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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

新たな役割が‥

2012年12月10日 20時03分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 退職して毎日することがなくなったらどうしよう、と一時多少の不安があったが、市民向けの大学の講座を6つほどと俳句の結社の句会などで週の後半は大体埋まっている。
 そして本日は週明けなのだが、午前中はかかりつけの医院で薬をもらい、午後には組合の退職者会の共済についての学習会があり、さらに夕方からは退職まで勤めていた市役所の、長年在籍した局の仕事を1日だけボランティアで手伝うことになり、その打ち合わせを短時間おこなった。市民団体・ボランティア団体への年に一度の、感謝のつどいのカメラマン役を引き受けた。あくまでも無償のお手伝いなので、到底謝礼はのぞめない。他人から見れば都合よく使われているだけだが、まぁ40年近く勤めさせてもらったことへのお礼のようなもの。
 このようなことで結構毎日でかけることが続く。何をすることもなく一日を過ごさねばならないことに較べれば、気はまぎれる。
 労働組合の退職者会の建設関係の職場で退職した組合員約50名のブロックの幹事を気楽に引き受けたが、今年度からこのブロックでも、他のブロック同様に独自の会計処理をしなくてはならなくなった。こうなると独自の活動をしなくてはならない。独自の活動といってもブロックの会報というか、退職者同士の近況報告や共済の取り扱いの説明役などが主だし、年に数回(季刊くらいかな)の発行は特に困難ではないが、それなりに時間はかけなくてはならなくなる。A4の裏表一枚くらいの会報の編集を開始する準備に入ろうと思う。現役の頃はほぼ週刊でA4裏表の支部機関紙を1300枚ほど印刷・配布していたので「一太郎を使った縦書きの編集は特につらいわけではない。
 しかし同時に一緒にタッグを組んでくれる人を探さなくてはならない。1人で抱え込むのは体にも精神にもよくないし、会の発展にはならない。その上、小額とはいえ大事な退職者会の会費からブロック割り当てのお金を預かるしんどさもある。当面の活動としては来年2月始めの新年会への参加者の募集。私なりの組織展開のやり方で少しずつ輪を広げていこうと思う。

「二つのミンゾク学」シンポジウム

2012年12月09日 13時14分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等









 昨日は横浜での句会に出席する前、午前中は神奈川大学で開催された「二つのミンゾク学-多文化共生のための人類文化研究-」(主催:国際常民文化研究機構・神奈川大学日本常民文化研究所)の主催者挨拶と基調講演を聞いてきた。今回のシンポジウムの参加者は先週の「東アジアの日本研究の現状と未来」の40数名とは違って、約400名の会場に200名くらい。おそらく単位目当てであろう学生も多数参加していたが、それでもこのくらいの参加者だと私も座っていて場違いな感じはしなかった。
 午後のパネル報告も聞きたがったが、先に句会の予定が入っておりシンポジウム欠席は止むを得ない。
 そして本日は研究発表だが、これも午後は団地の管理組合の会議が入っているので参加できない。午前中だけでも出席しようと思っていたが寝坊してしまって参加できなかった。
 昨日の主催者挨拶の中で、常民文化研究所長の佐野賢治教授が「2008年には「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が両院で通過した。にもかかわらず、いまだに単一民族国家説を主張する国会議員もいる」と日本の現状に警告を発している。
 また「2012年は柳田國男(1875~1962)の没後50年。2013年は渋渾敬三(1896~1963)の50回忌」とのことである。しかしこのことで二人の業績の検証は残念ながら大きくは取り上げられていない。そういった意味でも、時宜を得たシンポジウムと言うことなのだろう。
 個々の発表・発言内容の要約にもまだ眼を通しきれていない。評価はまだまだ私の頭の中で煮詰まってはいない。
 ただし、基調講演は期待はずれ。スタンフォード大学名誉教授のハルミ・ベフ氏の発言では、「日本人の単一民族、民族文化主義に基づく排他主張は国家の体制側、大企業側に多いが、多くの外国人支援団体、また多大な支援者たちは日本の多文化/民族主義化に望みを欠けている」としているが、この分析には異議を挟まざるを得ない。国家の体制側、大企業側ではなく、市民レベルの排他的な主張が蔓延していること、これにどう対処するかが私には重要と思える。
 このような人を基調講演者に据えるというは、シンポジウム自体が現状の分析も出来ていないような印象を与えるので、ちょっと考え物である。

横浜での句会提出句2

2012年12月09日 12時13分07秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日は12月8日、真珠湾攻撃の日。1945年8月15日までの大量の戦死者を出した戦争の始まりの日である。
 句会でもある人が「十二月八日ぶらりと海に出る」という句を提出した。私も選に入れた。高点句になった。句としては「十二月八日」という重い背景を持った語句の後ろにさらりと「ぶらりと海に出る」という言葉の配置が気に入った。しかしそういう句の姿だけでなく、十二月八日があの戦争を体験していない世代もそれを句に取り入れたり、その意味が若い世代にも通じているということがとても大切な気がする。


横浜での句会提出句

★廃船の底に小春日鴎鳴く
→廃船の底に小春日大震災
★眉墨の不揃いさびし里神楽
→眉墨に不揃いありて里神楽
★柔らかきひかり溶け合い菊大輪
→ビル風のそこだけ和み菊大輪

震度4

2012年12月07日 19時42分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど神奈川大学の横浜キャンパス内で公開講座を受講しているとき、震度4の地震が来た。青森・岩手・宮城等で震度5弱の地震と津波警報発令とのこと。
 座っていた私の感じたのは最初の縦揺れから。天井からガタンという小さな音がして少しの揺れを感じたが、その後揺れ自体を感じないできょろきょろしているうちに横揺れを感じた。これは結構長く揺れたと思う。ただしゆっくりの揺れではなく小刻みの揺れで、案外震源は近いかなを思ったのだが、まもなく届いた地震メールで三陸沖とわかり、揺れ方からすると遠くに震源があるな、と思った。
 校舎に流れた放送ではエレベーターが一時止まったらしいがすぐに復旧したとのこと。講義はそのまま続けられ特に問題は生じなかった。
 家についてから東北の友人にメールをしたが、つながりにくくなっているようでまだ返事はない。北関東に住む友人は特に被害はなかったようだ。

 しかし60歳まで経験した仕事の関係か、あるいは大学での専攻の故か、地震というと私は情報に敏感になる。多分37年間も仕事で、地震や台風・雪・大雨ごとに職場に駆けつけていたのだから体が覚えてしまっている。テレビやラジオで、今では携帯のメールでつい昔のようにもたらされる情報を出来るだけ早く閲覧しようとする衝動に駆られる。今回も講義が続いている間も携帯のメールが受信を続けていて講義を聴きながら閲覧をしていた。情報を集めたからといって自分がどう行動しなくてはならないなどのことからはもう開放されているのだが、習慣とは怖ろしいものだ。

 そう、講義は17世紀のオランダ絵画のことで、ルーベンスとレンブラントというハイライトのところだった。講義が中止にならなくて良かった。


 明日は神大を会場に行われる国際シンポジウム「民族の交錯-多文化社会に生きる-」。午後から句会なので午前中に参加して記念講演を聞いてみようと思う。



追記
 津波警報・注意報は解除になったようだ。しかし石巻の津波1メートルというのは大きな値だ。被害はどうなのだろうか。

静かな一日

2012年12月07日 14時04分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は久し振りに朝からのんびり。朝のウォーキング&軽いジョギングのあと、明日の句会のために句帳を開いて、三句ほど一応書き付けた。

 あとは横浜駅でコーヒーでも飲みながら俳句の本と井月句集でも読んで、夕方からは神大の講座に出席予定。
 

ぶり大根

2012年12月05日 21時03分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は昼間からずいぶん飲んですっかり酔っ払ってしまった。昼の1時に以前の職場の先輩と楽しい時間を横浜駅そばの居酒屋で過ごした。
 その上おみやげにとれたての大根・柿・蜜柑・柚子までいただいて、ご満悦。家につく頃には足元もおぼつかなっかたがどうやら無事に帰着。さっそくいただいた大根を使ってぶり大根を妻につくってもらったが、出来上がったときには寝入ってしまった。
 先ほど起き出し、ぶり大根の大根を食べてみた。妻はとてもみずみずしくて切ると水がはじけ飛ぶようだった、味がよくしみた、と言っていた。帰ったのが遅く短時間の調理時間だったがぶりの味がよくしみていたように感じただけでなく、大根の味も充分感じたように思う。
 新鮮な野菜は味が濃く感じるというがそのとおりなのだろう。小学校の高学年の頃横浜の郊外に住んでいた。今では付近一帯すっかり住宅地だが、当時は畑と山林に囲まれていた。分譲地の近くの農家の方に時々野菜を分けてもらっていたようだが、私はその味はわからなかった。
 今から思うととてもいい環境だったと思うが、その有り難みは親も理解できていなかった。根っからの都会人、土から切り離された生活に違和感のない日々を過ごしてきた。
 この歳になって新鮮な野菜や果物の有り難み、おいしさがいとおしいと感ずる。

 とても嬉しいいただき物で、感謝・感謝である。

 妻は私よりも土に対して愛着があり、草花をベランダで育てている。二人で時たまベランダ菜園で野菜に挑戦してみようかといってみるが、踏ん切りがつかない。パセリをつくったくらいだ。私はせいぜい妻が育てる種々の草花を愛でるのが楽しみになっている。


大腸の内視鏡検査

2012年12月04日 17時49分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は大腸の内視鏡検査。市のガン検診でひかかり、この検査と相成った。実はこの大腸の内視鏡検査は9回目くらいになる。10年以上前に大腸の潰瘍となり、それがしつこく再発し4回ほどこれを受けて投薬治療を行った。その後も4回ほど経過を見るためにこの検査を続けてきた。その間に一度はポリープ切除を実施した。
 今度はガン検診で潜血反応があり、実施した。本日の検査を行った医師が撮影した画面を示しながら、「ポリープが離れた所に大小2ヶ所あり、小さいほうは全体を切除した。大きいほうも2回に分けて全体を切除できたと思われる。特に問題のないポリープのようなので心配はないだろう。前回ポリープを切除したところは問題なく治癒している。昔の海洋跡もきれいに治癒している。今回切除したところの所見の詳細は20日に説明をする」とのことであった。
 被検者も検査中に画面で進行状況がつぶさにわかる。これが嫌な方もたくさんいるようだが、私は画面を見るのが面白い。
 この病院では腸の動きを抑える注射をするだけでこの検査を実施するのだが、この9回の検査のうち、まったく痛くなかったのが2回。多少の痛みがあったものの特に気にならなかったのが3回ほど。1回はとても痛くて途中で麻酔をしてもらったが、検査終了後眩暈がおさまらなくなり、一晩入院させられた。もう1回もとても痛かったが、うなりながら我慢をした。直近の一昨年は近くの民間病院で受けたが、簡易麻酔をしてくれて、痛みはまったく感じなかった。
 今回は最初強烈に痛かった。思わず叫んでのけぞってしまった。最初の曲がっているところがループ状になっているとのことで、この痛みがあったようだ。そこを越えるとあとはほとんど痛みを感じないで終わった。大腸が90度曲がっているところはいつも多少の違和感がある。ただし空気を入れて腸を膨らませながら実施するので、検査中は腹が膨らむ感じてこれもちょっと違和感がある。また終了後にガスがスムーズに出ないと苦しい。腸の動きを抑えているのでこの薬が切れないとガスもスムーズに出ない。約1時間ほど待合室の椅子にうつ伏せの格好でガスが出切るのを待っていた。
 そして一段落してから、かけウドンを1杯ゆっくりと食べて病院をあとにした。ウドンの汁の塩気とカツオ出汁の味がお腹に染み渡るようでとてもおいしかった。タクシーで帰宅してもすぐだが、少しは歩いたほうがいいような気がして、ゆっくりと30分かけて歩いて家に着いた。家に着いてすぐに最後のガスが出て、ホッとした。

 しかし多分2年か3年以内にもう一度この検査をするように言われそうな按配だ。今は検査中もその後のガスの排出にも耐えられる体力があるが、今後はどうだろうか。本当は麻酔をかけてしてもらえると楽なのだが‥。20日に何といわれるのだろうか。

 さて、「夕食は、消化のよいものを。アルコールはダメ」との宣告。止むを得ないか。



美術館めぐり2

2012年12月03日 21時42分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 夕方からはブリヂストン美術館ナイトという企画に参加した。今ブリヂストン美術館では「気ままにアートめぐり-印象派、エコール・ド・パリと20世紀美術」展を開催している。





 ブログ・ツイッター・フェイスブックのアカウントを持っていることが参加条件ということで、申し込んだら100名のうちに入ることが出来た。
 当日は16時から入場可ということで、16時少し過ぎに会場に到着。常設展で見慣れている作品でも、展示の切口が違うとまた違った印象に見えるし、これまで通り過ぎていた絵にも足を止めて見入ることがある。
 16時過ぎに館内を見回った時に、足を止めたのは古賀春江の「涯しなき逃避」(1930年)と「感傷の静脈」(1931年)の2点。特に後者の暗い画面に描かれた無表情あるいは不安そうな女性像にのしかかるような顔の描かれていない人物像、これは画家自身の病の象徴なのだろうか。あるいは時代の象徴なのだろうか。興味がわいてきた。
 この2点の絵、いづれも昭和5年、6年という年代。1930年は共産党弾圧事件と政友党の圧勝と政友党内閣の濱口首相暗殺未遂事件がおきた年である。そしていわゆる満州事変へと到る柳条湖事件が軍部の謀略でおきた年が1931年である。この事件で日本国中が「反中国人意識」で熱狂した年である。絵画自体に時代とのかかわりを直接に求めるのは間違いとはわかっていても、そして本当は展覧会の副題にあるように「エコール・ド・パリ」という文脈の中で評価するのが本筋だとはわかっていても‥。ちょっと気になってしまう性分だ。
 一昨年に回顧展が行われたらしいが、私はその頃はこの画家についてはまったく無知であり、関心がなかった。今から思えば見逃したことはもったいないことであった。

 もうひとつは、いつ見ても不思議な存在感を見せてくれる1985年作のザオ・ウーキーの絵「07.06.85」。



 青い波のようなかたまりの不思議な青のグラデーションと墨書の線のような形をした白い線が描かれている。いつも大きな力で圧倒されるような気がする。現代絵画の中で私の好きな一点である。そしてその横にかけてある小さな「21.Sep.50」と言う作品。これはどうしても私はパウル・クレーの絵を連想してしまうのだが、私の連想の元になったクレーの絵は画集や図録をめくっても該当するような絵がない。単なる誤解なのか、判然としない。ただし解説ではクレーから多大な影響を受けたことがわかる。

 こうして会場を一巡した後、「ブリヂストン美術館ナイト」のイベント会場に入った。
 式次第は掲載のとおり。



 今年60周年を迎えるこの美術館のこれまでの企画の説明の後、トークイベントでは三菱一号館美術館の阿佐美学芸員とブリヂストン美術館の賀川学芸員のトーク。それぞれの美術館の特性や制約の中での企画展の難しさなど現場からの発言は短い時間の割には面白かった。
 ブロガーの意見交換会というパネルディスカッション形式では、鑑賞の手引きになるような話や資料もあり、これも聞いていて楽しかった。ブリヂストン美術館の所蔵する現代美術の一品として先ほどのザオ・ウーキーの作品が取り上げられていて、私としては自分の気に入った作品でもあり何かうれしく感じた。
 忘れてならないのは、セザンヌの「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」が貴重な作品ということ、これはそれとなく聞きかじって知識としては知っていたし、そして何回見ても好きな絵である。が、これほどの自負をお持ちだとは、「恐れ入りました。これからはもっとじっくりと拝見します」というほかはなかった。美術館としてのいい意味での「自負」「誇り」となり続けることを期待したい。
 このイベントのあと、会場で3点ほど絵画の説明が若い学芸員によって行われた。なかなか好感の持てる説明であった。
 美術館のカイユボットの「ピアノを弾く若い男」はドビュッシー展でお披露目になっていた。この絵事態は私はそれほど心惹かれてはいなかったのだが、絵解きでピアノの製造元が示され、これが高価なものであること、このモデルが画家の弟あること、画家は印象派の画家のパトロン的に役割も果たしていたこと、譜面台の横に置かれた楽譜はドビュッシーのピアノの師の作った教則本であることなど、ドビュッシー展でも紹介されていたことでもあらためて説明を受けて思い出すことが出来た。2回説明を受ければ私でも一応は記憶に残ると思う。
 その横に展示されているルノワールの作品2点につても説明があったが、どうもルノワールという画家、私は食わず嫌いなので耳に残らなかった。これは申し訳ないことをした。
 懇親会の会場には入ったが、ワインを2杯飲んだだけで特に会話には加わらなかった。しかしこのような企画は美術館と鑑賞者を結ぶオープンな場の設定としてはいい試みだと思う。美術といっても鑑賞のための知識は私にはほとんどない。たとえちょっとした知見でもいい、高価な図録に書かれたものだけでなく、口で伝えてもらえたらもっといい鑑賞が出来る。



 帰途は雨となったが、横浜についた頃には雨はほぼ上がっていた。

美術館めぐり

2012年12月03日 13時59分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は昼間に東京国立近代美術館を訪れ、その後ブリヂストン美術館で開催されたブリヂストン美術館ナイトに参加させてもらった。









 まずは東京国立近代美術館「美術にぶるっ-コレクションスペシャル日本近代美術の100年」展。
 60周年を期に所蔵品ギャラリーが10年ぶりのリニューアルとのことで訪れれてみた。
 まず今回の展示の中で松本竣介の回顧展が世田谷美術館で開かれているが、この美術館所蔵の2点が貸し出しされていないようで、「並木道」(1943年)と「建物」(1948年)が展示されていた。この2点は松本竣介の画業の中ではとても大切な位置を占める作品で、特に後者の「建物」は第2回美術団体連合展に出品された最後の作品3点のうちの1点。松本俊介が高熱におかされながら描いた遺作に等しい作品である。また「並木道」も戦争中の画家の心象風景を示す大切な作品だ。
 私が仙台の回顧展を訪れたときは2点とも展示されてあり、カタログにも掲載されている。私は仙台で見ることができて、さいわいであった。ひとつの流れの中でみることができるのは大切な経験であった。
 今回の展示でひかれた作品というか、気がついた作品は香月泰男の「青年」(1954年)と出会ったこと。これまで香月泰男の作品はシベリアシリーズ全作品ばかりに目を奪われていた。むろんいろいろな展覧会でシベリアシリーズだけではない他の作品は目にしていたはずだが、今回あらためてこれを見て足を止めた。独特の角張った人物像が砂場のようなところに横たわっているのだが、配色の面白味、そして何か放埓な生命のエネルギーを持て余しているような具合に伸ばしている手足にとても惹かれた。
 またまた好きになってしまった。
 さらに、下村観山の「木の間の秋」(1907年)は江戸琳派の絵のような印象を受けて足を止めた。ふだんは足を止めることもない下村観山なのだが、すごい写実力だなと思った。
 また福田平八郎の「雨」(1953年)は以前の山種美術館での「福田平八郎と日本がモダン」展では後期展示のため見ることができなかった作品であった。この時の展覧会のチラシに印刷され、展覧会の目玉作品なのに、展示期間中全期間展示されていないことで切符売り場で抗議している人がいた。私もチラシの片隅の小さな文字を見てがっかりした記憶がある。
 あらためてこの作品を見ることができたが、解説にもあるとおり写実を突き抜けたところにある抽象の妙というものを感じた。
 最近見た藤牧義夫の「赤陽」にも再び会うことが出来た。
 藤田嗣治の「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」の迫力はあらためていわゆる「戦争画」について考えさせられる。これについてはいつか私見をまとめたいと思っているのだが、私の力不足でいつも押し潰されてしまう。
 写真では石元泰博「ポートフォリオ「桂」」のシリーズの内の2点と東松照明「アスファルト」。この二人の写真はどれも好きだ。

 セクション2の1950年代の作品が1階展示室にあった。この中では写真の力をあらためて感じた。私が足を止めたのは土門拳の原爆のシリーズと、川田喜久治の原爆のシリーズ。土門拳が被爆者の身体と表情にこだわり、人に刻印された原爆という実相にこだわる。川田は原爆ドームの細部に残された痕跡、そこに累積する時間の重みにこだわる。
 こだわる被写体に対する違いが、両者の違いではあるが、今の時点でみれば共に「被爆」という時間の累積に真正面から向き合う力を感じた。
 また東松照明の「家」シリーズも古い民家の細部のクローズアップによる造形的な画面にとても心惹かれた。そしてこのシリーズの写真が香月泰男とおなじ山口県立美術館の収蔵品と知り、ここを訪れてみたくなった。

本日の予定

2012年12月02日 11時36分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は神奈川大学のキャンパスにて「東アジアの日本研究の現状と未来」と題したシンポジウムに参加した。100人以上入れる会場に終始40名余と一般参加の私はとても恥ずかしいというか、闖入者のような気分。詳しくは明日以降アップの予定。

 残念ながら15時で途中退席し、友人たちとの忘年会参加のため新宿まで出向いた。帰宅が23時半。昨日のうちに帰宅出来てホッとした。

本日は夕刻からブリジストン美術館の予定。