syuの日記・気まま旅

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神奈川松田山ー足柄の旅1 

2016-06-26 | 気まま旅

本州のほぼ中央、関東平野の南西、東は、東京湾・南は、相模湾で,東京、山梨、静岡両県に接し、川崎と横浜市の大部分が多摩丘陵で最も高い所。
人口・人口密度・世帯数・県民所得は、我が国の第三位の「神奈川県」。
50万年前、箱根が噴火・30万年前芦ノ湖誕生・716年僧行基「霊山寺」、755年大山寺を開山・802年富士山噴火で足柄道閉鎖・1180年源頼朝八幡宮
1192年鎌倉幕府開く・1349年足利基氏関東公方、鎌倉へ・1495年北条早雲小田原城奪う・1590年豊臣秀吉小田原攻め、後北条氏滅亡・・・。

私鉄小田急線「新宿」-「新松田」駅・JR御殿場線に乗り換え「松田」一つ目の「東山北」で下車する。

「JR御殿場線駅名」
国府津駅 ー下曽我駅ー上大井駅 ー相模金子駅ー松田駅ー 小田原線(新松田駅)ー東山北駅(足柄上郡山北町)ー山北駅ー谷峨駅
駿河小山駅(静岡県 駿東郡小山町)ー足柄駅ー御殿場駅ー南御殿場駅ー富士岡駅ー岩波駅( 裾野市)-裾野駅ー長泉なめり駅
下土狩駅ー大岡駅( 沼津市)-沼津駅(東海道本線)。19駅ー60.2km。

               「北山」駅下車(足柄上郡)
    

「足柄」-神奈川県西部、酒匂川流域と箱根火山からなる。古事記に「足柄」の名が、景行天皇の条に現れ、万葉集にも「安思我良・阿之我利」など
の記載がある。古くから足柄上(かみ)足柄下(した)2郡に別れていた。
17世紀以降は、酒匂川上流の山中が上郡・下流左岸が下郡となっていた。明治の1871年頃は、相模諸郡と伊豆一円からなる「足柄県」となった。
足柄山地は、神奈川県と静岡県で箱根火山と丹沢山地との間の山地で、南部に箱根「外輪山・金時山ー1213m」がある。
その北に「足柄峠・足柄山」といい、歌枕として用いられた。足柄山で山姥が怪童丸を育てたと云う「坂田金時・金太郎」にまつわる伝説がある。
歌舞伎でもよく知られている。「矢倉岳ー800m」足柄峠は神奈川県南足柄市と静岡県駿東郡小山町境の峠を云う。
峠は、外輪山・金時山の北側の足柄山地中・旧東海道の峠を云う。
古代東海道の足柄関が置かれ交通の要衝で、この峠から東が「坂東」であった。
後三年の役で新羅三郎義光が、家臣豊原時秋に、笙の奥義を伝授した物語が残る所。峠一帯は、関所跡・足柄城跡・聖天堂等の史跡がある。この関所
古代東海道の重要な足柄関の一つで、坂東を荒らしまわっていた郡盗を追討する為の検問の関であった。
鎌倉時代には、箱根越えの経路が利用され荒廃した。「矢倉沢関所」は、17世紀に本関所を補完するために設けられた。
足柄平野・酒匂平野とも云うは、小田原市・南足柄市・足柄上郡にまたがり、大磯丘陵との境の「国府津ー松田断層が走るが二宮尊徳が酒匂川氾濫を
繰り返し被害を与えたが土砂の堆積によって良質の土壌に変えた地域。

                   河村城跡歴史公園


「山城・河村城址」ー足柄上郡北町・小田原城出城ー
        平安末期ー相模・甲斐・駿河三国に境界線の城
    

「藤原秀郷」-生没不詳・平将門を討った武将・東国豪族・数代前から下野に土着し勢力を築いた。
罪を犯して配流されたが、後に許され「押領使」に任命された。平将門の乱で将門に誘われたが与せず、将門を討ち首級を京都へ送る。
その功により下野・武蔵の国守になる。名を田原藤太「京都時代、琵琶湖の龍神に頼まれ、近江国三上山の大ムカデを退治し、その礼に、いくら米を
取り出してもなくならない米俵などの宝物を貰ったので、「俵 藤太」と呼ばれたと云う。伝説
秀郷の跡継ぎの「藤原千晴」は「安和の変」で失脚している。

「藤原秀郷流ー波多野遠義の次男ー河村秀高築城」
河村秀高の子ー河村義秀の代に「源平の騒乱」勃発、河村氏は、「石橋山合戦」で平氏に属した。

          河村秀国・秀経、鎌倉幕府に領地没収されている。
    

「室町時代・南北朝」
御嵯峨天皇後、皇位継承争いが、鎌倉幕府の執権「北条時宗」が調停して、「持明院統と大覚寺統」が交互に即位する。
大覚寺統の「後醍醐天皇」は、譲位せず、-君主独裁をめざし、「討幕」を企てる。挙兵し、捕えられ、隠岐へ流された。しかし、
護良親王と楠正成が戦闘を続ける。後醍醐天皇も隠岐を脱出ー諸国に挙兵を呼びかける。
幕府軍の「足利尊氏」が内応してー京都・六波羅探題ーを攻め落とし、関東では、「新田義貞」が鎌倉幕府を攻め滅ぼした。
1333年、御嵯峨天皇は、「建武新制」を開始したが、専制政治のため民心が離反し、1336年、「足利尊氏」持明院統の「光明天皇・北朝2代」を即位
                   室町幕府を開いた。
御嵯峨天皇は吉野で南朝を立て、「南北朝対立時代」が始まる。

河村城は、新田氏南朝方で、北朝「足利尊氏」と対峙、足利軍攻撃され敗れ、新田・脇屋らは、甲州へ逃げている。
  

「足利茶々丸」~1491、武将・堀越公方足利政知の子、北条早雲奇襲攻撃で自害・茶々丸は、元服せず、童形のままであったとも云う説
「足利持氏」1398-1439、 武将・鎌倉公方の満兼の長男、12歳で公方に就任、6代将軍義教と対立し「永享の乱」で自害(軍事的対立)。

関東官領「上杉憲実」を経て、足利持氏属将ー大森憲頼(大森氏頼の弟)が支配している。

                     「酒水の滝」に近い
    

「戦国時代」へ。1467年八代将軍「足利義政」の後継をめぐり大乱が勃発・京都から全国に拡大する。諸国の武士は、一族兄弟相分かれて血みどろの
抗争を繰り広げて行った。油売りから大名の「斉藤道三」・将軍を弑逆した「松永久秀・堀越公方」の子・茶々丸を殺し伊豆国を奪った「北条早雲」
実力次第で一国の主になれた時代。が、鉄砲と云う新兵器を重視した「織田信長」によって収束していく。

     戦国時代・後北条の支配に。河村城は、武田軍にそなえた。
    

            1570-1573年、甲斐武田信玄軍侵攻
    

「丹沢湖」-西丹沢の酒匂川系の河内川に造られた「三保ダム」によって誕生した人工湖。
湖には、玄倉川・世附川・中川川の3つの支流から流れ込んでいる。
                争奪合戦
  

神奈川県西部を流れる「酒匂川」。長さ27.2km
富士山東麓の水を集める「鮎沢川」と丹沢山地西部 の「河内川」の2川を源とし、山北町で合流する。
松田町で川音川を合せて合流してー相模湾に注ぐ。
丹沢山地と箱根火山の間に「酒匂渓谷」をつくり、足柄平野のほぼ全域に扇状地を形成する。
その為、平野部の洪水を引き起こし、治水事業が、「三保ダム」1978年。

            河村城ー標高225m・酒匂川との比高130m
    

「小田原城・県内の主な支出城」
小机城ー北条氏康の子三郎氏秀城主ー関東進出の拠点城。
寺屋城ー横浜・武田軍に備えた。矢土城ーも同じ

               小田原城「大森憲頼」の持城に


大庭城ー藤沢、大規模な平山城。岡津吉久城ー厚木
               河村城の対岸に「春日山城」を築城
  

田代城ー愛甲郡「三増峠合戦」
津久井城ー本多忠勝が落とした城。
山下長者屋敷ー平塚、早雲が重視。
                 畝堀・郭喉等の遺構が
  

岡崎城ー平塚、1512年早雲によって攻略した城。
高麗寺山城ー大磯、早雲取り立てた山城。
湯坂城ー小田原を守る支城。
                   石碑・木橋・堀切・井戸なども
    

河村城・新城は、武田信玄・勝頼軍・徳川家康に幾度も攻められた城。
    

     1590年・豊臣秀吉小田原征伐で後北条全て落城し「河村城」は廃城に
    

2013年2月掲載した「小田原城址」、ー天下無双を誇った堅城。

小田原は、中世の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な「藤原秀郷」の子孫、「佐伯経範」が1030年頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗っていた。
後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。
波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置された。
平安時代の末期1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代に入り、伊勢平氏流を称する「北条早雲」が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、
鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、が。
関東の統治体制を転覆した。下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれていく・・・・・。

県西部における中心都市、城下町とかまぼこの街「小田原」。東京から東海道線で1時間半、新宿駅からも小田急ロマンスカーで1時間半という微妙な立地にある小田原の街は、箱根観光の通過点として沢山の観光客が訪れる。
小田急線とJR線は共同の駅舎で改札が隣り合っており近代的な駅である。私は、小田急改札口を出た。

私鉄小田原駅


北条早雲 1432-1519 小田原北条氏初代、京都伊勢氏説。今川氏から下田興国寺城を奪う。後に大森氏の小田原城を、三浦・新井氏を滅ぼし
相模国併合。農民租税は四公六民とした。88歳の長生き。

北条綱成 1515-87 北条氏重臣、氏綱、氏康、氏政の三代に仕えた猛将であった。
北条氏綱 1486-1541 二代目早雲の子 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、今川、里見氏を圧迫して領土拡張する、下総国府台で足利義明を          討つ古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ傀儡化を図る。鎌倉鶴岡八幡宮再建。勝って兜の緒を締めよ、の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の子 関東南半を支配、税制改革と検地を推進した。
          「河越の夜戦」は、三大夜戦の一つ。綱成が扇谷上杉・山内上杉氏・古河公方8万の連合の囲まれ、氏康は兵8千を何度か          出兵させるがすぐ退去させ、和を乞うて、相手が油断し、気の緩んだところに夜襲を掛けている。上杉は頼りない、再び          武田と同盟せよと遺言して没した。

公園全体図


小田原城は、室町時代、大森氏によって築かれたのが起源と考えられている。この頃の小田原城の位置は、八幡山付近と想定されている。
1498年、北条早雲は伊豆を平定したのち、相模国への進出を目指して大森氏を攻め小田原城を奪い、北条氏は勢力の拡大と合わせて小田原城の規模を拡大していき、1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時には、全周9kmもの総構が城下町を包みこむまで発展した。

馬出門


小田原城址公園及び、その近辺が、主要部。石垣を用いた総石垣造りの城である。
佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。
現在のような総石垣の城になったのは1632年に始められた大改修後のこと。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。
建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。

駅前にある「つちあげ」の碑       蓮池堀           堀
    

二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。
三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。
小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。
山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
中世の城の規模では、驚く。

城前の堀と橋              めがね橋
  

北条幻庵 1493-1589 早雲の三男 幼少で僧籍近江国三井寺で修行し、箱根権現別当金剛王院に、北条軍の一将で国府台の戦い、平井城
           攻めに参加している。僧であり武将で文化人であった。北条五代に仕え、同家滅亡直前で97歳で逝った。
           幻庵の作成した「鞍」、「一余切」尺八は、家康が所望したという。

                                  馬出門から見た天守閣
    

北条氏政 1538-90 四代目、氏康の長男、国府台で里見・大田連合軍を破る、武蔵国制圧し北関東へ勢力を伸ばす。長男氏直の家督を譲るが
           実権を掌握、秀吉の上洛要請に応じなかった為に切腹、首は京の一条戻橋に晒された。汁を飯にかける氏政を見て
           「北条家も終わりだ・・」と、父氏康は、嘆いたという。

北条氏直 1562-91 五代目、氏政の長男、本能寺の変後、上野国信長重臣滝川一益撃破し信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡占領、甲斐国
           で、家康と争うが鴻和し、娘督姫を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
           翌年、秀吉と謁見して、一万石を賜り大阪に住んだが同年30歳で没している。

                            城跡内の梅並木(3分咲き)
   

北条氏規 1545-1600 氏康の五男 伊豆国韮山城主 秀吉との和睦に尽力、家康の竹馬の友、北条氏と徳川家の対立時は、氏規が講和に
           奔走している。家康を信じて開城し降伏を勧告したが、約束は守られず、氏直は高野山へ追放され、兄の氏政と
           氏照の介錯を命じられている。一度自殺するが失敗、高野山に幽居後、河内国7千石を賜っている。
城内から見た堀          井戸・ 馬屋曲輪付近に                 雁木
    

2013年2月21日掲載した「小田原城」
三国同盟は、1545年、今川、武田の連合軍が富士川を越えて北条が守備していた富士市に乱入。
北条軍は各地で惨敗し小田原に撤退した。氏康はこの地をばんかいするため今川義元が三河に出兵した時、駿河の留守を狙って乱入したが、武田晴信(信玄)が南下してきたため、あっけなく敗戦また相州に撤退した。
撤退して間もなく、今川義元の軍師から小田原城の氏康に和睦の申し入れがあった。
相・駿・甲の三国同盟の提案である。寝首を掻かれることも心配したが、同盟が成立すれば有利になることもあろうと同盟を結んだ。
婚姻を交わす。義元は正室に信玄の姉を迎え、義元は信玄の正室に公家の三条殿をめあわせ、その後、義元の長女は信玄の嫡男義信に嫁ぎ、北条氏政には信玄の長女黄院が嫁いだ。
今川義元が桶狭間の戦いで戦死してからは三国同盟も亀裂を生じ、女性三人はそれぞれ国元に帰っている。

昔の銅門
    

二の丸御殿                      城内には古木が
    

小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭であり、現在は鉄道、道路が、中央を分断されている。

            銅門の土台石              壁の内臓            
  

次回は、足柄の旅2

千葉県行徳ー江戸川を下る 最終

2016-06-22 | 気まま旅

1873年ー千葉県成立ー1875年ー現在の県域。
1890年の明治23年、利根川と江戸川を結ぶ「利根が運河」開通・昭和2年、野田醤油で大争議おこる・昭和35年京葉道路、船橋まで開通
41年、新東京国際空港・成田空港反対同盟結成・44年地下鉄東西線「西船橋」開通・53年、成田空港開港。
平成元年、幕張メッセオープン「京葉工業地域・幕張新都心構想」千潟(潮千狩り場)・ディズニ―ランド等の大観光拠点・公園整備が。
「行徳・浦安ー千葉県市川市」は、江戸川河口の三角州上の地域。昭和30年、市の編入、江戸時代は、幕府直轄領であった。
幕府の保護を受け「製塩業」で栄えた。利根川・江戸川筋の水運を使いー関東一円に「販売」もされている。
又、江戸川の河港は、「成田詣で」の中継点として賑わったところ。

      旧江戸川を渡り千葉県市川市南西部、地下鉄東西線「行徳」駅
    

南部に「新浜御猟場・鴨場」と呼ばれる皇室のカモ猟場がある。
その近郊に人口千潟・海水沼・淡水池等で面積83Ha-行徳近郊緑地特別保全地区に指定されている。

               野鳥観察舎
  

春になるとウグイス等・夏になるとアオサギ・秋はツバメ・冬は鷹等雀・鳩クラスの野鳥から、コハクチョウ・カワウ・鶴・白鷺など大型野鳥も

           カモ・シギ・チドリ・サギ等が観測できる
    

江戸川三角州に位置、浦安は魚浦の安泰を願い命名された。山本周五郎「青べか物語」の舞台に。又、江戸幕府、直轄地で製塩業が奨励さた。
塩分低下で町も荒廃してった。

「御猟場」は、行徳と浜離宮恩賜庭園(庚申堂鴨)と越谷埼玉鴨場がある。
    

           野鳥病院と野鳥に関する資料館も 
    

        江戸川に沿って溜池・沼等があり、エサも豊富で、野鳥の天国


行徳は、江戸川と利根川水運の河港で、成田参詣の拠点として栄えた町。産業も最大の塩田地帯であった。
が、江戸川の淡水流入で塩田には不向きになり、海苔の養殖が中心に。現在は、住宅都市に。

               行徳妙典から向かい原木高谷方面を
  

「あおさぎ・蒼鷺」-ペリカン目サギ科、アオサギ属ー
全長88~98cm・翼開張150~170cm・体重1.2~1.8kg
生態ー河川・湖・池沼・湿原・千潟・水田・食性は、動物食・魚類・昆虫など。性格は攻撃的で神経質(強大野鳥の餌も奪う)

   夕風や水青鷺のはぎ(脛)をうつー与謝蕪村ーなんと涼しそうに。


行徳は、室町時代から「塩田の地」、その塩田で、野田・銚子の醤油と流山のみりんが栄えた。
          
            立地条件の良い、「京葉工業地帯」が注目
                      
          地下鉄東西線「妙典車両基地」大規模改良工事中
  

「妙典」駅は、(T21駅)で開業平成12年と新しい駅。
が、混雑は、ピーク時間199%。(これは、京浜東北の上野・御徒町、総武線錦糸町・両国と同じ199%)

      東京メトロでは、車両改良・混雑緩和をめざし、大工事中であった。
    

京葉道路と7号線の陸橋から江戸川は二本に別れ、千葉県市川を江戸川・都江戸川区を旧江戸川となる。
千葉沿いの「江戸川の橋」は、まず、行徳橋・新行徳橋・地下鉄東西線(妙典車両基地工事)・東関東自動車道、京葉線
              
  

               新しく妙典橋の工事が                   
  

                  湾岸道路


                  水菅パイプも
    

                  江戸川河口付近
    

青べか物語の中の浦安を浦粕・江戸川を根戸川・行徳を徳行と言い換えている。
孤立の町で、北は田畑・東は海・西は根戸川・そして南は沖の100万坪と呼ばれた荒地が広がっていた。
文豪山本周五郎は、青春時代ー常宿が「吉野家」、船宿・釣具店。
浦の貧しい漁夫や貝をとるや竹籠を作る職人など、その日暮らしの雇われ人の長屋の人達を「ぶつくれん屋」と町民達は呼んだ
だが、貧乏だが素朴で人情に生きる人たち、、、。
昭和初期3~4年頃、山本周五郎を青べか物語・蒸気河岸の先生と呼ばれ、庶民の哀歓をありのまま生活風景を作品した小品集を。
蒸気河岸は、大盛況であったと云う。深川方面から交通手段は、蒸気船が活躍し、浦安ー高橋(江東区)を1時間半で結んでいた。
昭和15年「浦安橋」を境に、以前は、渡し場から舟、(蒸気河岸)昭和19年に全面廃止されている。
蒸気河岸「通運丸」は、明治10年就航して17年後の27年~明治40年移転した。その後は、船から陸に変わった。
市川の地名は、江戸川水運の銚子・野田・流山の物流による「市場」があって「市川」と云う説もある。

                  河口と東京湾
  

個人的に、江戸川を「哲学の川」と。
         一年中野鳥が絶えない「千鳥町」付近ー野鳥の楽園地
    

春には、東京から一番近い潮千狩りが。
昭和25年頃、「しじみー・しじみー」少年が朝早く売りに来ていたが、その少年は、歩いて浦安~JR鶯谷駅の入谷まで。

                    三番瀬海浜で、


関東富士見百景の一つ。
                   三番瀬海浜


            地下鉄東西線「妙典」駅で終わります。



ー江戸川を下るーこれで終わります。次回は、神奈川・足柄方面へ。

葛西臨海公園ー江戸川を下る 17

2016-06-19 | 気まま旅
汚染-「ゴミが海へ行く」
埋立地は、何等かの不要物を用いて造成。
例えば、山が海へ、神戸の港・横浜の山下公園の、関東大震災の瓦礫を処分する過程で造成された。
その他、廃棄物、底質、ヘドロ及び浚渫土砂等が使用されている事が多く、時にこれらに含まれていた有害物質が溶出し、土壌汚染となる事例が発生している。 これは、土壌が汚染されたというより、汚染された土壌で土地を造成していた事が、今になって明らかになったもの、考えてほしい。
有害物質を含む浸出水が地下水などの形で移動することにより、周辺の汚染されていない土壌を二次汚染したり、水質汚濁やそれに引き続く底質汚染を引き起こしているケースも発生している(海面埋立地では潮汐の干満により、地下水へ外力が加わりやすい)
埋立地であること自体が原因ではないのだが、工場が多く立地していたため、操業時に漏洩した有害物質による土壌、地下水への汚染リスクが高い傾向がある。 大規模事例としては、都築地市場移転候補地である豊洲の東京ガス工場跡地で高濃度の有害物質が検出された、土壌・地下水汚染があげられるが、その他にも小規模汚染が各所で確認または懸念されており、跡地利用・取引上の制約となっている。
これを解消し、不動産価値を回復させる土壌浄化ビジネスが1998年頃から拡大しており、各地で施工実績があがっていると云う、期待。

「都立葛西海浜公園」
開園ー平成元年  面積ー4,117,473m2(水域4,114、689m2)

                   園内は無料・水族館有料


江戸川区の臨海部の自然環境を取り入れ、緑の浜辺・都民の浜辺・楽しい浜辺・頼もしい浜辺の4つをテーマー二造られた公園。
目の前には、東京湾の水平線が広がり、空と海と緑のおりなす風景は見る人の心を和ませる。
園内には、「鳥類園ウオッチングセンター・水族館・宿泊施設・大観覧車」がある。

   二つの人口砂浜ー東渚地区(自然保護区)・西渚地区(砂遊び・バーベキュー等が出来る)


             JR京葉線「葛西臨海公園」駅前から
冬にはスズカモの群れが・夏にはコアジサシの群れが魚を獲りにやってくると云う。


レインボーブリッチ・東京湾トンネルで
高速9号線・首都高速湾岸線・地下鉄有楽町線・JR京葉線(新木場ー公園)・地下鉄東西線(葛西駅)

              水上バス「水辺ライン」-荒川へ
  

駅前通りから中央園路に、水族館入口
ここでは、「魚の泳ぎ方・外敵から身を守る工夫」ガイドが興味深い発見が

世界の海から東京湾の海の生物たちがー新しい発見と驚きが(本日は休園)
  

「水族園」は、湾に浮かぶようなガラスドーム。
中は、マグロー渚の生物ーペンギンー海藻の林(小笠原・伊豆七島・東京湾)-海鳥の生態ー深海生物ー大水槽ー太平洋ーインド洋ー大西洋
カリブ海ー北極・南極ーサメー3F空の広場
餌の時間を確認を

クロマグロ・カゴカキダイ・エトピリカ・メガネモチノウオ等熱帯から冷たい海までが
    

「東京水辺ライン」船着場
     お台場・両国方面へ                    水族園ガラスドーム
    

大観覧車(有料)         レインボーブリッチと水上バス       園内にホテルも
    

東京湾に浮かぶ人口島  三日月千潟  東なぎさ(野鳥保護、立ち入り禁止)  西なぎさ(広場・砂遊び・バーべキュ―が)

緑と池の鳥類園                       園内に観察舎が
  

               展望クリスタルビューから


                  大田区方面


                千葉県舞浜方面


               浜・ディズニーランド方面  (三日月千潟)


                  JR京葉線
    

              臨海線ー有明付近車中から
    

              新木場駅(新宿から)右に荒川が
    

   湾岸道路           葛西臨海公園駅ホームから       公園前
    


次回は、千葉県市川市江戸川を

葛西橋 ー江戸川を下る 16

2016-06-17 | 気まま旅
都内には、中世の城館跡が多数存在していたと云う、その一つ「葛西城」で、古城跡と云われる場所は、青戸のー旧称御殿山。
ここは、1538年北条氏綱によって落城したと記録がある。
環状7号線整備で発掘調査で、住居・井戸・板碑・・平城跡が発見されている。
「千葉伝考記」に、千葉太郎実胤が下総葛西に住みその地を「千葉村」と称したとある。この辺りは地形的にもー奥州古道ーに面している。
上千葉町は現在の西亀有と大曲に「葛西城址」が有力であるが異説も多い。
「葛西氏・初代の葛西清重」は、平姓秩父氏一族の豊島氏当主豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(東京都葛飾区の葛西城を中心に、
江戸川区・墨田区などの伊勢神宮の荘園)を所領とした。
清元・清重父子は源頼朝の挙兵に従って平氏討伐に参加して御家人となり、清重は、奥州合戦で武功を立て奥州藤原氏が滅んだ後、
奥州総奉行に任じられ陸奥国(後の陸前国)に所領を得ている。
江戸時代の地誌では、奥州に入った清重は、奥州藤原氏の本拠地である平泉ではなく、石巻の日和山に城を築いて本拠にしたとされる。
だが、清重自身は奥州の安定をみてから鎌倉で幕府重臣として活躍し、この頃の葛西氏の正確な動性は伝わっておらず、石巻と鎌倉を往来する領国経営だったと推測される。
のちに本拠地を従来の石巻から登米郡寺池に移したが、その時期は諸説あって判然とせず。
その過程や経緯は、現在でも不明であり、詳細については推測の域を出ないと云う。
事実としてはっきりしている事は、南北朝時代に勢威を拡大し、鎌倉時代から引き続き奥州の有力守護としての地位を確保したということである。
戦国時代初期に葛西満信が宇都宮氏広との争いで領地の拡張に成功し、伊達氏と結ぶと、隣国の大崎氏と徹底して対立する。
しかし、この抗争は決着がつかず、また伊達氏庶子を養子として迎え入れたため、その介入と家臣団の混乱を招き、かえって葛西氏の勢力を衰退。
有力家臣である浜田氏の独立、浜田氏と熊谷氏(気仙沼熊谷党)との相克など、領国における豪族の統制もうまくいかないようになっていた。
第17代当主にあたる葛西晴信のときに豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかった事を咎められ、改易され、1597年、晴信の死去で大名としての葛西氏は
滅亡、 葛西氏の滅亡については、これも、異説あり、晴信は、秀吉の奥州平定軍と果敢に戦い、戦死したとも伝わる。

その後の葛西氏は、庶子の多くが伊達氏、南部氏を中心に奥州の大名に臣従し現在に。
臣従した庶子の多くが、それぞれ独自の葛西氏系譜を作成するが、これの多くが独自の口伝、相伝に拠って作成されており今日の葛西氏研究を混乱させている一因と云う。

東小岩ー北篠崎(公園)-上篠崎ー京葉道路・ここから江戸川は、二分され旧江戸川が東京都で葛西臨海公園へ。
    

利根川本流から茨城県五霞村・境から分岐して南下埼玉県と千葉県境から千葉県と東京都境を流れ「市川橋」を潜り、いよいよ東京湾に注ごうと
都江戸川区「今井橋」まで来ました。
江戸時代初期の千葉県関宿と埼玉県松伏の洪積台地を開削して通水し、金杉下流部「渡良瀬川下流の太日(太井)川」の流路が、利根川分流として
この「江戸川」に。又、市川に江戸川放水路が開削されて二分し、都に下流部の本流ちして「旧江戸川」と云っている。
昭和47年工事で、「野田導水路」を完成させた。これによって、約36%が東京都千葉県市川・船橋・習志野・千葉市の上水道源となっている。
当然、農業用水・排水路の役割は大きい江戸川である。千葉県銚子と利根運河と松戸・行徳・浦安等ー江戸の水運の役割も忘れてはならない。

          都市化や湾岸埋め立てで変貌、が、今でも釣舟があった。
    

「トロリーバス」
道路上に張られた架線から取った「電気」を動力として走るバス。
現在、長野県扇沢ー富山県黒部ダム駅間(5.4km)に使われている。外観・操作法は、バス。
戦後復興期に、上野公園~ここ、今井(26系統の代替路線)で昭和27年に開通された。
路線、今井ー亀戸9-亀戸駅ー亀戸4-太平町ー押上ー業平橋ー言問い橋ー浅草2-観音ー中入谷ー鶯谷ー桜木町ー根津ー上野公園

その当時の「今井」は、沼・溜池・田圃と点在し、26系統沿線の子供達の釣りや泳ぎの遊び場であったが、子供の事故が多い所でもあった。
1968年(昭和43年)廃止されているが、子供の水事故が原因でなく交通局の経営悪化が原因。

           地下鉄東西線、1969年開通「葛西駅」中心に発展
    

「今井橋」-江戸川区と市川市の千葉県道50号線に架かる橋ー
1951年以前・大正元年木造橋が架けられたが、増水で流されている。大正元年以前は、「今井の渡し」の渡し舟であった。
昭和26年完成した橋は、現在の50m上流側であった。
市川市相の川に、今でも「今井橋交番」派出所が残っている。又トロリーバスの折り返し地は、現在の橋の西詰付近。

                 大工事中であった


葛西氏は、源頼朝の蜂起に呼応して合流し、岩手県と宮城県ちいきの所領を手に入れている。その葛西氏は葛飾区青戸を中心にしている。
この辺りの700年前は、漁村で、遠浅の海岸で、海藻や貝類が豊富であった。また、渡鳥の群生し自然豊かな地域。
寛永時代に海苔採取が行われ、明治には、葛西海苔・浅草海苔ブランドとして有名になる。
明治14年頃、東宇喜田村の「森興昌」が海苔の研究と復興をさせる。
明治24年、越中島沖合に10万坪の海苔養殖場をつくり大正時代は、活況を呈した。

           年々景色が変わっていく「なぎさ公園」付近


江戸初期は、旗本の知行地、江戸防衛の幕府直轄領・関東郡代支配下とに。
江戸後期になると、農業で野菜・花栽培・金魚養殖が。

                 防波堤大工事中


                 混雑する湾岸道路


「東京メイクスピア・ディズニーランド」
昭和58年開園し、翌年には1000万人来園ー平成3年には、1億人・9年には2億人が来園。
浦安は、三分の二が埋め立て地と云う。羽田空港から車で約20分・成田空港から約1時間の位置にある。現在の拡張計画もやく2倍の再開発が。

          旧江戸川の向かいは、千葉県舞浜・浦安「東京ディズニーランド」が、


           JR臨海線のガードを潜ると「葛西臨海公園」内に
    

                   葛西臨海公園内
  
           30分位、居たが野鳥は一羽も姿を見せなかった。


                  鳥達の餌の減少で
    

野鳥減少は、干潟や湿地の埋め立て、干拓である。ほ場整理による乾田化や水路の暗渠化、ため池の埋め立て等で、流域下水道整備に伴い、
小さい川に水が流れなくなったこと。
里山などの森林や草地の放置と宅地化で、ダムの建設や、河川・海岸の護岸整備、農薬の使用、漁業による漁網、刺し網、定置網の使用が。
イヌ、ネコ、シカ、カラス、マングースなど他の動物による食害が最近目立つ。
増えている鳥もいる。カワウである。カワウは一時期減ったが、その後は急増している。
カワウのエサは魚であるが、増えた理由はよくわかっていない。
マガンは、かつて人間が鉄砲で撃っていたが、天然記念物になって保護されたから増えるようになったと云う。
ハクセキレイは、エサの多様化が原因で増えたと言われている。
ハシブトガラスはゴミやドッグフードなどのエサが増えたため増加傾向に、果実食のムクドリやヒヨドリも増えている。

    

鳥も減少している。
ツバメ、ヒバリ、オオヨシキリ、セッカなどである。
ツバメの減少要因は、ツバメは湿地が減少したことや、カラスによってヒナや卵を食べられる。
ヒバリは、草地の減少、オオヨシキリとセッカはアシ原や草地の減少が原因である。
ツバメとヒバリは絶滅危惧種に指定され、スズメも、草地、水田、繁殖場が減ったため、減少しつつある。



次回は葛西臨海公園

小岩(影向の松)ー江戸川を下る 15

2016-06-16 | 気まま旅

「市川橋」を渡れば、そこは東京、小岩、右手が葛飾区・左が江戸川区。この先で、川は二岐に別れます江戸川区に「旧江戸川」が。
都と千葉県市川市の境の川、江戸時代初期、1654年、徳川幕府が水害防止等の為、苦労して開削し通水大改修、利根川の分流に。
1972年野田導入路が茨完成され、都の約36%・千葉県市川・船橋・習志野などの重要な上水道源である。
徳川幕府は、利根川水運で栄えた、松戸・行徳・浦安海岸集落を発展させてきた。

                  江戸川長さー59.9km


江戸川区の区名は、江戸に通じる唯一の水路。西端に荒川放水路が南北に貫流、江戸初期は旗本の知行地でもあったが、江戸防衛の直轄領・関東
郡代の支配下に置かれた。
1899年の明治32年総武本線が開通し、1933年電化御茶ノ水ー市川間で都市化に。



江戸日本橋から4KM毎に一里塚が出来、旅人達は一里塚を目印にし、榎・松の木陰を求めた。

江戸川区には二個所あった云うが、その一つ、ここ「江戸川手前、東小岩6丁目交差点角」に。
    

「真言宗・善養寺」
              奈良の長谷寺総本山、山号ー星住山


          1527年頼澄法印が不動明王を法持し建立
    

                1万2000m2の境内
    

                四国88ヶ所霊場、石仏・石塔 
    

               松老巨木の繁茂面積日本一と云うが?
    

巨木の松は、都天然記念物指定     樹齢600年以上の「影向の松」


寺は江戸川に位置、寺伝によると
山城国醍醐山の頼澄法印という僧が、夢告に従って1527年にこの地に至り、不動明王を祀ったのが始まりという。
室町時代後期の連歌師柴家軒宗長が、1509年に著した紀行文「東路のつと」にこの寺に関する記述があるため、実際の開山はこれより遡るものと推定。

江戸時代の文化・文政期に編纂された地誌「新編武蔵風土記稿」
善養寺について、「星住山」という山号のいわれは、境内にかつて生育していた「星降りマツ」に由来し、その昔、星の精霊がこのマツの梢に降り立ち、やがて赤青黄の石に姿を変じた。その石は「星精舎利」と呼ばれて寺の宝とされたが、いつのころからか赤と黄の石は紛失して青い石のみが残った。
この出来事から山号を取って「星住山」としたとある。
(星降りマツは昭和15年に枯死し、その後2代目が植えられた)
1648年、徳川将軍家から寺領10石の朱印状を拝領し、賢融法印(慶安4年寂)が中興し、寺は、下小岩村の密蔵院や東養寺、船堀村の光明寺、東宇喜田村の真蔵院など130余りの末寺を擁し、真言宗豊山派の中本寺格として知られたとある。

天明3年の1783年、に起こった「浅間山の大噴火」では、犠牲になった人馬のおびただしい遺体が利根川から江戸川へと流れ下って、ここ、善養寺
近くの中州などに漂着し、舟の通行にも支障をきたすほどであったと云う。
当時の様子が喜田有順「親子草」に記されている。
下小岩村の人々は、その遺体を善養寺の無縁墓地に葬った。十三回忌にあたる、1795年、に境内に横死者の供養碑を建立し、永く菩提を弔った。
この供養碑は、昭和48年に東京都指定有形文化財に。

             西参道に、浅間山噴火(1783年)供養碑


通称小岩不動で親しまれ、撫で仏(おびんずるさま)鼻を撫でると美人に、、、。
    
                     本堂


「群馬県伊勢崎市の笠松は」
連取町菅原神社の拝殿正面にあるクロマツの老松で、地元では「笠松」と呼ばれる。
「老之松として知られ、1808年の刷り物に「太サ八尺余、高さ一丈余、枝二十五、六間四方」あり、俳諧や和歌の題となっていた。
今日、樹高5メートル、目通り4メートル、枝張りは東西約35メートル、南北約26メートルである。享保2年(1717年)旗本駒井氏地代官の飯島一覚が隣村韮塚村諏訪の原から移植した。

「善養寺・影向の松」は、繁茂面積日本一と云うが、ここ、連取の松も野生味があり、見事。
(参考に、「影向の松」は、高さ2m・東西30m・南北28mで樹齢600年以上の盆栽仕立て老松で天然記念物指定)

                 群馬県伊勢崎市の野生味の連取の老巨木の松


庭木の王者は、「松」。
金食いの木とも言われ、春の「みどりつみ」に暮れの剪定ともみあげ、マツカレハなどの毛虫やカミキリ虫類の俗に言うマツクイムシがつくので消毒。
虫取りの為に行うコモ巻き。 と手間の掛かる庭木と云う。
手を掛ければ掛けるほど答えてくれる木でもあり、松の手入れが出来れば一人前と言われるほど松の剪定は慣れないと難しいとも云う。
                   


         小岩・善養寺ー影向の松を後にして、(江戸川寄りの仁王門)


                善養寺向かいが「江戸川土手」



次回、旧江戸川を下って行きます。