Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

美術館めぐり2

2012年12月03日 21時42分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 夕方からはブリヂストン美術館ナイトという企画に参加した。今ブリヂストン美術館では「気ままにアートめぐり-印象派、エコール・ド・パリと20世紀美術」展を開催している。





 ブログ・ツイッター・フェイスブックのアカウントを持っていることが参加条件ということで、申し込んだら100名のうちに入ることが出来た。
 当日は16時から入場可ということで、16時少し過ぎに会場に到着。常設展で見慣れている作品でも、展示の切口が違うとまた違った印象に見えるし、これまで通り過ぎていた絵にも足を止めて見入ることがある。
 16時過ぎに館内を見回った時に、足を止めたのは古賀春江の「涯しなき逃避」(1930年)と「感傷の静脈」(1931年)の2点。特に後者の暗い画面に描かれた無表情あるいは不安そうな女性像にのしかかるような顔の描かれていない人物像、これは画家自身の病の象徴なのだろうか。あるいは時代の象徴なのだろうか。興味がわいてきた。
 この2点の絵、いづれも昭和5年、6年という年代。1930年は共産党弾圧事件と政友党の圧勝と政友党内閣の濱口首相暗殺未遂事件がおきた年である。そしていわゆる満州事変へと到る柳条湖事件が軍部の謀略でおきた年が1931年である。この事件で日本国中が「反中国人意識」で熱狂した年である。絵画自体に時代とのかかわりを直接に求めるのは間違いとはわかっていても、そして本当は展覧会の副題にあるように「エコール・ド・パリ」という文脈の中で評価するのが本筋だとはわかっていても‥。ちょっと気になってしまう性分だ。
 一昨年に回顧展が行われたらしいが、私はその頃はこの画家についてはまったく無知であり、関心がなかった。今から思えば見逃したことはもったいないことであった。

 もうひとつは、いつ見ても不思議な存在感を見せてくれる1985年作のザオ・ウーキーの絵「07.06.85」。



 青い波のようなかたまりの不思議な青のグラデーションと墨書の線のような形をした白い線が描かれている。いつも大きな力で圧倒されるような気がする。現代絵画の中で私の好きな一点である。そしてその横にかけてある小さな「21.Sep.50」と言う作品。これはどうしても私はパウル・クレーの絵を連想してしまうのだが、私の連想の元になったクレーの絵は画集や図録をめくっても該当するような絵がない。単なる誤解なのか、判然としない。ただし解説ではクレーから多大な影響を受けたことがわかる。

 こうして会場を一巡した後、「ブリヂストン美術館ナイト」のイベント会場に入った。
 式次第は掲載のとおり。



 今年60周年を迎えるこの美術館のこれまでの企画の説明の後、トークイベントでは三菱一号館美術館の阿佐美学芸員とブリヂストン美術館の賀川学芸員のトーク。それぞれの美術館の特性や制約の中での企画展の難しさなど現場からの発言は短い時間の割には面白かった。
 ブロガーの意見交換会というパネルディスカッション形式では、鑑賞の手引きになるような話や資料もあり、これも聞いていて楽しかった。ブリヂストン美術館の所蔵する現代美術の一品として先ほどのザオ・ウーキーの作品が取り上げられていて、私としては自分の気に入った作品でもあり何かうれしく感じた。
 忘れてならないのは、セザンヌの「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」が貴重な作品ということ、これはそれとなく聞きかじって知識としては知っていたし、そして何回見ても好きな絵である。が、これほどの自負をお持ちだとは、「恐れ入りました。これからはもっとじっくりと拝見します」というほかはなかった。美術館としてのいい意味での「自負」「誇り」となり続けることを期待したい。
 このイベントのあと、会場で3点ほど絵画の説明が若い学芸員によって行われた。なかなか好感の持てる説明であった。
 美術館のカイユボットの「ピアノを弾く若い男」はドビュッシー展でお披露目になっていた。この絵事態は私はそれほど心惹かれてはいなかったのだが、絵解きでピアノの製造元が示され、これが高価なものであること、このモデルが画家の弟あること、画家は印象派の画家のパトロン的に役割も果たしていたこと、譜面台の横に置かれた楽譜はドビュッシーのピアノの師の作った教則本であることなど、ドビュッシー展でも紹介されていたことでもあらためて説明を受けて思い出すことが出来た。2回説明を受ければ私でも一応は記憶に残ると思う。
 その横に展示されているルノワールの作品2点につても説明があったが、どうもルノワールという画家、私は食わず嫌いなので耳に残らなかった。これは申し訳ないことをした。
 懇親会の会場には入ったが、ワインを2杯飲んだだけで特に会話には加わらなかった。しかしこのような企画は美術館と鑑賞者を結ぶオープンな場の設定としてはいい試みだと思う。美術といっても鑑賞のための知識は私にはほとんどない。たとえちょっとした知見でもいい、高価な図録に書かれたものだけでなく、口で伝えてもらえたらもっといい鑑賞が出来る。



 帰途は雨となったが、横浜についた頃には雨はほぼ上がっていた。

美術館めぐり

2012年12月03日 13時59分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は昼間に東京国立近代美術館を訪れ、その後ブリヂストン美術館で開催されたブリヂストン美術館ナイトに参加させてもらった。









 まずは東京国立近代美術館「美術にぶるっ-コレクションスペシャル日本近代美術の100年」展。
 60周年を期に所蔵品ギャラリーが10年ぶりのリニューアルとのことで訪れれてみた。
 まず今回の展示の中で松本竣介の回顧展が世田谷美術館で開かれているが、この美術館所蔵の2点が貸し出しされていないようで、「並木道」(1943年)と「建物」(1948年)が展示されていた。この2点は松本竣介の画業の中ではとても大切な位置を占める作品で、特に後者の「建物」は第2回美術団体連合展に出品された最後の作品3点のうちの1点。松本俊介が高熱におかされながら描いた遺作に等しい作品である。また「並木道」も戦争中の画家の心象風景を示す大切な作品だ。
 私が仙台の回顧展を訪れたときは2点とも展示されてあり、カタログにも掲載されている。私は仙台で見ることができて、さいわいであった。ひとつの流れの中でみることができるのは大切な経験であった。
 今回の展示でひかれた作品というか、気がついた作品は香月泰男の「青年」(1954年)と出会ったこと。これまで香月泰男の作品はシベリアシリーズ全作品ばかりに目を奪われていた。むろんいろいろな展覧会でシベリアシリーズだけではない他の作品は目にしていたはずだが、今回あらためてこれを見て足を止めた。独特の角張った人物像が砂場のようなところに横たわっているのだが、配色の面白味、そして何か放埓な生命のエネルギーを持て余しているような具合に伸ばしている手足にとても惹かれた。
 またまた好きになってしまった。
 さらに、下村観山の「木の間の秋」(1907年)は江戸琳派の絵のような印象を受けて足を止めた。ふだんは足を止めることもない下村観山なのだが、すごい写実力だなと思った。
 また福田平八郎の「雨」(1953年)は以前の山種美術館での「福田平八郎と日本がモダン」展では後期展示のため見ることができなかった作品であった。この時の展覧会のチラシに印刷され、展覧会の目玉作品なのに、展示期間中全期間展示されていないことで切符売り場で抗議している人がいた。私もチラシの片隅の小さな文字を見てがっかりした記憶がある。
 あらためてこの作品を見ることができたが、解説にもあるとおり写実を突き抜けたところにある抽象の妙というものを感じた。
 最近見た藤牧義夫の「赤陽」にも再び会うことが出来た。
 藤田嗣治の「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」の迫力はあらためていわゆる「戦争画」について考えさせられる。これについてはいつか私見をまとめたいと思っているのだが、私の力不足でいつも押し潰されてしまう。
 写真では石元泰博「ポートフォリオ「桂」」のシリーズの内の2点と東松照明「アスファルト」。この二人の写真はどれも好きだ。

 セクション2の1950年代の作品が1階展示室にあった。この中では写真の力をあらためて感じた。私が足を止めたのは土門拳の原爆のシリーズと、川田喜久治の原爆のシリーズ。土門拳が被爆者の身体と表情にこだわり、人に刻印された原爆という実相にこだわる。川田は原爆ドームの細部に残された痕跡、そこに累積する時間の重みにこだわる。
 こだわる被写体に対する違いが、両者の違いではあるが、今の時点でみれば共に「被爆」という時間の累積に真正面から向き合う力を感じた。
 また東松照明の「家」シリーズも古い民家の細部のクローズアップによる造形的な画面にとても心惹かれた。そしてこのシリーズの写真が香月泰男とおなじ山口県立美術館の収蔵品と知り、ここを訪れてみたくなった。