詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」

2023-11-03 16:27:38 | 読売新聞を読む

藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」(「イリプスⅢ」5、2023年10月10日発行)

 藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」は、野沢啓の『言語隠喩論』への書評。とても気になる文章があったので、そのことについて書く。

 日/欧で言語学の用語が分かれていては、不都合だということもあって、野沢にしろ、私(藤井)にしろ、欧米の言語学を絶えず鏡のように映し出す参照項目にして、日本語のそれを考察しようとしてきた、という経緯はある。(略)
 日本語から立ち上げることに、かりに成功したとして、そこを理解しようとすると、またもや西洋言語学に拠るほかなくなる。つまり理解過程を含めて、言語学そのものを最初からやり直す覚悟をしなければ。
 だから、一旦は日本語から離れることが必要なのだろう。しかも欧米的な言語哲学に舞い戻るのでない、そこを切り開くことを目標とするのである。詩的言語の可能性は人類史とともにそこに胚胎するのだろう。

 藤井は、野沢の論を「言語学」、あるいは「言語哲学」と把握して論を進めているのだが、ふーん、そうなのか、としか私にはことばが出てこない。しかも、その「言語学」(言語哲学)が欧米を意識しているというのだから、欧米の言語そのものをほとんど知らない(当然のことだけれど、そのことばをもとにした「言語哲学」は完全に知らない)私には、まあ、理解を超えた次元のことが書かれているのだなと思うだけである。

 藤井はさらに、野沢の「フィールドワーク」についても書いているのだが、これも、私にはなんのことかさっぱりわからない。

 野沢の論のいちばんの問題点を、私は次のように考えている。
 野沢は、詩(隠喩的言語)に出合ったとき、野沢自身のことばの肉体がどう変化し(解体し)、どう動いたかを書かないことである。野沢は、詩(隠喩的言語)に出合ったとき、彼自身のことばが解体し、自己統制力を失なったと書くかわりに、(藤井のことばを借用して言えば)、外国の誰それの翻訳されたことば、あるいは日本の誰それでもいいのだが、だれかのことばをつかって「説明」することである。
 その説明(解説?)のなかには、詩(隠喩的言語)が生まれる瞬間の興奮がない。私(野沢)は、誰それのことば(翻訳されたことば)を読み、それを知っていると言っているだけである。私には、そうとしか思えない。なぜなら、その誰それのことばは、野沢が取り上げている日本語の詩(隠喩的言語)を読んで考えたことばではないからだ。野沢が問題にしている詩(隠喩的言語)を誰それが読み、その結果として、誰それ自身の築き上げてきた言語体系が解体し、再構築しなければならなかった、そして、その結果として生まれた「言及」ではないからだ。
 こういう、なんというか、「知識のひけらかし」に対しては、誰それがしているように、野沢の博識をほめたたえ、感動しましたと書くのが、いちばん合理的な対処方法なのだと思う。しかし、私は、どんなときでも「合理的対処方法」というものを信じていない(それが大嫌い)ので、そんなことはしない。
 野沢はさすがに本屋さん(出版屋さん)だけあって、陳列して売ることが上手である。私は貧乏な買い手ににすぎないから、どれだけ豪華な陳列を見ても変えもしないものには関心が湧かない。ほしいものだけを選んで買う。他の人も同じかもしれない。多くの人が「陳列がすばらしい」と称賛したらしいが、その称賛した人のいったい誰が(何人が)、野沢の陳列していたものを利用し、その人自身の思考を展開し、その人自身は(そのひとのことば/哲学)は、どうかわったのか。そういうことを、私はまだ見聞きしていない。「商品」は買った人が、こんなに便利だった、こんなに役立ったと他の人に勧めるなり、その人自身の「暮らし」を変えるのに役立たない限り、「売れた」だけにすぎない。まあ、「売れれば」それで企業はもうかるから、あとは知らない、でもいいのかもしれないけれどね。

 ところで。
 私が「その隠喩(だけではなく、あらゆる比喩)が、現実には何を指し示しているか」と問うとき、たとえば「世界一美しい薔薇」が「ナスターシャ・キンスキー」を指し示しているというようなことではない。形式的な「内容」ではない。
 「世界一美しい薔薇」くらいの比喩では、そんなものに触れたところで野沢のことばの肉体はどんな衝撃も受けないだろうけれど、野沢が「隠喩(詩)」と呼んでいるものに出合ったら、彼のことばの肉体は大きく揺らぐだろうと思う。
 少なくとも、私の場合、詩に出合ったとき、私のことばの肉体は揺らぎ、私の肉体のことばも揺らぐ。そこから立ち直るのは、とても難しい。そこから、私は私のことばの肉体をどう見直したか、それを「感想」という形でいつも書いている。
 私が読みたいのは、そういう野沢の隠喩(詩)に出合ったときの、彼自身のことばの肉体の変化である。欧米(?)の、誰それの、野沢が問題にしている詩とは無関係の翻訳言語なんかを読みたいとは思わない。
 野沢のことばの肉体は、どんなふうに動き、そのことばの肉体の奥から、それまで意識していなかったどんなことばの肉体が動いたのか。衝撃を受け、崩れたとしても、それは「無」にならない。消えてしまわない。「肉体」だからね。最後の最後に、無になりきれずに残った「肉体」、その「ことば」はいままで何をしていたのか、何をしていたと気づいたのか、野沢自身のことばで語ってほしい。
 野沢はいつでも「知識」の範囲内で書いている。さらに言えば、知識の範囲がいかに広いかを誇示するために書いている。この方法は「隠喩」からもっとも遠い表現形式ではないだろうか。

 比喩(隠喩かどうかは問題にしない)は、直接、そのままの形でやってくる。
 比喩が指し示す(あるいは暗示する?)その対象(内容/意味)は他のことばで言いあらわせるなら、その比喩は必要ないだろう。他のことばでいいあらわせないからこそ、比喩になる。こんなことは日本も欧米も、さらには「グローバルサウス」のことばも同じだろう。(グローバルサウスにも「言語哲学」や「言語論」はあるだろう。)
 そして、比喩は、それが善か悪か(とりえあず、そう呼んでおく)を問わず、それまでの「知識」を解体し、不思議な「陶酔」を暗示し、そこに読者を導きいれる。
 これは、詩だけにかぎらない。
 哲学であれ、美術であれ、音楽であれ、あるいはスポーツにもそういうものがあるだろう。
 詩を特権化してもはじまらないし、「隠喩」は詩というジャンルにだけ存在するのではない。「ことばの肉体」と「肉体のことば」が、いのちの運動に触れるとき(運動は、つねに肉体を伴う)、「意味」を破壊して動くものである。
 それを明示しようとするなら、誰それの(西洋の?)「用語」を使うのではなく、野沢自身の、あるいは藤井自身の「ことばの肉体」をつかうべきだろう。

 

 

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