昭和11年、2.26事件、翌年、中国盧溝橋において、日・中両軍がぶつかり日中戦争が勃発。
昭和13年国家総動員法が公布され、翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄、ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。
1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争に、「第2次世界大戦」の火ぶたが切られたのである。
1940年日独伊三カ国同盟が結ばれ、1941年昭和16年に米・英との全面戦争に突入した。我が国の軍隊は強く優勢に侵攻していた。
が、日本軍は、じわじわ劣勢となり1944年の昭和19年ーサイパン島の日本守備隊が全滅。それからは、後退していくのである。
その後、アメリカのB29による本土空襲が激しくなってきた。
昭和20年4月S家族一家は、父のみを東京に残しー埼玉県秩父郡影森村という山奥に疎開したのである。
東京で、生まれ、生活していた子供にとっては。それはそれは辛い生活に。
親は東京で、寂しさと寒さとひもじさ、弟は、秩父で、小児喘息で苦しんだ。
これから4人兄弟は、思いもかけない、辛い毎日の縁故疎開生活を、送ることになるのである。
1945年、昭和20年8月15日生まれのSは、国民学校1年生に入学。
その、1年生の夏休みに、なぜか、学校にいた。
当時学校には、宿舎の駐留していた兵隊さん達も一緒の教室を使っていた。
その関係だと思うが、校舎で兵隊さんたちと、陛下の「玉音放送」を聞いた。
当時の教育は、一年生だったが、やがては尊敬の兵隊さんの後に次いで、米・英と死を覚悟で戦いに行くのだと子供心に決めていた。
(兄の影響も強かったと思う)。
「玉音放送」の内容は理解できなかったが、大人たちの話から日本は負けたと聞かされ信じられなかった。
兄達の涙を見て、米・英国に対し悔しさと悲しさで胸が張り裂けそうになった記憶が残る。
姉は、周りの整理を始めていた。
その夜これでやっと東京に帰れるのだ、もう、空襲は無いのだという安堵感と、迎えに来た両親に会え、何とも言えない嬉しさで胸が一杯になった。
中学の姉兄の話を聞いて、眠れない夜を明かした。
また、東京へ帰ることが、何となく罪深いことだと思っていたのを思い出す。
布団の中で子供心に、もし、ドイツが破れなかったら、我が国自慢と誇りの「大和戦艦とゼロ戦は、、、、。
強兵の掛け声のもと、人間の限界まで鍛え抜かれた強い日本兵は世界一と信じ切っていた。
(のらくろの漫画の影響が大きかったのであろう)
その年の暮れに、兄弟揃って、親と共に帰京することが出来た。
昭和13年国家総動員法が公布され、翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄、ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。
1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争に、「第2次世界大戦」の火ぶたが切られたのである。
1940年日独伊三カ国同盟が結ばれ、1941年昭和16年に米・英との全面戦争に突入した。我が国の軍隊は強く優勢に侵攻していた。
が、日本軍は、じわじわ劣勢となり1944年の昭和19年ーサイパン島の日本守備隊が全滅。それからは、後退していくのである。
その後、アメリカのB29による本土空襲が激しくなってきた。
昭和20年4月S家族一家は、父のみを東京に残しー埼玉県秩父郡影森村という山奥に疎開したのである。
東京で、生まれ、生活していた子供にとっては。それはそれは辛い生活に。
親は東京で、寂しさと寒さとひもじさ、弟は、秩父で、小児喘息で苦しんだ。
これから4人兄弟は、思いもかけない、辛い毎日の縁故疎開生活を、送ることになるのである。
1945年、昭和20年8月15日生まれのSは、国民学校1年生に入学。
その、1年生の夏休みに、なぜか、学校にいた。
当時学校には、宿舎の駐留していた兵隊さん達も一緒の教室を使っていた。
その関係だと思うが、校舎で兵隊さんたちと、陛下の「玉音放送」を聞いた。
当時の教育は、一年生だったが、やがては尊敬の兵隊さんの後に次いで、米・英と死を覚悟で戦いに行くのだと子供心に決めていた。
(兄の影響も強かったと思う)。
「玉音放送」の内容は理解できなかったが、大人たちの話から日本は負けたと聞かされ信じられなかった。
兄達の涙を見て、米・英国に対し悔しさと悲しさで胸が張り裂けそうになった記憶が残る。
姉は、周りの整理を始めていた。
その夜これでやっと東京に帰れるのだ、もう、空襲は無いのだという安堵感と、迎えに来た両親に会え、何とも言えない嬉しさで胸が一杯になった。
中学の姉兄の話を聞いて、眠れない夜を明かした。
また、東京へ帰ることが、何となく罪深いことだと思っていたのを思い出す。
布団の中で子供心に、もし、ドイツが破れなかったら、我が国自慢と誇りの「大和戦艦とゼロ戦は、、、、。
強兵の掛け声のもと、人間の限界まで鍛え抜かれた強い日本兵は世界一と信じ切っていた。
(のらくろの漫画の影響が大きかったのであろう)
その年の暮れに、兄弟揃って、親と共に帰京することが出来た。
5つ上の兄ーの記録から
おいっ疎開っ子・疎開っ子
ドドメという甘い小さな果実になると知って、僕はもう大分長い時間、中腰になり、夢中で桑の実を探し続けていた。
おいっ、疎開っこの声で、弾かれたように身を起こした。
僕の視線は、見覚えのある村の、いつもの柔和な表情からはとても想像できない仁王のような、恐ろしい形相に付き当った。
10人を超える殺気を含んだ少年たちが、僕の周りを取り囲んでいた。
その輪の中には、転校先の町の学校の同級生と、新しい担任の顔も混じっているようだった。
「東京っ子のくせに、畑になんぞ、入りやがって、、、、、誰に断ったんだ」、「東京から逃げ出してきやがって・・卑怯者、、」
「弱虫・お前なんぞ、東京に帰れよ、帰れ・帰れー畑のもの盗めば、どんなにされたって、文句ねえんだぞ」
幸か不幸か、桑の実はまだ一個も見つからないでいた。-逃げたが、逃げ切れず-
陛下のご命令で来たんだ来たんだ、断じて卑怯者じゃない、自分に言い聞かせるように、口の中でつぶやいた。
囲みを破るため、僕は一歩前に踏み出した。途端に何人かの鉄拳が、同時に顔をめがけて飛んできた。僕はつんのめって土の上に倒れた。
目の前で、どす黒い鼻血が、とろりとした重油のようにゆっくりと広がっていく。
「この僕のどこが悪いとゆうんだ」悔しさで胸が一杯になった。呼吸が苦しい。急いで立ち上がろうとした。腕に力が入らない、
そのもどかしさと悔しさで目が覚めた。・・・・・・・・・・。
僕たちの新しい住まいとなったのは、村に一軒だけ存在する駅前旅館だった。改札口から道路を横切り、10数歩で旅館の玄関についた。
玄関口は、大きな囲炉裏のある帳場兼広間を通って2階に上がる。自炊が条件だが、1階の広い調理場を使うことができた。
影森の山並みは、数本の貨物用の引き込み線、倉庫を備えた駅構内の脇近くまで迫っていた。2階の窓からは、正面に300mの急崚な山と、その
西側につづくなだらかな2つの低い山が、まじかに眺められた。
山並みのすぐ後方に、高さ1600M級の雄大な山が聳え立つ。・・・・・・・。「一部を紹介しました。」