平林敏彦「ある冬の光景」、新藤凉子「ひとひらの雪」(「現代詩手帖」2007年12月号)
詩人の書こうとしたものと私が読み取ったもの、感じたものが一致しているとは限らない。むしろ違っているだろう、と思う。違っていると思いながらも、その間違ったままの感想を、私はなぜか書きたい。
たとえば平林敏彦「ある冬の光景」(初出は「詩学」2007年1、2月合併号)。
ひとりさまよう精神の情景。「はるかな光りの破片は/暗く地平にこぼれているか」。その光と暗さの対比のなかに、生きる意思を感じる。その生きる意思が出会った生と死が平林を突き動かす。
雪原の彼方に火葬場、あるいは、アウシュビッツのような場に平林を連れて行く。
平林が何を書こうとしたのか、正確にはわからない。しかし、私は、ふとアウシュビッツ、行ったことのない場を想像したのである。
特に、次の行に。
声を上げることが死をもたらすときがある。上げた声が、そこに生きているものがいることを告げる。いのちが発見される。そして、発見されて殺されることがある。たとえばアウシュビッツで、その惨劇の場でひっそりと隠れているそのときに、声を上げることは隠れていることを発見してくれというのに等しい。何を見ても、何があっても、声を上げてはならない。それが生きるというとこである。
「背後から白い手が伸びてきて口をふさがれ/生きよ とおまえの耳元でささやいた」。その手は誰の手であろうか。
「神」の手だろうか。救いの手だろうか。「悪魔」の手だろうか。絶望へ誘う手だろうか。
絶対にわからない何者かの手である。
そして、それは常に平林を引き裂く。生と死に。平林のいのちがあるのは、そのとき声を上げなかった。生を、その一瞬において殺した体験があるからだ。生きるために、何かを殺す。「声」を「殺す」。「口」を「ふさぐ」。
この体験が「冬」なのだ。
平林の書いてるのは「象徴」としての冬である。
平林が書いていること、体験が具体的に何をさしているかはわからない。「廃屋」「得体のしれぬあまい酸性の臭気」(ともに引用していない部分に出てくることば)が何をさしているか、わからない。わかるのは、平林がそれを具体的なことば、私たちの社会に流通していることば(たとえば、アウシュビッツ)では書きたくないと思っているとういことだけである。流通していることばをつかえば、「意味」は読者と共有しやすくなる。しかし、「意味」を共有した瞬間から、平林のほんとうに感じていることは失われてしまう。「意味」になりきれない、あいまいなもの。こころのなかにうごめいているもの。それをことばとしてとどめておく(ことばとして自分自身でしっかり抱きしめてみる)ためには、流通している「意味」を拒絶しながら書くしかないのである。流通している「意味」を拒絶しながら何かを書こうとすれば、どうしても「象徴」しかない。
「象徴詩」というのは、たぶん、古いジャンル(?)の詩である。(そういう分類は、もうないかもしれないが……。)平林の詩が一瞬古い感じ、古いことばの運動に見えるのは、それが「象徴詩」だからかもしれない。
だが、平林の「象徴詩」には「象徴」のなかでしか書けない何かがある。強い緊張感がことばを動かしている。それがあまりに強いので、たとえば私はその緊張感に引っ張られる感じで、アウシュビッツという幻を見てしまう。
*
新藤凉子「ひとひらの雪」(初出「明日の友」165 号・冬、2007年01月)。
ここに出てくる雪は、やはり象徴といえば象徴なのだが、平林の書く象徴とは性質がずいぶん違う。
この雪は流通することを願っている。流通を願うからこそ「初恋」「父や母」という流通することばとともに書かれるのである。流通することで、読者を静かに、その流通の源へと誘うのである。
詩には、流通することによってさらに輝くことばと、流通することを拒むことによって輝くことばがある。
詩人の書こうとしたものと私が読み取ったもの、感じたものが一致しているとは限らない。むしろ違っているだろう、と思う。違っていると思いながらも、その間違ったままの感想を、私はなぜか書きたい。
たとえば平林敏彦「ある冬の光景」(初出は「詩学」2007年1、2月合併号)。
雪に埋もれた
釣り橋のたもとで目をさます
せせらぎは凍っているか
はるかな光りの破片は
暗く地平にこぼれているか
ひとりさまよう精神の情景。「はるかな光りの破片は/暗く地平にこぼれているか」。その光と暗さの対比のなかに、生きる意思を感じる。その生きる意思が出会った生と死が平林を突き動かす。
雪原の彼方に火葬場、あるいは、アウシュビッツのような場に平林を連れて行く。
平林が何を書こうとしたのか、正確にはわからない。しかし、私は、ふとアウシュビッツ、行ったことのない場を想像したのである。
特に、次の行に。
なにが眼前をよぎったのか
おびただしい数の虫のようなものが
ざわめきながら擦過していった
覚えているか そのとき不意に
背後から白い手が伸びてきて口をふさがれ
生きよ とおまえの耳元でささやいた
声を上げることが死をもたらすときがある。上げた声が、そこに生きているものがいることを告げる。いのちが発見される。そして、発見されて殺されることがある。たとえばアウシュビッツで、その惨劇の場でひっそりと隠れているそのときに、声を上げることは隠れていることを発見してくれというのに等しい。何を見ても、何があっても、声を上げてはならない。それが生きるというとこである。
「背後から白い手が伸びてきて口をふさがれ/生きよ とおまえの耳元でささやいた」。その手は誰の手であろうか。
「神」の手だろうか。救いの手だろうか。「悪魔」の手だろうか。絶望へ誘う手だろうか。
絶対にわからない何者かの手である。
そして、それは常に平林を引き裂く。生と死に。平林のいのちがあるのは、そのとき声を上げなかった。生を、その一瞬において殺した体験があるからだ。生きるために、何かを殺す。「声」を「殺す」。「口」を「ふさぐ」。
この体験が「冬」なのだ。
平林の書いてるのは「象徴」としての冬である。
平林が書いていること、体験が具体的に何をさしているかはわからない。「廃屋」「得体のしれぬあまい酸性の臭気」(ともに引用していない部分に出てくることば)が何をさしているか、わからない。わかるのは、平林がそれを具体的なことば、私たちの社会に流通していることば(たとえば、アウシュビッツ)では書きたくないと思っているとういことだけである。流通していることばをつかえば、「意味」は読者と共有しやすくなる。しかし、「意味」を共有した瞬間から、平林のほんとうに感じていることは失われてしまう。「意味」になりきれない、あいまいなもの。こころのなかにうごめいているもの。それをことばとしてとどめておく(ことばとして自分自身でしっかり抱きしめてみる)ためには、流通している「意味」を拒絶しながら書くしかないのである。流通している「意味」を拒絶しながら何かを書こうとすれば、どうしても「象徴」しかない。
「象徴詩」というのは、たぶん、古いジャンル(?)の詩である。(そういう分類は、もうないかもしれないが……。)平林の詩が一瞬古い感じ、古いことばの運動に見えるのは、それが「象徴詩」だからかもしれない。
だが、平林の「象徴詩」には「象徴」のなかでしか書けない何かがある。強い緊張感がことばを動かしている。それがあまりに強いので、たとえば私はその緊張感に引っ張られる感じで、アウシュビッツという幻を見てしまう。
*
新藤凉子「ひとひらの雪」(初出「明日の友」165 号・冬、2007年01月)。
ここに出てくる雪は、やはり象徴といえば象徴なのだが、平林の書く象徴とは性質がずいぶん違う。
このひとひらの雪にひとひらの思い出があると
このとしになって気づいたの
防空壕のなかで寒さと怖さにふるえていた頃
南方で戦死していた初恋のひとのために
ひとひらの雪
父や母が必死になって屋根の雪下ろしをしていた姿に
ひとひらの思い出
(略)
雪はかたまって降ってきません
ひとひらひとひら降ってくるのよ
わたしはこの土地から出て行きません
どんなに重く苦しくても
ひとひらひとひらの思い出のためにね。
この雪は流通することを願っている。流通を願うからこそ「初恋」「父や母」という流通することばとともに書かれるのである。流通することで、読者を静かに、その流通の源へと誘うのである。
詩には、流通することによってさらに輝くことばと、流通することを拒むことによって輝くことばがある。