Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ひとつずつ‥

2012年12月29日 22時00分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 懇意にしていただいている方から「子供が小さい頃、『ひとつずつ、ひとつずつ』と教えてきたが、最近は自分があせって何かをしていると、子供にそのことをいわれる」という話を聞いた。とても大事なことだと思う。
 そして最近、ブログを訪れてくれる葦原の山姥様から「一日ひとつ」というアドバイスをコメントでいただいた。通りがかり人様からもそのことの大切さを指摘された。そう、肝に銘じなければいけない。
 少しニュアンスの差はあっても、ひとつのことをキチンと丁寧に片付けながら前に進んでいく、一日を暮らさなくてはならないということでは共通している。とても大切な教訓だ。
 会社や職場ではつまらない処世訓を「人生哲学」だとか称して上司がつまらない訓示をする。底が浅くて、受け売りで、そのまま訓示を垂れる人間にお返しをしたいのだが‥。私にしてみれば、それらの言葉はとても聞くにとても耐えられない。
 しかし先に上げた言葉などこそ大切な言葉に聞こえる。特にこの歳になって、気持ちが浮ついているときなどには忘れてはならない言葉だと思う。

 本日は年明けに観光旅行で訪れるベトナムの食事とはどのようなものなのか、ということでベトナム料理の店で夕食を食べてみた。実はベトナムを選択したのは妻なのだが、当の本人が4泊5日どんな料理か不安だと言い出した。何でも食べてしまう私と違って、妻は多少食べるものに得手・不得手がある。
 夕食として食べたのは、揚春巻き、蒸し鳥、豚の耳が入ったベトナムハム、鶏肉のフォー。お酒はベトナムのビールと、私はベトナム産の焼酎。妻は豚の耳入りのハムについては少々抵抗があったようだが、あとは何とか口に出来、これならばと、一応安心したらしい。ただし付け合せの香草(パクチー)とベトナム醤油のヌックマムは苦手らしい。私は特に気にならなかったというより、おいしいと感じた。
 ベトナムは昔フランスの植民地を経験したのでフランス料理の流れが入っているようだ。そして同じように中国の周辺にあって中国料理の影響があると思っていたが、朝鮮半島の料理と違うなと感じたのは、肉にしろ野菜にしろ素材の味付けがあっさりしている。というよりほとんど味は付けていない。つけあわせというかかけるソースにさまざまな工夫がしてあり、これがおいしい。ある意味では朝鮮・韓国の料理よりも我々にはなじめるのかもしれない。ほんのいくつかの料理を試してみただけだから的外れかもしれないが、こんな印象をもった。

 さて昨日新宿の飲み屋で飲んだ日本酒は「一ノ蔵」という宮城県のお酒。一緒に飲んだ仲間も同じものを注文した。大学が仙台だったからか、名前は昔からよく知っているのでつい注文してしまう銘柄のひとつだ。
 しかし不思議なことに、知っている東北の銘柄がなくても、ついつい無意識にでも東北地方のお酒を選んでしまう。どこか懐かしさがあるのだろう。特に味がいいとか、そのようなことはわからない。そんなに立派な味覚、酒の鑑定能力があるわけではない。でもお酒のメニューで東北六県の地名があると自然にそれを指定してしまう。

 そして、本日のベトナム料理のあと、元旦のお酒は何にしようかと酒屋に寄ってみた。全国各地のお酒が並んでいたが、やはり無意識のうちに東北地方のお酒を探していた。そして今年のお酒として選んだのが「鳴瀬川」というお酒。特に高いものでもないし(そう、それがいいのである)、精米歩合が高いというのでもない。「確か昔、宮城県に鳴瀬町があったな」位の思いで購入した。

    

 ネットで検索したら鳴瀬町と矢本町が合併して東松島市となっていた。そして鳴瀬川は舟形山からこの東松島市の旧鳴瀬町地区で太平洋に注いでいる。醸造元の加美郡加美町はこの川の最上流に位置する地域だ。そして東松島市あたりの仙石線は昨年の大津波で寸断され大きな被害をこうむったあたりだ。旧鳴瀬町区域の区間は確か、内陸側に移設せざるを得ないとも聞いた。このお酒の醸造元は奥羽山脈の舟形山の方だから津波の被害はなかったかもしれないが‥。
 何はともあれ、私の嗜好は東北方面にあるのは間違いがなさそう。

 もうひとつ、午前中にアップした昨日の報告で私がすっかり忘れていた内容、同窓会のような集まりは「やはり仙台で」ということであった。時期はいくつかの候補があったのだが、時期については呼びかける方・参加予定者の都合も聴きながら確定しないと参加者が確保できない。これからの論議にゆだねざるを得ない。むろん案は作成しなくてはならないが‥。まぁいろいろな人の意見を聴きながら進めるのが楽しみのひとつでもある。

懐かしい友人

2012年12月29日 12時06分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は学生時代に同じ理学部に在籍した友人3人で新宿で待ち合わせた。電話連絡が取れる範囲の東京近辺在住の方に急遽連絡をした。当初5人の予定だったが2人が都合がつかなくなり、ちょっとさびしかったが3人で決行。
 新宿駅西口で待ち合わせたが、多くの企業が仕事納めの金曜日だったこともあり、ずいぶんと人出が多くて、待ち合わせ場所まで戸惑った。
 集まった3人はいづれも横浜と横浜より南の居住だったので、何も新宿で会う必要がなかったのだったが、それは会ってから気がついた。
 「思い出横丁」、これまでも幾度か中をとおり過ぎたが、ちょっと1人で店に入りづらかったので、今回初めて店に入ったことになる。ずいぶん混んでいた。2時間と言われたが、我々には十分な時間で、しかも支払いは1人2500円ですんだ。確かに安いように思える。
 帰りは3人で湘南新宿ラインに乗り、私が最初に横浜でおりて別れた。

 多くの友人が卒業後約38年。当時の学内状況を反映して、卒業しなかった者も多い。在籍した理学部の各学科、あるいは各専攻に関連ある企業や職場に就職した人間はとても少なかった。就職指導も斡旋などなっかたし、そんなことで学校に世話になることをいさぎよしとしない雰囲気が当然だった。
 その上にひとつの企業や仕事を続けた人間はさらに少数。皆が多くの苦労を重ねている。私は幸いに同じ仕事を続けたが、それでも卒業した理学部とはまったく関係のない事務職の地方公務員だ。その上、仕事のほかに労働組合の役員をずっとやってきた。
 それでも同じ仕事・職場・雇用関係を続けたということがいえそうだ。別に安穏としていたわけではない。ずいぶんと刺激の多い37年間であった。それぞれがどのような約40年を生きてきたか、話は尽きないと思う。

 さて、全国に散らばっているが連絡の取れる範囲で集まろう、ということを話したのだが、それがいつごろに、どこでしようとしたのか、とんと記憶がない。お酒の所為もあるし、懐かしい話や友人の近況で話が弾んでためである。もう一度メールにて確かめながら、次のステップを踏まなければならない。何のために一緒に顔をあわせたのか、情けない話である。
 ただし60歳で退職した私に裏方をやれという結論だけは覚えている。それはやむをえないと私も了解はしている。しかしこんな物忘れのひどい私が裏方を出来るのであろうか。これも情けない話である。