『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(3)
◎第10パラグラフ(二つの形態の相違、貨幣の支出と前貸)
【10】〈(イ)流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。(ロ)だから、貨幣は最終的に支出されている。(ハ)これに反して、逆の形態G-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。(ニ)彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。(ホ)彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほならない。(ヘ)それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである(3)。〉
(イ)(ロ) 流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は流通から脱落して使用価値として役にたちます。ですから、この場合は、貨幣は最終的に支出されたことになります。
さらに両者の違いを見ていくことにしましょう。
最初の流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつために流通から姿を消します。だから貨幣は最終的に支出されてしまっています。
(ハ) これとは反対に、逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として再び貨幣を取得するためです。
これとは反対に、もう一つの逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、彼が買った商品を売って再び貨幣を取り戻すためです。
(ニ)(ホ) つまり彼は商品を買うときには確かに貨幣を流通に投じますが、しかしそれは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためなのです。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという心づもりがあってのことにほならなりません。
だから彼はもともと貨幣を投じて商品を買うときに、最初からその買った商品を売って、最初の投じた貨幣を取り戻すことを考えているのです。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れる心づもりがあってのことにほかならないのです。
(ヘ) それだから、この場合は、貨幣はただ前貸しされるだけなのです。
そしてこういう貨幣の支出の仕方を、前貸というのです。
マルクスはケネーが貨幣の「前貸」の意味を正しく説明していると次のように論じています。
〈資本家が労働力を買う貨幣は、彼にとっては価値増殖のために投じた貨幣、つまり貨幣資本である。それは、支出されたのではなく、前貸しされているのである。(これが「前貸」--重農学派のavance--の真の意味であって、資本家がこの貨幣そのものをどこからもってくるかにはなんの関係もないのである。資本家が生産過程の目的のために支払う価値はすべて資本家にとっては前貸しされているのであって、この支払が前になされようとあとからなされようとそれに変わりはないのである。その価値は生産過程そのものに前貸しされているのである。)〉 (全集第24巻466頁)
要するに貨幣を価値増殖を目的に投じることを「前貸」というのであり、ただ個人的な消費を目的に投じる場合を貨幣の「支出」というのだと思います。
◎原注3
【原注3】〈3 「ある物が再び売られるために買われる場合には、そのために用いられる金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それが売られるためにではなく買われる場合には、その金額は費やされると言ってよい。」(ジェームズ・ステユアート『著作集』、その子、サー・ジェームズ・ステユアート将軍編、ロンドン、1805年、第1巻、274ぺージ。)〉
これは本文〈彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである(3)〉につけられた原注です。
まず細かいことですが、スティアートの著書の出版年が 初版とは違っていますが(初版では1801年となっています)、フランス語版は同じ1805年になっていますから、恐らく初版の間違いを訂正したのでしょう。
マルクスは『剰余価値学説史』をイギリスの経済学者サー・ジェームズ・ステュアートに関する研究から始めています。冒頭、次のように述べています。
〈重農学派よりも前には、剰余価値--すなわち利潤、利潤という姿でのそれ--は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている。サー・ジェイムズ・ステュアートは、だいたいにおいて、この偏狭さから抜けでておらず、むしろその科学的な再生産者とみなされなければならない。私は「科学的な」再生産者と言う。というのは、ステュアートは、個々の資本家が商品をその価値よりも高く売ることによって彼らの手にはいってくる剰余価値をあたかも新しい富の創造であるかのように考える幻想を共有していないからである。〉 (草稿集⑤6頁、全集第36巻Ⅰ 8頁)
また次のようにも述べています。
〈資本の理解についての彼の功績は、特定階級の所有物である生産条件と労働能力とのあいだの分離過程が、どのようにして生じるかを指摘した点にある。資本のこの成立過程について、彼は、--それを大工業の条件としては理解しているとしても、まだそれを直接に資本の成立過程そのものとしては理解することなしに--大いに論じている。彼は、この過程を特に農業において考察している。そして、彼においては、正当に、農業におけるこの分離過程によってはじめてマニュファクチュア工業〔manufacturerIndustrie〕がそのものとして成立する。この分離過程は、A・スミスの場合にはすでに完成したものとして前提されている。〉 (草稿集⑤10-11頁、全集第36巻Ⅰ 11頁)
◎第11パラグラフ(二つの形態の相違、場所変換の担い手、一方は貨幣、他方は商品)
【11】〈(イ)形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。(ロ)売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。(ハ)商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わる。(ニ)形態G-W-Gでは逆である。(ホ)ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。(ヘ)買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。(ト)単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。〉
(イ)(ロ)(ハ) 形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替えます。売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまいます。商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わるのです。
さらに両者の違いを見て行きましょう。
まず形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替えます。穀物の売り手の農夫は、買い手から貨幣を受け取って、その貨幣を別の衣服の製造者に支払います。貨幣は穀物を買う人から農夫へ、そして農夫から衣服製造者へと二度場所を替えています。農夫による穀物の販売で始まる流通の総過程は、農夫が入手した貨幣を衣服の購入で手放すことによって終わっています。
(ニ)(ホ)(ヘ) 形態G-W-Gではそれとは逆です。ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品です。買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまいます。
それに対して、G-W-Gの形態ではそれとは逆です。ここでは二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品(棉花)です。買い手(商人)は、売り手(棉花製造業者)から商品(棉花)を受け取って、それを別の買い手に引き渡してしまいます。商品(棉花)は、棉花製造業者から商人に、さらに商人から棉花の買い手へと場所を二度替えます。
(ト) 単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのですが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのです。
単純な商品流通W-G-Wでは、同じ貨幣片の二度の場所変換が、商品の一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移します。
しかし資本としての貨幣の流通G-W-Gでは、同じ商品の二度の場所変換が、貨幣をその最初の出発点に還流させるのです。
◎第12パラグラフ(貨幣の還流という現象の特徴)
【12】〈(イ)その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。(ロ)この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。(ハ)還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。(ニ)要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。〉
(イ)(ロ) その出発点に貨幣が還流してくるということは、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかということにはかかわりがありません。そうした事情は、ただ還流してくる貨幣額の大きさに影響するだけです。
しかしこの還流というのは、あくまでも私たちが単純流通のレベルで見ていることに注意しなければなりません。だから商品が買われたときよりも高く売られるかどうかということは、少なくとも今の時点ではかかわりがないということです。それは還流する貨幣の大きさに影響するだけで、還流という現象そのものは、ただ買われた商品が再び売られて、貨幣がもとに戻ってくることを意味するだけです。
(ハ) 還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが完全に描かれさえすれば、起きます。
つまり還流という現象は、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが最後まで完全に行なわれれば、起きることです。
61-63草稿には次のように書かれています。
〈このG-W-Gが、労働者と資本家とのあいだにおける貨幣--資本家が労賃に支出した貨幣--の還流を表現するにすぎない場合には、それ自体としてはなんら再生産過程を表わさず、ただ、買い手が同じ相手にたいしあらためて売り手になることを表わすだけである。それはまた、資本としての貨幣、すなわち、G-W-G'〔の場合のよう附に〕第二のG'が最初のGよりも大きい貨幣額、したがってGは自己増殖する価値(資本)であるというような、資本としての貨幣、を表わすものでもない。むしろそれは、同一貨幣額(しばしばさらにより少ない貨幣額)がその出発点に形式的に還流するととの表現でしかない。(ここで資本家と言っているのは、もちろん、資本家階級のことである。) だから、私が第一冊で(『経済学批判』全集第13巻101-102頁--引用者)、形態G-W-GはどうしてもG-W-G'でなければならないと言ったのは、まちがいであった。この形態が貨幣還流の単なる形態を表現しうるのは、私がそこでもすでに示唆しておいたように(『経済学批判』全集第13巻80-81頁--引用者)、貨幣のその同じ出発点への回流は、買い手があらためて売り手となるということによって説明されるからである。〉 (草稿集⑤495-496頁
(ニ) つまり、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣として流通との感覚的につかむことのできる相違なのです。
つまりこれが単純流通のレベルで、単なる貨幣の流通と資本としての貨幣の流通との感覚的に認められる相違なのです。
以上までが二つの流通の形態における私たちが感覚的に掴みうる相違であり、区別ということができます。そして次のパラグラフからは両方の流通・循環の内容に踏み込んだ考察が行なわれて行きます。
◎第13パラグラフ(循環W-G-Wでは貨幣の還流はただ同じことを繰り返すしかない。それに反してG-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって決まってくる)
【13】〈(イ)ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W-G-Wは完全に終わっている。(ロ)それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。(ハ)もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。(ニ)私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。それは衣服商人のものである。(ホ)そこで私が第2の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第1の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。(ヘ)その貨幣は、私が第2の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れて行く。(ト)だから、流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのである。(チ)これに反して、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。(リ)この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。(ヌ)というのは、過程の第2の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。〉
(イ)(ロ) ある商品を売って貨幣を入手しても、それで別の商品を買えば、貨幣はその時点で失われ、循環W-G-Wは完全に終わっています。もしそれでも、その出発点への貨幣の還流が起きたとするなら、それはただ全過程をもう一度、更新するか反復によって起きるだけです。
循環W-G-Wでは、ある人が商品を売って貨幣を入手しても、それで別の商品を買ってしまえば、それで循環は終わってしまいます。もしそれでも、その出発点に貨幣の還流が起きたとするなら、それは全過程をもう一度、最初からやり直して反復した場合だけです。
(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 例えば、私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買ったならば、この3ポンドは私にとっては完全に失われ、決定的に支出されています。私はもはやその3ポンドとはなんの関係もないのです。それは衣服商人のものです。そこで私がもう一つ別の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流してきますが、それは第1の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返した結果としてでしかありません。その貨幣はまた、私が第2の取引を終えて、また繰り返して別の商品を買うならば、再び私から離れて行きます。だから、流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのです。
例えば私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売って、この3ポンド・スターリングで衣服を買ったとすれば、その3ポンド・スターリングはすでに私のものではなく、私の手から完全に失われています。その3ポンド・スターリングは私とは何の関係もありません。それは衣服商人のものになっているからです。
そこで私はもう一つの別の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流してきますが、それは最初の取引とは別のものであって、最初の結果ではありません。ただそうしたことの繰り返しとしてしか貨幣の還流はありえないのです。だから第2の取引を終えて、また繰り返して別の商品を買うなら、やはり貨幣は私から離れていくのです。だから流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのです。
(チ)(リ)(ヌ) それは違って、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって決まっています。そもそもこの還流がなければ、一連の操作は失敗したか、または過程が中断されていてまだ完了していないかでしょう。というのは、最後のGが還流していないから、つまり過程の第2の段階、すなわち買いを補う売りが欠けていることになるからです。
それに較べますと、G-W-Gでは貨幣の還流は、その貨幣の最初の支出の仕方そのものによって決まっています。もしその支出によって入手した商品(W)が、ちゃんと売れるかどうかは、その商品によって決まるからです。もし貨幣の還流が無いということになれば、彼はその一連の操作に失敗したか、過程が中断して完了していないかでしょう。つまり商品が売れずに滞っているということです。最後のGが還流していないということは、過程の第二の段階、W-Gの過程が、欠けている、買いを補う売りが欠けているということを意味します。
◎第14パラグラフ(循環W-G-Wは使用価値を目的とし、循環G-W-Gは、交換価値を目的とする)
【14】〈(イ)循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。(ロ)それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。(ハ)これに反して、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。(ニ)それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。〉
(イ)(ロ) 循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一つの商品の極で終わります。そうすると、この商品は流通から脱落して消費過程に入り消費されてしまいます。だからこの循環の目的は、使用価値、すなわちその消費や欲望充足にあるのです。
循環W-G-W、農夫が穀物を売って、その貨幣で衣服を買うという流通は、穀物から出発して、衣服に終わり、そして衣服は流通から出て消費されるだけです。だからこの循環の目的は、使用価値であり、その消費あるいは欲望充足にあります。
(ハ)(ニ) これとは対照的に、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後にまた同じ極である貨幣に帰ってきます。だから、この循環を起動する動機も規定している目的も交換価値そのものなのです。
これとは反対に、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後にまた同じ貨幣に戻ってきます。商人は貨幣を投じて棉花を買いますが、棉花を手に入れることそのものが目的ではなく、それをさらに売って最初に投じた貨幣を回収することが目的なのです。だからこの循環は最初から最後まで貨幣が出発点であり、終決点なのです。すなわち交換価値が循環を起動する動機であり目的でもあるのです。
61-63草稿には次のような説明が見られます。
〈流通形態W-G-Wでは、商品は二つの変態を経過するが、その結果は、商品が使用価値としてあとに残る、ということである。この過程を経過するのは、商品--使用価値と交換価値との統一としての、あるいは使用価値としての--であって、交換価値はこの商品の単なる形態、すぐに消えてしまう〔vershwindend〕形態である。しかしG-W-Gでは、貨幣と商品とは、交換価値の異なった定在形態として現われるにすぎないのであって、交換価値は、あるときは貨幣としてその一般的な形態で、他のときは商品としてその特殊的な形態で現われ、同時に、統括するもの〔das Übergreifende〕および自己を主張するものとして、両形態のなかに現われるのである。貨幣はそれ自体〔an und fur sich〕交換価値の自立化した定在形態であるが、ここでは商品もまた、交換価値の体化物〔Inkorporation〕の担い手として現われるにすぎない。〉 (草稿集④12頁)
◎第15パラグラフ(「剰余価値」=価値の増加分、または最初の価値を越える超過分)
【15】〈(イ)単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。(ロ)それはどちらも商品である。(ハ)それらはまた同じ価値量の商品である。(ニ)しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。(ホ)生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。(ヘ)流通G-W-Gではそうではない。(ト)この流通は一見無内容に見える。(チ)というのは同義反復的だからである。(リ)どちらの極も同じ経済的形態をもっている。(ヌ)それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。(ル)なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。(ヲ)まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える(4)。(ワ)およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってである。(カ)それゆえ、過程G-W-Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。(ヨ)最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。(タ)たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られる。(レ)それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。(ソ)すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。(ツ)この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。(ネ)それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。(ナ)そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。〉
(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっています。つまりどちらも商品です。そしてそれらは同じ価値量の商品でもあります。しかし、それらは質的に違う使用価値であり、たとえば穀物と衣服とからなっています。だからここでは、生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材の変換が、その運動の内容をなしています。
単純な商品流通W-G-Wでは、両方の極は同じ経済的形態(W)を持っています。すなわち商品です。そしてそれらは同じ価値量の商品でもあります。しかしそれらは質的には違った使用価値からなっています。たとえば穀物と衣服です。
だからここでは流通の最終結果をみますと、生産物の交換、社会的労働がそこに現されている素材の変換(社会的物質代謝)が、この運動の内容をなしているのです。
『経済学批判』から紹介しておきましょう。
〈W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。〉 (全集第13巻102頁)
(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) しかし、流通G-W-Gではそうではありません。この流通は一見すると無内容に見えます。なぜなら、それは同義反復を意味するだけに見えるからです。どちらの極も同じ経済的形態、つまり貨幣です。だから単純流通のように質的に違う使用価値ではありません。というのは、貨幣というのは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからです。例えば、まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換するとすれば、つまり回り道をしてただ貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換するとすれば、それはまったく無目的でもあれば無意味でもある操作のように見えます。
しかし資本としての貨幣の流通G-W-Gはそうしたものではありません。この運動そのものは一見すると無内容なものに見えます。なぜなら、それは同義反復を意味するだけに思えるからです。この場合も両方の極は同じ経済的形態、すなわち貨幣です。しかし単純流通のように質的に違う使用価値ではありません。貨幣というのは諸商品の価値の転化したものであり、そこでは特殊な使用価値は消え去っているからです。例えば、まず100ポンド・スターリングで棉花を買い、その棉花をやはり100ポンド・スターリングと交換するなら、それは回り道をして、ただ貨幣を貨幣と交換したに過ぎません。同じものを交換するのは馬鹿げた行為であり、それはまったく無目的で無意味な操作にしか見えません。
(ワ)(カ)(ヨ)(タ) つまりある貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってだけです。ということは、過程G-W-Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつことができるのです。最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられなければならないのです。たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られるというように。
最初の部分はフランス語版では〈一方の貨幣額は、それが価値を表わすかぎり、その量によってしか他方の貨幣額と区別されえない〉となっています。つまりある貨幣額が他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってでしかないということです。だからこの流通が意味をもつとすれば、両方の極の質的相違にではなく、量的な相違でなければなりません。最後には、最初に投じた貨幣額よりも多くの貨幣が流通から引き上げられなければならないのです。例えば、100ポンド・スターリングで棉花を買い、110ポンド・スターリングで同じ棉花を販売することによって、100ポンド・スターリングが、100・プラス・10ポンド・スターリングになるということです。
これも『経済学批判』から紹介しておきましょう。
〈これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ぼかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。だからわれわれは、流通手段とは区別した貨幣を、商品流通の直接的形態であるW-G-Wから展開しなければならない。〉 (全集第13巻102-103頁)
(レ)(ソ)(ツ) こうしたことから、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG なのです。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しいということになります。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼びます。
だからこの資本としての貨幣の流通を完全な形で現すなら、それはG-W-G'でなければならないのです。ここでG'はG+ΔGの意味です。つまりG'は最初に前貸しされた貨幣額・プラス・その増殖分ということになるわけです。この増加分を、または最初の価値額を超える超過分を、私は剰余価値と呼びます。
(ネ)(ナ) だからこの過程では、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えることになります。言い換えれば自分を価値増殖するのです。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのです。
だから資本としての貨幣の流通では、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保持するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変えて、剰余価値を付け加えることになります。すなわち価値増殖するのです。そしてこの運動こそ、価値を資本に転化させることになるのです。
ここではマルクスは〈流通のなかで〉とは述べていますが、「単純流通のなかで」とは述べていないことに注意が必要です。マルクスはこのパラグラフを〈単純な商品流通では〉と単純な流通の話からはじめ、単純な流通では両方の極が同じ経済的形態(商品)であり、しかし質的に違った使用価値をもっていることと、同時に価値としては量的にも同じであるという特徴を述べています。
そして単純流通のレベルでみれば〈流通G-W-G〉は〈一見無内容に見える〉と指摘します。
そして質的に同じものは量的違いでしか内容を持たないことを指摘し、だから〈過程G-W-G〉の〈過程の完全な形態は、G-W-G' 〉だとしています。ここではただ〈過程〉としてしか述べていないことにも注意が必要です。そしてすでに言いましたが、最後も〈流通のなかで〉とは述べていますが、それは最初に述べていた〈単純な商品流通〉のなかでではすでにないことが分かるのです。
ところでここではマルクスは剰余価値を〈それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ〉と剰余価値を規定しています。
これは剰余価値というものをそのもっとも直接的な表象として捉えられるままに規定しているといえます。いうまでもなく、剰余価値というのは労働力商品に投下された可変資本が、労働力商品の使用価値が価値を形成し、そればかりが自身が持つ価値以上の価値を生産するという特有な商品であることから生じます。
しかしここではどうして価値が増殖するのか、といった問題はまったく問わずに、ただ前貸しされた貨幣額を超える増加分を剰余価値と呼ぶと述べているだけです。第3部にも次のような一文があります。
〈剰余価値または利潤は、まさに商品価値が商品の費用価格を越える超過分なのである。すなわち、商品に含まれている総労働量が商品に含まれている支払労働量を越える超過分なのである。だから、剰余価値は、それがどこから生まれるにせよ、とにかく前貸総資本を越える超過分である。〉 (全集第25a巻53頁)
ここから一部の論者は前貸し貨幣額を超える増加分なら利潤とすべきではないかとか、いや、そうではなく、ここて前貸しされる貨幣額というのは労働力に投下される可変資本を抽象したものだからこれでいいのだ、などと論じている人もいます。
しかし私たちは、いずれにせよ前貸しされた貨幣額をその理由はともあれ超える増加分を剰余価値と呼ぶのだとマルクスが規定しているのをそのまま受け入れておきたいと思います。
◎原注4
【原注4】〈4 (イ)「貨幣を貨幣と交換するものはない」、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫んでいる。(『自然的および本質的秩序』、486ページ。)(ロ)特に職業上から「商業」や「投機」を論じている一著作には次のように書かれてある。(ハ)「すべて商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生ずる。パン1ポンドをパン1ポンドと交換しても…… なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨幣の交換でしかない賭博との有益な対照……。」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究。または商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年、5ページ。) (ニ)コーベトは、G-Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていないとはいえ、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めている。(ホ)ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見いだすのである。(ヘ)「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すぺて事実上は一つの投機である。」(マカロック『商業・海運関係実用・理論・歴史事典』、ロンドン、1847年、1009ページ。)(ト)これよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは次のように言う。(チ)「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食(コジキ)からはなにももうけることはできない。もし長いあいだにみなのものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ぺージ。)〉
(イ) 「貨幣を貨幣と交換するものはない」、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫んでいます。(『自然的および本質的秩序』、486ページ。)
この原注は〈まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える(4)〉という本文に付けられたものです。
ここではリヴィエールの一文が紹介されています。リヴィエールの同じ文献は原注3でも引用されていました。だからリヴィエールの説明はその部分を参照してください。リヴィエールは重農主義者ですから、重商主義者に反対してこのように叫んだということでしょうか。
(ロ)(ハ) 特に職業上から「商業」や「投機」を論じている一著作には次のように書かれてあります。「すべて商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生ずる。パン1ポンドをパン1ポンドと交換しても…… なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨幣の交換でしかない賭博との有益な対照……。」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究。または商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年、5ページ。)
コーベトについては、全集の人名索引では〈コーベット,トマス Corbet,Thomas(1850ころ)イギリスの経済学者,リカードの支持者〉とあるだけです。『経済学批判』には、〈経済学者たちが商品の種々の形態規定を表示するやり方は、次の例からうかがい知ることかできるだろう〉というマルクスの書き出しのあと、幾つかの引用がなされていますが、そのなかに、コーベットの同じ著書からの引用があります(全集第13巻79頁)。
(ニ) コーベトは、G-Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていませんが、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めています。
コーベトは、商業と賭博を〈貨幣対貨幣の交換〉という点では共通しているが、商業では種類の違う諸物の交換を媒介しているから意味があるが、賭博では意味がないといいたいようです。しかしマルクスは〈貨幣対貨幣〉、すなわちG-Gというのは、単に商業資本だけではなくて、すべての資本の特徴的な流通形態だと述べています。後に(第22パラグラフ)マルクスは〈G-G’、貨幣を生む貨幣--money which begets money--、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である〉と述べています。そして次のパラグラフ(23)では、〈売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G-W-G'は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である〉と述べています。つまりG-Gは商業資本だけではなく、資本の特徴的な流通形態だということです。
(ホ)(ヘ) ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見いだすのです。「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すぺて事実上は一つの投機である。」(マカロック『商業・海運関係実用・理論・歴史事典』、ロンドン、1847年、1009ページ。)
コーベトは、商業と投機の共通性を認めながら、両者の違いを論じていたのですが、その次にマカロックが現われ、売るために買うことは投機することだと主張して、投機と商業との相違を取っ払ってしまったということです。
マカロックについては以前紹介したことがあったと思いますが、『剰余価値学説史』のなかで、〈〔マカロックは、〕リカードの経済学を俗流化した男であり、同時にその解体の最も悲惨な象徴である。……そのほか、あらゆる点で俗流経済学者であり、現存するものの弁護論者であった。喜劇に終わっているが彼の唯一の心配は、利潤の低下傾向であった。労働者の状態には彼はまったく満足しているし、一般に、労働者階級に重くのしかかっているブルジョア的経済のすべての矛盾に満足しきっている。〉(全集第26巻III 219頁)等と述べています。
(ト)(チ) マカロックよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは次のように言っています。「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食(コジキ)からはなにももうけることはできない。もし長いあいだにみなのものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ぺージ。)
ピントについては全集の人名索引に〈ピントー,イザーク Pinto,Isaac(1715-1787) オランダの取引所投機師、経済著作家〉という説明があります。〈「強制公債法案とその理由」〉というライン新聞に掲載された論文のなかには〈18世紀の名高い株式投機者ユダヤ人ピントは、『流通』について論じた彼の著書のなかで、株式投機を勧めている。なるほど、株式投機は何も生産しないが、しかし、流通をうながし、ポケットからポケットへの富の異動をうながす。〉(全集第5巻260頁)という一文があります。