Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

歩数計の比較

2015年09月04日 23時38分22秒 | 山行・旅行・散策
 本日は馬車道にある神奈川県立歴史博物館まで往復した。タオルを二本持ってウォーキング。博物館で展示を見て回り、博物館前のコンビニでコーヒータイム。帰りには横浜駅近くの喫茶店でも一服した。
 これまで使っていたスマホの歩数計では22250歩余り、新しい腕時計に内蔵された歩数計では22570歩。結果として差は320歩、その差は1.4%ということだから差は気にならないはずである。
 ただし往路ではスマホの方が400歩ほど多かった。ゆっくり展示を見てから歩数を確認したところ、スマホで800歩、腕時計で1200歩となっており、差の400歩が無くなっていた。復路はほぼ同じ9000歩でスタート。今度はいつの間にか腕時計の方が徐々に多くなっていた。最後に団地の周囲を4000歩ほど余分に歩いて両方ともに22000歩を超えたところでウォーキングを終了した。
 結果としてほぼ同じであっても、いささか気になる。ゆっくりとした歩みだと腕時計の歩数計は実際の歩数以上にどんどんカウントが増えていく。これは少しおかしい。
 また交差点などで信号の変わり目に小走りになると腕時計のカウントが実際より少なくカウントすることにも気がついた。これも貴にはなるが、それほどの差にはならない。

 途中で喫茶店に寄ったり、仕事をしたり会議に出たりする場合は、腕時計は外した方が良さそうが正しいカウントになりそうである。

追悼!中平卓馬

2015年09月04日 22時00分30秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 写真家の中平卓馬氏が9月1日亡くなったとのことである。77歳。
 Wikipediaの記事によれば「『現代の眼』編集者時代には、柚木明の名前で作品を発表。1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を廃したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した」となっている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150904/k10010216681000.html

 私は写真についてはほとんど知識はないが、それでも作品を幾度も見る機会を得た。1970年当時の作品よりも「なぜ、植物図鑑か」や横浜の風景を切り取った作品にとても惹かれていた。
 新横浜駅傍の私のウォーキングコースの傍に自宅があり、最晩年までカメラを片手に一人で撮影に出かけていたことがテレビで紹介されていた。そういった意味でも親近感があった。
 いつか作品について取り上げてみたいと思っていた。その気持ちをどこかで維持していたいとおもう。

 言葉の独り歩きは避けなければならないが、「事物の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除し、事物の思考、事物の視線によって、世界はより深く浸透されつくされねばならぬ」(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』)はなかなかのことばだと思う。


神奈川県立歴史博物館「没後100年 清親の風景」展

2015年09月04日 21時37分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「今年2015年は浮世絵の歴史の掉尾を飾る絵師小林清親(1847~1915)の没後100年にあたります。清親の画業の中では、光や影を意識した「東京名所図」と呼ばれる作品群や「武蔵百景之内」など風景を描いたものが親しまれています。この展示でも東京を中心に清親がとらえた明治の風景をご紹介します。江戸時代の名所絵と同様の視点を持ちながら、水彩画、写真の影響を受けたと考えられる清親の作品は新しい時代の到来を伝えます。浮世絵名所絵の最後の輝きともいえる清親の新しい風景表現をお楽しみください。」という解説で展示されていたコーナーには13点の作品が並べられていた。

 小林清親という画家、私には好みのものとそうではないものとが両極端で存在しているようであまり熱心に見たことはない。横浜美術館でもかなり収蔵作品があるようなのだが、まとまって見たことがない。
 今回も通常展示の一角ということだったので、それほど作品の点数はないのかと思っていた。しかしいわゆる「光線画」といわれる「今戸夏月」のほかに、「上野東照宮の夜」「梅若神社」など江戸から明治にかけてわかりゆく風景を独特の視点で描いた作品をじっくり見る機会を得ることができた。こんなにじっくり見たのは初めてである。
 恥ずかしながら、食わず嫌いは決して良くないことを実感した。特に「上野東照宮の夜」なととても斬新で驚いた。また当時の実際に近い風景も脇に展示されていて、小林清親がどのように風景を切り取って作品化しているかよくわかるようになっていた。
 さらに1点だけだったが風景画ではなく、「清ちかぽんち 東京おうじ瀧の川」などの風刺画もあり、興味深かった。
 確かにあまりに器用にさまざまな分野の作品を手がけたためか、茫洋として全体像がつかめないことは確かなようだ。これからは食わず嫌いは避けて、じっくりと作品を見るようにしたいとおもった。入館料300円の成果であろうか。
http://ch.kanagawa-museum.jp/tenji/sogo/kiyochika.html

高村薫「自らに問う」

2015年09月04日 10時33分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 少し遅くなったが、岩波書店の「図書」9月号に作家高村薫氏の連続エッセイが掲載されている。今月号は「自らに問う」。
 安保法案が憲法違反と指摘されているにもかかわらず、議論ならざる曖昧答弁のまま強引に衆議院で採決さけた頃に執筆したものである。しかし参議院で議論されている現在も憲法違反という指摘に対しては「現状に合わない」という答弁のまゝ審議時間ばかりが過ぎている。それ以上に国会無視の政府と自衛隊内部の取り扱い先行や、答弁のはぐらかし、訂正・矛盾など到底法案が採決される状況にはなっていない。
 もっとも大事なのは戦後70年のこれまでの経過と成果、そしてそれをどのように継承するかという基本的な方向がまったく無視されているということである。ベクトルの向きが戦前回帰、敗戦=終戦に至った歴史把握と戦後70年の出発点の理解と把握が間違っている、ないし理解されていないということなのである。
 ファシズムに対する否定が政権担当者と与党に根付いていないという恐ろしい時代となってしまった。現状の世界秩序の枠組みを承認できない与党と政権担当者を多数派にしている日本は、これから世界からの孤立していくだけである。唯我独尊と孤立の果てが日中戦争と第二氏世界大戦という破滅につながったという最低限の認識がなされていない。
 経済のグローバル化が進む中、経済界がまったく手をこまねいているばかりか現在の政権の後押しをしているというのも情けない状況である。経済界は労働法制のまったくの骨抜きでしか雇用対策が進まないと信じているとするならば、経済の活性化も日本の社会構造の活気ある再生もできないと宣言しているようなものではないか。1945年とそれに至ったようなカタストロフィーが起きないと日本の社会は転換ができないのであろうか。あまりに犠牲が大きすぎる。
 政治も経済も自立できなかった戦後70年、それどころか近代国家日本の成立以降の明治維新147年が、結局自立できなかった近代国家日本でしかなかったという負の総括をせざるを得ないようにしているのが、藩閥政権の末裔の3世議員というのはとんでもない皮肉であると思う。
 さらに国連事務総長の行動にまで文句をつけるようになってしまった。国連から脱退でもするのであろうか。こんな政権では「常任理事国」になろうとしても資格そのものが問われるのではないか。



かなり降っている

2015年09月04日 02時31分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 風も無く、雷もならず、ひたすら雨が降り続いている。雨脚は強いが、感じとしては一時間雨量は20ミリ未満ということだろうか。この程度ならば長時間降り続いても冠水したり、土砂災害が起こったりということはまず起こらないと判断できる。
 ただし念のために記すと、気象庁からは大雨・洪水・雷・強風注意報は横浜・川崎市域に発令されている。私の感想よりも注意をしなくてはならないところがあるようだ。

 灯りをつけずに温度の低いお風呂で寛ぎながら雨の音を聞いていた。40分ほどかなりのスピードで歩いて帰宅したので酔いはかなり冷めてきているように思える。風も雷も伴わず、この程度の雨の音を聞くと心が落ち着く。災害を引き起こしそうな雨量ならば落ち着かなくなる。安心してお風呂に長時間つかろうという風にはならない。経験則なのか、本能的な判断なのかはわからない。

 本日も特に予定はない。