Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ランチの値段&物忘ればかり

2012年11月02日 19時49分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は出かけたものの物忘れ3題となんとも情けない結果となった。
 お昼に二人で出かけて思いがけなくも予定より安いランチにありついて、ほくほくしていた。横浜駅に着いたときにはちょうどお昼時の終了間際の時間帯であった。近辺ではたらくサラリーマンや店員向けに路上でお弁当を売っていた。私が現役の頃、関内の駅や新横浜の駅でも盛んに売っていた。関内や新横浜の傍で会議が行われたときなど時々利用していたが、大体500円前後から600円までがその頃の相場だったような気がする。その頃といってもわずか半年前だ。
 しかし本日見た相場は高くて450円。安いお弁当になると250円、サンドイッチ100円というものまで並んでいた。横浜駅では競争が激しく安いのかと思ったり、この半年で相場というよりサラリーマンの懐状態が更に悪化したのか、判断がつかなかった。
 シャルダン展を丸の内で見たとき、お昼の時間帯であったので同じ敷地のビルの地下の食堂街をのぞいたら、レストランなどの店で提供するランチは一番安いので800円で上限は大体1000円くらいだった。むろん1000円を越えるものもあったが‥。それが丸の内界隈の一流企業に勤める人のランチの相場かなと観察した。ただし同じ地下のコンビニエンスストアでは長蛇の列で、パンやおにぎり、カップめんなどを購入している人も相当数いたし、当然お弁当の人もいるので、平均はもっと価格が下がるとは思うが‥。
 それと較べても横浜駅のお弁当の値段は随分と安いと感じた。

 さて私たち二人は、普段のお昼は極めて質素である。妻は1人の時は冷蔵庫から冷凍のご飯を温めておにぎりなど。私もコンビニエンスストアで菓子パン1個と缶コーヒーを公園など適当なところに腰掛けて。良くて安いコーヒーのチェー店でコーヒーとデニッシュ1個だ。だからといって、二人そろって公園で食べるのは恥ずかしい。
 そんな二人が中華料理店で以前見かけた土・日880円のランチ、それが平日は630円というのを見つけ、これはお得と店に入った。土・日のランチと同じメニューの上に更に春巻きが1個ついていてご満悦。とても得した気分で出てきた。
 このランチの後、時計の電池交換を頼むことと、いつもの整形外科に行って電気治療を行うことと、飼っているセキセイインコ用のチンゲンサイを購入すること、そしてスーパーでの買い物を目当てに横浜駅へもどった。まず家電の量販店で電池交換の注文を行ってからスーパーへ。
 まずここでチンゲンサイを買い忘れ。次に買い物の後、コーヒー店でコーヒーを飲んで、時計を受け取り医者に行こうかと話をしながら喫茶店を出た瞬間に二人の頭からこのことがまったく頭から抜け落ちていた。わずか5分もしない時間、コーヒーの支払いは店に入るときに済ましているので下膳の手間の間にすべて忘れてしまったということだ。
 二人ともまったく気づかずに地下鉄に乗り、歩いて家の前に着いたときにふと妻が「時計はどうしたっけか?」と思い出した。二人で顔を見合わせてため息をつくばかり。そして妻のさらに一言「チンゲンサイ忘れた」。
 一旦家に入りなおして一息ついてから、私はブログでシャルダンの記事をアップした後、やむなく私一人で再度横浜駅まで出かけ、整形外科での治療・家電量販店での時計受け取り・チンゲンサイ購入を済ませて帰宅。
 手間自体は大したことはなかったし、気づいた時間も早かったので病院にも十分に間に合った。しかし二人そろって同時にしかも3つの件を失念したこと、それもわずか5分の間に‥、このことはかなりショックだった。
 悲しい一日になった。

 本日は昼間太陽が出ていたものの何となく肌寒い感じ、夕方以降は一層肌寒く感じ、夕方再度外出したときは夏の上着から冬用の上着に着替えた。明日からはさらに気温が下がるらしい。これが平年並みの気温らしいが、9月いっぱい残暑というより真夏の陽気だったので、体がなかなかついていかないような気がする。
 夜には厚めの長袖のTシャツ1枚では寒く感じて、フリースのチョッキを引っ張り出して着込んだ。これは冬用のコートに付いていた脱着式のチョッキ。コートと一緒に着るとモコモコした感じになるし、暑いのでコートと一体では着たことがない。しかも体重が多かったときに体にあわせて購入したものなのでダブダブである。

 しかしこれを着て鏡に映してみるとこれはとても年よりじみて見える。爺むさい、という言葉がぴったりの様子である。10歳以上は年上に見えるようだ。やはりとても悲しい。


シャルダン展を見に行く

2012年11月02日 17時14分49秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




 先日東京丸の内にある三菱一号館美術館で「シャルダン展-静寂の巨匠」を見に行った。
 ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)というフランスの風俗画・静物画の巨匠ということだが、日本での始めての個展らしい。私は残念ながらシャルダンという名を始めて聞いた。19世紀半ばに再評価され、ミレー、マネ、セザンヌ、マチスなどに影響を与えたという。 チラシの「木いちごの籠」という絵を見て大いに興味をそそられた。この絵、描かれた対象物全体に効果的な光が当てられたように、浮き上がって輝いている。グラスと充たされている水・カーネーション・桃・サクランボそして木いちごとそれを盛っている籠、どれもがその存在をあくまでも控えめに自己主張している。第一印象としてとても好ましい絵に思えた。
 チラシの裏面の「食前の祈り」も実に静かな画面である。静寂の巨匠というのはなかなかのフレーズではないかとも感じた。
 展示されている絵画はそれほどの数ではないので、これでシャルダンという画家の全貌がわかるわけではないが、それでも充実した時間を過ごしたという満足感がある。
 一巡して、最初の頃の生々しい肉や、ウサギなどの狩猟の獲物の絵は少々私たちには刺激の強い題材だ。ウサギの死体だけを描いた絵はあまりの生々しさにドキッとしたことは確かだ。しかし他の物と組み合わされた絵は、光線の描き方の具合や、取り合わせの野菜や陶器や金属製の鍋などの存在感が大きいためだろうか、それほどの刺激とは感じなかった。
 丹念な描き方をした画家ということだが、肉・魚などの食材のほかに金属製の鍋、陶器のいれもの、野菜や果物の植物系の食材、食器などが丁寧にそして構図の中で確かな存在感を与えられて描かれている。
 私は特に陶器・ガラスの質感に感心した。金属製の鍋なども、食材もいいが、陶器・ガラスの描き方がとてもいい。艶や光の反射の仕方がとても好ましい。
 しかし展示場の最後の方の部屋で、チラシに載っていた「木いちごの籠」を見たとき、妙なことが気になった。それはこの木いちごの質感が印刷とは微妙に違うことに気づいたからだ。
 木いちごの盛り方が実際にはありえないような盛り方なのではないかということだ。あのように整然と円錐形に盛る方法はあるのだろうか。盛り付けてからギュッと手で圧縮して整形するか、描かれてはいないが蜜などのような透明なもので固定しない限り、小さな木いちごは本来ならばくずれてくるのではないだろうか。しかも盛り方を注意深く観察すると天辺のほうが少し膨らんでいる。これでは明らかに上のほうから崩落する。そして下部の方、籠の縁から少しはみだしているいくつかの木いちごの存在もおかしい。零れ落ちるような位置に描かれている。
 この絵が人を感動させるポイントは、光線の描かれ方で、対象物とくに木いちごが浮き上がるようにその存在感を示していることだと思う。だから私の指摘はピンと外れの重箱の隅をほじくるようなものであることは十分承知はしている。でもちょっと気になった。
 この絵で、画家の観察眼に敬服したのは、水の入ったグラスの描き方である。グラスの水の左側の水面の下側、そして右側の水面の上側に木いちごの影が赤く映っている。右側は誰でも気づいて描くが、左側の水面の下側に見える影はなかなかの観察眼だと思った。
 風俗画、人物画ではやはりチラシの裏面に印刷されている「食前の祈り」に惹かれた。手前の子供は男の子との解説だが、どうも姉妹二人に見えてしまう。当時の風俗からは男の子なのだろう。そして不思議なことにこの子の椅子はとても低い。食卓の上の皿に手や顔が届くとも思われないが、何か意味があるのだろうか。しかしそんな疑問などより、日常の一齣、しかも静かな時間・空間が支配する一齣を切り取ってきている。本来なら子供を配置することで少々あわただしい、喧騒な空気が支配しがちである一齣なのだが、こんな風な描き方はとても好ましく感じた。
 人物画では「羽を持つ少女」が評判が良いようだ。美しい羽の色とそれと照らしあうような頬の紅色、服の茶色と白、これらの取り合わせは十分に計算された構成だと感心したが、どうも幼い少女の胸のあたりの描き方が人形のような感じがして、今ひとつ感心できなかった。他の部分は極めて写実的なのだが、そこだけ不思議な感じだ。

 全体には最初に書いたとおりとても静かな時間が会場内を支配しているような印象になるような世界である。私はとてもいい時間を過ごさせてもらったと思った。