『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2010-11-27 15:14:24 | 『資本論』

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

 (以下は、字数制限の関係で項目〈◎ 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉の続きです。)

 だから第4パラグラフは単純な価値形態ではそれがどうなっているかの考察です。

【4】〈(イ)すでに第一の形態――20エレのリンネル=1着の上着――もこの対立を含んではいるが、それを固定させてはいない。(ロ)同じ等式が前のはらから読まれるかあとのほうから読まれるかにしたがって、リンネルと上着というような二つの商品極のそれぞれが、同じように、あるときは相対的価値形態にあり、あるときは等価形態にある。(ハ)両極の対立をしっかりとつかんでおくには、ここではまだ骨が折れるのである。〉

 (イ)すでに第一の形態(単純な価値形態)にも対立が含んでいることは〈A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態〉の〈一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態〉のなかでみてきました。例えば次のように説明されていました。

 〈相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。〉

 だから相対的価値形態にリンネルがあるということは、リンネルは同時に等価形態にあることはできず、必ず他の別のある商品、例えば上着でなけれはならなかったのです。
 しかし単純な価値形態では、まだそれは固定させてはいませんでした。

 (ロ)例えば20エレのリンネル=1着の上着という等式がなりたつということは、同時に1着の上着=20エレのリンネルという等式も成り立ちました。つまりどちらの商品もあるときは相対的価値形態にあり、また別のあるときには等価形態にもあることができたのです。

 (ハ)だからこの場合、二つの形態が互いに排斥し合う関係にあるということをつかむためには、いささが骨が折れたのでした。だから次のような考察がなされたのでした。

 〈たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネル はけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、二〇エレのリンネルは二〇エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の一商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表わしているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。
 もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル または一着の上着は二〇エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。〉

 次の第5パラグラフは展開された価値形態の場合です。

【5】〈(イ)形態Ⅱでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開しうるだけである。(ロ)言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして等価形態にあるからこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。(ハ)ここではもはや価値等式――たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦、等々――の二つの辺をおきかえることは、この等式の全性格を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。〉

 (イ)形態II(展開された価値形態)でも、やはり両形態の対極的な対立は含まれています。すなわち、一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値をそれ以外のすべての商品によって展開して表現しうるだけです。ある一つの商品種類が展開された相対的価値形態にあるなら、それはそれを表現する材料である他の多くの特殊的な等価形態の一つになることはできません。

 (ロ)言いかえれば、すべての他の商品が、その一つの商品種類に対して特殊な等価形態にあるからこそ、またその限りにおいてのみ、その一つの商品種類は展開された相対的価値形態を持つのです。確かにここでは、その一つの商品種類は、ある特定の商品に固定されてはいません。

 (ハ)しかし、ここでは単純な価値形態のように、この価値等式そのもの、例えば 20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦、等々の二つの辺をひっくり返すことは、もはやできません。それをやるとこの等式そのものを全性格を変えてしまい、全体的な価値形態から一般的価値形態に転化させることになってしまうからです。つまりここでは対極的な対立の「硬化」はその限りでは一段と進んでいることが分かります。

 次は一般的価値形態の場合についてですが、これは一般的な相対的価値形態(【6】)と一般的な等価形態(【7】)とに分けて考察されています(その間に注24が入ります)。

【6】〈(イ)このあとのほうの形態、すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。(ロ)したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである(24)。〉

 (イ)形態III(一般的価値形態)は、商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えますが、それはただ一つの例外を除いて、商品世界のすべての商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのみです。これは相対的価値形態と等価形態の対極的な対立が、商品世界のすべての商品と、その商品世界から排除されたある例外的な商品種類という形で現われていることを意味します。ここでは一般的等価形態にある商品は、商品世界から排除された例外的存在としてあります。つまりその限りでは「硬化」は一段と進んでいるともいえます。

 (ロ)だから、この例外的な一商品、例えばリンネルが他のすべての商品との直接的な交換可能性の形態にある、あるいは直接的に社会的な形態にあるということは、他のすべての商品がこうした形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのことなのです。

 初版本文では次のように説明しています。

 〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的社会的形態になるわけである。〉(江夏訳52頁)

 商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、その物的存在でしかありません。だから一般に商品はその使用価値のままでは直接には交換できないのです。だから、それができるようになるためには、それが他の商品と同じものであることを示す必要があり、それがすなわちその商品の価値なわけです。商品は自らの価値を目に見える形で表現して、その現物形態が価値そのものであるものに転換してこそ、他の諸商品と直接に交換可能なもの、直接に社会的に妥当な形態を獲得することがてきます。そしてそうした現物形態が価値そのものを表すものこそ、すなわち等価形態であり、そうした商品世界から排除された唯一の例外的存在が、すなわち一般的等価形態だということです。

 この第6パラグラフについている注24も紹介して解読しておきましょう。しかし、各文節ごとの詳しい解読は省略します。

【注24】〈(24) じっさい、一般的直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であって、ちょうど一磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように非直接的交換可能性の形態と不可分であるということは、けっしてわからないのである。それだからこそ、すべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかのように妄想することもできるのであって、それは、ちょうど、すべてのカトリック教徒を教皇にすることができると妄想することもできるようなものである。商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろんまったく望ましいことであろう。この俗物的ユートピアを描きあげたものがプルドンの社会主義なのであるが、それは、私がほかのところで示したように〔26〕、けっして独創という功績などのあるものではなく、むしろ彼よりもずっと前にグレーやブレーやその他の人々によってもっとずっとよく展開されたのである。こういうことは、このような知恵が今日でもある種の仲間のあいだでは「科学」という名のもとに流行しているということを妨げないのである。プルドンの学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派はかってなかった。じっさい、「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるものなんだ〔27〕。」〉

 一般的等価形態の直接的な交換可能性というのは、それが一つの対立的な商品形態であるからこそそうなのです。つまりそれは他のすべての商品が非直的な交換可能性にあるからこそそうなのです。それはちょうど一つの磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように不可分なのです。しがしこうしたことは小ブルジョア的な観念には理解されない。だから彼らはすべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかに妄想することができるのです。それは丁度、すべてのカトリック教徒を教皇にできると妄想するのと同じです。
 商品生産に人間の自由や個人の独立の頂点をみる小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合から免れようとすること、つり諸商品の非直接的交換可能性から免れるということはまことに望ましいことです。こうした俗物的なユートピアを描きあげたものがプルードンの社会主義なのです。それは私が『哲学の貧困』のなかで明らかにしたように、決して独創的なものではなく、彼よりずっと前にグレーやブレーやその他の人でとによってもっとずっとよく展開されたものなのです。
 しかしこういうことは、このような智恵が「科学」という名のもとに流行することを妨げないのです。プルードン学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派かくてありませんでした。というのも「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるもの」だからです。

 これに関連しては、エンゲルスが『哲学の貧困』の序文で述べている一文を紹介しておきましょう。またここでマルクスが言及しているグレーやブレーについては詳しくは【付属資料】を参照してください。

 〈労働が商品価値の尺度であることが認識されるやいなや、律気なブルジョアの善良な感晴も、この正義の原則を名目上は認めはするが、実際にはたえず平然とそれを無視しているようにみえる世間の意地悪さによって、ふかく傷つけられるのを感じないわけにはいかない。とりわけ小ブルジョア、すなわち彼のまじめな労働--たとえそれが彼の職人と徒弟の労働にほかならないにしても--が大生産と機械との競争によって日一日とますますその価値を失いつつある小ブルジョアは、とりわけ小生産者は、労働価値に従う生産物の交換が最終的に完全に例外なく実現しているような社会を、熱望しないわけにはゆかない。いいかえれば、商品生産の一つの法則はもっぱら完全に妥当するが、そのもとでのみ法則が一般に妥当しうるところの諸条件、すなわち商品生産の、さらに資本制生産の、他の諸法則が廃棄されるような社会を、熱望しないわけにはゆかない。
 このユートピアが、近代の--現実上あるいは観念上の--小ブルジョアの思考様式のなかにきわめて深く根をおろしていることの証拠は、次の事実である。このユートピアは、1831年にすでにジョソ・グレイによって体系的に展開され、30年代にイギリスにおいて実地に試みられかつ理論的にひろめられ、ドイツではロートベルトゥスによって1842年に、フランスではプルードンによって1846年に最新の真理と宣言され、さらに1871年にはロートベルトゥスによって、ふたたび社会問題の解決として、いわば彼の社会的遺言書として公表され、そして1884年にまたもや、それは、ロートベルトゥスの名のもとにプロイセンの国家社会主義をくいものにしようと懸命になっている出世主義者一味を信奉者にかちえている〉(全集第4巻879頁)

 次の第7パラグラフでは一般的な等価形態における対極的な対立がどうなっているかが考察されています。

【7】〈(イ)反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。(ロ)もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。(ハ)その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。(ニ)一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。(ホ)一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。(ヘ)こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。〉

 (イ)一般的な相対的価値形態について上記のようにいえるということは、反対に、一般的等価物の役割を演ずる商品については、この商品が、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態からは排除されているということがいえるわけです。

 (ロ)もしもリンネルが、つまり一般的等価形態にある何らかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとなると、その商品は自分自身のために等価物として役立たなければならなくなるでしょう。

 (ハ)しかしその場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、私たちが価値表現の兩極を考察したときに確認したように、これは価値も価値量も表さない同義反復でしかなく、ただ〈二〇エレのリンネルは二〇エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということ〉を示すだけに過ぎません。

 (ニ)一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態IIIを逆にしなければならないのです。
 
 (ホ)一般的等価物は、他のすべての商品の身体で、その無限の列で、自身の価値を相対的に表現するしかないのです。

 (ト)こうして、いまでは、展開された相対的価値形態、すなわち形態IIが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われているのです。

 ここで「等価物商品の独自な相対的価値形態」という用語が出てきますが、これについて大谷禎之介氏は『価値形態』という論文で次のように述べています。

 〈だから、一般的等価物となっている商品の価値を相対的に表現するためには形態C(形態III--引用者)を逆にしなければならない。そうすれば、それの価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されることになる。形態Cを逆をすれば、ふたたび形態B(形態II--引用者)が現われるのだから、いまや、展開された価値形態すなわち形態Bが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われているのである。ただし、等価物商品の価値を表現する商品体の列は、等価物である商品が直接に交換しうる他の諸商品のそれぞれの量を示す等式の列であって、形態から見れば展開された相対的価値形態と同じものであるが、それは事実上、商品世界に属するすべての商品の一般的価値表現の無限の列を、あるいはそれの一覧表を逆に読んだものにほかならない。だからそれは、等価物商品の独自な相対的価値形態と言われるのである。(第26図)〉(下線は大谷氏。『経済志林』第61巻220-1頁)

 ついでに大谷氏が図示している「第26図」も紹介しておきます。ただこれはあくまでも一つの参考して紹介するのであって、その是非は各自判断して下さい。

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