態であるにすぎない。貨幣は、流通にかかわってのみ、また流通にはいりこむ可能性としてのみ存在する。しかしそれは、自己を実現してしまうやいなや、この規定を失い、諸交換価値の尺度および交換手段という、以前の二つの規定に逆もどりする。流通にたいして自己を自立化させるだけでなく、また流通のなかで自己を保持するような交換価値として、貨幣が措定されるやいなや、それはもはや貨幣ではなく--というのも貨幣は貨幣そのものとしては否定的な規定を越えることはないのだから--、資本なのである。……つまり資本の最初の規定は次のとおりである。すなわち、流通から生まれ、したがって流通を前提する交換価値は、流通のなかで、また流通をとおして自己を保持すること、この交換価値は流通にはいりこむことによって、自己を失わないでいること、流通は、交換価値が消滅していく運動としてでなく、むしろ交換価値が交換価値として現実的に自己を措定する運動として、交換価値の交換価値としての実現であること、これである。〉(草稿集①303頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈流通の形態それ自体を考察してみれば、流通のなかで生成し、生み出されるものは、貨幣そのもの〔貨幣としての貨幣〕であり、それ以上の何物でもない。諸商品は流通のなかで交換されるとはいえ、流通のなかで成立するわけではない。たしかに価格および鋳貨としての貨幣もすでに、流通固有の産物にほかならないが、しかしそうであるのは〔価格および鋳貨の〕形態にかんしてだけである。〔というのも〕価格の前提は商品の交換価値であり、同様に、鋳貨もそれ自体としては、交換手段としての商品--これもまた〔流通の〕前提であった--が形態として自立化したものにほかならない〔からである〕。流通は交換価値を創造しないし、またその大きさを創造しもしない。〉(草稿集③158頁)
 〈しかし貨幣〔としての貨幣〕については、事情が異なっている。貨幣は、いわば協定にさからって流通から発生してきたような流通の産物なのである。
  貨幣は商品交換を単に媒介するだけの形態ではない。貨幣は流通過程から発生してくる交換価値の形態であり、流通のなかで諸個人が入り込んでゆく諸関連を通じておのずから生み出されてくる社会的産物である。〉(草稿集③160-161頁)

《61-63草稿》

 〈貨幣が、(貨幣蓄蔵の場合のように)流通に対立して自立化するばかりでなく、流通のなかで自己を維持する交換価値として指定されれば、それはもはや貨幣ではなく--というのは、貨幣は貨幣としては否定的な規定をこえるものではないからである--、資本である。それゆえに貨幣は、交換価値が資本の規定にまで進むさいにとる最初の形態でもあるのであり、また歴史的には資本の最初の現象形態なのであって、それゆえに歴史的にも資本そのものと混同されるのである。資本にとっては流通は、貨幣の場合のように、そのなかで交換価値が消えてしまう運動として現われるばかりではなく、そのなかで交換価値が自己を維持するところの、またそれ自身、貨幣と商品という二つの規定の変換であるところの運動として現われる。これにたいして単純な流通では、交換価値はそのようなものとして実現されるのではない。それはいつでも、それが消えてしまう瞬間に実現されるにすぎない。商品が貨幣となり、その貨幣がふたたび商品となれば、商品の交換価値規定は消えてしまうのであって、それはただ、第一の商品と引き換えに、相応の分量の第二の商品を(第二の商品を相応の分量だけ)受け取ることに役立ったのであり、これによって第二の商品はついで使用価値として消費に帰するのである。この商品はこのような形態にたいして無関心〔indifferent〕であり、それはもはや欲望の直接的対象でしかない。商品が貨幣と交換されたときに、貨幣という交換価値の形態がそのままの状態にとどまるのは、ただ、貨幣が交換の外で、流通にたいして否定的な態度をとるかぎりでのことにすぎない。貨幣が、流通にたいして否定的な態度をとることで、得ようと努める不滅性を、資本はこともあろうに、わが身を流通に委ねることによってわが身を維持するという仕方で、獲得するのである。〉(草稿集④45-46頁)

《初版》

 〈商品流通の素材的な内容であるいろいろな使用価値の交換を度外視して、この過程が産み出す経済的な譜形態だけを考察すれば、われわれは、この過程の最後の産物として、貨幣を見いだす。商品流通のこの最後の産物が、資本の最初の現象形態である。〉(江夏訳143頁)

《フランス語版》

 〈使用価値の交換、すなわち商品流通の素材的な側面を無視して、この交換が産み出す経済的な形態だけを考察すれば、われわれは最後の結果として貨幣を見出す。流通のこの最後の産物が、資本の最初の現象形態である。〉(江夏・上杉訳129頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈理論においては、価値の概念は資本の概念に先行するが、他方またみずからを純粋に展開するためには、資本を基礎とする生産様式を前提してもいるとすれば、同じことは実践においても生じる。……価値がその純粋性と一般性において存在するということは、ある生産様式を前提しており、そこでは個々の生産物は、生産者一般のための、またそれ以上に個々の労働者のための生産物であることをやめ、流通をつうじて実現されないことには無に等しいものとなっている。……もし彼が交換価値、貨幣をつくり出さなかったとすれば、彼はなに一つつくり出さなかったことになる。こうしてこの価値規定それ自体が、社会的生産様式のあるあたえられた歴史的段階をその前提としており、それ自体その生産様式と共にあたえられた、したがって歴史的な関係なのである。
  他方、価値規定の個々の諸契機は、社会の歴史的生産過程のよりはやい段階に発展し、その結果として現われる。
  したがって、ブルジョア社会の体制の内部では、価値にはすぐに資本がつづいている。歴史においては、より不完全な価値展開の物質的基礎をなしている他の諸体制が先行する。……しかしわれわれがここに問題にするのは、すでに生成しきって、それ自身の基礎の上で運動しつつあるブルジョア社会なのである。〉(草稿集①292-293頁)
 〈貨幣は、資本が資本として現われる最初の形態である。G-W-W-G、つまり貨幣が、商品と交換され、さらに商品が貨幣と交換されること、商業の形態規定をなすところの売るために買うというこの運動商業資本〔Handelscapital〕としての資本は、経済的発展のごく初期の状態にも見いだされる。それは交換価値そのもの〔Tauschwerth als solcher〕が内容〔Inhalt〕をなし、たんに形態であるだけでなく、交換価値自身の内実〔Gehalt〕でもあるような、最初の運動である。この運動は、自分たちの生産にとって交換価値がまだまったく前提となってはいないような諸民族〔Völker〕の内部でも、またそれら諸民族のあいだでも生じることができる。この運動は、直接使用するつもりでなされるそれらの民族の生産の剰余〔Surplus〕をとらえるにすぎず、またそれら諸民族の境界でだけ生じるのである。古代ポーランド社会とか一般に中世社会のなかでのユダヤ人と同じように、全商業諸民族--古典古代におけるように--とか、またのちの時代のロンパルディア人たちは、まだ交換価値が基本的前提としてその生産様式の条件となっていなかった諸民族のあいだで、このような地歩をしめることができる。商業資本はたんに流通資本〔circulirendes Capital〕であるにすぎず、流通資本は資本の最初の形態であるが、この形態にあっては、資本は、まだけっして生産の基礎にはなっていないのである。いっそう発展した形態は、貨幣資本〔Geldcapital〕および貨幣利子〔Geldzins〕、すなわち高利〔Wucher〕であって、この高利が自立的に登場するのも、同様に初期の段階のことである。〉(草稿集①294頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈しかしわれわれはここでは、〔単純〕流通の資本への歴史的移行については論じないことにする。単純流通とはむしろ、ブルジョア的総生産過程のひとつの抽象的部面なのであり、この部面はそれ自身のもつ諸規定を通じて、それが、単純流通の背後に横たわり、単純流通から結果として生ずるとともに、それを生み出しもする、より深部にある過程--産業資本--の契機であり、それの単なる現象形態にすぎぬことを実証するのである。}〉(草稿集③150-151頁)

《61-63草稿》

 〈この流通の出発点は、貨幣、自立化した交換価値である。歴史的にも、資本形成はどこにおいても貨幣財産から出発したのであって、資本の最初の把握は、資本は貨幣、ただしある種の諸過程を通り終える貨幣である、というものである。〉(草稿集④16頁)

《直接的生産過程の諸結果》 (ここでは最新の森田訳を紹介するが、同書ではマルクスの強調個所が部分的に省略されているので、それを国民文庫版で補った。)

  〈ブルジョア的富の要素形態としての商品がわれわれの出発点であり、資本が発生するための前提であった。他方で、商品は今では資本の生産物として現われている。
  われわれの叙述がとるこのような円環は、資本の歴史的発展とも合致する。というのも、商品交換商品取引は、資本の発生条件の一つだからである。そして、この条件そのものは過去のさまざまな生産段階の上で形成され、そこでは、資本主義的生産がまだまったく存在していないか、所々にしか存在していないことが共通の特徴となっている。他方、商品交換が全面的に発達し、商品という形態がはじめて生産物の一般的で必然的な社会形態となるのは、それ自身、資本主義的生産様式の結果に他ならないのである。
  他方で、資本主義的生産が全面的に発達した社会を考察するなら、そこでは商品は、[一方では]資本の恒常的な要素的前提として現われ、他方では資本主義的生産過程の直接の結果としても現われるのである。
  商品と貨幣は資本の要素的前提であるとはいえ、両者はある一定の条件下ではじめて資本に発展する。資本形成が起こるのはただ、商品流通(貨幣流通を含む) にもとつく場合のみであり、したがって商業がすでに一定の規模にまで成長した段階においてである。だがその反対に、商品生産と商品流通はいささかも資本主義的生産様式をその定在の前提としていないのであって、むしろ、私がすでに示したように(『経済学批判』全集第13巻77頁)、「前ブルジョア的社会形態に属している」。両者は資本主義的生産様式の歴史的前提である。しかし他方では、商品がはじめて生産物の一般的形態になるのは、すなわち、あらゆる生産物が商品の形態を取らなければならず、売買が生産の余剰分のみならずその実体そのものをも捉えるようになり、さまざまな生産諸条件それ自体が総じて商品として登場し、そういうものとして流通から生産過程へと入っていくことになるのは、資本主義的生産の基礎上においてのみである。したがって、商品が一方では資本形成の前提として現われるとすれば、他方では、商品はまた、それが生産物の一般的な要素形態であるかぎりでは、本質的に資本主義的生産過程の産物でありその結果として現われるのである。それ以前の生産段階においては生産物は部分的にのみ商品の形態を取る。それに対して資本は生産物を必然的に商品として生産する。したがって、資本主義的生産が、つまりは資本が発展すればするほど、商品に関して一般的に展開してきた諸法則--たとえば価値に関わるそれ--もまた、貨幣流通のさまざまな諸形態のうちに実現されていくのである。〉(森田成也訳・光文社古典新訳文庫117-119頁)

《初版》

 〈歴史的には、資本は、どこでも、最初は貨幣の形態で、商人資本および貸付資本という貨幣財産の形態で、土地所有に相対する(1)。とはいっても、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧するには及ばない。同じ歴史が、毎日われわれの眼の前で演じられている。どの新たな資本も、まず第一に、舞台には、すなわち商品市場とか労働市場とか貨幣市場とかの市場には、相変わらず、貨幣として、特定の過程を経て資本に転化すべき貨幣として、登場してくる。〉(江夏訳143頁)

《フランス語版》

 〈資本をその起源において歴史的に研究するばあい、資本はどこでも、貨幣財産として、すなわち商業資本や高利貸資本として、貨幣形態のもとで土地所有に相対しているのが、見られる(1)。だが、われわれは過去に考慮を払う必要はないのであって、われわれの眼の前で今日もなお起きていることを観察するだけで充分であろう。今日も以前と同じように、それぞれの新しい資本が、貨幣形態のもとで、特殊な過程を経て資本に転化すべき貨幣の形態のもとで、舞台に、すなわち生産物市場や労働市場や貨幣市場という市場に、登場する。〉(江夏・上杉訳129頁)


●原注1

《経済学批判要綱》

 〈貨幣は、一般的富の個体として、それ自身流通に由来して、ただ一般的なものだけを代表するにすぎぬものとして、ただ社会的結果にすぎないものとして、その占有者にたいする個人的関連をまったく想定していないのである。つまり貨幣を占有することは、貨幣の占有者の個体性の本質的諸側面のなんらかのものの発展ではなく、それは、むしろ、もろもろの没個体性〔Individualitätslose〕の占有なのである。なぜなら、この社会的〔関係〕が、同時に、一つの感性的、外的な対象としても存在しており、この対象を機械的にわがものとすることもできれば、同じくまた機械的にそれを喪失することもありうるからである。したがって貨幣の個人にたいする関連は、純粋に偶然的な関連として現われる。ところが、個人の個体性とはまったく関連していない物象にたいするこの関連こそが、同時に、この物象という性格によって、社会にたいする、つまり享楽、労働などの全世界にたいする一般的支配をその個人にあたえるのである。ちょうどそれは、たとえば一つの石を発見しさえすれば、私の個体性とはまったくかかわりなく、あらゆる科学の知識が私にあたえられることになったかのように思えるばあいと、同じことになる。貨幣の占有が、富(社会的富)にたいする関係において、私をはいりこませる関係は、賢者の石が、科学にかんして、私をはいりこませる関係と、まったく同一なのである。〉(草稿集①242-243頁)
  〈最後に、流通する貨幣としての貨幣そのものにおいては、貨幣は一方の手に現われるかと思うとまた他方の手に現われ、またどこに現われるかについては無関心であるから、さらに実態的に〔sachlich--物象的に〕も平等が措定〔される]のである。だれもが相手にたいして貨幣の所持者として現われ、交換の過程が考察されるかぎりでは、みずからが貨幣として現われる。それゆえ、無関心性〔Gleichgültigkeit〕と同値性〔Gleichgeltendheit〕とが物象〔Sache〕の形態で明示的に現存している。商品のうちにあった特殊的自然的差異性は消し去られており、また流通をつうじてたえず消し去られている。〉(草稿集①283-284頁)

《初版》

 〈(1)人身的な隷属および支配諸関係にもとづく土地所有の権力と貨幣の身的な権力との対立は、次の二つのフランスの諺のうちに明白に表現されている。すなわち、「領主のいない土地はない」、「貨幣には主人がない」、という諺である。〉(江夏訳143-144頁)

《フランス語版》

 〈(1) 人身的な支配関係と従属関係にもとづく土地所有の権力と、貨幣の身的な権力との対立は、次の二つのフランスの諺のなかに明確に表現されている。すなわち、「領主のいない土地はない」、「貨幣には主人がない」、と。〉(江夏・上杉訳129頁)


●第4パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈貨幣の第三規定は、その完全な発展したかたちにおいては、初めの両規定を想定しており、両規定の統一である。したがって貨幣は流通の外で自立した存在をもっている。つまり貨幣は流通から抜けだしている。特殊的商品として、貨幣は、その貨幣という形態から奢侈品、つまり金銀装飾品の形態に転化されることがあり(たとえば英国の比較的古い時代のように、工芸がきわめて単純であるあいだは、銀貨幣から食器類〔Plate〕への転化、またはその反対の転化が、たえず行なわれていた。テイラーを見よ)、あるときはまた、貨幣として蓄積され〔aufgehäuft〕このようにして蓄蔵貨幣〔Schatz〕を形成することがある。貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちに、資本としての貨幣の規定が、滞在的にはすでに含まれている。〉(草稿集①236頁)
  〈富の普遍的物質的代表物としての貨幣が流通から生じ、そしてそのようなものとしてそれ自体が流通の産物--流通とは同時により高い潜勢力〔Potenz〕をもった交換であり、交換の一つの特殊的形態でもある--であるかぎりでは、貨幣は、この第三規定においてもなお流通に関連している。つまり、貨幣は自立的なものとして流通に対立している、がしかし、このような貨幣の自立性は流通それ自身の過程にほかならない。貨幣は流通から出てくるとともに、ふたたび流通のなかにはいっていく。もしかりに流通にたいするあらゆる関連を貨幣からとり除いてしまうとすれば、貨幣は貨幣ではなくなり、一つの単純な自然対象、つまり金と銀であるにすぎない、ということになる。貨幣は、この〔第三〕規定においては、流通の前提でもあれば、またその結果でもある。貨幣の自立性とは、それ自体としては、流通への関連が停止してしまうことなのではなく、流通にたいする否定的関連のことなのである。G-W-W-Gの結果としての、この自立性のうちには、以上のことが含まれている。資本としての貨幣においては、以下の四点が貨幣それ自体にそくして措定されている、すなわち(1)貨幣が流通の前提でもあれば、またその結果でもあること、(2)それゆえ、貨幣の自立性とは、それ自体、流通にたいする否定的関連のことにほかならないが、しかしつねに流通にたいする関連ではあること、(3)流通がもはや、量的交換として、その最初の単純性のかたちで現われることはなく、生産の過程として、実在的な物質代謝〔der reale Stoffwechsel〕として現われることによって、貨幣それ自体が生産用具として措定されていることである。〉(草稿集①238頁)
  〈資本としての貨幣とは、貨幣としてのその単純な規定をこえる貨幣の規定のことである。それは、いっそう高度の実現とみなすことができる。ちょうど、猿が人間に発展するといえるのと同様に。だがそのばあいには、低次の形態が高次の形態を包摂する主体〔das Uebergreifends Subjekt〕として措定されている。いずれにしても、資本としての貨幣は、貨幣としての貨幣とは区別されている。この新しい規定が展開されねばならない。他方では、貨幣としての資本は、低次の形態への資本の後退のようにみえる。だがそれは、非資本〔Nicht-Kapital〕としてすでに、資本が存在する以前に存在しており、また資本の前提の一つをなしているところの特殊性〔Besondertheit〕において資本を措定したものにすぎない。貨幣は、その後のすべての諸関係のなかにふたたび現われてくる。しかしそのばあいには、それは、もはやたんなる貨幣としての働きをするのではない。ここもそうだが、貨幣を金融市場〔Geldmarkt〕としてのその総体にいたるまで追究することが、まずやるべき問題であるばあいには、その他の展開はあらかじめ前提にして、折にふれてとりあげるようにせざるをえない。そこでここでは、貨幣としての資本の特殊性にすすむまえに、資本の一般的規定〔allgemeine Bestimmung〕をとりあげよう。〉(290-291頁)

《マルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日)から》

  〈(c) 貨幣としての貨幣。これは形態G-W-W-Gの発展だ。流通にたいして独立な価値定在としての貨幣。抽象的な富の物質的な定在。それは、ただ流通手段として現われるだけでなくて価値を実現するものとして現われるかぎりでは、すでに流通において現われている。この(c)属性では(a)(「尺度としての貨幣」--引用者)も(b)(「交換手段としての貨幣または単純な流通」--同)もただ諸機能として現われるだけだが、この(c)の属性にあっては、貨幣は、諸契約の一般的商品であり(ここでは貨幣の価値の、すなわち労働時間によって規定された価値の、可変性が重要になる)、蓄蔵の対象である。(この機能は、アジアでは今日なお重要なものとして現われ、また古代世界や中世では一般にそうだった。今日ではただ銀行業で従属的に存在するにすぎない。恐慌時にはふたたびこの形態での貨幣の重要性が現われる。この形態にある貨幣が、それの生み出す世界史的な幻想とともに考察される、等々。破壊的な諸属性、等々。)価値がそれにおいて現われるであろうところの、すべてのより高度な形態の実現として。いっさいの価値関係がそれにおいて外的に完結するところの、最終的な諸形態。だが、貨幣は、この形態に固定されれば、経済的関係ではなくなり、この形態は貨幣の物質的な担い手なる金銀において消滅する。他方、貨幣が流通にはいってふたたびWと交換されるかぎりでは、終結過程たる商品の消費はふたたび経済的関係から脱落する。単純な貨幣流通は、自己再生産の原理をそれ自身のうちにもっておらず、したがってそれ自身を越えて進むことを命ずる。貨幣において--その諸規定の発展が示すように--、流通にはいりこみ流通のなかで自己を維持すると同時に流通そのものを生み出す価値の要求が定立される--資本。この移行は同時に歴史的だ。資本の古い形態は商業資本であり、商業資本はつねに貨幣を発展させる。同時に、貨幣または商人資本からの、生産を掌握する現実の資本の発生。〉(全集第29巻248-249頁)

《初版》

 〈貨幣としての貨幣資本としての貨幣とは、最初は、それらの流通形態の差異によってしか区別されない。〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》

 〈貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、最初はそれらの流通形態の相違によってしか区別されない。〉(江夏・上杉訳130頁)


●第5パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈どの点をとってみてもその点が、出発点であると同時にまた終結点としても現われ、しかも終結点として現われるかぎりで、出発点として現われるということは、循環〔Kreislauf〕の本性のなかにある。したがって、形態規定G-W-W-Gは、本源的な形態規定として現われるもう一つの規定、W-G-G-Wと同じように正しい。困難は、〔W-G-G-Wのばあいには〕第二の商品は〔第一の商品と〕質的に異なっているのに、〔G-W-W-Gのばあいの〕第二の貨幣はそうでないということである。貨幣はただ量的にしか異なることができないものである。〉(草稿集①215頁)

《マルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日)から》

  〈商品をWとし、貨幣をGとすれば、単純な流通は二つの円運動または終結形、W-G-G-WおよびG-W-W-G (このあとのほうの形は(c)(「貨幣としての貨幣」のこと--引用者)への移行をなす)を示してはいるが、しかし出発点と帰還点とはけっして一致しないか、またはただ偶然に一致するだけだ。〉(全集第29巻247-248頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈W-G-WとG-W-Gという流通の二つの形態を考察しなければならない。〉(草稿集③145頁)
 〈運動W-G-Wにおいては、素材的なものが運動の本来的内容として現われる。社会的運動はただ、個人的諸欲求を充足するための、やがて消えてゆく媒介として現われるだけである。……したがって、流通の運動そのものから生まれてくるこれ以降の形態規定についてゆくためには、われわれは、形態面〔Formseite〕である交換価値そのものがさらにいっそう展開されてゆくような側面、つまりそれが流通の過程そのものを通じてより深められた諸規定を受けとってゆくような側面のほうに、しっかりと着目してゆかなければならない。したがって貨幣の展開である形態G-W-Gの側面の方を〔展開してゆかなければならない〕。〉(草稿集③155頁)

《経済学批判》

 〈よく観察してみると、流通過程は二つの異なった循環の形態を示している。商品をW、貨幣をGと名づけるならば、この二つの形態は次のように表現することができる。
      W-G-W
      G-W-G
  この節では、もっぱら第一の形態、すなわち商品流通の直接的形態を取り扱うことにしよう。〉(全集第13巻70頁)

《61-63草稿》

 〈流通形態G-W-Gは、あるいは、過程を進みつつある貨幣、自己を増殖する価値は、単純な流通W-G-Wの産物である貨幣から出発する。したがってそれは、商品流通を前提するだけではなく、すべての貨幣形態をすでに発展させきっているような商品流通を前提する。したがって、商品流通--商品としての生産物の交換、および、貨幣とそのさまざまの形態とにおける交換価値の自立化--がすでに発展しきっている場合にのみ、資本形成は可能である。交換価値は、交換価値が出発点および結果として現われるような過程を通り終えるためには、あらかじめすでに、貨幣のかたちで自己の自立的な抽象的な姿を受け取っていなければならない。〉(草稿集④16頁)

《初版》

 〈商品流通の直接的な形態はW-G-W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売ることである。ところが、われわれは、この形態と並んで、独自に区別された第二の形態、G-W-Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買うこと、を見いだすのである。その運動においてこの後者の流通形態を描く貨幣が、資本に転化するのであり、資本になるのであって、それ自体、すなわちその使命からして、すでに資本である。〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》

 〈商品流通の直接の形態は M-A-M、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売ることである。だが、われわれはこの形態の傍らに、全くちがった別の形態、A-M-A (貨幣商品貨幣) という形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買うことを、見出すのである。後者の循環運動を描く貨幣はどれも、資本に転化され、資本になるのであって、その使命からしてすでに資本である。〉(江夏・上杉訳130頁)

●第6パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈しかしながら、次に、流通を表わす本源的形態、直接的形態であるW-G-G-Wをさらにくわしく考察すれば、この形態においては、貨幣は純粋な交換手段として現われている。商品が商品と交換されることになり、貨幣はただ交換の手段として現われるだけである。第一の商品の価絡は貨幣に実現され、次いで、この貨幣でもって第二の商品の価格を実現し、以上のようなやり方でこの第二の商品を第一の商品のかわりに受けとるのである。第一の商品の価格が実現されてしまえば、たった今彼の価格を貨幣のかたちで受けとった者の目的は、第二の商品の価格を受けとることではなくて、彼は、その〔第二の〕商品を受けとるために、その商品の価格を支払うのである。それゆえ、根本において、貨幣は、彼にとって、ただ第一の商品を第二の商品と交換する目的に役立っただけなのである。たんなる流通手段としては、貨幣は、これ以外の他の目的をもっていないのである。〉(草稿集①223-224頁)
  〈G-W-W-G。ここでは、貨幣は、たんに手段として現われるだけではなく、また尺度として現われるだけでもなく、貨幣は自己目的として現われる。……貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちに、資本としての貨幣の規定が、滞在的にはすでに含まれている。〉(草稿集①235-236頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈すなわちG-W-Gという形態をとる現実的運動は単純流通のなかには存在しないのである。単純流通においては等価物が商品の形態から貨幣の形態へ、またその逆の方向へ、ただ移しかえられるだけである。わたくしが1ターレルを1ターレルの価値をもつ商品と交換し、そしてこの商品をふたたび1ターレルと交換するならば、これは一つの無内容な過程である。単純流通のうちに見いだせるものは、ただこれ--この形態〔G-W-G〕そのものの内容--すなわち自己目的としての貨幣だけである。この形態がそのものとして現に行なわれていることは、明らかである。量のことはおくとすれば、商業の支配的形態は、貨幣を商品と交換し、ついで商品を貨幣と交換することにある。この過程で結果が単純に前提と等量の貨幣であるとはかぎらないということも、起こりうることであり、現にまた起こってもいる。だが取引がうまく行かなければ、投げ入れた額よりも少額しか引き出せないこともありうる。ここ〔単純流通〕では〔形態G-W-Gのもつ〕意味だけを考察しておけばよい。これ以上進んだ規定性は、単純流通それ自体に属するものではないからである。単純流通それ自体においては、価値の大きさの増大は、つまり価値が増加することそれ自体が目的となるような運動は、ただ〔貨幣の〕貯蔵という形態においてしか、現われようがないのである。言い換えれば、W-Gつまり商品の販売をたえず更新して行ないながら、同時に貨幣に対してはその全行程をくまなく通過することを許さない、つまり商品が貨幣に転化したあとで、その貨幣をふたたび商品に転化させることを許さないということによって媒介されているものとしてしか、現われようがないのである。したがって貨幣は、形態G-W-Gが要求しているように交換の出発点として現われることはなく、つねに交換の結果として現われるにすぎない。売り手の側からすれば、商品は彼自身にとってはただ価格--つまりこれから定在することにならねばならぬ貨幣--としてしか意味がないのであり、彼はこのようなつかのまの形態にある貨幣〔商品〕を流通に投げ込んで、永遠の形態にある貨幣〔貨幣〕をそこから引き出してくるのであって、以上のことにかぎって、貨幣は出発点である。交換価値は、したがって貨幣も、事実上流通の前提であったが、同様にまた、交換価値の適合的な定在およびそれの増大とは、流通が貨幣貯蔵〔Geldanhäufung〕で終わるかぎりでは、流通の結果として現われるのである。〉(草稿集③167-168頁)

(続く)

 

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『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(5)

2021-07-30 19:16:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回) (5)

 

【付属資料】(続き)

●第6パラグラフ(の続き)

《経済学批判》

  〈商品流通W-G-Wは、その単純な形態では、貨幣が買い手の手から売り手の手に、買い手となった売り手の手から新しい売り手に移るということでおこなわれる。これでもって商品の変態は終わり、したがって貨幣の運動も、それがこの変態の表現であるかぎりでは終わる。だが、たえず新しい使用価値が商品として生産され、したがってたえずあらたに流通に投じられなければならないのだから、W-G-Wは、同じ商品所有者の側からくりかえされ、更新される。商品所有者が買い手として支出した貨幣は、彼があたに商品の売り手として現われるやいなや、その手にもどってくる。こうして、商品流通の不断の更新は、貨幣がある人の手から他の人の手へとブルジョア社会の全表面にわたって、たえず転々とするばかりでなく、同時に多数のさまざまな小さな循環を描き、限りなく違った点から出発して同じ点にもどりながら、あらたに同じ運動をくりかえす、ということに反映される。
  商品の形態転換が貨幣のたんなる位置転換として現われ、流通運動の連続性がまったく貨幣の側に帰するのは、商品はいつも貨幣と反対の方向に一歩だけ進むが、貨幣はたえず商品に代わって第二歩を進めて、商品がAと言った場所でBと言うことのためであるが、そうなると、販売のさいに商品が貨幣をその位置から引き寄せ、したがって貨幣を流通させることは、購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同様であるにもかかわらず、全運動が貨幣から出発するように見える。さらに貨幣は、いつも購買手段としての同一の関係で商品に相対するのであるが、購買手段としては、ただ商品価格の実現によって商品を運動させるだけだから、流通の全運動は、同時にならんで進行する特殊な流通行為においてにせよ、同じ貨幣片がいろいろな商品価格を順次に実現することによって、つぎつぎとおこなわれるにせよ、貨幣が商品の価格を実現することによって商品と位置を換えるというように現われる。たとえばW-G-W'-G-W"-G-W'"等々う、現実の流通過程では認められなくなる質的契機を顧慮せずに考察してみると、同じ単調な操作だけが現われる。GはWの価格を実現したのちに、順々にW'-W"等々の価格を実現し、商品W'-W"-W'"等々は、いつも貨幣の去った位置に出てくる。だから貨幣が商品の価格を実現することによって商品を流通させるように見える。価格の実現というこの機能で、貨幣はあるときはただ一回だけ位置を換え、あるときは流通の弧を通過し、あるときは出発点と復帰点とが一致する小円周を描きながら、それ自身たえず流通するのである。流通手段としては、貨幣はそれ自身の流通をもつ。だから過程を経過する諸商品の形態運動は、それ自身では運動しない諸商品の交換を媒介する貨幣自身の運動として現われる。だから諸商品の流通過程の運動は、流通手段としての貨幣の運動で--貨幣流通で--あらわされる。〉(全集第13巻81-82頁)
 〈W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。
  W-G-Wの形態では、両極は同じ大きさの価値の商品であるが、同時にまた質的に違う使用価値である。それらの交換W-Wは、現実の物質代謝である。これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ばかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。だからわれわれは、流通手段とは区別した貨幣を、商品流通の直接的形態であるW-G-Wから展開しなければならない。〉(全集第13巻102-103頁)

《61-63草稿》

 〈さしあたり、形態G-W-G--貨幣を商品と交換したのち、すなわち購買したのち、その商品をふたたび貨幣と交換する、すなわち販売すること--を考察しよう。すでに以前に述べたように、流通の形態W-G-Wではその極W、Wは、ともに等しい価値量ではあるが質的には異なっており、だからこそこの形態では現実の素材変換が行なわれる(異なった使用価値が互いに交換される)のであり、したがってその結果であるW-W--商品と商品との交換、事実上、使用価値相互の交換--は、自明の目的をもっている。これにたいして形態G-W-G(買ったのちに売ること)では、両極G、Gは、質的に同じもの、すなわち貨幣である。そこで、もし私が、G(貨幣)をW(商品)と交換したのち、その商品(W) をふたたびG(貨幣)と変換するのなら、つまり買ったのちに売るのであれば、その結果は、私は貨幣を貨幣と交換した、ということである。じっさい、流通G-W-G(買ったのちに売ること)は、次の行為に分かれる。第1に、G-W、すなわち貨幣を商品と交換すること、すなわち買うこと。第2に、W-G、すなわち商品を貨幣と交換すること、すなわち売ること。そして、この両行為の統一、言い換えれば、両段階の経過であるG-W-G、貨幣を商品と交換したのち商品を貨幣と交換すること、買ったのちに売ること。しかし、この過程の結果は、G-G、すなわち貨幣と貨幣との交換である。もし私が1OOターレルで綿花を買い、そしてその綿花をふたたび1OOターレルで売るならば、この過程の終りに私がもっているのは、その始めと同じく1OOターレルであって、全運動は、私は購買によって1OOターレルを支出し、そして販売によってふたたび1OOターレルを受け取る、ということである。つまりその結果はG-Gであり、実際には、私は1OOターレルを1OOターレルと交換した、ということである。しかしこのような操作は、無目的なもの、したがってまた、ばかげたものに思われる*〔erscheinen〕。過程の終りに私がもっているのは、その始めと同じく、貨幣であり、質的に同一の商品であり、量的に同一の価値量である。過程(運動)の出発点と終点は貨幣である。同一人物が、買い手として貨幣を支出したのちに、売り手として貨幣を取り戻す。この運動で貨幣が出発する点は、貨幣が復帰する点と同じ点である。買ったのちにふたたび売るという過程であるG-W-Gでは、その極G、Gは質的に同じなのであるから、この過程が内容と目的とをもつことができるのは、ただ、この両極が量的に異なっている場合だけである。もし私が、1OOターレルで綿花を買い、そしてその同じ綿花を11Oターレルで売れば、実際には私は、1OOターレルを11Oターレルと交換したのであり、言い換えれば1OOターレルで11Oターレルを買ったのである。つまり、買ったのちに売るという流通形態G-W-Gが内容をもつのは、その極G、Gが、質的には同じもの・貨幣・であっても、第2のGが第1のGよりも高い価値量、より大きな価値額を表わすのでそれらが量的には異なっている、ということによってである。商品が買われるのは、そのあとでもっと高く売るためであり、言い換えればそれは、売られるよりも安く買われるのである。
  *このように思うのはまったく正しい。にもかかわらず、この形態は現に存在する(そしてこの場合には、目的はどうでもよいこととなる)。たとえば買い手は商品を、買ったときよりも高く売ることができないかもしれない。彼はそれを、買ったときよりも安く売らざるをえないかもしれない。どちらの場合にも、操作の結果は操作の目的と矛盾している。けれどもこのことは、このような操作も目的にかなった操作と共通にG-W-Gという形態をもっている、ということを妨げるものではない。〉(草稿集④5-7頁)

《初版》

 〈G-W-Gという流通を、もっと詳しく見てみよう。それは、単純な商品流通の過程と同じに、二つの対立する諸段階を通過してそれらの統一を形成している過程である。第1の段階、G-W、購買では、貨幣が商品に転化される。第2の段階、W-G、販売では、商品が貨幣に再転化される。だが、両段階の統一である総運動は、次のように表現される。すなわち、貨幣を商品と交換し、同じ商品を再び貨幣と交換するということ、商品を売るために買うか、あるいは、購買と販売との形態上の差異を無視すれば、貨幣で商品を買い商品で貨幣を買う(2)、ということ。ところが、この過程の結果はどうかと言えば、この結果は、貨幣と貨幣との交換、G-Gに消えてゆく。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を110ポンド・スターリングで転売すれば、私は結局、100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と、交換したわけである。〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》  フランス語版では、二つのパラグラフに分かれて、あいだに原注(2)が入っている。ここでは別途紹介する原注を除いて紹介しておく。

 〈A-M-A の流通をもっと詳しく考察しよう。それは単純な流通と同じように、2つの対立する諸段階を通過する。購買という第1段階 A-M では、貨幣が商品に転化する。販売という第2段階 M-A では、商品が貨幣に転化する。これら両段階の全体は、貨幣を商品と交換し同じ商品を再び貨幣と交換するという運動、売るために買うということ、によって表現されるか、あるいは、購買と販売との形態的な差異を無視すれば貨幣で商品を買い商品で貨幣を買うということ、によって表現されている(2)。
  この運動は貨幣と貨幣との交換 A-A に帰着する。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、次いでこの2000ポンドの綿花を110ポンド・スターリングで売れば、私は結局100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。〉(江夏・上杉訳130頁)

《『資本論』第2巻》

  〈資本がわれわれの前に現われた最初の現象形態(第一部第四章第一節)G-W-G' (これは(1)G-W1と(2)W1-G'とに分解される)では同じ商品が二度現われる。第一の段階で貨幣がそれに転化する商品も、第二の段階でより多くの貨幣に再転化する商品も、どちらも同じ商品である。二つの流通のこのような本質的な相違にもかかわらず、両方に共通な点は、その第一段階では貨幣が商品に転化し、第二段階では商品が貨幣に転化するということ、つまり第一段階で支出された貨幣が第二段階で再び還流するということである。二つの流通には、一方ではこのように貨幣がその出発点に還流してくることが共通であり、他方ではまた還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過しているということが共通である。そのかぎりでは、G-W…W'-G'も一般的な定式G-W-G'のうちに含まれて現われるのである。〉(全集第24巻65頁)

●原注2

《初版》

 〈(2) 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、543ページ。〉〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》

 〈(2) 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、543ページ)。〉(江夏・上杉訳130頁)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈ところで、回り道をして、同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、つまり、たとえば100ポンド・スターリングを1OOポンド・スターリングと交換しようとすれば、流通過程G-W-Gが馬鹿げて無内容であることは、全く明白である。100ポンド・スターリングを流通の危険にさらさずにしっかりともっている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、はるかに簡単で確実であろう。他方、商人が、100ポンド・スターリングで買った綿花を110ポンド・スターリングで転売しようと、または、それを100ポンド・スターリングで、また50ポンド・スターリングでさえ、たたき売りせざるをえなかろうと、ともあれ、いつでも、彼の貨幣は独自な特異の運動を描いたのであって、この運動は、彼の貨幣が単純な商品流通のなかで描く運動、たとえば穀物を売り、こうして手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかで描く運動とは、全くちがう。だから、循環 G-W-G と循環 W-G-W との形態差異の特徴づけが、まずもって肝要である。そうすれば、この形態差異の背後にひそんでいる内容上の差異も、同時に明らかになるであろう。〉(江夏訳144-145頁)

《フランス語版》

 〈もしそのような回り道を通って、等価の貨幣額、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとすれば、A-M-A の流通が奇怪な過程であることは、いうまでもない。自分の100ポンド・スターリングを流通の危険にさらすかわりに、それをしっかりと取っておく貨幣蓄蔵者の方法のほうが、まだましである。だが他方、商人が、100ポンド・スターリングで買った綿花を110ポンド・スターリングで再び売ろうと、それを100ポンド・スターリングで、また50ポンド・スターリングでさえ引き渡さざるをえなかろうと、どちらのばあいにも、彼の貨幣は特殊的、独創的運動をいつも描くのであって、たとえば小麦を売って上衣を買う農民の貨幣が通過する運動とは、全くちがう。したがって、われわれはまず、二つの流通形態である A-M-A と M-A-Mとの特徴的な差異を確証しなければならない。われわれはそれと同時に、この形態的な差異の背後にどんな現実的な差異が隠れているかを、示すであろう。〉(江夏・上杉訳130-131頁)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈さしあたり、形態G-W-G(買ったのちに売ること)を考察し、それを、以前に考察した流通形態W-G-W(売ったのちに買うこと)と比較しよう。第1に、流通G-W-Gは、流通W-G-Wと同じく、異なった二つの交換行為に分かれるのであって、それらの統一が、流通G-W-Gである。つまり、G-W、貨幣を商品と交換すること、すなわち購買。この交換行為では、1人の買い手と1人の売り手とが相対している。第2に、W-G、販売、商品を貨幣と交換すること。この行為でも、同じく2人の人物が、買い手と売り手とが相対している。買い手は、ある人から買い、別の人に売る。この運動を始める買い手は、この両方の行為をなし終える。彼はまず買い、次に売る。言い換えれば、彼の貨幣は2つの段階を経過する。それは第1段階では出発点として現われ、第2段階では結果として現われる。これにたいして、彼の交換の相手となる2人の人物は、それぞれただ1つの交換行為を行なうだけである。1人は商品を売る、--これは彼が最初に交換する相手である。もう1人は商品を買う、すなわちこちらは、彼が最後に交換する相手である。つまり、1人が売る商品と、もう1人が買うさいの貨幣とは、どちらも流通の2つの対立する局面を通り終えるのではなく、それぞれただ1つの行為をなし遂げるだけなのである。この2人の人物がなし遂げる、販売と購買というこの2つの一面的な行為は、どちらもわれわれになんの新たな現象をも示さないのであるが、この過程を始める買い手が経過する総過程はそうではない。われわれはまえのものに対比して、買い手--彼はふたたび売ることになる--あるいは貨幣--これをもって彼は操作を始める--が経過する総運動を考察しよう。〉(草稿集④7-8頁)

《初版》

 〈まず、両方の形態に共通なものを見てみよう。
  両方の循環は、同じ対立的な二つの段階、販売であるW-Gと購買であるG-Wとに、分かれる。これらの段階のどちらも、それ自体として考察すれば、なんらの差異も認められない。この過程にはいり込む要素は、両方の形態において、同じもの、商品と貨幣とである。両方の循環のどの部分でも、買い手と売り手という同じ経済的仮装が向かいあっている。双方の過程において3人の契約当事者が登場するが、1人の契約当事者だけが、交互に買い手および売り手としていつも現われるのに、他の二人の契約当事者のうち、一方は売るだけ他方は買うだけである。両方の循環は、結局、同じ対立的な諸段階の統一である。〉(江夏訳145頁)

《フランス語版》

 〈まず、両形態に共通であるものを考察しよう。
  両運動とも、同じ2つの対立する諸段階、M-A である販売と A-M である購買とに分解される。両段階のどちらにおいても、2人の人物が買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけて相対するのと同じように、商品と貨幣という2つの同じ物的要素が相対する。それぞれの運動は、同じ対立する諸段階である購買と販売との統一であって、どちらのばあいも3人の契約当事者の参加によって果たされるが、このうちの1人は売るだけ、他の1人は買うだけであるのに、第3の当事者はかわるがわる買ったり売ったりする。〉(江夏・上杉訳131頁)


●第9パラグラフ

《初版》

 〈過程 W-G-W と過程 G-W-G との形態差異は、両方の過程を構成しているこつの段階を比較せずに、これら二つの段階の全経過を比較するやいなや、初めて明白になる。両方の過程を最初から区別しているものは、同じ対立的な流通諸段階の順序が逆なことである。単純な商品流通は、販売で始まり購買で終わり、資本としての貨幣の流通は、購買で始まり販売で終わる。前のばあいには商品が、後のばあいには貨幣が、運動の出発点および終点になっている。第一の形態では貨幣が、他方の形態では逆に商品が、全経過の仲介者として機能している。〉(江夏訳145-146頁)

《フランス語版》

 〈けれども、M-A-M と A-M-A との運動を最初に区別するものは、同じ対立する諸段階の順序が逆なことである。単純な流通は、販売をもって始まり、購買をもって終わる。資本としての貨幣の流通は、購買をもって始まり、販売をもって終わる。出発点と復帰点をなすものが、前者では商品であり、後者では貨幣である。媒介者として役立つものが、第一の形態では貨幣であり、第二の形態では商品である。〉(江夏・上杉訳131頁)


●第10パラグラフ

《61-63草稿》

 〈形態G-W-Gの最初の行為、すなわちG-W、購買は、形態W-G-Wの最後の行為、すなわち同じくG-Wである。しかし、この最後の行為で商品が買われ、貨幣が商品に転化されるのは、その商品を使用価値として消費するためである。貨幣は支出されるのである。これにたいしてG-W-Gの最初の段階としてのG-Wで、貨幣が商品に転化され、商品と交換されるのは、ただ、商品をふたたび貨幣に転化するためであり、貨幣を取り戻すため、商品を媒介にしてふたたび流通から取り出すためである。したがって貨幣は、復帰するためにだけ支出されるものとして現われ、商品を媒介にしてふたたび流通から取り出されるためにだけ流通に投じられるものとして現われる。したがって、貨幣はただ、前貸しされているにすぎない。〉(草稿集④16頁)

《初版》

 〈流通 W-G-W では貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に転化する。したがって、貨幣は、最終的に支出されている。これに反して、逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を収得するためである。彼は商品を買うさいに貨幣を流通のなかに投ずるが、そうするのは、ほかならぬこの商品の販売によって貨幣を流通から引き戻すためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れようというたくらみのある意図があってのことにほかならない。だから、貨幣は前貸しされるだけである(3)。〉(江夏訳146頁)

《マルクスのエンゲルスへの書簡(1868年5月23日)》

  〈テユルゴは次のように言っている。あらゆる種類の事業家たちは「売るために買うということを共通にしている。…… 彼らの買い前貸しであって、この前貸しは彼らの手にふたたび帰ってくる」と。これは、じっさい、貨幣が資本として機能するところの取引であり、貨幣の出発点への貨幣の還流を条件とする取引であって、貨幣がたんに通貨として機能することを必要とするだけの、買うために売るという取引に対立するものである。売りと買いという行為の順序の相違が貨幣にごつの違った流通運動を押しつけるのである。その背後に潜んでいるものは、貨幣形態で表わされている価値そのものの違った行為なのである。〉(全集第32巻77-78頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の流通では、貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に変えられる。したがって、貨幣は終局的に支出される。これと逆の形態である A-M-A では、買い手は自分の貨幣を、売り手として取り戻すために与える。彼は、商品の購買によって貨幣を流通のなかに投じ、次いで、同じ商品の販売によってこの貨幣を流通から回収する。彼が貨幣を手放すにしても、それはただ、この貨幣を取り戻すという二心のある底意があってのことだ。したがって、この貨幣はたんに前貸しされるだけである(3)。〉(江夏・上杉訳131-132頁)


●原注3

《61-63草稿》

 〈「ある物がふたたび売られるために買われる場合には、使用される金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それがふたたび売られるためにではなくて買われる場合には、使用された金額は、支出される、と言われてよい」〈ジェイムズ・ステューアト『経済学原理の研究』、所収、『著作集』、その子サー・ジェイムズ・ステューアト将軍編、ロンドン、18O5年、第1巻、274ページ)。〉(草稿集④16-17頁)

《初版》

 〈(3)「ある物が転売されるために買われるばあいには、充用される金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それが売られるためでなく買われるばあいには、その金額は支出されたと言ってかまわない。」(ジェームズ・ステュアート『著作集』、その息子サー・ジェームズ・ステュアート将軍編、ロンドン、1801年、第1巻、274ページ。)〉(江夏訳146頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「ある物が後で売られるために買われるぱあい、購買に使用される金額は、前貸しされた貨幣と言われる。ある物が売られるためにではなく買われたのであれば、その金額は支出されたと言ってよい」(ジェームズ・ステュアート『著作集』、彼の息子サー・ジェームズ・ステユアート将軍編、ロンドン、1805年、第1巻、274ぺージ)。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第11パラグラフ

《初版》

 〈形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度位置を変える。売り手はこれを買い手から受け取って、もう一人の売り手に支払ってしまう。商品と引き換えに貨幣を受け取ることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を譲り渡すことで終わる。形態G-W-Gでは、これと逆である。ここでは、同じ貨幣片ではなく同じ商品が二度位置を変える。買い手はこの商品を売り手の手もとから受け取って、これをもう一人の買い手の手もとに譲り渡す。単純な商品流通では、一方の手もとから他方の手もとへの同じ貨幣片の最終的な移行が、その貨幣片の二度にわたる位置変換によってひき起こされるが、それと同じように、ここでは、自己の最初の出発点への貨幣の還流が、同じ商品の二度にわたる位置変換によってひき起こされる。〉(江夏訳146頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の形態では、同じ貨幣片が二度位置を変える。売り手はこれを買い手から受け取って、別の売り手に渡す。運動は、商品と引き換えに貨幣を受け取ることで始まり、商品と引き換えに貨幣を引き渡すことで終わる。A-M-A の形態では、これと逆のことが生ずる。このばあい二度位置を変えるのは、同じ貨幣片ではなく、同じ商品である。買い手はこれを売り手の手もとから受け取って、別の買い手に譲り渡す。単純な流通では、同じ貨幣片の二度にわたる位置変換は、この貨幣片が一方の手から他方の手に終局的に移行することをもたらすが、それと同じように、同じ商品の二度にわたる位置変換は、このばあい、貨幣が自己の最初の出発点に還流することをもたらすのである。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

 〈第1。まずG-W-Gを、第2のGが第1のGよりも大きな価値量であるという事情は度外視して、その形態の面から考察しよう。価値はまず貨幣として、次には商品として、次にはふたたび貨幣として、存在する。それはこれらの形態を変換するなかで自己を維持し、これらの形態からそれのもとの形態に復帰する。それは2つの形態変化を通り終えるが、これらの形態変化のなかで自己を維持するのであり、したがってそれはこれらの形態変化の主体として現われる。したがってこれらの形態の変換は、価値自身の過程として現われる。言い換えれば、ここで述べられている価値は、過程を進みつつある価値であり、過程の主体である。〉(草稿集④11頁)
 〈このG-W-Gが、労働者と資本家とのあいだにおける貨幣--資本家が労賃に支出した貨幣--の還流を表現するにすぎない場合には、それ自体としてはなんら再生産過程を表わさず、ただ、買い手が同じ相手にたいしあらためて売り手になることを表わすだけである。それはまた、資本としての貨幣、すなわち、G-W-G'〔の場合のよう附に〕第二のG'が最初のGよりも大きい貨幣額、したがってGは自己増殖する価値(資本)であるというような、資本としての貨幣、を表わすものでもない。むしろそれは、同一貨幣額(しばしばさらにより少ない貨幣額)がその出発点に形式的に還流するととの表現でしかない。(ここで資本家と言っているのは、もちろん、資本家階級のことである。) だから、私が第一冊で(『経済学批判』全集第13巻101-102頁--引用者)、形態G-W-GはどうしてもG-W-G'でなければならないと言ったのは、まちがいであった。この形態が貨幣還流の単なる形態を表現しうるのは、私がそこでもすでに示唆しておいたように(『経済学批判』全集第13巻80-81頁--引用者)、貨幣のその同じ出発点への回流は、買い手があらためて売り手となるということによって説明されるからである。資本家が富裕になるのはこうした還流によってではない。彼は、たとえば10シリングを労賃として支払った。この1Oシリングで労働者は資本家から商品を買う。資本家は労働者にその労働能力の代価として、1Oシリング分の商品を与えたのである。もし彼が労働者に、1Oシリングの価格の生活手段を現物で与えたとすれば、貨幣流通はまったく生ぜず、したがってまた貨幣の還流も生じないであろう。だから、この還流という現象は資本家の致富とは無関係であり、資本家が富裕になるということは、ただ、彼が賃金として支出したものよりも多くの労働を生産過程自体において取得するということにのみ、それゆえ彼の生産物はその生産費よりも大きいけれども他方彼が労働者に支払う貨幣は労働者が彼から商品を買うための貨幣よりもけっして大きくはないということにのみ、由来しているのである。この場合、この形式的な還流は致富とは関係がなく、したがって資本としてのGを表現しない、それは、ちょうど、地代、利子および租税に支出された貨幣の、地代や利子や租税の支払者への還流のうちに、価値の増加または補塡が含まれていないのと同じである。〉(草稿集⑤495-496頁)

《初版》

 〈自己の出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売れるか売れないかには、かかわりがない。こういった事情から影響を受けるのは、還流する貨幣額の大きさだけである。買われた商品が転売されるやいなや、つまり、循環G-W-Gが完全に描かれるやいなや、還流という現象自体が生ずる。したがって、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としての貨幣の流通との、感覚的に知覚することができる差異なのである。〉(江夏訳146-147頁)

《フランス語版》

 〈貨幣の自己の出発点への還流は、商品が買われたときよりも高価に売られるかどうかにかかわりがない。この事情は、戻ってくる金額の大きさに影響するだけだ。買われた商品が再び売られるやいなや、すなわち A-M-A の循環が完全に描かれるやいなや、還流という現象自体が生ずる。これこそが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としての貨幣の流通との、感覚的に知ることのできる差異なのだ。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈形態W-G-W--売ったのちに買うこと--では使用価値が、したがってまた欲望の充足が究極の目的であって、この形態そのものにはこの過程が経過したのちの過程更新の条件は直接にはない。商品は貨幣に媒介されて他の商品と交換されたのであり、いまや使用価値として流通の外に落ちる。これで運動は終りである。これにたいして形態G-W-Gの場合には、このG-W-Gという運動の、単なる形態のなかにすでに、この運動には終りがなく、その終りはすでにその更新の原理と衝動とを含んでいる、ということがあるのである。というのは、次のようなわけである。貨幣、抽象的富、交換価値が、運動の出発点であり、そしてその倍加が目的だから、また、結果も出発点も質的に同じもの、ある貨幣額あるいは価値額であり、その量的限界が過程の始めにおけるのと同様に〔W-GのGにおいても〕ふたたびそれの一般的概念の制限として現われるのだから--というのは、交換価値あるいは貨幣は、その量が増大させられればさせられるほど、その概念に相応するからであり(貨幣それ自体はあらゆる富、あらゆる商品と交換可能であるが、しかしそれが交換可能である限度は、それ自身の量、つまり価値量にかかっている)、自己増殖は、過程を開始した貨幣にとってそうであるのと同様に、過程から出てきた貨幣にとっても必要な活動だからである--、運動の終りとともに、またもやすでに、この運動の再開始の原理が与えられている、というわけなのである。貨幣は終りにもまたふたたび、それが始めにそこにあったものとして、同じ形態にある同じ運動の前提として、出てくる。このこと--富をその一般的形態で手に入れようとするこの絶対的な致富衡--こそ、この運動が貨幣蓄蔵と共通にもっているものである。〉(草稿集④20-21頁)

《初版》

 〈もちろん、W-G-Wでも自己の出発点への貨幣の還流は生じうるが、このことは、全過程の更新あるいは反覆に依拠するものであって、貨幣自身という契機の進行に依拠するものではない。私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この同じ3ポンド・スターリングで衣服を買えば、この3ポンド・スターリングは、私にとっては、終局的に支出されている。私はもはや、この3ポンド・スターリングとはなんの関係もない。この3ポンド・スターリングは衣服商人のものである。そこで、私が第2の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私に還涜してくるが、それは第1の取引の結果ではなく、この取引の反覆の結果でしかない。この貨幣は、私が第2の取引を終えてあらためて買うと、すぐさま私から再び離れてゆく。だから、流通W-G-Wでは、貨幣の支出は、貨幣の還流となんの関係もない。これに反して、G-W-Gでは、貨幣の還涜が、貨幣の支出のやり方そのものによってひき起こされている。この還流がなければ、操作が失敗した、すなわち、過程が中断されてまだ完了していないのである。というのは、過程の第2段階、購買を補足して完結する販売が、欠けているからである。〉(江夏訳147頁)

《フランス語版》

 〈ある商品の販売が貨幣をもたらし、別の商品の購買がこの貨幣を持ち去るやいなや、M-A-M の循環が完結する。そうであってもなお貨幣の還流がその後で起こるならば、それは、循環の全行程が再び描かれるからにほかならない。もし私が1一クォーターの小麦を3三ポンド・スターリングで売り、この貨幣で上衣を買えば、この3ポンド・スターリソグは私にとっては終局的に支出されている。その3ポンド・スターリソグはもはや私には関係がなくなり、上衣の商人が自分のボケヅトのなかにそれをもっている。私がもう一度1クォーターの小麦を売っても無駄であって、私の受け取る貨幣は最初の取引から生じたものではなく、最初の取引の更新から生じたものである。もし私が二度目の取引を終わりまでやりとげて再度買えば、その貨幣は再び私から遠ざかる。したがって、M-A-M の流通では、貨幣の支出はその復帰となんの共通性ももっていない。A-M-A の流通ではこれと全く逆である。A-M-A では、貨幣が還流しなければ操作は不成功に終わる。運動の第二段階、すなわち購買を補完する販売が欠けているために、この運動は中断される、すなわち完結されないわけである。〉(江夏・上杉訳132-133頁)


●第14パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈流通は、商品の二つの規定から出発する、つまり、使用価値という規定、〔および〕交換価値という規定から出発する。第一の規定が支配的であるかぎりでは、流通は使用価値の自立化で終わる。つまり商品は消費の対象になる。第二の規定が支配的であるかぎりでは、流通は第二の規定で終わる、つまり交換価値の自立化で終わる。商品は貨幣になる。しかし後者の〔交換価値という〕規定において商品が生成するのは流通の過程を通ることによってはじめて起こることであるから、商品は相変わらず流通と関連しつづけている。商品が一般的労働時間の--その社会的形態において--対象化されたものであることがさらに展開されてゆくのは、この後者の規定においてである。したがって社会的労働--これは最初は商品の交換価値として現象し、つぎに貨幣として現象する--の規定をさらに展開してゆくのもまた、この後者の側面からでなければならない。交換価値は社会的形態そのものである。したがって交換価値の展開を先へすすめてゆくことは、商品をその表層に送りだす社会的過程をさらに展開すること、または〔流通という表層から〕この社会的過程のなかへ沈潜してゆくことなのである。〉(草稿集③168頁)

《61-63草稿》

 〈G-W-Gにおいては、交換価値は、流通の結果として現われるのと同様に、流通の前提としても現われる。
  ……
  G-W-Gでは、交換価値が流通の内容であり、自己目的である。売ったのちに買うこと〔では〕、使用価値が目的であり、買ったのちに売ること〔では〕、価値そのものが目的である。〉(草稿集④10頁)
 〈流通形態W-G-Wでは、商品は二つの変態を経過するが、その結果は、商品が使用価値としてあとに残る、ということである。この過程を経過するのは、商品--使用価値と交換価値との統一としての、あるいは使用価値としての--であって、交換価値はこの商品の単なる形態、すぐに消えてしまう〔vershwindend〕形態である。しかしG-W-Gでは、貨幣と商品とは、交換価値の異なった定在形態として現われるにすぎないのであって、交換価値は、あるときは貨幣としてその一般的な形態で、他のときは商品としてその特殊的な形態で現われ、同時に、統括するもの〔das Übergreifende〕および自己を主張するものとして、両形態のなかに現われるのである。貨幣はそれ自体〔an und fur sich〕交換価値の自立化した定在形態であるが、ここでは商品もまた、交換価値の体化物〔Inkorporation〕の担い手として現われるにすぎない。〉(草稿集④12頁)

《初版》

 〈循環 W-G-W は、ある商品の極から出発して他の一商品の極で終結し、後者の商品は流通から出て消費に帰する。したがって、消費、必要の充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環 G-W-G は、貨幣の極から出発して、この循環の終点である同じ極に移動する。だから、この循環の主な動機も決定的な目的も、交換価値そのものである。〉(江夏訳147頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の循環はある商品を出発点とし他の商品を終着点とするが、後者はもはや流通しないで消費に入りこむ。したがって、必要の充足、使用価値が、この循環の終局目的である。これに反して、A-M-A の循環は貨幣を出発点とし、貨幣に立ち戻る。したがって、その動機、その決定的な目的は、交換価値である。〉(江夏・上杉訳133頁)


●第15パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈交換価値は、流通の前提であるとともに結果でもあるから、流通から出てきたのと同様に、ふたたび流通のなかに入ってゆかなければならない。
  貨幣の増大、貨幣の倍増こそが、価値が自己目的として行なうところの流通形態の唯一の過程としてあること、すなわち自立化させられて交換価値としての(さしあたりは貨幣としての)形態にある自分を保持してゆく価値は同時に価値の増大の過程でもあること、価値が自分を価値として保持してゆく運動は同時に価値が自分の量的制限をのり越えてゆく運動、価値量として価値を増大させてゆく運動でもあること、そして交換価値の自立化とはそれ以外の内容をもってはいないこと、こういうことをわれわれは、貨幣を論じたさいにすでに考察しておいたし、またこうした事態は貨幣蓄蔵において実際に現われもしたのである。流通を媒介として交換価値を保持してゆく運動そのものが同時に、交換価値の自己増大運動〔Sichvermehren〕として現われる。そしてこれこそ交換価値の自己増殖なのである。交換価値の自己増殖とは、交換価値が自分を価値を創造する価値--自分自身を再生産し、その過程において自分自身を保持してゆく価値であると同時に価値として、すなわち剰余価値として、自分を定立してゆく価値--として能動的に定立することである。貨幣蓄蔵においては、まだこの過程の形態だけが与えられたにすぎない。個人を念頭におくかぎりでは、この過程は、富をある有用な形態から無用な、しかも〔特殊な〕効用をもたないことを使命〔Bestimmung〕とする形態に換えてゆく無内容な運動として現われる。経済的過程の全体を念頭におけば、貨幣蓄蔵は、金属流通そのものの諸条件の一つとして役立つにすぎない。貨幣が蓄蔵貨幣にとどまるかぎりは、貨幣は交換価値としては機能しない、つまり貨幣は想像的なものにすぎない。他面では、〔価値の〕増大--自分を価値として定立すること、流通を通じて単に自分を保持するだけでなく、流通から自分を生み出しもする価値、つまり自分を剰余価値としても定立する価値--もまた〔貨幣蓄蔵においては〕想像的なものにすぎない。〔というのも〕以前には商品の形態で存在していたのと同じ価値の大きさが、今では貨幣の形態で存在しているだけなのだから。貨幣が貨幣の形態で貯蔵されるのは、商品の形態にある貨幣が断念されるからである。貨幣を実現しようとすれば、貨幣は消費のうちに消えうせてしまう。だから価値の保持と増大といっても、抽象的で形態的なものにすぎないのである。単純流通において定立されているものは、価値の保持と増大の形態だけなのである。〉(草稿集③176-177頁)

《61-63草稿》

 〈G-W-Gにおいては、交換価値は、流通の結果として現われるのと同様に、流通の前提としても現われる。
 流通から十全な〔adäquat〕交換価値(貨幣)として結実し、自立化するが、ふたたび流通にはいり、流通のなかで、流通を通じて自己を維持し、倍加する(大きくなる)価値(貨幣)は、資本である。
  G-W-Gでは、交換価値が流通の内容であり、自己目的である。売ったのちに買うこと〔では〕、使用価値が目的であり、買ったのちに売ること〔では〕、価値そのものが目的である
  ここで二つのことを強調しなければならない。第1に、G-W-Gは過程を進みつつある〔prozessierend〕価値であり、過程--すなわち、異なった交換行為あるいは流通段階を通って経過すると同時にそれらを統括する〔übergreifend〕ような過程--としての交換価値である。第2に、この過程のなかで価値は自己を維持するばかりでなく、それはその価値量を増加させ、自己を倍加し増加させるのであり、言い換えれば、それはこの運動のなかで剰余価値を創造するのである。このように、それは自己を維持するだけではなくて自己を増殖する価値であり、価値を生む〔setzen〕価値である。〉(草稿集④10-11頁)
 〈第2。けれどもすでに述べたように、もしもG-W-Gの質的に等しい極、G、Gが量的に異なっていなかったならば、つまり、この過程で或る価値額を貨幣として流通に投げ込んだあと、同じ価値額を貨幣の形態でふたたび流通から引き出し、かくして2重のかつ対立する交換行為を通してすべてをもとのまま、運動の出発点のままにしておくのであったならば、G-W-Gは一つの無内容な運動である。むしろ、この過程の特徴的な点は、両極G、Gが質的には等しくても量的には異なっている、というところにあるのであって、そもそも交換価値そのもの--そして貨幣のかたちで存在するのは交換価値そのものである--がその本性によってなしうる唯一のことが、量的な区別なのである。購買と販売という2つの行為、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化とによって、運動の終りには、より多くの貨幣、増大した貨幣額、つまり始めに流通に投げ込まれた価値と比べて倍加された価値、が流通から出てくる。たとえば、貨幣は最初、運動の始めでは1OOターレルであったのに、運動の終りではそれは11Oターレルである。つまり価値は、自らを維持しただけではなく、一つの新しい価値を、あるいは--それをわれわれはこう呼びたいと思うのだが--剰余価値(suplus value〕を、流通の内部で生んだ〔setzen〕のである。価値が価値を生産した。言い換えれば、価値はここではじめて、自分自身を増殖するものとして現われる。こうして、運動G-W-Gのなかで現われる価値は、流通から出てきて流通のなかにはいる、流通のなかで自らを維持する、そして自分自身を増殖し剰余価値を生む、価値である。そうしたものとしては、価値は資本である。〉(草稿集④18-19頁)

《初版》

 〈単純な商品流通では、両方の極には、同一の経済的な形態規定がそなわっている。両方の極はともに商品である。それらは同じ価値量の商品でもある。だが、それちは同時に、質的にちがいのある使用価値、たとえば穀物と衣服とでもある。生産物交換、すなわち、社会的労働を表現しているいろいろな素材の変換が、ここでは、運動の内容を成している。流通G-W-Gでは事情がちがう。それは、同義反覆であるから、一見したところ内容がないように見える。両極には、同一の経済的な形態規定がそなわっている。両方の極はともに貨幣である。それらはまた、使用価値として質的に区別されていない。なぜなら、貨幣はまさに、諸商品の転化した姿態であり、この姿態にあっては、諸商品の特殊な使用価値が消え去っているからである。まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次いでこの同じ綿花を再び1OOポンド・スターリングと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、愚かでもあり無目的でもある操作のように見える(4)。ある貨幣額を他の貨幣額と区別できるのは、総じて、その大きさによるしかない。だから、過程G-W-Gは、両極の質的な差異によって内容をもっているわけではなく--なぜならば、これらの両極は双方とも貨幣であるから--、その量的な差異によってのみ内容をもっているわけである。最後には、最初に流通に投げ入れられたよりも多くの貨幣が、流通から引き上げられる。1OOポンド・スターリングで買われた綿花が、たとえば100+10ポンド・スターリング、すなわち110ポンド・スターリングで転売される。だから、この過程の完全な形態はG-W-G'であって、ここでは、G'=G+ΔG であり、すなわち、G' は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分、に等しい。この増加分、すなわち最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。だから、最初に前貸しされた価値は、流通のなかで保持されるばかりでなく、この流通のなかで自己の価値量を変え剰余価値をつけ加える、すなわち自己増殖するのである。そして、この運動が、この価値を資本に転化させる。〉(江夏訳147-148頁)

《フランス語版》

 〈単純な流通では、二つの末端が同じ経済的形態をもっており、それらは双方とも商品である。それらは、同じ価値の商品でもある。ところが、それらは同時に、たとえば小麦と上衣という、異質の使用価値である。この運動は諸生産物の交換に、社会的労働がそのなかに現われているところのさまざまな物質代謝に、帰着する。これに反して、A-M-A の流通は、同義反復であるから、一見したところ無意味であるように見える。両端は同じ経済的形態をもっている。それらは双方とも貨幣である。それらは使用価値としては、質的に全然区別されない。貨幣は商品の転化した姿態であるし、この姿態のうちに商品の特殊な使用価値が消え失せているからである。100ポンド・スターリングを綿花と交換して同じ綿花を再び100ポンド・スターリングと交換すること、すなわち、回り道をして貨幣を貨幣と、同じ物を同じ物と交換すること、このような操作は愚かでもあり、無益でもあるように見える(4)。一方の貨幣額は、それが価値を表わすかぎり、その量によってしか他方の貨幣額と区別されえない。A-M-A の運動は、その両端が双方とも貨幣であるから両端のどんな質的差異からもその存在理由を引き出さず、たんにそれらの量的差異からのみその存在理由を引き出すのである。結局、流通に投ぜられたよりも多くの貨幣が、流通から引き出される。100ポンド・スターリングで買われた綿花が100+10、すなわち110ポンド・スターリングで再び売られる。したがって、この運動の完全な形態はA-M-A' であって、そこでは、A'=A+ΔA すなわち、最初に前貸しされた金額に超過分を加えたものに等しい。この超過分あるいはこの増加分を、私は剰余価値(英語ではsuplus value)と呼ぶ。したがって、前貸しされた価値は、たんに流通のなかで保存されるだけでなく、さらにそこでその量を変え、そこで追加分を付加し、いっそう価値を増加させるのであって、この運動が、この価値を資本に転化するのである。〉(江夏・上杉訳133-134頁)


●原注4

《初版》

 〈(4) 「人は貨幣を貨幣と交換しない」、とメルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者に向かって叫ぶ。(前掲書、486ベージ。)「商業」と「投機」を職務上論じているある著書には、こう書かれている。「どの商業も、種類のちがう諸物の交換から成り立っている。そして、利益(商人にとっての?)は、まさにこのちがいから生じている。1ポンドのパンを1ポンドのパンと交換しても、なんの利益もないであろう。だから、商業と、貨幣と貨幣との交換でしかない賭博との、有益な対照。」(T・コービット『諸個人の富の原因と様式との研究、または、商業と投機との原理の説明、ロンドン、1841年』、5ページ。) コービットは、G-G、すなわち貨幣と貨幣を交換することは、たんに商業資本のだけではなくすべての資本の特徴的な流通形態である、ということがわかっていないにしても、少なくとも、この形態が、商業の一種である投機賭博とに共通である、ということは認めている。ところが、次にマカロックがやってきて、売るために買うことは投機することであり、したがって、投機と商業とのちがいはなくなってしまう、ということを見いだしている。「ある個人が転売するために生産物を買う取引はどれも、事実上は投機である。」(マカロック『商業の実用……辞典、ロンドン、1847年』、1056ページ。) アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは、これよりはるかに素朴にこう言っている。「商業は賭博であり(この一句はロックから借用したもの)、乞食相手では儲けられない。もし人が長期にわたって皆の者からなにもかも巻きあげてしまえば、彼は、賭博を再開するためには、穏やかに話しあって、儲けの大部分を返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通および信用論、アムステルダム、1771年』、231ぺージ。)〉(江夏訳148-149頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「人は貨幣を貨幣と交換しない」と、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者に向かって叫ぶ(前掲書、486ページ)。商業投機職務上論じているある著書には、こう書かれてある。「どの商業も、種類のちがう物の交換から成っており、利益(商人にとっての?) はまさにこの相違から生ずる。1ポンドのパンを1ポンドのパンと交換しても、なんの利益もないであろう。……これが、商業と、貨幣と貨幣との交換でしかない賭博との、よいコントラストを説明するものだ」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究、または、商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年)。コーベトは、A-A.貨幣と貨幣との交換は、たんに商業資本だけのではなく、さらにすべての資本の特徴的な流通形態である、ということがわかっていないにしても、なおかつ彼は、商業の特殊な一種である投機の流通形態が賭博の流通形態であるということを認めている。ところが、次にマカロックがやってきて、売るために買うのは投機することであるということを見出し、したがって投機と商業との差異をどれもこれもうち倒す。「ある個人が再び売るために生産物を買う取引はどれも、実際には投機である」(マカロック『商業の……実用辞典』、ロンドン、1847年、1009ページ)。アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは、もちろん、はるかにもっと素朴である。「商業は賭博である(ロックから借用の一句)。そして、乞食相手では儲けることができない。もし人が長い間に皆の者からなにもかも巻きあげてしまえば、彼は、賭博を再開するためには、穏やかに話し合って利益の最大部分を返してやらなければならないであろう」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ページ)。〉(江夏・上杉訳134頁)

 

 

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