「この父ありて」は冒頭の2章は、2・26事件で対極にいたそれぞれの父親との関係から始まる。渡辺和子の父親は、「反乱」側の将校たちに43発もの銃弾を扉の隙間から浴びせられて幼い和子の目の前で殺される。齋藤史の父親は「反乱」側の将校に大きな影響を与え、幼馴染は首相官邸を襲撃している。
私が気になったのは作者の位置というか、ノンフィクション作家として対象である女性への迫り方である。ノンフィクション作家であるから当然であるという意見もあるかもしれないが、それが妥当なのかどうかは保留しておきたい個所があった。
射殺された父、渡辺錠太郎を目の当たりにした和子は、敗戦間際にキリスト者となる。戦後にこの事件を扱ったテレビの特集番組で「叛乱軍」の伝令を務めた人と同席したが出されたコーヒーを飲めなかったという。
「父を惨殺された衝撃と悲しみは簡単に消えるものではないが、恨みは乗り越えたつもりだったし、聞かれればそう答えてきた。だが、心の奥底で許していなかったことにこのとき気づいたという。‥コーヒーを飲めなかったときの気持ちをあらためて尋ねると、彼女は言った。『やっぱり私の中には父の血が流れている。そう思って、うれしかったですね。』思わず『うれしかったのですか?』と問い返した。許すということの難しさや、憎しみを乗り越えて生きる大切さというような話になるのではないかと思っていたからだ。‥」
私は、この段まで読んで「あぁ私は『ノンフィクション作家』にならなくてよかった」あるいは「なれないな」と直感した。
いくら取材とはいえ、また対象に肉薄したいとはいえ、私はそこで面と向かって「コーヒーを飲めまかった理由」を聞けるだろうか。私ならば沈黙する。質問は飲み込んでしまう。せめてもっと搦め手から聞くべきだと直感した。
苦悩を抱え込んできた渡辺和子の受け答えは実に当事者ならではの答えである。また36歳でノートルダム清心女子大学の学長になり、理事長にもなった渡部和子に対して、どのような質問をしようとしたか、建前の答えではない本心に迫る質問はどうあるべきか、梯久美子という作家のためらいや逡巡やの行きつ戻りつを浮き上がらせることで、相手の胸中を浮き上がらせることこそが大事ではなかったのか、と感じた。対象に迫ろうとする作者の心の動きが対象を浮き立たせるのだ。この作者はちょっとむごい迫り方をしているな、と思った。
批判めいたことを記載してしまったが、渡辺和子というかたのことも、射殺された彼女の父の渡辺錠太郎陸軍教育総監のことも、私の浅学故に今回初めて知った。
あらためて思ったのは、2・26事件をそれなりに詳しく聞いたのは高校生の時である。1966年としても事件からわずかに30年しか経っていない。
齋藤史の短歌に「正史見事につくられてゐて物陰に生きたる人のいのち伝へず」が引用されている。1945年という断絶を経て教えられた昭和史は、見事に忘却という霞の向こうに曖昧に存在していたし、今もタブー、恥部のように扱われている。
今から30年前のことを若い人たちが見ているよりも、もっと深い断絶があるはずだ。
「戦前のこと、明治維新以降のことは三学期のさらに末になって駆け足のようにしか教えられない」から伝わらないのではないと私は思う。歴史的事件が政治的に葬られ、タブー視され、蓋をさせられてきたから伝わらないのだ。
昭和天皇の振る舞いや指示、そしてその後の破滅への道のり、戦後の戦争責任の処理の曖昧さ、戦後の「民主化」と東西冷戦に翻弄された戦後処理などなどの曖昧さが、戦前のことが遠い世界のできごととして不鮮明な像を作り上げてしまったのではないか。
ノンフィクション作家の対象への迫り方の問題もまた作家の責任ではなく、戦争責任を曖昧にしてきた政治の責任ではないのか、という思いが湧いてきた。
具体性の希薄な感想ではあるが、そんな思いを強くした。