Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ちょっとだけ散歩

2012年11月04日 20時54分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕方近くなってクシャミ、喉の痛みも収まり、鼻水もほとんど気にならなくなった。15時半過ぎに日の当たる内に少し散歩がしたくなり、妻に付き添って近くまで買い物に出かけた。集めの上着を着せられてゆっくりと日向を歩いた。
 近くの大学まで歩いたが、大学祭をやっていて賑わっていた。本日が最終日なので、時間が許せばぶらっと中に入ってみたかったが、買い物の時間も必要なので断念。若い人群れに追い越されながら、喫茶店で一服。買い物を済ませてからまたゆっくりと歩いてきた。往復で約1時間と少し。
 帰ってから少々咳き込んだがすぐに止まったので一安心。明日は夜から雨の予想で日中は曇りとのこと。明日は1人で歩いてみたいと思う。途中で喫茶店にでも入りながらゆっくりと。

 先ほどまでこの一週間で作った俳句の整理と、古い俳句の手直しを20句ほど。
 徐々に頭の動きが活発になるようにしたいものだ。それから昨日今日とお酒は飲まなかったので、明日はちょっとだけ再開しようと思うが、さて許してもらえるだろうか。明日は尿酸値の薬が切れ掛かっているので病院へ行き、ついでにとりあえず一昨日からの症状を伝えて医師の判断を聞いてみよう。まぁお酒については医師はだめとはいわないだろう。
 しかし本当の手ごわい相手は搦め手にいる。ウーンこれが厄介だ。

 散歩の途中、早くも咲いている白い山茶花と、我がベランダに咲いた菊を玄関に飾ったものを撮ってみた。

黄菊は昨年購入したものがチラホラ我が家のベランダで咲き始めた。


サザンカは団地の傍の大きなマンションの周囲に植えられたもの、随分と早く咲いたと思う。白い色が飛んでしまったのは写し手の未熟にため。


追記:当初のサザンカの写真は大納言様に修整していただいて、見やすくなった。大納言様、ありがとうございました。

秋日好天

2012年11月04日 13時06分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 とても好い秋の日となった。こんなお出かけ日和に一日家に籠もっていなければならないのはとても苦痛なのだが、致し方ない。せめて軽く散歩などしたいのだが‥。
 明け方少しクシャミは出たが、朝食後はクシャミは出ていない。ハナミズもほとんど出ない。喉の痛みが少々残っている。ただし頭の思い感じが少し残っている。

 体を動かすことが好きになってこの方、ずっと家にいることはとても苦痛だ。それがいつごろからそうなったかは判然としない。少なくとも高校三年までは出不精だった。大学に入っても1年間くらいは、授業に出る時間以外はそのまま下宿に引きこもっていたような気がする。
 2年目から授業に出る頻度は少なくなったが、仙台の街中を歩くことは多くなった。それでも住んでいるアパートと学校、繁華街に限られていた。通学路の近辺は狭い路地裏まで隈なく歩き回り、いつも往復2時間は歩いていた。繁華街、アパート、学校この三点を結ぶ線は随分細かくそれぞれに広範囲に歩き尽くした。ただし仙台市内の観光地自体はそれほど歩いてはいない。だから仙台市内全体についてはそれほど詳しくは知らないで5年間過ごしてしまった。バスに乗るのも、当時の国鉄に乗るのもどっちかというと億劫であった。
 就職してしばらくは東京のあちこちの美術館・博物館などを巡り歩いたが、その近辺以外はよくわからないし、日曜日位にしか出かけなかった。当初土曜日も一日勤務の職場だったので、土曜日が半日の職場がうらやましくてうらやましくてしょうがなかった。
 本当に出歩くことが好きになったのは、その後大学時代の友人に連れられて丹沢や奥秩父・八ヶ岳などに出向くようになったころか、結婚して子供が生れた直後から始めたダイエットを始めた頃、どちらからだろうか。
 山歩きを始めた頃は日曜日に住んでいる地区内を意識的に早歩きするようになった。ダイエットを始めた当初は毎晩夜中前に6キロほどの周回コースを全力で走っていたが、次第に昼間職場の周りを走るようになった。
 この早歩き時期かダイエットを始めた時期、体を動かすことになれるに従って土・日に昼間じっとしていることが苦痛になってきた。よく子供を抱えて、住んでいる地域の中を歩き回ったと思う。そして登山の計画も年に3回くらいだが、中部山岳地帯を中心に列島全体に広がってきたと思う。登山など行ったことの無い妻まで、子供が赤子のときは祖父母に子供を預け、山に連れ歩いてきた。

 今では、出不精とはいわれた頃とはまったく逆の性格になってしまった。出歩かないと落ち着かないのだ。体を動かす時間がないといらいらしてくる。せめて1時間の早歩きがないと体の、特に足の筋肉がむくんでくるような感情がわいてくる。実際にむくむことはないのだが‥。さらに家の外の空気を吸わないと頭が重くなってくる。出来るだけ換気を良く、それも窓を開け放つ時間をたっぷりと確保しないと不安になる。高校生のころまでは締め切った部屋が当たり前で、窓を開け放すなどまずありえなかった。随分と変わったものだ。

 家でじっとしている間、昨日は三回もブログをアップしてしまった。頭がそれほど回らないので、俳句も出来ないし、本も読む気にならず、スマホでネットサーフィンをして時間をつぶした。そして本日もだらだと駄文を書いてしまった。早く全快して外に飛び出したい。

お見舞いのメール・コメント感謝

2012年11月03日 22時12分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 風邪かもしれないと記載したら、葦原の山姥様、通りがかり人様、大納言様から親切なコメントをいただき、そのほかお見舞いのメールも2つ頂戴した。ありがとうございます。とりあえず熱は出ないのでこのままおさまる気配がある。熱が出たら休日急患診療所にかかるつもり・・。

 ずっとベットから窓の外を眺めていたが、今日はとても寒々しいようすであった。特に夕刻、日が暮れそうなときは部屋の中まで寒気が入ってくるような気配がした。夕方のうすいだいだい色の陽射しがさびしげに見えた。
 事実部屋の気温が18度をきったので、妻が押入からガスストーブを出してきた。毎冬私の部屋で使う小型の方を使った。すぐに20度を越えたので我が家の基準に従い消すことになったが・・。そして掛け布団を夏掛けから冬用にした。私が重い布団が嫌いなので今日まで夏掛けで通してきたが、妻にしかられてようやく替えた。
 さて我が家は5階建ての1階なので、2階以上より確実に3度くらいは室内気温が低い。冬は暖房費がかかる。もっとも20度を越えるとすぐに消すのでそれほど高くはならないが。二人とも冷暖房はあまり好まない。
 
 多少よくなったみたいだが、終日喉が痛く、時々くしゃみが連続して出て、鼻水もたれてくる。頭が重くつらい。窓の外を見るとき以外は、終日うつらうつらして、頭がぼーっとしている。メールを見たり、ブログを書くことで多少の頭の体操になったかもしれない。

あれまぁ、土曜日されど祝日

2012年11月03日 12時34分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 風邪の症状がおさまらない。土曜日であるので、病院はやっているはずだと思いとぼとぼと15分歩いて出かけた。
 ところが病院はしまっている。腕時計の曜日を見ても、携帯電話の時計を見ても間違いなく土曜日である。そしてまだ11時20分、12時前だ。どうもおかしい。医師の具合が悪くなって休みかなとも思ったが、張り紙もない。念のため携帯電話のスケジュール帳のカレンダーを開けてようやく本日が「文化の日」なる祝日であることに気づいた。気づくまで5分近くもかかったような気がする。
 何とも情けないというか、とうとうやってしまったという感じだ。全国的な祝日も日常生活にはほぼ関係ない。土曜日に重なっていても特に支障はないので、考慮することもなくなっている。しかも定年前、仕事をしていた時は手帳で日程管理をしているので毎朝手帳を見てから出かけていた。また朝刊の少なくとも一面の見出しは見ていた。だから祝日かどうかはすぐわかった。定年になって毎日が日曜日、朝食の時に朝刊に目を通すことも稀になった。手帳を見ることもなくなった。時々不定期に携帯電話のスケジュール帳を覗くくらいだ。

 念のため近くのもうひとつの病院ものぞいてみたがやはり休みであった。(当たり前で確認する必要もないのだが‥)
 またとぼとぼとうつむいたまま、くしゃみをしながら帰ってきた。今日・明日とただ静かに寝ていることしかないようだ。
 こんな失敗、昨日の物忘れに続いて経験してとても悲しい。


 下を向いて、ゆっくりと歩いていると気づくこともある。団地の中でツワブキの黄色い花とシュウメイギクの花を見つけた。シュウメイギクは10月始めに穂高山の麓の穂高温泉で見かけて以来だから、横浜はそこよりも約1ヶ月の季節の差があることになる。
 ツワブキの黄色はこの時期なかなか鮮やかな目立つ色をしている。そして少しだが、団地の外の大きなマンションの周囲に植わっているサザンカが一部白い花をもうつけている。





風邪かな?

2012年11月03日 09時21分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩からクシャミとハナミズ、喉の痛みがひどい。多分風邪と思われる。いつもは家に常備している「プレコール」の顆粒を1回服用すると症状はおさまり回復してくれる。しかし昨晩はぜんぜんよくならなかった。今朝になっても症状がおさまらない。柿をこの3日続けて食べたが遅かったか。
 本日はおとなしくジッと寝ていろ、というサインのようだ。幸い土曜日で午前中は病院はやっている。1ヵ月に一度尿酸値を下げる薬を処方してもらう病院に週明けに行く予定だった。予定を早めて本日訪れて診察してらおう。

 昨日なんとなく肌寒く感じたが、元気なときの心地よい寒さではなく、ゾクゾクするような身体が疲れているような感覚であった。今となってみると、というのが病気になった時に、症状がひどくなってからいつも思うことだ。
 夏の疲れの蓄積も原因かもしれない。急激な夏から晩秋への季節の変化に身体がついていけなかったのかもしれない。服装が気温の変化にマッチしていなかったのかもしれない。

 今日・明日は気温も低い予想。おとなしくしていよう。
 

ランチの値段&物忘ればかり

2012年11月02日 19時49分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は出かけたものの物忘れ3題となんとも情けない結果となった。
 お昼に二人で出かけて思いがけなくも予定より安いランチにありついて、ほくほくしていた。横浜駅に着いたときにはちょうどお昼時の終了間際の時間帯であった。近辺ではたらくサラリーマンや店員向けに路上でお弁当を売っていた。私が現役の頃、関内の駅や新横浜の駅でも盛んに売っていた。関内や新横浜の傍で会議が行われたときなど時々利用していたが、大体500円前後から600円までがその頃の相場だったような気がする。その頃といってもわずか半年前だ。
 しかし本日見た相場は高くて450円。安いお弁当になると250円、サンドイッチ100円というものまで並んでいた。横浜駅では競争が激しく安いのかと思ったり、この半年で相場というよりサラリーマンの懐状態が更に悪化したのか、判断がつかなかった。
 シャルダン展を丸の内で見たとき、お昼の時間帯であったので同じ敷地のビルの地下の食堂街をのぞいたら、レストランなどの店で提供するランチは一番安いので800円で上限は大体1000円くらいだった。むろん1000円を越えるものもあったが‥。それが丸の内界隈の一流企業に勤める人のランチの相場かなと観察した。ただし同じ地下のコンビニエンスストアでは長蛇の列で、パンやおにぎり、カップめんなどを購入している人も相当数いたし、当然お弁当の人もいるので、平均はもっと価格が下がるとは思うが‥。
 それと較べても横浜駅のお弁当の値段は随分と安いと感じた。

 さて私たち二人は、普段のお昼は極めて質素である。妻は1人の時は冷蔵庫から冷凍のご飯を温めておにぎりなど。私もコンビニエンスストアで菓子パン1個と缶コーヒーを公園など適当なところに腰掛けて。良くて安いコーヒーのチェー店でコーヒーとデニッシュ1個だ。だからといって、二人そろって公園で食べるのは恥ずかしい。
 そんな二人が中華料理店で以前見かけた土・日880円のランチ、それが平日は630円というのを見つけ、これはお得と店に入った。土・日のランチと同じメニューの上に更に春巻きが1個ついていてご満悦。とても得した気分で出てきた。
 このランチの後、時計の電池交換を頼むことと、いつもの整形外科に行って電気治療を行うことと、飼っているセキセイインコ用のチンゲンサイを購入すること、そしてスーパーでの買い物を目当てに横浜駅へもどった。まず家電の量販店で電池交換の注文を行ってからスーパーへ。
 まずここでチンゲンサイを買い忘れ。次に買い物の後、コーヒー店でコーヒーを飲んで、時計を受け取り医者に行こうかと話をしながら喫茶店を出た瞬間に二人の頭からこのことがまったく頭から抜け落ちていた。わずか5分もしない時間、コーヒーの支払いは店に入るときに済ましているので下膳の手間の間にすべて忘れてしまったということだ。
 二人ともまったく気づかずに地下鉄に乗り、歩いて家の前に着いたときにふと妻が「時計はどうしたっけか?」と思い出した。二人で顔を見合わせてため息をつくばかり。そして妻のさらに一言「チンゲンサイ忘れた」。
 一旦家に入りなおして一息ついてから、私はブログでシャルダンの記事をアップした後、やむなく私一人で再度横浜駅まで出かけ、整形外科での治療・家電量販店での時計受け取り・チンゲンサイ購入を済ませて帰宅。
 手間自体は大したことはなかったし、気づいた時間も早かったので病院にも十分に間に合った。しかし二人そろって同時にしかも3つの件を失念したこと、それもわずか5分の間に‥、このことはかなりショックだった。
 悲しい一日になった。

 本日は昼間太陽が出ていたものの何となく肌寒い感じ、夕方以降は一層肌寒く感じ、夕方再度外出したときは夏の上着から冬用の上着に着替えた。明日からはさらに気温が下がるらしい。これが平年並みの気温らしいが、9月いっぱい残暑というより真夏の陽気だったので、体がなかなかついていかないような気がする。
 夜には厚めの長袖のTシャツ1枚では寒く感じて、フリースのチョッキを引っ張り出して着込んだ。これは冬用のコートに付いていた脱着式のチョッキ。コートと一緒に着るとモコモコした感じになるし、暑いのでコートと一体では着たことがない。しかも体重が多かったときに体にあわせて購入したものなのでダブダブである。

 しかしこれを着て鏡に映してみるとこれはとても年よりじみて見える。爺むさい、という言葉がぴったりの様子である。10歳以上は年上に見えるようだ。やはりとても悲しい。


シャルダン展を見に行く

2012年11月02日 17時14分49秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




 先日東京丸の内にある三菱一号館美術館で「シャルダン展-静寂の巨匠」を見に行った。
 ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)というフランスの風俗画・静物画の巨匠ということだが、日本での始めての個展らしい。私は残念ながらシャルダンという名を始めて聞いた。19世紀半ばに再評価され、ミレー、マネ、セザンヌ、マチスなどに影響を与えたという。 チラシの「木いちごの籠」という絵を見て大いに興味をそそられた。この絵、描かれた対象物全体に効果的な光が当てられたように、浮き上がって輝いている。グラスと充たされている水・カーネーション・桃・サクランボそして木いちごとそれを盛っている籠、どれもがその存在をあくまでも控えめに自己主張している。第一印象としてとても好ましい絵に思えた。
 チラシの裏面の「食前の祈り」も実に静かな画面である。静寂の巨匠というのはなかなかのフレーズではないかとも感じた。
 展示されている絵画はそれほどの数ではないので、これでシャルダンという画家の全貌がわかるわけではないが、それでも充実した時間を過ごしたという満足感がある。
 一巡して、最初の頃の生々しい肉や、ウサギなどの狩猟の獲物の絵は少々私たちには刺激の強い題材だ。ウサギの死体だけを描いた絵はあまりの生々しさにドキッとしたことは確かだ。しかし他の物と組み合わされた絵は、光線の描き方の具合や、取り合わせの野菜や陶器や金属製の鍋などの存在感が大きいためだろうか、それほどの刺激とは感じなかった。
 丹念な描き方をした画家ということだが、肉・魚などの食材のほかに金属製の鍋、陶器のいれもの、野菜や果物の植物系の食材、食器などが丁寧にそして構図の中で確かな存在感を与えられて描かれている。
 私は特に陶器・ガラスの質感に感心した。金属製の鍋なども、食材もいいが、陶器・ガラスの描き方がとてもいい。艶や光の反射の仕方がとても好ましい。
 しかし展示場の最後の方の部屋で、チラシに載っていた「木いちごの籠」を見たとき、妙なことが気になった。それはこの木いちごの質感が印刷とは微妙に違うことに気づいたからだ。
 木いちごの盛り方が実際にはありえないような盛り方なのではないかということだ。あのように整然と円錐形に盛る方法はあるのだろうか。盛り付けてからギュッと手で圧縮して整形するか、描かれてはいないが蜜などのような透明なもので固定しない限り、小さな木いちごは本来ならばくずれてくるのではないだろうか。しかも盛り方を注意深く観察すると天辺のほうが少し膨らんでいる。これでは明らかに上のほうから崩落する。そして下部の方、籠の縁から少しはみだしているいくつかの木いちごの存在もおかしい。零れ落ちるような位置に描かれている。
 この絵が人を感動させるポイントは、光線の描かれ方で、対象物とくに木いちごが浮き上がるようにその存在感を示していることだと思う。だから私の指摘はピンと外れの重箱の隅をほじくるようなものであることは十分承知はしている。でもちょっと気になった。
 この絵で、画家の観察眼に敬服したのは、水の入ったグラスの描き方である。グラスの水の左側の水面の下側、そして右側の水面の上側に木いちごの影が赤く映っている。右側は誰でも気づいて描くが、左側の水面の下側に見える影はなかなかの観察眼だと思った。
 風俗画、人物画ではやはりチラシの裏面に印刷されている「食前の祈り」に惹かれた。手前の子供は男の子との解説だが、どうも姉妹二人に見えてしまう。当時の風俗からは男の子なのだろう。そして不思議なことにこの子の椅子はとても低い。食卓の上の皿に手や顔が届くとも思われないが、何か意味があるのだろうか。しかしそんな疑問などより、日常の一齣、しかも静かな時間・空間が支配する一齣を切り取ってきている。本来なら子供を配置することで少々あわただしい、喧騒な空気が支配しがちである一齣なのだが、こんな風な描き方はとても好ましく感じた。
 人物画では「羽を持つ少女」が評判が良いようだ。美しい羽の色とそれと照らしあうような頬の紅色、服の茶色と白、これらの取り合わせは十分に計算された構成だと感心したが、どうも幼い少女の胸のあたりの描き方が人形のような感じがして、今ひとつ感心できなかった。他の部分は極めて写実的なのだが、そこだけ不思議な感じだ。

 全体には最初に書いたとおりとても静かな時間が会場内を支配しているような印象になるような世界である。私はとてもいい時間を過ごさせてもらったと思った。