

先日東京丸の内にある三菱一号館美術館で「シャルダン展-静寂の巨匠」を見に行った。
ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)というフランスの風俗画・静物画の巨匠ということだが、日本での始めての個展らしい。私は残念ながらシャルダンという名を始めて聞いた。19世紀半ばに再評価され、ミレー、マネ、セザンヌ、マチスなどに影響を与えたという。 チラシの「木いちごの籠」という絵を見て大いに興味をそそられた。この絵、描かれた対象物全体に効果的な光が当てられたように、浮き上がって輝いている。グラスと充たされている水・カーネーション・桃・サクランボそして木いちごとそれを盛っている籠、どれもがその存在をあくまでも控えめに自己主張している。第一印象としてとても好ましい絵に思えた。
チラシの裏面の「食前の祈り」も実に静かな画面である。静寂の巨匠というのはなかなかのフレーズではないかとも感じた。
展示されている絵画はそれほどの数ではないので、これでシャルダンという画家の全貌がわかるわけではないが、それでも充実した時間を過ごしたという満足感がある。
一巡して、最初の頃の生々しい肉や、ウサギなどの狩猟の獲物の絵は少々私たちには刺激の強い題材だ。ウサギの死体だけを描いた絵はあまりの生々しさにドキッとしたことは確かだ。しかし他の物と組み合わされた絵は、光線の描き方の具合や、取り合わせの野菜や陶器や金属製の鍋などの存在感が大きいためだろうか、それほどの刺激とは感じなかった。
丹念な描き方をした画家ということだが、肉・魚などの食材のほかに金属製の鍋、陶器のいれもの、野菜や果物の植物系の食材、食器などが丁寧にそして構図の中で確かな存在感を与えられて描かれている。
私は特に陶器・ガラスの質感に感心した。金属製の鍋なども、食材もいいが、陶器・ガラスの描き方がとてもいい。艶や光の反射の仕方がとても好ましい。
しかし展示場の最後の方の部屋で、チラシに載っていた「木いちごの籠」を見たとき、妙なことが気になった。それはこの木いちごの質感が印刷とは微妙に違うことに気づいたからだ。
木いちごの盛り方が実際にはありえないような盛り方なのではないかということだ。あのように整然と円錐形に盛る方法はあるのだろうか。盛り付けてからギュッと手で圧縮して整形するか、描かれてはいないが蜜などのような透明なもので固定しない限り、小さな木いちごは本来ならばくずれてくるのではないだろうか。しかも盛り方を注意深く観察すると天辺のほうが少し膨らんでいる。これでは明らかに上のほうから崩落する。そして下部の方、籠の縁から少しはみだしているいくつかの木いちごの存在もおかしい。零れ落ちるような位置に描かれている。
この絵が人を感動させるポイントは、光線の描かれ方で、対象物とくに木いちごが浮き上がるようにその存在感を示していることだと思う。だから私の指摘はピンと外れの重箱の隅をほじくるようなものであることは十分承知はしている。でもちょっと気になった。
この絵で、画家の観察眼に敬服したのは、水の入ったグラスの描き方である。グラスの水の左側の水面の下側、そして右側の水面の上側に木いちごの影が赤く映っている。右側は誰でも気づいて描くが、左側の水面の下側に見える影はなかなかの観察眼だと思った。
風俗画、人物画ではやはりチラシの裏面に印刷されている「食前の祈り」に惹かれた。手前の子供は男の子との解説だが、どうも姉妹二人に見えてしまう。当時の風俗からは男の子なのだろう。そして不思議なことにこの子の椅子はとても低い。食卓の上の皿に手や顔が届くとも思われないが、何か意味があるのだろうか。しかしそんな疑問などより、日常の一齣、しかも静かな時間・空間が支配する一齣を切り取ってきている。本来なら子供を配置することで少々あわただしい、喧騒な空気が支配しがちである一齣なのだが、こんな風な描き方はとても好ましく感じた。
人物画では「羽を持つ少女」が評判が良いようだ。美しい羽の色とそれと照らしあうような頬の紅色、服の茶色と白、これらの取り合わせは十分に計算された構成だと感心したが、どうも幼い少女の胸のあたりの描き方が人形のような感じがして、今ひとつ感心できなかった。他の部分は極めて写実的なのだが、そこだけ不思議な感じだ。
全体には最初に書いたとおりとても静かな時間が会場内を支配しているような印象になるような世界である。私はとてもいい時間を過ごさせてもらったと思った。