Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「3つの間奏曲(インテルメッツォ)作品117」

2015年11月18日 20時35分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ウィキペディアによると以下の解説が記されている。
「3つの間奏曲作品117は、ヨハネス・ブラームスが1892年に作曲したピアノ独奏曲。3曲ともブラームスの晩年の小品の特徴をそなえ、間奏曲らしく比較的テンポが遅めである。そして、単純さと集約性の傾向をよくみせ、対位法を用いている。転調も制限された枠内で行われ、和声も透明になって、一定のリズムに固執する傾向が強くなっている。
以下の3曲から成る。
1.アンダンテ・モデラート 変ホ長調
2.アンダンテ・ノン・トロッポ・エ・コン・モルタ・エスプレッシオーネ 変ロ短調
3.アンダンテ・コン・モート 嬰ハ短調」

 ブラームスのピアノ曲の中では私のもっとも聴いた回数の曲かもしれない。第2曲のゆっくりだが無窮動のように折りたたむような曲想の曲が私にはとても気分を良くしてくれる曲である。

こんな早い時期に年賀状を購入

2015年11月18日 19時55分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では一日中雨が降り続いた。時間雨量5ミリ未満の弱い雨であっても、日中ずっと降り続くと土中に浸みこんでいく量はかなり多い。一時的に大量に降ると地面の表面を流れて下水管にそのまま流れてしまい、土中にはそれほど浸み込んでいかない。しかも横浜の中心地のようなところは道路や大規模建築物のために土中に浸みこんでいく水分は少ない。土中に保有している水分はかなり少なく、砂漠のような状態だと昔から云われている。土中の生物の割合も山地や畑地に比べて少ないという。それが人間の生活に直接どのような影響を与えてるのか、また実際に「砂漠のようだ」といわれる客観的なデータが示されずに何となく雰囲気的に「問題だ‥」的なうわさになっている点は否めないが、それでも気になることは気になる。
 
 さて本日は朝から複数の友人からいくつかのメールが続けて到着。楽しく嬉しい悲鳴であった。難しい話はなくて、短い文章であってもお互いの近況、元気な様子がうかがわれるのは嬉しいことである。この感覚は歳をとるにしたがって次第に強く意識するようになってくる。
 そして年賀状を例年のとおりの枚数を購入した。例年は12月の中旬に購入するが、今年は早めに購入してみた。これから文面を考えることになる。文面を考えるのは当分先のことであるが‥。たぶん作成時期は例年と同様、来月の下旬になると思われる。

 明日は午前と夕方に講座があり、夜には国会周辺での集会に参加要請が来ている。夕食後に参加予定者名簿などをつくりながら、明日の天気が回復することを祈ろう。


「始皇帝と大兵馬俑展」(東京国立博物館)

2015年11月18日 11時12分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日17日(火)に東京国立博物館で「始皇帝と大兵馬俑展」を見てきた。
 始皇帝陵の近くで発掘された兵馬俑については多くの方が既に知っている。詳しい「薀蓄」は省略をしていくつかの感想だけを記してみたい。
 始皇帝陵の広大な墳丘の周囲のごく限られた一部分からこの兵馬俑などの膨大な埋蔵遺物が掘り出されている。兵馬俑などが出土した広範囲な発掘が必要であろうが、そこら辺の見通しが気になるところである。無論現に人が居住し、社会生活、生産活動が行われている上に、すべての精力をここに費やすことは不可能であることは承知をしつつ、やはり全体の構造解明の見通しは気になるところである。
 もうひとつ、兵馬俑の表情の特徴はほぼ全員の髭である。実に多様な髭の蓄え方をしている。統一と云えば統一をしているのかもしれないが、個性的と云えば個性的ともいえる。古代中国では髭は一般的だったのか、あるいは軍という職業の象徴だったのか、気になった。
 さらにこの鬚を蓄えた顔は果たして当時中原を支配し、のちに「漢民族」といわれる人々の顔なのか、という疑問がある。兵馬俑の兵士の顔は髭を除いても現代中国の人々の顔と少しズレがあるように感じるのは私だけだろうか。どこか西アジア系の人びとの相に近くないだろうか。
 唐という時代にはソグド系やペルシャ系の人びとが建国の時から大いに関与し、当時の経済・社会・文化におおきな影響を与えていたと教わったばかりである。
 春秋戦国期から秦・漢時代初期の時代にかけても北・西・南からの諸民族との「交流」の観点から兵馬俑の人物の分析も気になったところである。むろん「漢民族」という統一観念よりは、長江流域、黄河流域等々の地域ごとの人々の習俗の違いの方が大きかったかもしれない。北方からの軍事的脅威が中原の統一への内的な圧力・根拠であったという視点も確かにある。
 始皇帝の評価をプラス、マイナスどちらにするとしても、中原域の各地域的な社会や経済や文化を力で統一的な水準にした始皇帝という人物の影響力の大きさは、おそらく「漢民族」を作り上げたという点で計り知れないものがある。始皇帝自信がそのことに自覚的であったかどうかはうかがい知れないが、力による統一と維持のために必要にかられて推し進めた経済・文化・政治の均質性・統一性は中国社会をどのように変質させたのか、外からはなかなかわかりにくい。
 それは無論、倭→日本という国家、社会、文化に対する評価の仕方にもかかわる。「統一」というものが忘却したがる、消したがる、そこから排除したがることへの注目は単に私だけの趣味の問題ではないと思う。