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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ヴラマンク「赤い木の風景」

2015年11月07日 23時36分45秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 この作品「赤い木の風景」は1953年、画家が77歳の時の作品である。戦後ヴラマンクは精力的に小説やエッセイを出版している。かなりのエネルギーがそちらに割かれていると思われる。1958年に82歳でなくなるまでに1952年以降毎年1冊は出版している。
 それにも関わらずこのような激しい情念を作品にぶつけている。
ブラマンクはピカソとは交流はしつつもそのキュビズムとは一線を画しており、抽象画にも否定的であった。具象というもの、風景というものにとても執着している。そしてこの77歳とは思えない激しいタッチは私にはとても印象的である。



 色彩の荒々しい表現は、赤い色の乱舞と濃く塗りつぶした黒との対比が印象的な「火事」(1945)があるが、「火事」では形態はまだはっきりとした輪郭を持っている。激しい舵にもかかわらず人間は静かに眺めるように立っている。慌てて逃げる様子ではなく、冷静に火事を見つめている。
 しかしこの「赤い木の風景」では冷静なる観察者はどこにも存在しない。作品を描く画家もまた何かの激しい情念に駆り立てられているようである。燃えているような赤い樹木が生命を吹き出しているように感じる。だが、樹木の生えている地面と樹木の向こう側の白い雲のある空は何事もないように鎮まっている。世界全体は何か統一感を喪失してアンバランスである。チグハグな世界である。あるいは画家が激しい情念で風景の中のここに火をつけて回っているだけなのかもしれない。しかし燃えるのは一部だけでしかない。
 画家の心象風景というよりも、現代の世界そのものが統御を喪ってそれぞれの構成要素が相互に関連なく崩壊しているような画家の世界観を映し出している。燃えるような情念も、それは世界をなめ尽くすことの不可能な不思議な無力感をともなっている。
 1950年代、私は生まれたてで記憶にはない時代である。しかし私が現時点で味わっているような喪失感、社会の統一的な像を手繰り寄せようとしても手繰り寄せられない無力感というものが、激しいことこの上ないこの作品から感じてしまう。
 現在の時分というものを過去の地点から照射してくれる作品、それは私にとっては大切な作品のひとつである。


伊藤若冲「菜虫図」

2015年11月07日 18時55分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 久しぶりに若冲の絵を取り上げてみた。「菜虫図」(1792)。ずっと水墨画ばかりを取り上げてきたが、今回は久しぶりに彩色画である。
 サントリー美術館で行われた「若冲と蕪村」展の図録では、若冲の彩色画の最後にこの絵が掲げられている。若冲は1800年に85歳に亡くなっているので、77歳である。
 植物は何の植物かはわからないがマメ科のようである。蜘蛛を一番上にして10匹の虫が鶴や葉、莢に止まっている。
 植物は実がなっていて葉も枯れかけている。しかし虫たちは色鮮やかで若々しい。生気にあふれている。植物と虫のこの対比は何を暗喩しているのか、わかりかねるが対比としては面白い。
 また一番上の蜘蛛は糸を張っている。その蜘蛛の巣は光を反射して黄色の微かなグラデーションを示してる。微かな蜘蛛の糸に囲まれた平面が光を反射して一枚の空間のように描かれている。そういわれれば確かに意図に囲まれた空間が一枚の鏡のように見えることもある。光と光を反射する細い糸の不思議な現象を見逃していないと思った。人の眼の錯覚を捉えていると思っている。
 若冲の所為があり、「米斗翁七十七歳画」と書かれているとのこと。煌びやかな派手な彩色画は「白梅錦鶏図」が最後の作品に近いらしい。この作品でも彩色は地味で控え目、だが効果的な彩色である。豆の莢も画面左の方は少し赤みがかっている。上の方は赤身はない。ひょっとして下の方に夕日が当たっているようにも見える。
 さてこの虫、どうも重力を無視している。左上のバッタ、真ん中のコオロギ、ともによく見ると足が宙に浮いている。特に中央のコオロギは左の2本の足しか蔓に乗っていない。これでは墜落してしまう。他の虫はちゃんと足が蔓や葉を捉え、羽で空中を飛翔しているのに、どうしたことだろうか。作者はそこのところはあまりこだわっていないように思える。そういえば雲の糸も左上と右上の糸はとてつもなく遠くにかかっているようだ。
 重箱の隅をつつくようだが、不思議な点は切りがないかもしれない。だが、これらの不思議を差し置いて、虫たちの実在感が大きく画面を支配している。若冲の絵の不思議である。この不思議にはまってしまうとなかなか抜け出せない。

「5,6世紀における東日本地域と朝鮮半島の交渉」より

2015年11月07日 10時56分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日の「5,6世紀における東日本地域と朝鮮半島の交渉」(高田貫太歴史民俗資料館准教授)の講演、なかなかいい講演であった。地図や古墳出土品のスライドもわかりやすかった。

 私の理解の範囲で、レジュメから
1.5世紀代の東日本地域と朝鮮半島
 5世紀中葉の朝鮮半島洛東江以東地域の系譜の東日本出土品については東莢地域と新羅との関係が反映されている。
 もうひとつの交渉相手である大伽耶に由来する出土品が関東にも存在。
 これらの出土品の分布から、
 A.太平洋岸に沿った海路または原東海道たる陸路‥倭王権との連携の中で朝鮮半島の文化を受容する有力首長層の存在。
 B.ある程度恒常的に、若狭湾沿岸-伊那谷-上毛野-東京湾岸などが想定できる大伽耶地域とかかわりに参画していた東京湾東岸の首長層が想定できる。
2.6世紀中ごろから大伽耶を滅ぼし、半島の西側まで大きく版図を拡大した新羅は、百済・高句麗の対倭交渉へのけん制などの目的から倭へ様々な文物の贈与や工人派遣をとおして、半島情勢を有利に展開しようとしていた。

 さらにスライド映写の感想から、
3.半島南部には倭人由来と思われる古墳などの分布も多く、倭人も多く居住していたと思われる。

 列島と半島の間の人の交流はかなり活発でかつ双方向の流れであることがさらに少しずつではあるが明らかとなっているようだ。

長谷川等伯「竹林猿猴図」

2015年11月07日 00時42分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 先ほど中島清之展の中で「「和春」(1947) この作品は水墨画である長谷川等伯の「竹林猿猴図屏風」の右双、牧谿の猿猴図を念頭に置いていると思われる。色彩特に中央下の緑がいい。金網や遊び具の金属質の描写と、羽毛に覆われた猿の描写の対比も気に入っている。しかし猿のボリュームがあまりに痩せすぎなのは少々気になっている」と記した。
 このブログでは確か等伯の「竹林猿猴図」については取り上げていなかったので、牧谿の観音猿猴図とともに掲載してみることにした。
 長谷川等伯は牧谿の作品は、寒さに震える母子猿であり自然の中にある厳しさと動物のしたたかさを表現しているとすれば、等伯は母子猿と父猿を配し家族の親愛を表現していると云われる。私もそのとおりだと思えるが、中島清之の作品も等伯の流れに位置づけられると思う。これをどう評価するかは鑑賞者次第である。
 私は家族の親愛の情云々の評ではなく、動と静、金属の硬質と毛並みの表現の対比の妙を楽しめればいいと思っている。
 等伯の猿猴図は淡い金の箔を背景とした水墨画だと思われるが、実に温かみのある柔らかい画面である。中島清之の猿猴図も彩色はあるものの水墨画に近い表現に見える。猿も金網も墨が主体である。オスの胸の微かな赤みが猿に生気を与えているが、基本的にはそれ以外の緑や青の配色は3頭の猿の関係では重きを置いていない。