syuの日記・気まま旅

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門前仲町 仙台堀と芭蕉・馬琴 syu散歩

2017-04-29 | syu散歩
「仙台堀川」は、江東区を流れる河川。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつ。
江戸時代、この堀の北岸、現在の清澄公園の西隣に「仙台藩の深川蔵屋敷」があり、この堀を利用して仙台から送られた米等を運び入れたことから
仙台堀ーと呼ばれ、その後、昭和40年の1965年、河川法改正で砂町運河と合わせて、仙台堀川、に。
仙台藩の芝口上屋敷(港区東新橋)の跡地からは船着場の遺構が発見されており、仙台から深川の蔵屋敷へ、さらに上屋敷という当時の物資の海運輸送が推測され、JR御茶ノ水駅周辺の神田川も、その開削工事を仙台藩が請け負ったことから、かつて「仙台堀」と呼ばれている。
1872年、日本初のセメント工場「官営深川工場」が建設され、区の史跡「本邦セメント工業発祥之地」の記念碑も残されている。



「平賀源内」異才 1728-79 戯作者で本草学者。高松藩足軽の子、医学を勉強するため長崎へ、本草学は江戸に出てから。
江東区清澄ー読売江東ビルに碑が
源内は、享保13年の1728年、高松藩小史の家に生れ和洋の学を勉強し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなし、かつ神霊矢口渡の戯作者でもあった。
源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年の1777年、エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行なった。
オランダ商館長もびっくりー酒宴の席で袋を取り出し「この袋を開けたものには中身を差し上げる、、」と云い、袋の入り口が知恵の輪のようになって
いた。列席した日本人は開けられない、しかし末席に控えていた源内、たちどころに開けてしまった。人々から称賛されたという。
源内は、誤って人を殺した罪で獄中で病死したと云う。

                  地下鉄東西線・大江戸線門前仲町駅出口


            国道10号線永代通りと463号線清澄通り交差が門前仲町の交差点。


              清澄通り沿いにひっそりと「戦災殉難者慰霊碑」が。


江戸を旅した俳人「小林一茶」は、この辺りに5年ほど住んだという。

              軍鶏鍋屋 五鉄・二之橋・高札跡


「仙台藩深川蔵屋敷」(現在の清澄公園の西隣になる)
仙台堀は、旧中川と隅田川を結ぶ運河の一つ、仙台藩主伊達政宗の仙台堀は今の飯田橋~秋葉原の工事で運河はその後と思われる。

今の堀、東京湾から東雲運河・汐見運河・豊洲運河から枝川ー塩浜ー深川ー汐見橋ー亀島橋ー左に隅田川ー右仙台堀ー横十間川(親水公園)-
大横川ー墨田区へ
                       仙台堀の桜並木


「松尾芭蕉」 俳諧師 1644年正保元年ー1694年元禄7年 松尾与左衛門の次男・伊賀国 23歳で故郷を捨て俳諧の道へ。
37歳で江戸深川「芭蕉庵」で暮らす。奥の細道の旅は、元禄2年である。近世文学史の功績大
芭蕉18~19歳時、(藤堂高虎・・藤堂良忠、藤堂良精の3男、俳号蝉吟)良忠の料理人として仕え親交深く俳諧の道の影響大であったと云う。

  深川で詠んだ句「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」・大阪で客死最後の句「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」


芭蕉は、城主「内藤義概」(風虎)の俳人と交わるが、芭蕉の収入源は、神田上水の水道工事の書記と俳句の会合での採点をする時の点料と指導料であったとも云われている。1675年32歳時、江戸本所の大徳院蹤画亭において、東下中の西山宗因歓迎の連句が興行され、そこに参加したメンバーが後の芭蕉の人生に大きく関わることになる。
メンバーは、「宗因」-江戸初期から俳諧を席巻してきた「貞門派」に対し、延宝期から流行した「談林派」の中心人物。
芭蕉は、「宗因流」の新しい波に大いに賛同し、心酔していく。
「幽山・高野直重」の芭蕉は、彼の句会の書記役を勤めたともいう。「信章・山口素堂」は、芭蕉とは一生の友として関わっていく。
他は、 蹤画(大徳院住職)、木也、吟市、少才、似春、又吟。
芭蕉は、1678年35歳ー「宗匠」となり、いわば職業的な俳諧師、1680年37歳、江戸深川隅田川畔に「草庵」を。
門人ー「李下」より芭蕉の株を贈られ、この木が大いに茂ったことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、
俳号としても「芭蕉」を好んで用いるようになる。すでにこの頃芭蕉には、20人ほどの門弟がいたと云う。

       京都「北村季吟」師事して俳諧の道をー松尾芭蕉像


                 滝沢馬琴 1767年明和4年ー1848年嘉永元年


            馬琴は、74歳で失明・代筆で「南総里見八犬伝」脱稿した。


「山東京伝」 1761~1816 江戸後期の戯作者・浮世絵師。
江戸深川出身の人。本名、岩瀬醒、通称、京屋伝蔵。
浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演と名乗る。のち、戯作に筆をふるった。
寛政の改革で洒落本が発禁になり、手鎖50日の刑を受け、以後は読本を書いた。
洒落本「通言総籬」「傾城買四十八手」、黄表紙「江戸生艶気樺焼」、読本「桜姫全伝曙草紙」、考証随筆「骨董集」など多数を刊行。
版元は、蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門となり、挿絵の面白さが魅力で人気を誇った。弟子は取らなくなっている。
1784年5代目市川團十郎と親交・1790年遊女菊園を妻に迎えている。その頃、曲亭馬琴が訪ねている。

「滝沢馬琴」 1767-1848 24歳で山東京伝入門 旗本用人滝沢興義の五男。
椿説弓張月を初め数多くの時代物の読本を発表、その筆は師の京伝をも凌いだという。作家だけでは生活できず、様々な副業をこなしている。蔦屋重三郎
の手代・履物屋・未亡人の婿に・薬売り・・解放されたのが30代の後半と云う。74歳で失明し息子嫁に代筆させ、「南総里見八犬伝」を脱稿しと云う。



「南総里見八犬伝」
文豪・曲亭馬琴が28年もの年月をかけた長編小説。
戦国時代に安房の地を活躍の拠点にした房総里見氏の歴史を題材にし、歴史事実にはこだわらず、そのすべてが新たに創作されたもの。
1814年に最初の5冊を出版し、全106冊が1842年の天保13年、でした。
物語の主題は、「勧善懲悪・因果応報」にあり、悲劇の最期を遂げた里見氏をはじめ安房地方の善良なる人々などをとりあげて、馬琴の意のままに大活躍させる爽快な小説になっている。

物語は、結城の戦いに敗れた若武者里見義実)が、安房へ落ち延びる場面からはじまり、やがて安房国滝田の城主になった義実は、隣国の館山城主安西景連)の攻撃にあった。
愛犬八房の働きによって敵将景連は討ち取ったものの、その功績で八房は伏姫を連れて富山の洞窟にこもった。
姫を取り戻しにきた許婚の金碗大輔は、鉄砲で八房を撃ち殺すが、伏姫にも傷を負わせてしまう。
八房の気を感じて懐妊してしまっていた伏姫は、身の純潔を証するため、大輔と父義実が見守るなか、自害、このとき、伏姫が幼い頃に役の行者
から授かっていた護身の数珠から八つの玉が飛び散った。
この玉が八方へ飛んで、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持つ八犬士が登場してくる。
こののち、金碗大輔は出家してゝ大(ちゅだい)法師となり、飛び散った八つの玉の行方をもとめて旅に出る。
伏姫の子供ともいえる八犬士たちは、それぞれ思いがけないところで出会い、はなばなしく活躍する。
八犬士たちとめぐり会ったゝ大法師こと金碗大輔は、二十数年ぶりに八人を里見義実のもとへ連れ帰った。
里見家の家臣として里見家の危難を救った八犬士は、義実の八人の孫娘をそれぞれ娶る。
その後、子どもたちに家督を譲ってからは、富山の山中へ姿をかくして仙人になったというお話。

                     全106冊の長編小説

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