まだこなれていないが、メモとして記載。思い付きを連ねただけなので、論理破綻もあるが、ご容赦を。
先日神奈川大学の生協に出向いたとき。振り向くと太陽が眩しかったので、だいそれた写真ではないが1枚撮影してみた。
人はふと理由などないまま、何かをしたくなる。若い10代の頃ならば、その自分の行為が何なのか、気になっていつまでも引きずることもある。しかし70歳に近くなって、それを否定的に引きずって考えることはしなくなった。肯定的に咀嚼をして、自分の体験の中に組み込むことをするようになった。
衝動に素直に従って行動に移す場合もある。自重する場合もある。そんな時でも、歳を重ねると自分の頭の中で抵抗や摩擦や軋轢などなくごく自然に自己決定する。決定した後は、それを引きずることはない。自己決定したことに対する自己嫌悪も、自己合理化もしないで、自然に時間が過ぎていく。
それが大人の行為だ、というふうに達観する。だが、10代のころのこだわりを「若気の至り」「若い証拠」といってしまうことは私はしたくない。
私が周りの同じような年齢の方たちと違うと思うのは、最初の衝動で「何かをする」という行為の割合が高いのではないかと思う。「何もしない」という選択は少ない。多くの人はそのような自己決定をしたこともすぐに忘れるらしい。気に留めないようだ。
今回、ふと振り向いて太陽が眩しかった。それでたまたまスマホで撮影してみた。俳句にしてみることもできたかもしれない。立ち尽くしたかもしれない。何らかの行為に及ぶ選択が多い、それを誇りに思うことにしている。ふと振り向いて、太陽がまぶしかったが、どうしてそんなことをしたのか、ということにはこだわらない。その眩しさを自己のうちに自然にうまく取り込めるように無意識に処理をしている。
私は、小さな衝動的な行為の結果を大切にしたいと思う。しかしこれが昂じてこだわるようになると、少し危ういことになるのかもしれない。そういう感覚があるうちは、「正常」と思っていい。