syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

蓼科 カラマツの紅葉 

2013-10-31 | 気まま旅
秋になると蓼科の紅葉が懐かしく、今年も少し早い時期でしたが、紅葉を見に出掛けました。(10/21~22)
紅葉の旅なので富士山麓を中断して三回に分けて掲載します。

蓼科高原カラマツの紅葉








蓼科湖 4~5日早かったですね。!











朝日・白糸・音止めの滝と下馬桜

2013-10-29 | 富士山麓日記
「狩宿の下馬ザクラ」は、富士宮市にある日本最古級のヤマザクラ、(国の特別天然記念物で、日本五大桜指定)

1193年に源頼朝が富士の巻狩りを行った際、馬からおりた所とされたことから「狩宿の下馬ザクラ」と呼ばれるようになった。
下馬の際、桜に馬をつないだとも言われている。そのため「駒止めの桜」という別名もある。
樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木、 しかし度重なる台風などの影響で弱っており、最盛期の姿は拝めない。

江戸幕府第15代征夷大将軍である徳川慶喜はこの桜についての歌を詠んでいる。「あわれその駒のみならず見る人の 心をつなぐ山桜かな」

源頼朝狩宿下馬した桜の古木(昨年の春に撮影)


今月撮影の「下馬桜」


1193年に源頼朝が富士の巻狩りを行った際、馬からおりた所とされたことから狩宿の下馬ザクラと呼ばれるようになった。

また下馬の際、桜に馬をつないだとも言われている。そのため「駒止めの桜」という別名も存在する。
樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であったが、最盛期の姿は拝めない。

江戸幕府第15代征夷大将軍である徳川慶喜はこの桜についての歌を詠んでいる。
                  「あわれその駒のみならず見る人の 心をつなぐ山桜かな」



「源頼朝が巻狩の時に宿所」とした所が、現在の狩宿井出家及びその周辺だったと云う。近くには御家人の宿所も作られた。
宿所の置かれた狩宿井出家の周辺は、西は芝川の深い谷となり、東は大沢崩れから流れてきた大石がごろごろする川原だったと考えられ、宿所を構えるために適した要害の地であったとも云う。

井出家居宅は、1776年に焼失し、さらに1797年再度焼失し現在地に再建されたといわれている。
隣接する元屋敷といわれる所(現在は水田)に家があり、そこが頼朝の宿所の跡だと伝えられている。
狩宿井出家の入り口に、狩宿の下馬ザクラがある。



巻狩は、単に狩猟を楽しむだけのものではなく、富士の裾野に諸国の御家人が集まり、将軍頼朝の前で勢子(鳥獣を追い出す人)の追い立てた獲物を馬に乗って弓で射る武術の訓練を目的とした催しで、大軍事演習といえるもの。



「曽我兄弟敵討ち」
建久4年5月28日の夜、降りしきる雨の中工藤祐経の宿所に押し入った曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟によって、工藤祐経と王藤内が殺戮されるという大事件が起きた。「曽我兄弟の仇討ち」事件。
仇討ちを果たした後、兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、十郎祐成は新田四郎忠常に討たれ、五郎時致は女装した五郎丸によって捕らえられ翌日処刑されている。



狩宿大橋から見た富士山


朝日滝に通じる「芝川に架かる狩宿大橋」


「朝日滝」は、熊久保の地にあり、半野用水が断崖を20mの落差で落ち込む。
半野用水は、1558年-1570年に、10年余の歳月を費やし、芝川の上流から水を引いた。
この周辺は水が豊富で、有名無名を会わせ大小さまざまな滝がある。
発電所の導水管脇の石段を登ると、滝見台があり、滝を間近で見ることができる。

見事な朝日滝、水量多く間近にみられる


下馬桜から登り2kmほどにある


「白糸の滝」、富士山の伏流水と芝川の伏流水が湧水となって崖の間から幅広く落下し、白い糸を垂らしたように見える。
馬蹄型をなして、透水性の新富士溶岩と緻密な古富士泥流層との間から落下。
富士大沢扇状地の扇端辺りに位置している。
落差25m。巾120m。年間水温12℃、毎秒1.5Tの湧水。

写真中央が滝、工事中の為近くまで行けない。


「白糸の滝」は、隣接する音止めの滝と共に、日本の滝百選にも選ばれている。(国の名勝、天然記念物)。
富士山-信仰の対象と芸術の源泉の構成資産の一部として世界文化遺産に登録。



上流に川から流れる滝と、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す無数の滝が並んでいる。
水量は毎秒1.5トン。幅200メートル、高さ20メートルの崖から絹糸を垂らしたように流れる様子からこの名がある。

富士の巻狩りの際に滝に立ち寄った源頼朝は歌を詠んでいる。「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」

                    白糸の滝石碑


2011年 9月に、日本列島を縦断した台風15号による増水等の被害により滝壺が甚大の被害を受け、落石の危険等がある為、
滝つぼへ立入が禁止となった。
応急復旧工事、今年11月3日。見学可能と云う。

                       芝川(音止の滝に)


お鬢水(おびん水)は、白糸の滝のすぐ上には岩窟があり、「お鬢水」という水が湧いている。
このお鬢水で源頼朝は、髪のほつれを直したと伝えられている。
また、このお鬢水は富士講の霊場の1つでもある。

                   現在工事中(階段は通行止)
  

「六合目でも面白い」
富士山、六合目山小屋の裏手から富士山頂へ向かう道と宝永山に向かう道とに分かれる。
六合目から宝永第一火口縁へ向かう道にはきつい登り道はありません。10分位で宝永第一火口縁に着くことが出来る。
富士山の天候はすぐに変わり、夏場は特に太陽の光によって地中が温められ、雲が多く発生する。
夏場に晴れ渡った景色を見るには、地温が下がっている朝と夕方。

宝永第一火口縁」は、ここから第一火口に降りて宝永山の山頂(2539m)を目指すこともできる。
富士山は1707年にこの火口から噴火して以来、活動を休止、霧が出たり、はれたり、

宝永第二火口縁」は、第一火口縁から少し下ったところ。
宝永火口は3つの火口から構成され、これらは標高の高い順に第一、第二、第三火口と呼ばれ、互いに重なり合うように並んでいるのがわかる。雲下に広がる街並みや太平洋を見渡すことも出来、この場所から樹林帯に入り五合目駐車場に戻るコースでした。

                 音止の滝                      白糸の滝
    

次回は、本栖湖・身延へ。 

田貫湖と陣馬の滝

2013-10-27 | 富士山麓日記
「大石寺」
日蓮の六人の弟子の一人日興は身延の地頭・波木井実長と意見の相違で身延山久遠寺を離山。
後に、上野の地頭であった南条朝臣時光の招請を受けて1290年、富士山麓の大石ヶ原に移り住んだのが大石寺のはじまり。



山号は「多宝富士大日蓮華山」「大日蓮華山」と略すこともあると云う。


総門と三門を結ぶ石畳の両側には、総門より三門に向かい左手に、常灯坊、広布坊、総二坊が、右手には常来坊と、総二坊と石畳を挟んでシンメトリーのように総一坊が立っている。
この総一坊・総二坊ともに230畳を超える広間に本尊が安置、
三門前には国道469号が横断している。日本庭園「法祥園」が明鏡池を中心としてひろがり、その右手には東裏塔中がある。

    

庭園から富士山が望めるが雲に、
  

田貫湖にある「長者山田貫神社」
朝霧高原にある田貫湖の北岸に鎮座。富士山の真西に位置。「逆さ富士で知られている」
鳥居は無い、道路から10m程のとこから1mほどの盛り土があり、その上に狛犬とお宮がある。

    

豊かな自然に囲まれた田貫湖。晴れていれば、古から親しまれてきた逆さ富士を見ることができるが残念。


「炭焼き長者の伝説」
・・・・松五郎の荒屋をお訪ねになったところ、折あしく、松五郎は故郷の明見村に行って留守であったので、王女様は、「主人はおわすや。」と尋ねられた。
すると、留守の者は、あすみにござらっしやり奉ります。」と答える。
留守の者は、「松五郎は明見村に行って留守でございます。」と言ったつもりだったのであるが、王女は、「明日見に来い」との返事だと思い、あらためて又翌日尋ねると、留守の者は、又しても「あすみにござらっしゃり奉ります。」と答える。
王女様を、一度ならず、二度までも無駄足をさせるとは、何という無礼者であろうと、お附の者は大層怒ったが、王女様は、「いやいやその見識は見上げたものだ。」とかえって喜ばれ、あらためて三度お訪ねになって、漸く松五郎にお逢い遊ばした。
その折、賭物のしるしに、小判二枚を王女様が贈られたが、松五郎は一向その小判の値打を知らないので、四辺の景色一を御案内の時、近くの池(今の長者が池)に浮いていた二羽の鶴めがけて其小判を投げつけてしまった。
その鷹揚ぶりがひどく王女様のお気に召して、まもなくめでたく御夫婦になられた。
そのおかげで、炭焼松五郎は、日本きっての炭焼長者と出世したとさ。

    

田貫湖は、ヘラブナ釣りのメッカとして全国的に有名、又、4月20日前後と8月20日前後の約1週間、富士山頂から朝日が昇り、ダイヤモンド富士を見ることができる。

    

田貫湖北側に位置する「小田貫湿原」、
富士山麓では唯一の低層湿原で、 大小125余りの池が点在している。
湿原の中央には、渡り板が掛けられ、小田貫湿原ならではの珍しい昆虫や植物などを間近に見ることができる。昆虫は、70種

  

小田貫湿原は標高670~689mにある大小125余りの池がある湿原、富士箱根伊豆国立高原に属している
        

「陣馬の滝」
五斗目木川にかかる滝で、上流からの水の流れと、溶岩層のすき間から湧き出す水が滝をなしている。
陣馬の滝という名は源頼朝が行った「富士の巻狩り」の際、滝の近くに一夜の陣を敷いたことから名づけられた。





白糸の滝より北側にある滝。白糸の滝に比べると落差は小さく、幅もあまりないが、白糸の滝同様に水がとても綺麗で実に美しい、
    

国道139号線沿いの朝霧高原「まかいの牧場」

駐車場から富士山をまじかに観られる。


入園料¥700、園内は体験ミルク工場などがあり面白い。

乳製品工場見学、アスレチック、ものづくり体験、牧場、広場、散歩道、桜が100本など。

    

花畑には、アジサイ、ツツジ、ひまわり、コスモス、シャクナゲ、梅園、芝広場でのんびり出来る。

  

次回は、白糸の滝・下馬桜へ。

曽我兄弟の仇討

2013-10-26 | 富士山麓日記

曽我兄弟の伯父「伊藤祐親」は。東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
しかし「祐親」が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
「祐親」は、これを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
「祐親」は、この前後に出家している。

「祐親」の子「河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族の「工藤祐経」に殺される。
「祐泰」の妻は、兄弟の二児を連れて(その時の兄祐成(5歳)弟の時致(3歳))「曽我祐信」と再婚。

曽我兄弟、兄祐成1172-93・弟時致1174-93.


「工藤祐経」は、「吾妻鏡」は、1184年の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された「平重衡」を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録がある。
祐経は平家の家人であった事から、重衡に同情を寄せていたという。
源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。1186年に静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っているという。
1190年の頼朝の上洛では武装した随兵とは異なり、水干や布衣を着して頼朝の側近くに従っている。
1192年、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。
祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。

1193年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加している。
巻狩りの最終日の5月深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、曾我祐成・時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。騒動の後、詮議を行った頼朝は曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首されている。



富士市久沢「曽我寺」、

曽我寺は、曽我兄弟の菩提寺。五輪塔の墓2基、供養塔2基、兄弟の像、本堂の中には位牌と木像があるという。
無住の寺で、富士宮の粟倉の重林寺が管理をしているという。

寺入口              身代わり地蔵、塔                 曽我兄弟の墓地
    

カヤとシイは、市指定天然記念物指定
「カヤ」目通り 4.25M 実測値樹高 20.0M 雌株で寺創建当時のものという。
「シイ」目通り 5.0M 目測、樹高 20.0M、、空洞あり。
「イチョウ」目通り 3.3M 実測値、樹高 12.0M。

境内は、古木で茂っている。

天然記念物「シイ」の神木                              文殊菩薩像
    

曽我兄弟の像・富山の人が造ったとある、


「身代わり地蔵尊」が、昔から寺の門前に祀られていて、病気などの身代わりをしてくれると言い伝えられています。
特にイボ、ウルシカブレ、皮膚病などが治る様にお願いして、振り向かないで家まで帰るといつの間にか治ってしまうという言われる。

                  曽我兄弟の位牌、木像がある本堂
毎年命日に当たる5月28日前後に、曽我兄弟を偲び供養祭が行われる。


曽我裕成は22才、時致は20才の春を迎えていました。
兄弟は、曽我を出て、箱根権現で別当と対面などして、巻狩りには、5月25日から参加しましたが、なにせ仕送りの無い身分で食べ物にも事欠く始末でした。
そのため和田義盛、北條時政等縁故を頼って生活していました。裕経の館へも斥候のため行き、夕飯の接待を受けました。
巻狩りも終盤になった5月28日(旧暦。 新暦は6月下旬)に、兄弟はいよいよ本懐を遂げようと覚悟を決めました。
そこで、兄弟は母への形見の品を届けさせるため、団三郎・鬼王を呼び出だしたのでした。本曲にあるように二人はなかなか承服しませんでしたが、なんとか説得し、曽我に帰しました。
そして、深夜雨の中、夕べの宴で前後不覚に遊女と添い寝していた工藤裕経43才を、斬り、彼から貰った刀で留めをさしたのでした。

「謡曲より」

音止の滝手前の曽我橋(この奥に隠れ岩・工藤祐経の墓がある)


頼朝のこの狩は、かなりの規模で、数えることができない程の御家人が参加したと云う。
その中に「曾我祐成・時致」兄弟がおり、この狩の際に、領地争いで殺された父の仇「工藤祐経」を討とうと密談。
ところが滝の音がうるさく、 兄弟は、「滝の音を止めよ」と、神に願い出た。
なんとあれだけの轟音が止み、曽我兄弟はみごと敵を討つことがで、この滝は、そのときから「音止の滝」と呼んだと云う。



「曾我の隠れ岩」は、音止の滝の東側、曾我兄弟が、敵を討つ時に隠れていたという言い伝えが残る「曾我の隠れ岩」がある。

こんもりと小山に
    

雑草が茂っているが手入れはされている
  

兄弟の仇工藤祐経は、頼朝の寵臣でした。その人を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆である。
仇討ち成就は死を覚悟しての行動であった。
頼朝は五郎が稀代の勇士であるため助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆きを見て、断首による処刑を申し渡します。
彼らが使用した刀は、「箱根神社」に奉納されている。
工藤祐経の墓や兄弟が密談をしたといわれる曽我の隠れ岩や源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるための曽我八幡社がある。

彼岸花                                            工藤祐経の墓
     

次回は,田貫湖・陣馬の滝へ。

富士宮 本宮浅間神社

2013-10-24 | 富士山麓日記

富士宮市は、富士山本宮浅間大社の門前町として栄えた。
中道往還の宿場町としての顔もあり、戦国時代には楽市が行われた。
古来より地理的にも文化的にも富士山との関わりが深く、富士信仰とも関わる。富士山の湧水が豊富であり水に関する工業が盛んである他、観光も盛んである。
「富士宮市」の由来は、「富士の宮」という浅間大社の旧社号から由来。
古くは「今昔物語集」の「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」や「新勅撰和歌集」など、平安時代や鎌倉時代の古文集にもみられる古来から存在する古い名称である。

富士山本宮浅間神社大鳥居から見た富士山


「富士山本宮浅間神社」は、市中央の宮町に鎮座。
全国1300余社ある浅間神社の総本社で、駿河国一宮。

864年から866年に多くの被害を出した富士山の「貞観大噴火」に対して、朝廷では占いにより噴火を祭祀怠慢によるものとした。
その結果甲斐国でも浅間神を祭祀することとなり、結果的に浅間信仰は甲斐側にも広がることとなった。

神社隣接の公園から


祭神は、木花咲耶姫 命、富士山の神体。
806年、坂上田村麻呂が社殿を造営したとされている。

神様の時代から六百年余りの年月がたち、平安時代の初めのころから穏やかだった富士山が、再び恐ろしい山になりました。
何回も何回も火を噴く山に、人々はひたすら山の神を拝み、噴火のあさまることを祈りました。
帝(みかど)の耳にも届くようになりました。
帝は 「富士山に位を授け、山の神として格を上げて拝んでみよう」 とおおせられて、噴火の際に富士山の格や位を上げて、使者を遣わせて拝みました。しかし、噴火は止まることはありませんでした。
恐ろしい山に、人々は相談しました。 「むかし、木花咲耶姫という神様が、御子も火の中で生んだとか。富士山に登ったら噴火もおさまったとかいうことだよ。」 一番の長老がいいました。
「噴火がおさまれば、最も美しい里になり、住みよくなるだけに、なんとか神様をお迎えしたいな」
「ともかくみんなで力を合わせ、木花咲耶姫の魂を神様としてまつって拝んでみよう」 若者たちも口を揃えていいました。
里の人はみんな集まって、木花咲耶姫の魂を頂上におまつりしました。
すると不思議な事に噴火もおさまり、桜が咲き、雪解け水が小川に流れ、のどかな里になりました。、、、、、、、。

湧玉池から                  大鳥居                 参道
    

浅間造の(重要文化財)本殿、1604年徳川家康が造営したものである。

石鳥居                  狛犬                  流鏑馬像
    

5月の「やぶさめ祭」は、源頼朝の富士の巻狩に由来し、流鏑馬が奉納される。

鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営といった当時の実力者からの崇敬を受け、社伝「富士本宮浅間社記」によると、
源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが流鏑馬の起源とされる。
南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた。
武田信玄は願状を捧げ、その後武田勝頼は天正4年から造営を進め1578年に遷宮を行った。
豊臣秀吉も社領寄進の朱印状を発布している。

                        楼門


文化財は、景光銘太刀・信国銘脇差・絹本着色富士曼荼羅図がある。

                        拝殿


本宮境内にある湧水池がある、室町時代から盛んになった富士登山者の多くは、ここで「水垢離」して身を清めた。

                       献上樽酒


全国の浅間神社は、江戸川区篠崎鎮座・浅間神社 、 [甲信越地方]斐國八代郡 淺間 神社 、笛吹市一宮町、 冨士山下宮 小室浅間神社 、
広島県尾道市、亀戸浅間神社 、 富士吉田市 北口本宮冨士浅間神社など1300社以上ある。

                       境内全景


江戸時代に入ると、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営した。
1609年には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た。
その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、4代将軍徳川家綱は金1千両を寄進、5代将軍徳川綱吉は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進、10代将軍徳川家治は銀300枚を寄進した。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。
1779年には三奉行による裁許により富士山の8合目以上が富士本宮へ寄進されている。

次回は、曽我寺から白糸の滝方面へ。