『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.4(通算第54回)

2018-11-12 14:00:18 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.4(通算第54回)

 

 

◎そろそろ再開

 このブログの著者である亀仙人は、去年の初め頃から近隣で開かれている『資本論』の学習会に参加してきました。参加したときは第1章の途中からでしたが、ようやく最近になってこのブログが中断したままになっている第3章に入りました。よって、掲載が滞っていたこのブログも、参加している学習会の進展に合わせて、継続して掲載していくことにしたいと思います。
 ただ、「進展に合わせて」と言っても、別に学習会の報告をするというようなことではなく、私自身が学習会の前後に、関連する個所を勉強したものを紹介するに過ぎません。だから掲載も、学習会の進展に沿ったものというより、ただ私自身の勉強の進展具合に応じてということになります。形式その他は、これまでのものを踏襲します。

◎第7パラグラフ(貨幣の「価格の度量基準」としての機能)

【7】〈(イ)価格規定を受けた商品は、すべて、a量の商品A=x量の金、b量の商品B=z量の金、c量の商品C=y量の金 などの形態で表示され、そこでは、a、b、cは商品種類A、B、Cの一定量を表し、x、z、yは金の一定量を表す。(ロ)だから、諸商品価値は、さまざまな大きさの想像された金量に、したがって、商品体の錯綜した多様性にもかかわらず、金の大きさという同名の大きさに転化される。(ハ)諸商品価値は、このようなさまざまな金量として相互に比較され、測られあう。(ニ)そこで、諸商品価値を、その度量単位としてのある固定された量の金に関連づける必要が技術的に生じてくる。(ホ)この度量単位そのものは、さらに可除部分〔割り切ることのできる部分〕に分割されることによって度量基準に発展させられる。(ヘ)金、銀、銅は、それらが貨幣になる前に、すでに金属重量としてこのような度量基準をもっているので、たとえば一ポンドが度量単位として役立ち、そこから一方では再分割されてオンスなどになり、他方では合算されてツェントナーなどになる(54)。(ト)だから、すべての金属流通では、重量の度量基準の既存の呼称がまた貨幣の度量基準または価格の度量基準の最初の呼称をなしている。〉

 (イ) 価格規定を受けた商品は、すべて次のように表示されます。
 a量の商品A=x量の金
 b量の商品B=z量の金
 c量の商品C=y量の金
      等々
 ここでA、B、Cは商品の種類を、a、b、cはそれぞれの種類の商品の使用価値の一定量を表し、x、z、yは金の一定量を表しています。

 (ロ)(ハ) だからすべての商品の価値は、さまざまな大きさの想像された金量によって表示されます。商品の種類がどんなに多くて複雑であっても、それらは金の一定量というまったく同じものに、転化されているわけです。だからこそ、諸商品の価値は、さまざまな金量として、互いに比較され、測られ合うことが出来るわけです。

 ここで問題なのは〈さまざまな大きさの想像された金量〉という言葉が出てくることです。つまり諸商品の価値を表示する金量というのは、〈想像された〉ものだということです。しかしこれについては、すでに第5パラグラフで次のように書かれていました。

 〈商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同じように、手でつかめるその実在的な物体形態から区別された、したがって単に観念的な、または想像されただけの形態である。鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに存在する。これらの価値は、それらの物の金との同等性によって、それらの物のいわば頭の中にだけ現れる金との関係によって、想像される。〉

 なぜ価格形態では観念的な、想像されただけの形態をとるのかについては、『経済学批判』では、次のように書かれています。

 〈商品はそのものとして交換価値(価値--引用者)であり、それはひとつの価格をもっている。交換価値(価値--同)と価格とのこの区別には、商品にふくまれている特殊な個人的労働は、外化の過程によってはじめて(草稿集③ではこの部分は「譲渡の過程を通じてはじめて」となっている--同)、その反対物として、個性のない、抽象的一般的な、そしてこの形態でだけ社会的な労働として、すなわち貨幣として表示されなければならない、ということが現われている。個人的労働がこの表示をなしうるかどうかは、偶然のことのように見える。だから商品の交換価値(価値--同)は価格においてただ観念的に商品とは別の存在を受け取るだけであり、商品にふくまれている労働の二重の定在は、ただ異なった表現様式として存在するだけであるけれども、したがって他方、一般的労働時間の物質化したものである金は、ただ表象された価値尺度としてだけ現実の商品に対立しているのであるけれども、価格としての交換価値の定在、すなわち価値尺度としての金の定在のうちには、商品が響きを発する金(③では「じゃらじゃらと音を立てる金」となっている--同)と引き換えに外化する(③「譲渡されなければならない」--同)必然性とその譲渡されない可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生じる全矛盾、言いかえれぽ、私的個人の特殊的労働が社会的効果をもつためにはその直接の対立物として、抽象的一般的労働としてあらわされなければならないということから生じる全矛盾が、潜在的にふくまれている。……目に見えない価値尺度のうちに、硬貨が待ち伏せしているのである。〉(全集第13巻52-53頁)

 要するに、これは誰でも知っているありふれたことですが、商品の価格形態というのは、それが貨幣になるべきこと(売られるべきこと)を表していますが、しかしそれが必ずしも貨幣に転化できる(売れる)とは限りません。商品がその価格通りに売れるかどうかは偶然のことのように見えるわけです。だから価格形態ではそれは依然としてただ潜在的に(可能性として)あるわけですから、それはまだ観念的なものであり、想像されたものだということです。しかしマルクスは同時に商品の価格は観念的な想像されたものですが、しかしその商品の価値を尺度して価格として表示する金の存在は現実的であると指摘しています。
 ところが今の時代においては、この「じゃらじゃらと音を立てる金」そのものが流通から姿を消してしまって、流通に存在し通貨として機能しているのはそれ自体にはほとんど価値のない「ぺらぺらの」紙でできた銀行券や「さして値打ちのない」硬貨だけなので、果たして現代の通貨には価値尺度の機能があるのか否かということが問題になっていることは前回も紹介しました。そこでも述べましたが、「じゃらじゃらと音を立てる」どうかはともかく現実の金(地金)そのものは現在でも市場で売買されており、金地金は主要国の中央銀行には保管されています。つまり商品市場には貨幣としての金は依然として存在しているのです。ただ外観上は金も一つの商品として売買されているだけに見えるから、貨幣としての金は存在しないかに見えているだけなのです。しかし売買されている金は、決して他の一般の商品と同じではありません。他の諸商品は個人的にか、あるいは生産的にか消費することを目的に売買されています。しかし金の場合は、確かに工業材料としてのそれは他の商品と同じように生産的な消費を目的にしたものですが、それ以外のものは決して消費を目的にしたものではありません。それはまさに絶対的な価値の化身として、すなわち価値の塊として扱われているのです。だからそれは単なる商品の売買ではなく、流通貨幣を蓄蔵貨幣に転化しているだけなのです。しかし市場で売買されている金のかなりの部分がそうしたものだと理解しても、果たして、それが現実に流通している銀行券や硬貨と如何なる関連にあるのかが問題になります。しかし、それについては後にまた問題になると思いますので、その時に説明することにしましょう。

 (ニ) しかしさまざまな商品の価値はさまざまな金の量として表されるので、それらがどれだけの金量かを一目でわかるように、ある固定された量の金を度量単位として、それに関連させて、それぞれの商品の価値を表す金量を測る必要が技術的に生じてきます。

 そもそも量というのは、見ればそれがどれだけのものか分かるものもあり、自分で手に持てばその重さで分かるものもありますが(しかし内包量のようにそれだけでは分からない量もあります)、しかしそれがどれだけの量かといわれとそれを表現することはできません。長さだと二つのものを並べてどちらが長いか短いかという比較はできますが、また二つのリンゴを両手に持ってだいたいどちらが重いか軽いかをいうことはできますが、ではどれだけの長さか、どれだけの重さか、と聞かれると答えようがないことになります。だからどれだけの量かを表現するためには、一定の量を基準として、その何倍か、あるい何分の一かという形で数で表現する必要が生じてくるわけです。金による価値の表現においては、表象された金量を表現するために、そうした作業が技術的に必要になるということです。しかしここで注意が必要なのは、それはあくまでも金の量を表現することであって、商品の価値の量を表すことではないということです。

 (ホ) またこの度量単位そのものは、さらに細かく割り切れる分量に分割されることによって、度量基準に発展させられます。

 例えば長さの度量基準は、白金とイリジウムの合金製の「メートル原器」というものがあり(これが度量単位です)、その長さをもとに、それがさらに細分されてセンチメートルやミリメートル、さらには拡大されてキロメートル等々があるわけです(もっともこの「メートル原器」は後に「86Krランプのだいだい色スペクトル線の真空波長」にとって替わられ、さらに1983年には「光の速さと走行時間に基づく新しいメートルの定義が採択され」たのだそうです。)また重量の単位であるキログラム原器もやはり白金とイリジウムの合金で出来ていますが、これも現在ではアボガドロ定数を使ったものに取って代わられようとしているのだそうです。

 (ヘ)(ト) 金、銀、銅は、もともと貨幣になる前に、すでに金属として、その重さによる度量基準を持っています。つまりそれらの大きさはその重さによって測られていました。だからその重量基準が、そのまま貨幣の度量基準になり、例えば1ポンドが度量単位として役立って、それが分割されて、オンスなどになり、さらには合算されてツェントナーなどになったのです。だから、すべての金属貨幣の流通では、重量の度量基準が、そのまま貨幣の度量基準やあるいは価格の度量基準の最初の呼称になっているのです。

 日本の江戸時代の貨幣の単位である「両」も重量単位でした(1両=37g)、それが貨幣単位なったのだそうです(1両=4分=16朱等)。現在の貨幣単位である「円」も江戸時代の「両」を俗に言い換えたものだったとの指摘もあります。
 ここでは〈貨幣の度量基準〉と〈価格の度量基準〉という二つの用語が出てきます。この二つはよく似ていますし、マルクスも〈または〉という形で言い換えているようにも見えます。では両者はまったく同じものと考えてよいのでしょうか。〈貨幣の度量基準〉というのは、文字通り実在の貨幣としての金を量的に表現するための度量基準です。しかし〈価格の度量基準〉というのは、商品の価値を価格として表すために表象された(想像された)貨幣としての金を量的に表現する度量基準なのです。もちろん、表象された金といっても、それは現実にある金を表象するのですから、両者が同じものだといえるかもしれません。

◎注54

【注54】〈(54) 第2版への注。イギリスにおける貨幣の度量基準の単位である一オンスの金が可除部分に分割されていないという奇妙な事情は、次のように説明される。「わが国の鋳貨制度はもともと銀だけの使用に適応させられていた。だから、一オンスの銀は一定の適当な個数の鋳貨につねに分割されうるのである。ところが、金は、銀だけに適応させられていた鋳貨制度に、もっと後の時期になってから導入されたので、一オンスの金は、割り切れる個数の鋳貨に鋳造されえないのである」(マクラレン『通貨史』、ロンドン、一八五八年、一六ページ)。〉

 イギリスの貨幣の単位であるポンドはもともとは銀が貨幣として通用していたときの銀の重要基準にもとづいた度量単位だったということは良く知られていることです。だから金本位制はあとから銀の本位制に適応されるような形で導入されたために、銀の場合は1オンスの銀を適当な個数に分割して鋳貨として鋳造することが可能でしたが、しかし同じ貨幣単位としての1オンスの金の場合は重量としては小さすぎて、それを分割して鋳貨として鋳造することが技術的にできかったということです。


◎第8パラグラフ(価値の尺度と価格の度量基準)

【8】〈(イ)貨幣は、価値の尺度として、また価格の度量基準として、二つのまったく異なる機能を果たす。(ロ)貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量基準であるのは、確定された金属重量としてである。(ハ)貨幣は、価値尺度としては、多種多様な商品の価値を価格に、すなわち想像された金量に転化することに役立ち、価格の度量基準としては、この金量を測る。(ニ)価値の尺度によっては、諸商品が諸価値として測られ、これに対して、価格の度量基準は、金の諸分量をある金量によって測るのであって、ある金量の価値を別の金量の重量で測るのではない。(ホ)価格の度量基準のためには、一定の金重量が度量単位として固定されなければならない。(ヘ)この場合、およそ同名の大きさの度量規定を行う他のどんな場合でもそうであるように、度量比率の不変性が決定的となる。(ト)だから、価格の度量基準は、同一量の金が度量単位として変わることなく役だてば役立つほど、それだけよくその機能を果たす。(チ)ところが、金が価値の尺度として役立つのは、金そのものが労働生産物であり、したがって可能性から見て一つの可変的な価値であるからにほかならない(55)。〉

 (イ) 貨幣は、価値の尺度として、または価格の度量基準として、二つのまったく異なる機能を果します。

 貨幣としての金が、価値の尺度として果す機能と、価格の度量基準として果す機能とは、まったく異なるものだということがまず語られています。それがどう違うのかは、次ぎに述べられています。

  (ロ) 貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量基準であるのは、確定された金属重量としてです。

 貨幣としての金が、価値の尺度としての機能を果すということは、商品に対象化された抽象的な人間労働、つまり価値という純粋に社会的なもを、金という物的なものの一定量として表現するということです。つまり金という自然物(その使用価値)そのものが、その姿のままで価値というまったく社会的なものとして認められているわけです。〈人間労働の社会的化身〉というのはそういう意味だと思います。
 他方、貨幣が価格の度量基準であるということは、貨幣(金)がある決まった金属重量物であるということだけが問題なのです。つまりその金属の重量基準に基づいて価格として表象された貨幣(金)の分量が計られるということです。

  (ハ)(ニ) 貨幣は、価値尺度としては、多種多様な商品の価値を価格に、すなわち想像された金量に転化することに役立ちます。価格の度量基準としては、その想像された金量を測るわけです。だから価値の尺度としては、さまざまな商品の価値が計られるのです。それに対して、価格の度量基準というのは、金の分量をある決められた金量を単位にして測るのです。だから価格の度量基準というのは、ある金量の価値を別の金量の重量ではかるのではありません。

 大谷氏は「貨幣機能」において、次のような例を紹介しています。参考のために紹介しておきましょう。

 〈曲線上の2点間の長さを測定しようとするときには、まず、自由に曲げることのできるもの,たとえば紐をその2点間の曲線にあてがい,そののちにそれを延ばして物差しで測ればよい。この場合,その紐は,曲線を直線に転形するという,いわば質の転換をもたらす役割をはたし,物差しは,そのようにして直線に転換された或る長さを単位となる長さの直線で測るという量的計量を行なっている。比喩的に言えば,価値尺度としての金の機能はこの紐が果たす役割であり,価格の度量標準としての金の機能はこの物差しが果たす役割である。言うまでもなく,曲線を直線に転換するのは,物のまったく物理的なある属性を他の属性に転換することであるのにたいして,価値尺度としての金は,物のまったく社会的な属性を自然物の量に転換するのであり,ここに価値尺度の質があるのである〉(『経済志林』61巻4号1994年、251頁)

  (ホ)(ヘ)(ト) 価格の度量基準のためには、一定の金重量が度量単位として固定されなければなりません。この場合、どんなものの量についても、その度量規定を行おうとすれば、度量比率が変わらないことが必要です。だから、価格の度量基準の場合も、同一量の金が度量単位として変わることなく役だてば役立つほど、それだけよくその機能を果たすのです。

 これは重量の度量単位であるキログラム原器が時と場所によってコロコロと変われば、日本とアメリカで同じ1キロと言っても、実際は重さが異なることになり、昔は1キロはこれこれだったが、今は違うなどというのでは、実用には耐えません。だから度量単位は固定されていなければ駄目だということはよく分かります。また1キロの1000分の1が1グラムだというのも、昔はそうだったが、今は100分の1を1グラムとするとしたのでは、どうしようもないことも明瞭です。価格の度量基準としての表象された金量を測る場合も同じだということです。

  (チ) ところが、金が価値の尺度として役立つことができるのは、金そのものが他の労働生産物と同じように価値を持った一つの商品だからです。そうでなければ、われわれが第1章で見たように、諸商品は、金を自己の価値に等しいものとして等置し、それによって自己の価値を共同で表すことはありえないのです。そして商品であるなら、その価値はその生産に社会的に必要な労働が対象化したものであり、その量は生産力が変われば必要労働時間も変わり、変化します。だから金は、可能性から見て、絶えず可変的な価値であるからこそ、他の商品に対する価値の尺度たりうるのです。

 『経済学批判』には次の一文があります。

 〈金は、なるべく可変的な価値でなければならない。なぜならば、金は労働時間の物質化したものとしてだけ、他の諸商品の等価物となることができるが、しかし同一の労働時間は、現実的労働の生産力の変動につれて、同一の使用価値の等しくない分量に実現されるからである。各商品の交換価値(価値--引用者)を他の一商品の使用価値であらわす場合と同様に、すべての商品を金で評価する場合にも、金はあるあたえられた瞬間にあるあたえられた量の労働時間をあらわす、ということが前提されているだけである。〉(50頁)

◎注55

【注55】〈(55) 第2版への注。イギリスの諸著では、価値の尺度(measure of value)と価格の度量基準(standard of value)とをめぐる混乱が話にならないほどひどい。それらの機能が、したがってまた呼称が、たえず混同されている。〉

 『経済学批判』の「B 貨幣の度量単位にかんする諸理論」(全集版59頁以下参照)では、さまざまな混乱が批判的に紹介されていますが、〈イギリス哲学における神秘的観念論の代表者であるバークリ主教が、貨幣の観念的度量単位説に、実際家の「大蔵大臣」がゆるがせにした理論的言い回しをあたえたのは、当然のことであった〉としてバークリーの主張を紹介したあと次のように批判しています。

 〈ここには、一方では価値の尺度と価格の度量標準との混同がみられ、他方では尺度としての金または銀と流通手段としての金または銀との混同がみられる。貴金属は流通行為では表章によって置き換えられうるという理由で、バークリは、これらの表章はそのものとしては無を、すなわち抽象的価値概念をあらわす、と結論したのである。〉(62頁)

 (とりあえず、ここらあたりで一回分として区切りをつけます。以下、続きます。)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【付属資料】

●第7パラグラフ

《批判》

 〈金が価値の尺度となり、交換価値が価格となっていった過程を前提すれば、すべての商品は、その価格においては、さまざまな大きさのただ表象された金量であるにすぎない。金という同一物のこのようなさまざまな量として、すべての商品は、互いに等置され、比較され、測られるのであって、そこで諸商品を度量単位としての一定量の金に関係させる必然性が技術的に発展し、この度量単位は可除部分に細分され、この可除部分がさらにその可除部分に細分されることによって、度量標準にまで発展させられる。しかし金量そのものは、重量にょって測られる。だから度量標準は、金属の一般的な重量尺度のうちに、すでにできあがって存在しており、それゆえにこの重量尺度は、すべての金属流通のもとで、はじめはまた価格の度量標準としても役だつのである。諸商品が、もはや労働時間によって測られるべき交換価値としてではなく、金で測られた同じ名称の大きさとして互いに関係しあうことによって、金は価値の尺度から価格の度量標準に転化する。こうしてさまざまな金量としての商品価格相互の比較は、ある一つの想定された金量に記入されてこの金量を可除部分に分かれた度量標準としてあらわすところのいろいろな記号に結晶するのである。〉(全集13巻53頁)

《初版》

 〈価格がきまっている譜商品はすべて、a量の商品A=x量の金、b量の商品B=z量の金、c量の商品C=y量の金、等々 という形態で表わされているのであって、そこでは、a、b、cは、商品種類A、B、Cの一定量を表わし、x、z、yは、金の一定量を表わしている。だから、諸商品価値は、いろいろな量の想像された金量に、つまり、諸商品体が種々雑多であるにもかかわらず同名の量であるいろいろな金量に、転化されている。いろいろな金量は、同名の量であるために、それらが自分たちの尺度単位としてのある固定量の金に関係させられることによって、互いに比較されるし測られもする。この尺度単位そのものは、さらに可除部分に分割されることによって、尺度標準にまで発展する。金や銀や銅は、それらが貨幣になる以前に、このような尺度標準をそれらの金属重量のうちにすでにもっていた。だから、金や銀や銅の現存の金属重量標準が、もともと、それらの貨幣機能においてもつねに役立っている。〉(85-6頁)

《補足と改訂》

 〈[4 0 ] 1 1) p. 5 8)商品種類A、B、Cの一定量a,b 、cが、金の一定量X,Z 、yを表象する...
1 2 )同名の大きさ、あるいは同じ物つまり金の異なった量として、それらは相互に比較され、測られ合う。そこで、それらを度量単位としての一定の固定した金量に関連づける必要が技術的に生じてくる。この度量単位そのものは、さらに司除部分に分割されることによって度量基準に発展させられる。金、銀、銅はそれらが貨幣になるまえに、すでに金属重量としてこのような度量基準をもっているので、たとえば一ポンドが度量単位として役立ち、そこから一方では再分割されてオンスなどになり、他方では合算されてツェントナーなどになる。(注、金のオンスの分割について。(13)p.4 7、『批判』注1)だから、すべての金属流通では、重量の度量単位がまた貨幣の度量基準の最初の呼称をなしている。〉(前掲39頁)

《フランス語版》

 〈価格のきまった商品はすべて、a量の商品A=x量の金、b量の商品B=z量の金、c量の商品C=y量の金、等々の形態で現われるが、このばあいにa、b、cは、商品種類A、B、Cの一定量であり、x、z、yも同様に金の一定量である。これらの商品は同じ名称の大きさとして、すなわち、金という同じ物のちがった量として、相互に比較され測定される。このようにして、尺度単位として固定され規定された金の分量に商品を関係づける技術的必然性が、発展するのである。次いでこの尺度単位自体が発展し、可除部分に分割されることによって尺度標準になる。金や銀や銅は、貨幣になる以前に、その重量尺度のうちにすでにこの種の尺度標準をもっているから、たとえばポンドが尺度単位として役立ち、次いでこの単位が、オンス等に再分割され、合算されてキンタール等々になる(5)。したがって、どの金属流通にあっても、重量尺度標準のすでに先行している名称が、貨幣尺度標準の最初の名称をなすわけである。〉(74-5頁)

●注54

《批判》

 〈貨幣の度量単位としてのイギリスにおける一オンスの金が諸可除部分に分割されていないという奇異な事態は、次のように説明される。「わが国の鋳貨制度は、元来は銀だけの使用に適合したものだった。それゆえ、一オンスの銀は、いつでも、ある適当な個数の鋳貨に分割することができる。ところが、金は、のちの時代になってから、銀だけに適合していた鋳貨制度のなかにもちこまれたので、一オンスの金は、割りきれる個数に鋳造することはできないのである。」(マクラレン『通貨史』、一六ぺージ、ロンドン、一八五八年)〉(全集13巻54頁)

《フランス語版》

 〈(5)イギリスの貨幣尺度の単位である金一オンスが、可除部分に再分割されていないという奇妙な事実は、次のように説明される。「わが国の鋳貨は初めはもっぱら銀に適用されていたのであって、このため一オンスの銀はつねに多数の可除的な小片に分割することができる。ところが、金はこれより後の時代になってやっと、もっぱら銀に適用されていた鋳貨制度のなかに導入されたのであるから、金一オンスは多数の可除的な小片に鋳造することができないわけである」(マクラレン『通貨史』、ロンドン、1858年、16ページ)。〉(75頁)

●第8パラグラフ

《経済学批判》

 〈価値の尺度としての金と、価格の度量標準としての金とは、まったく違った形態規定性をもつのであって、その一方と他方との混同は、はなはだばかげた諸理論を生みだしてきた。金は、対象化された労働時間としては価値の尺度であり、一定の金属重量としては価格の度量標準である。金が価値の尺度となるのは、交換価値としての金が交換価値としての諸商品に関係させられているからであり、価格の度量標準においては、一定量の金が他のいろいろな量の金にたいして単位として役だつ。金が価値尺度であるのは、金の価値が可変的であるからであり、価格の度量標準であるのは、それが不変の重量単位として固定されるからである。この場合には、同名の大きさのすべての度量規定の場合と同じように、度量比率が固定し、確然としていることが決定的となる。〉(53頁)
 〈金は、なるべく可変的な価値でなければならない。なぜならば、金は労働時間の物質化したものとしてだけ、他の諸商品の等価物となることができるが、しかし同一の労働時間は、現実的労働の生産力の変動につれて、同一の使用価値の等しくない分量に実現されるからである。各商品の交換価値を他の一商品の使用価値であらわす場合と同様に、すべての商品を金で評価する場合にも、金はあるあたえられた瞬間にあるあたえられた量の労働時間をあらわす、ということが前提されているだけである。〉(50頁)

《初版》

 〈諸商品は、自分たちの価値を全面的に金で表現することによって、金を価値の尺度に転化させる。こうして、諸商品の価値量は、価格すなわち想像された金量、という形態を受け取る。価値の価格へのこの転化が、ひとたび実現すると、価値の尺度価格の尺度標準にまでさらに規定してゆくことが、技術的に必要になる。双方の機能は全くちがっている。価格の尺度標準としては、一定量の金は固定されることができるし、また固定されなければならないが、このことはちょうど、ほかの同名の諸量についての尺度標準のばあいと同じである。金の価値変動は、金のいろいろな重量部分相互間の比価を変えはしないし、また、これらの部分の法的に固定された洗礼名は、これらの部分の重量を変えもしない。価格の尺度標準は、いろいろな金量をある固定された金量で測るにすぎないのであって、ある金量の価値を別の金量の重量によって測るわけではない。〉(87頁)

《補足と改訂》

 〈1 4) p. 5 9 )貨幣は、価値の尺度として、また価格の度量基準として、二つのまったく異なる機能を果たす。貨幣が価値の尺度であるのは、人間的労働の社会的化身としてであり、価格の度量単位であるのは、確定された金属重量としてである。貨幣は価値尺度としては、多種多様な商品の価値を価格に、すなわち表象された金分量に転化することに役立ち、価格の度量基準としては、この金分量をはかる。価値の尺度によっては、諸商品が諸価値としてはかられ、これにたいして、価格の度量基準は、金の諸分量をある金分量によってはかるのであって、ある金分量の価値を別の金分量の重量ではかるのではない。価格の度量基準のためには、一定の金重量が度量単位として固定されなければならない。この場合、およそ同名の大きさの度量規定を行なう他のどんな場合でもそうであるように、度量比率の不変性が決定的となる。だから価格の度量基準は、同一分量の金が度量単位およびその再分割が変わらなければ変わらないほど、それだけよくその機能を果たす。ところが、金が価値の尺度として役立つのは、金そのものが労働生産物であり、したがって可能性から見て一つの可変的な価値であるからにほかならない。価値の基準<Standard of value>という言葉はときによって異なった意味で錯綜して使われている。〉(39-40頁)

《フランス語版》

 〈価値尺度として、また価格の尺度標準として、金は二つの全くちがった機能を果たす。金は、一般的等価物としては価値尺度であり、固定した金属重量としては価格の尺度標準である。それは価値尺度としては、商品の価値を、想像された金量である価格に転化するのに役立つ。それは価格の尺度標準としては、これらの任意の金量を、固定的であって可除部分に再分割されている金の分量でもって、測定する。価値尺度のうちに、商品は自分自身の価値を表示する。価格の尺度標準はこれに反して、金のいくばくかの分量を金のある分量で測るにすぎず、金のある分量の価値を金の他の分量の重量で測るわけではない。価格の尺度標準にとっては、金の一定の重量が尺度単位として固定される必要がある。同じ名称の大きさのあいだで尺度をきめるというあらゆるばあいのように、ここでも尺度単位を固定することが絶対的な必要事である。したがって、尺度単位とその下位区分が変化をこうむることが少なけれぽ少ないほど、価格の尺度標準はその機能をますますうまく果たすのである。他方、金が価値尺度として役立つことができるのは、金自体が労働生産物、すなわち可変的な価値であるからにほかならない。〉(75頁)

 

●注55

《経済学批判》

 〈イギリス哲学における神秘的観念論の代表者であるバークリ主教が、貨幣の観念的度量単位説に、実際家の「大蔵大臣」がゆるがせにした理論的言い回しをあたえたのは、当然のことであった。彼はこう問う。
 「リーヴル、ポンド、クラウン等々の名称は、たんなる比率の名称」(つまり抽象的価値そのものの比率)「とみなすべぎではないか? 金、銀、または舐幣は、それ」(価値比率) 「を計算し、記録し、管理するためのたんなる切符か合い札以上のものだろうか? 他人の勤労」(社会的労働)「を支配する力が富ではないのか? そして貨幣は実際上、こういう力を移転しまたは記録するための合い札か章標以外のものであろうか? またこれらの合い札がどんな材料でできているかということが、非常に重要なことであろうか?」
 ここには、一方では価値の尺度と価格の度量標準との混同がみられ、他方では尺度としての金または銀と流通手段としての金または銀との混同がみられる。貴金属は流通行為では表章によって置き換えられうるという理由で、バーすクリは、これらの表章はそのものとしては無を、すなわち抽象的価値概念をあらわす、と結論したのである。〉(61-62頁)

《補足と改訂》

〈価値の基準<Standard of value>という言葉はときによって異なった意味で錯綜して使われている。〉(40頁)

 

 

 

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