先ほど「近代美術の巨匠たち」(高階秀爾、岩波現代文庫)の最後の項、ルソーと、あとがきを読み終わった。
先ほどの記事でデュフィについては引用を忘れていた。
「マティスとデュフィの間には、色彩についての考え方の上で大きな違いがあった。マティスは、すべてを、光すらも、色に還元しようとしたのにたいし、デュフィは逆に、すべてを、色彩をも光の表現に奉仕させたからである。‥セザンヌ及びブラックの影響で一時キュビスム風の構成的傾向の強い作風に転じた時代を除いて、デュフィの生涯はもっぱら光の探求に向けられたと言ってよい。」と記されている。
またデュフィの言葉として「色彩の魂である光のための闘いと言っていただければ、私は本当に満足するのです。光がなければ、色彩も生命を失います。私の探求は、光を生みだすように色彩――チューブのなかの絵具の色――の秩序を発見することにあったからです‥。」
読み終わってもよく理解できない文意である。これもまた宿題として記憶しながら、デュフィの作品を見てみたいと思った。
神奈川大学の生協まで出かけて昨年末に頼んだ単行本の入荷状況を聞いたら、版元で増刷中のためしばらくは入荷する見込みがないとのこと。それなりに売れている本を注文してしまったようだ。有隣堂などでは棚にあるようだが、致し方ない。
生協で10ミリの方眼のノートなどの文具を入手して、バスにて喫茶店のある駅へ。本日は「近代美術の巨匠たち」(高階秀爾)からボナールとデュフィを読み終えた。残るはルソーとあとがき。
私はボナールの作品が好きである。逆光に浮かび上がる裸婦像にはドキッとする。そして高階秀爾の次の指摘にも惹かれた。
「必ずしもその(ゴーガンの)美学に全面的に同調してはいない。何かひとつの美学にすっかり身を委ねてしまうには、ボナールはあまりにも自己の感受性に対する信頼が強すぎたのである。ボナールはゴーガンのように正面切って派手に自己の個性を主張することは決してしなかったが、しかし心のなかでは、頑固に自分の世界を守り続けた。」
生協で申し込んだ本を次に読む予定であったが、入荷が遅れるというので、次に何を読むか思案中。
今朝、団地の管理組合のアンケートがきた。妻に回答してもらったが、私も4行ほど付け加えた。
ところが字がミミズの這った痕のようにのたくって、読みづらい字にしかならない。退職後、自分の字が年々急速に読みにくくなっていることが気になっていた。
自分の字を観察すると、まっすぐに書くべき縦や横の線が円弧のように曲がり、複雑な字形ではグチャグチャとごまかしてしまっている。しかも行がだんだん下に向かって斜めになってしまう。
かろうじて読めるという妻の言葉を信用して、そのまま提出した。
以前からもう一度字を書く練習をしようと思っていたので、思い切って本日から古文を映してみることにした。
手本の候補は、芭蕉の奥の細道、野ざらし紀行、古今集の仮名序、新古今集の仮名序、方丈記、平家物語などを考えたが、まずは奥の細道からとした。
古文なので手本は縦書き。現代では横書きの方が圧倒的に多いが、縦書きのものを横書きにするのは面倒ということで、まずは縦書きから始めることにした。
Bの鉛筆と、5ミリの升目の用紙を用意した。実際に書き始めるとまず、5ミリは小さすぎると感じた。そして初段の「月日は百代の過客にして‥」から初段の最後「草の戸も住み替る代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛けおく。」まで写したら、もう右腕が張ってしまった。
ということで、初日はこの初段まで。上手い字はもともと書けないが、きちんとした字を書きたいものである。
文章は中学生の時に覚えたのがそれなりにすらすら出てくる。そして手本があれば字をまちがえることはほとんどなかった。ただし、譲、蜘蛛、庵、霞、股は手本を見ないと記憶が曖昧であった。
このブログにアップして手習いを宣言した以上、途中でやめられないという圧力を自分に課したことになる。
明日から朝のうちに、「奥の細道」を一段ずつ書き写してみることにした。7ミリか10ミリの方眼の用紙を購入したい。