
この「瑞巌寺廊下内部」は土門拳が1975年に瑞巌寺を撮影に訪れた時の一枚である。本当は土門拳の作品よりも右側のほんの少しを切らせてもらった。本の折り目でどうしてもスキャナーでボケてしまったからである。左右対象から文庫本の大きさで5ミリほど割愛させてもらった。横の広がりが詰まって見えるのはそのためである。勘弁してもらうしかない。
さて土門拳はその「撮影記」でつぎのように記している。
「30年来という大雪にすっぽりと包まれた瑞巌寺は、想像を超えるすばらしい景色であった。杉並木の、そして庫裏の屋根の、真綿のような雪がやわらかく光を照り返すさまは、ほのぼのと温かく、手足は凍えているのに、かぜか心が和むのであった。この温かい光が雪をすぐに溶かしてしまうのではないかと気がせき、光を追いかけ追いかけ、シャッターを切ったのである。」
庫裏の内部も同じようなことが言えるのではないだろうか。雪に反射し光と、直射日光が障子越しに柔らかく感じられる。廊下も雪の季節の寒さとは思えないように柔らかい陽射しを反射して柔らかそうな波を打っている。
実際はさすがに冬だからきりっとした空気が張り詰めているのだろうが、それを感じさせない。
雪というものは土地土地によってイメージも働きも少しずつ違う。大まかな私のイメージでも南東北と北東北、北海道で違いがある。日本海側と太平洋側でも微妙な差がある。北東北の太平洋岸の雪のイメージは私にとっては、身を切るような乾燥した寒風に混じって厳しく顔を切りつけるような雪である。家の中も温まることなどなく吹き抜ける。春が近くなってもやさしさからは程遠い。
だが、南東北の雪はどこか柔らかく暖かい所がある。雪が降った翌日の陽射しは暖かい。やわらかく雪を溶かしていく。家の中でも陽射しがやわらかい。
あくまでもイメージだから実際は厳しく低い気温と強い風に苛まれることの方が多いのだが、それでも雪に対してどこかそっとやさしく受け入れる姿勢が地元にはどこかある。それを感じる。
この写真作品、人々が歩いて、磨いて黒光りする廊下と、上部の屋根を支えている太い横木の光を反射しない黒々とした塊の対比にまず目がいく。規則的なようでいて不規則な繰り返しを見せる波のような廊下、と幾何学的な天上の横木は特に特徴的だ。その次に左右と奥の白い壁、障子をとおして入ってくる雪の日の朝の柔らかそうな光。
左右対称のがっちりした構図、教書のような遠近法の消失点にある白い壁、どれをとってもあまりに安定した構図で面白味がないと直感するが、微妙な光を見つめていると見飽きることがない。きっと波のような廊下の揺らぎがそうさせているとおもう。
これがおなじように寺の内部でも、北陸の永平寺や、北海道の日本海側、あるいは北海道の東側、下北方面などで抱く感想は違ってくると思う。