syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

疎開っ子、小学校入学

2016-08-30 | 思い出

昭和11年、2.26事件、翌年、中国盧溝橋において、日・中両軍がぶつかり日中戦争が勃発。
昭和13年国家総動員法が公布され、翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄、ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。
1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争に、「第2次世界大戦」の火ぶたが切られたのである。
1940年日独伊三カ国同盟が結ばれ、1941年昭和16年に米・英との全面戦争に突入した。我が国の軍隊は強く優勢に侵攻していた。

が、日本軍は、じわじわ劣勢となり1944年の昭和19年ーサイパン島の日本守備隊が全滅。それからは、後退していくのである。
その後、アメリカのB29による本土空襲が激しくなってきた。

昭和20年4月S家族一家は、父のみを東京に残しー埼玉県秩父郡影森村という山奥に疎開したのである。
東京で、生まれ、生活していた子供にとっては。それはそれは辛い生活に。
親は東京で、寂しさと寒さとひもじさ、弟は、秩父で、小児喘息で苦しんだ。
これから4人兄弟は、思いもかけない、辛い毎日の縁故疎開生活を、送ることになるのである。
1945年、昭和20年8月15日生まれのSは、国民学校1年生に入学。
その、1年生の夏休みに、なぜか、学校にいた。
当時学校には、宿舎の駐留していた兵隊さん達も一緒の教室を使っていた。
その関係だと思うが、校舎で兵隊さんたちと、陛下の「玉音放送」を聞いた。
当時の教育は、一年生だったが、やがては尊敬の兵隊さんの後に次いで、米・英と死を覚悟で戦いに行くのだと子供心に決めていた。
(兄の影響も強かったと思う)。
「玉音放送」の内容は理解できなかったが、大人たちの話から日本は負けたと聞かされ信じられなかった。
兄達の涙を見て、米・英国に対し悔しさと悲しさで胸が張り裂けそうになった記憶が残る。

姉は、周りの整理を始めていた。
その夜これでやっと東京に帰れるのだ、もう、空襲は無いのだという安堵感と、迎えに来た両親に会え、何とも言えない嬉しさで胸が一杯になった。
中学の姉兄の話を聞いて、眠れない夜を明かした。
また、東京へ帰ることが、何となく罪深いことだと思っていたのを思い出す。
布団の中で子供心に、もし、ドイツが破れなかったら、我が国自慢と誇りの「大和戦艦とゼロ戦は、、、、。
強兵の掛け声のもと、人間の限界まで鍛え抜かれた強い日本兵は世界一と信じ切っていた。
(のらくろの漫画の影響が大きかったのであろう)

その年の暮れに、兄弟揃って、親と共に帰京することが出来た。
 


5つ上の兄ーの記録から
おいっ疎開っ子・疎開っ子
ドドメという甘い小さな果実になると知って、僕はもう大分長い時間、中腰になり、夢中で桑の実を探し続けていた。
おいっ、疎開っこの声で、弾かれたように身を起こした。
僕の視線は、見覚えのある村の、いつもの柔和な表情からはとても想像できない仁王のような、恐ろしい形相に付き当った。
10人を超える殺気を含んだ少年たちが、僕の周りを取り囲んでいた。
その輪の中には、転校先の町の学校の同級生と、新しい担任の顔も混じっているようだった。
「東京っ子のくせに、畑になんぞ、入りやがって、、、、、誰に断ったんだ」、「東京から逃げ出してきやがって・・卑怯者、、」
「弱虫・お前なんぞ、東京に帰れよ、帰れ・帰れー畑のもの盗めば、どんなにされたって、文句ねえんだぞ」
幸か不幸か、桑の実はまだ一個も見つからないでいた。-逃げたが、逃げ切れず-
陛下のご命令で来たんだ来たんだ、断じて卑怯者じゃない、自分に言い聞かせるように、口の中でつぶやいた。
囲みを破るため、僕は一歩前に踏み出した。途端に何人かの鉄拳が、同時に顔をめがけて飛んできた。僕はつんのめって土の上に倒れた。
目の前で、どす黒い鼻血が、とろりとした重油のようにゆっくりと広がっていく。
「この僕のどこが悪いとゆうんだ」悔しさで胸が一杯になった。呼吸が苦しい。急いで立ち上がろうとした。腕に力が入らない、
そのもどかしさと悔しさで目が覚めた。・・・・・・・・・・。
僕たちの新しい住まいとなったのは、村に一軒だけ存在する駅前旅館だった。改札口から道路を横切り、10数歩で旅館の玄関についた。
玄関口は、大きな囲炉裏のある帳場兼広間を通って2階に上がる。自炊が条件だが、1階の広い調理場を使うことができた。
影森の山並みは、数本の貨物用の引き込み線、倉庫を備えた駅構内の脇近くまで迫っていた。2階の窓からは、正面に300mの急崚な山と、その
西側につづくなだらかな2つの低い山が、まじかに眺められた。
山並みのすぐ後方に、高さ1600M級の雄大な山が聳え立つ。・・・・・・・。「一部を紹介しました。」

幼児時代のS

2016-08-29 | 思い出


欧米諸国と肩を並べた我が国は、次から次へと軍人内閣が続いていく。
昭和12年2月に「林銑十郎陸軍大臣・食い逃げ解散」が成立、その6月に近衛文麿(華族)第一次内閣、日中戦争が始まり、
11月南京占領、、。
姉(7つ違い)兄(5つ違い)は、千人針や慰問袋づくりをやっている。

12月南京占領祝賀行事挙行等。
翌14年ドイツ軍ポーランド侵攻開始、政府は、国民徴用令公布(国民総動員法)を。8月に阿部信行陸軍大将内閣が成立、
15年、米内光政海軍内閣~から7月に「第二次近衛内閣成立しそこに陸相に「東条英機氏」入閣。9月日独伊三国同盟締結
親戚・近所の若者が出兵している。昭和16年御前会議で日米開戦決定し「太平洋戦争へと進んでいった。

Sは、兄の漫画本(田河水泡)「のらくろーのら(孤児)黒犬・野良犬黒吉が猛犬聯隊の軍隊へ入隊して活躍する話で最初は2等兵から徐々に階級が上がる
確か伍長~大尉・教官にブルドックのブル聯隊長とのやり取りに夢中になった記憶がある。(兄が読んでいた漫画を)。
兄の通っていた小学校校庭の鉄棒でよく遊んで、逆上がりも出来た。厳格な両親であったが、芝居好きで、歌舞伎・新派などへ、家族揃って出かけ、幕間に母の手作り幕の内弁当を桟敷席食べた記憶がある。
又、我が家の父の夕食は、子供たちが済んだ後に、床の間の部屋で母の本格高度三味線で晩酌する父で、戦前と戦後の父の姿の違いには大きすぎる。(最後までお読みください)
子供は、入れない書斎があり、経済の専門書が壁一面に積まれていた。
姉の音頭で、夏の花火大会、防空壕堀、玉川遊園地、慰問袋、千人針、紙の国旗・・・。を思い出す。

昭和16年10月ー東条英機陸軍大将内閣成立・翌年17年に、ミッドウエー海戦・ガダルカナル島・アッツ島・学徒出陣(学徒7万人)
その12月学童縁故疎開が始まった。


「縁故疎開」とは、親戚や知人等を頼っての疎開をいう。それが出来ない学童は、集団疎開で学校毎に疎開。我が家は、父が仕事で利用したという旅館。
旅館は数が月で、その後、障子一枚の農家の一室・蚕小屋と転々とし、弟(5つ違い)の喘息が激しくなっていく。

昭和13年のことなど

2016-08-25 | 思い出


時は、「近衛文麿」1891-1945年・A級戦犯 貴族政治家 
公爵近衛篤麿の長男ーベルサイユ講和会議西園寺公望の随員し、帰国後貴族院議員貴族院の議長になっている。
2・26事件後1937年組閣し、1っか月後「日中戦争勃発」-敗戦後GHQからA級戦犯として逮捕状、出頭の朝自殺している。
第一次近衛氏の声明が「中国和平交渉打ち切り通告」・国家総動員法公布・日本軍武漢三鎮を占領・70万人の兵力投入する。

宝塚少女歌劇団ドイツ・イタリアへ親善使節として、また、新劇女優岡田嘉子ソ連へ亡命、勤労動員始まる。
歌では、愛国行進曲・日の丸行進曲・雨のブルース・支那の夜・麦と兵隊、映画で愛染かつらが松竹から・・・。

翌年の14年に、満州と外蒙との国境付近「ノモンハンで武力衝突」・日米通商航海条約不成功に、
我が国は、波乱に満ちた方向へと進んでいく。

明治・大正・昭和

2016-08-22 | 思い出

江戸、慶応~西暦1868年ー「明治」がスタート。
幕藩体制から、天皇中心の一世一元政治に、新しいい近代産業「殖産興業」と「富国強兵」へと進む。
「文明開化」という言葉が生まれた。
軍隊も、フランス式からドイツ式にー日清・日露に勝つまでに。その中心が旧薩摩・長州藩出身の閥が形成された。
大正に入ると「関東大震災」で首都東京は壊滅的打撃を受け経済に大きく影響していく。
「昭和」金融恐慌・世界恐慌が相次ぎ起こり、不況で、「大学は出たれど」の歌が流行っている。
満州事変・日中戦争拡大し・太平洋戦争で米に真珠湾攻撃・・・残念ながら我が国は敗戦国に。

「明治天皇」1852-1912年 122代天皇、孝明天皇の第2皇子ー江戸を東京に明治と改元・版籍奉還・廃藩置県、国家統一、
「五か条の誓文」
資本主義の上昇期と国際的地位の向上、、、内外から「英主」と

「大正天皇」1879-1926年 123代天皇、明治天皇第三皇子・陸軍少尉任官、病弱ー1921年皇太子「裕仁ー昭和天皇」摂政に
任じられた。
普通選挙・関東大震災で近代化を促進。

「昭和天皇」1901-89年 124代天皇、大日本帝国憲法のもとで統治権・統師権の総攬者となる。太平洋戦争開戦・敗戦・ポツダム宣言受諾決断
「今上天皇」1989年~継続 125代天皇。

昭和の政治は、1912年第二桂太郎内閣ー1914年大隈重信内閣ー憲政擁護運動ー加藤内閣ー若槻礼次郎、憲政会が総裁、首相に。
金融恐慌の措置で対立し辞職している。若槻は、浜口雄幸とともに「ロンドン海軍軍縮会議」首席全権として出席し、日米開戦に反対。
反東条の中心として行動する。
1926年大正天皇死去(47歳)-昭和2年政友会田中義一内閣時第一次山東出兵・3年に第二次山東出兵・4年張作霖爆破事件で処分問題で信任を失し
浜口雄幸民政党内閣成立、歌・映画で「大学は出たけれど」が松竹から・5年ロンドン海軍軍縮条約調印・6年第二次若槻礼
次郎内閣成立その9月
満州事変勃発、12月犬養毅内閣に・7年5.15事件、軍部急進派がクーデター・・・政党内閣時代終わる、
5月に海軍斉藤実内閣が成立・岡田海軍大臣内閣成立ー2.26事件と続く。

はじめに・・・

2016-08-20 | 思い出

Sは昭和13年生まれの寅年です。
今までの人生を振り返って、思い出すことなど記録していきたいと思います。
拙い文章ですがお付き合いください。

お釈迦さまはインドの国境から8km入った、ネパールの一農村の片隅ルンビニー(藍毘尼)で生誕しました。
美しく整った風貌に、最高の教養と学芸を身につけ、7代前からの莫大な財産を受け継いだ賢者だったが、真実の悟りを極めなければ苦しみや悩みから抜け出せないことを知った。

「この世には経てしない苦しみと、限りない悩みに満ちている。姿形の上での美しさや豊かさも突き詰めれば救いにはならない。すべてを捨てて精進の旅に出るほかはない。」・・・

Sも少しでもお釈迦様に近づき悟りを求めていきます。
Sの生まれたのは東京府荏原郡峰村、現在の大田区の南西部、久が原です。