一日中台風18号による大雨の情報を集めていたら頭が疲れてしまった。こういう時は好きな絵でも眺めているか、好きなブラームスや静かなジャズを聴くかするのが一番いい。ということで、久しぶりに伊藤塾中の図録をひっぱり出してきた。
水墨画で初期の頃の作品らしいが「寒山拾得図」。中国の実在の人物ということになっている。禅寺に住む下働きの僧であったらしい。私は何回もその寒山拾得の話を読んだが結局よくわからない。あまり中国の伝承にとらわれて描いたものよりも、この若冲の作品のようにひょうきんな、屈託のない子どものような表情に描いたものの方がいいと思う。禅寺にかかわる話と登場人物なのだが、禅画のように大胆なデフォルメととぼけた味わいの方が自由な想像が出来ていい。
右側が拾得、左側が寒山。画面いっぱいの墨をたっぷりと使ったらしい奔走な筆の跡が好ましい。
比較で取り上げるのは申し訳ないような気分でいっぱいだが、蕪村の寒山拾得図(1778)を対照的な作品として取り上げてみる。
このような表情の絵となってしまうともう私はがっかりしてしまう。私の寒山拾得の理解力がないのがいけないとは思うが、どうも理屈というのだろうか、絵の後ろに小難しい理屈があり、それを理解できるかというような強い挑戦状が後ろに隠れているような気分になってしまう。
明治期の大観と春草の合作の寒山拾得図も同じように私にはちょっと敬遠したくなる描き方である。
もっとも水墨画の表現と彩色の絵の場合の表現の仕方、描く画家の側の意識も変わるだろうと思う。若冲も彩色の絵で寒山拾得を描く場合は水墨画のものとまったく違う趣きで描いたかもしれない。
だが、この若冲の墨絵の寒山拾得は私にはとても得難い作品だと思う。
水墨画で初期の頃の作品らしいが「寒山拾得図」。中国の実在の人物ということになっている。禅寺に住む下働きの僧であったらしい。私は何回もその寒山拾得の話を読んだが結局よくわからない。あまり中国の伝承にとらわれて描いたものよりも、この若冲の作品のようにひょうきんな、屈託のない子どものような表情に描いたものの方がいいと思う。禅寺にかかわる話と登場人物なのだが、禅画のように大胆なデフォルメととぼけた味わいの方が自由な想像が出来ていい。
右側が拾得、左側が寒山。画面いっぱいの墨をたっぷりと使ったらしい奔走な筆の跡が好ましい。
比較で取り上げるのは申し訳ないような気分でいっぱいだが、蕪村の寒山拾得図(1778)を対照的な作品として取り上げてみる。
このような表情の絵となってしまうともう私はがっかりしてしまう。私の寒山拾得の理解力がないのがいけないとは思うが、どうも理屈というのだろうか、絵の後ろに小難しい理屈があり、それを理解できるかというような強い挑戦状が後ろに隠れているような気分になってしまう。
明治期の大観と春草の合作の寒山拾得図も同じように私にはちょっと敬遠したくなる描き方である。
もっとも水墨画の表現と彩色の絵の場合の表現の仕方、描く画家の側の意識も変わるだろうと思う。若冲も彩色の絵で寒山拾得を描く場合は水墨画のものとまったく違う趣きで描いたかもしれない。
だが、この若冲の墨絵の寒山拾得は私にはとても得難い作品だと思う。