syuの日記・気まま旅

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日野(土方歳三)と浅川 多摩川散歩(28)

2016-02-29 | 気まま旅
平安時代後期、京から来た「日奉宗頼」が日野に土着して、西党と呼ばれる武士集団の祖となり、西党日奉一族は多摩川沿いに展開し、
市域とその周辺には、多西(西)・高幡・上田・田口・平山・土渕・田村・立河などの各氏が見られ、
中でも「平山季重」は、源氏に従って一谷の合戦等で武功をたて、その勇猛果敢ぶりが広く知られた武将。(平山城址で数回取りあげてます)

古代末期から中世にかけて、現在の百草園一帯には、
鎌倉幕府にとっての「祈祷の霊場」であった「真慈悲寺」が存在していたことが次第に明らかになっている。
中世の日野市域は、船木田荘と吉富郷・得恒郷・土渕郷から成っており、鎌倉時代後半から戦国期にかけては、高幡高麗氏の一族が高幡不動周辺を
始めとする浅川流域を支配している。
高幡山金剛寺(高幡不動)は、多くの文化財があることで知られ、四季を通じて参詣客が絶えない市内随一の古刹。
建武2年の1335年、大風によって甚大な被害を受け、1339~1342年、にかけて、別当儀海上人、大檀那高麗助綱らにより大規模な修復が行われている。

多摩モノレール空中散歩を    高幡不動ー万願寺(浅川・新井橋)
    

「日奉 宗頼」生没年不詳ー武蔵七党の1つ西党の祖。子に日奉宗妙、日奉宗長、日奉宗楯、西宗頼。
日奉氏の祖は、大伴氏と同じ高皇産霊尊の子孫といわれ、承平元年の931年、京より武蔵守として下向し国府(府中)で政務にあたり、任期満了ののちも帰郷せずに土着したともいう。
西党の1つである小川氏に伝わる系図では、
藤原宗頼の子で武蔵に下ったとされているが、これを裏付ける史料は発見されていないと云う。
土着したのは、日野郷の土淵の地であり、近郷の油井の牧、小川の牧を支配し、子孫は、武蔵国府の西側に勢力を拡げたので西党と呼ばれ、
平山、小川、立川、由井、二宮、川口などの姓を称した。
平山氏には一ノ谷の戦いで名をはせた「平山季重」がいる。(宗頼は、日野宮神社(東京都日野市栄町)に祀られている)

「異説としてー下海上国造の流れを汲む他田日奉直氏の後裔、日奉宿祢姓。宗頼は、1025年、に武蔵国多摩牧監に任命され、下総国海上郡から移り住んだという説もある」
                高尾・八王子「浅川」     小山辺りが梅で知られる「京王・百草園」
    

                   百草園                新井橋とモノレール
  

多摩モノレール                 浅川(新井橋から)
    

「国道20号日野バイバス」
国立市谷保の国道20号国立府中IC入口交差点から、日野市を横断して八王子市高倉町の国道20号高倉町西交差点に至る路線(日野バイパス本線)。

万願寺駅は日野バイバス通りに出られる。
地・駅名の「万願寺」と云う寺は、現在は無いが、公園など付近には、「万願寺」の地区は広がっていると云う。
地名で、旧下田・上田の由来をたどると、平安時代までさかのぼると云う。

領土を守る武士団が形成され、七つの団があり、その一つを地元有力者の「田村」一族が率いていたと云う。
詳しい記録がほとんど残っていないが、現存の「安養寺」は正式には「田村山・極楽院安養寺」といい、田村氏の住居だったという説がある。
日野市史には、上田、下田の“田”は田村氏から取ったものと記されている。
(京都に近い西側が「上」、東側が「下」ということから二つの地名がついた地名がある)
「日野市史」-謎の「万願寺」について、本当は存在したのではないかとも記しているものの、遺跡などは一切見つかっていない。
1828年に著された「新編武蔵風土記稿」には、「万願寺ノ名ハ古キモノニモイマタ所見ナシ」と記されており、当時からすでに万願寺がなかったことに関心が持たれていたと分かる。名前の由来を同書は「考フルニヨシナシ」と記し、結局は、分からないと云う。

モノレール万願寺駅                  国道20号日野バイバス交差点
    

幕末に石田村の名主を務めた土方伊十郎の屋敷。
                土方歳三の親戚になる。
    

「土方伊十郎屋敷と並んで土方歳三資料館が」
戊辰戦争で最後まで戦い抜いた土方歳三の子孫が運営している。
館内には、愛刀「和泉守兼定」・石田散薬を売り歩いた際の薬箱・手紙・俳句・歳三の遺品等が展示。

「土方歳三の最期」
諸説いろいろあるが、「一本木関門・若松町」とされている。
一本木関門は、当時の函館市街の端にあたり、旧幕府軍が通行税をとるために設けた関門。
鷲の木、二股口、四稜郭等などと違いここは、新撰組土方最後の地は函館駅の近くの「一本木関門」、新撰組土方歳三が出陣した
五稜郭と彼が向かおうととした弁天岬台場のちょうど中間になる。
毎年、5月には五稜祭が行われ土方歳三最後の地でも慰霊祭が行われている。

    

「石田寺」-真言宗、高幡山金剛寺の末寺ー
寺は「せきでんじ」と読む、新選組副局長「土方歳三」が生まれた石田村にあり、多摩川と浅川の合流地点にあるこの寺の起源にも
川の流れが関っていると云う。
                 土方歳三氏の菩提寺
    

寺伝ー南北朝時代の1361年、吉祥坊慶興という僧が建立し、1377年、頃から衰えて一時は廃寺となった場所に、百数十年を経た1544年、多摩川に大洪水が起こり、一体の観音像が石田に流れ着き、それを村人が廃寺になった堂跡に観音堂を建てて安置したのがきっかけになり、
文録2年の1593年、「慶心」という僧が一宇を建立、石田寺と号したと伝わる。

「カヤの木」
寺の境内に入ってまずは目を引かれるのは、(日野市の天然記念物・指定)
の「カヤの木」。
目通りの太さは4.5m、高さ26m、その樹齢は400年以上、または600年・カヤの木は雌雄があり、この木は雌木。
晩秋にもなるとたくさんの実を境内に落とし、元気と云う。

    

土方歳三は,更に北へ転戦して最後の最後まで幕軍として戦う。
戊辰戦争を戦う中で、「天然理心流」の剣士から、銃砲を主とする近代軍の指揮官に脱皮成長し、宇都宮城奪回や松前城陥落などで戦場の指揮官として
の天賦の才を発揮する(洋式軍事教育など受けていない)。
北海道でも土方の部隊だけが西(新政府)軍をさんざん苦しめた。
そして五稜郭開城の直前に、包囲する新政府軍の銃弾の雨の中に、籠城を好まぬ彼は自ら最後の反撃に打って出て散華する。
満34歳と6日の命は意地を貫いて死んだ。
榎本武揚とここが違う、洋装のサムライ土方歳三の戦死は、武士の時代の終焉を象徴していると云える。(合掌)

    

「多摩川海から37km付近」
モノレール高幡不動・万福寺から百草園方面を土手つたいに散策。
浅川の土手に車道が通っていると、標識にここは、海から37kmと云う。
浅川・秋川・多摩川の合流地点に近い。土手は歩行者と自転車、散歩している人にも時折会う。挨拶を交わす。
多摩川が合流は、まだ、500m位も下って、合流点となる。ここには、程久保川も合流してきており、三川合流点である。程久保川を渡るため
に100mくらい迂回してやっと多摩川の右岸に出る。小鳥のさえずりが。

    

「程久保川」-一級河川・5km程度の短い川ー
日野の百草園、高幡不動尊、多摩動物公園、多摩テックといった代表観光スポットは、いずれもこの川沿いにある。
その昔は、丘陵の谷戸をのんびりと流れ、今は、周囲の丘が開発されたため、河川改修し真っすぐに流れ、大雨が降ると濁流が一気に流れ下る
排水路の役目も負っている。
改修から四半世紀以上は経つ川はそれなりに年季が入り、コンクリートの壁に囲われた岸辺は、一番の邪魔者、人が容易には立ち入れないため、
生き物たちの格好の住処となっていると云う。
「程久保川」の両岸は遊歩道として整備されており、川の近くに寄れる場所もいくつか作られている。
中でも最大で、せせらぎで憩う、イメージで作られた親水場所が多摩動物公園駅前にありましたが、都道の改修とともにそれまでは暗渠となってしまっていた程久保川の流れを再び川として呼び戻し、同時に動物公園を利用する人などが憩える、はや一年以上不思議な風景をさらしているからです。
安全対策としてフェンスが張り巡らされ、どこにもある川に。

    

平成20年8月28日夜から翌29日未明にかけて
突然市を襲った集中豪雨は、気象庁に「平成20年8月末豪雨と命名されるほど、大きな被害を受ける結果に。」
このハザードマップは、国(京浜河川事務所)が管理する多摩川・浅川(清川合流点より下流)の区域と、都(南多摩西部建設事務所)が管理する17本の1級河川の区域を含めた、市内全ての河川を対象としている。

  

「浅川・城山川との合流点を過ぎたあたりに」
露出した砂質泥岩が流れに削られて面白い景色をみせている。この付近には,約百数十万年前に陸域で形成された上総層群最下部の飯能層とよばれる
地層が分布し、たりには、学術的にも貴重な「メタセコイア」の切り株の化石が多数露出した場所があると云う。
このあたり一面が豊かな森であったことを物語っているという。

    

浅川は小さいながらも暴れ川。
記録に残っているものでも,貞享2年,宝永2年,安永9年, 文政6年,安政6年,明治に入ってからでも明治29年,40年, 昭和19年,23年に氾濫,
橋の流失などの被害がもたらされている。
八王子の代官であった大久保長安も浅川の治水には苦慮しており、治水のために築いたとされる石見土手は有名で、現在の並木町から元本郷町にかけて築いた町囲いの堤防。
現在は、千人町宗格院境内にすこしだけその名残があり、浅川の洪水対策に腐心したかがうかがい知ることができると云う。
八王子市東浅川町川原ノ宿は、かつては北浅川の水路で洪水に悩まされていたが、万治年中に設楽杢左衛門が、川筋を北に変える治水工事を行い、
この治水の功績で江戸幕府から9斗の除地を享け賜ったと伝える。
杢左衛門の河川改修事業の完工記念としてとか、あるいはその際の護岸のためにとかで、この川筋に数百本植えられたとされるサイカチの木は、
現在ほとんど残っていない。ただ一本だけ(両界橋)北側(の右)岸に残存。
明治43年度版の八王子案内には浅川の夕景を序して「夏のよる、浅川橋あたりを逍遥すれば、水声潺湲として昼間の暑熱を洗い、時には蛍火の散乱するを見る、青蛙の閣々たるを聞けば身骨爽涼として帰路を忘れる」と書かれている。
最近、浅川は水質が改善して、絶滅危惧種のホトケドジョウが住むようになったとか。多摩川合流地点からここまでのあいだに少数だが生息地。

                    浅川と多摩川が合流付近
    

次回は、京王百草園に。

日野宿 多摩川散歩(27)

2016-02-27 | 気まま旅
甲州街道は、当初、府中分倍河原から多摩川の低地を通り、多摩川を「万願寺」で渡っていた。しかし、多摩川の氾濫で街道が分断されたことにより、
街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移 され、それと共に、1684年、それまでも多摩川の対岸、柴崎村(現立川市)への農耕作業などで使われていた
「日野の渡し」が甲州街道の正式な渡しとして決められ、以後、大正15年、まで240年あまり、使われ続けている。
渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ定められ、僧侶、武士、そして宿の人々は無料で利用。
その経営と管理は、「日野宿」が行い、渡船料は宿場の収入源に。
渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われ、江戸時代後期、1824年からは通年船による渡しに。
船に使った船は歩行船(長さ6.4m、幅1.2m)1艘、馬船(長さ11.8m、幅2.7m)2艘。
1744〜48年頃、一人3文から4文、1824年、10文、1834年、には13文、慶応4年の1868年には30文となっていた。
これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金、 江戸時代が終わり明治になると、渡しはの経営は宿場から町へ移され、
毎年入札により決められた請負人が渡し船を運行し、定められた一定額を町に納入する方法になった。
明治22年、甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると渡しの通行量が減少し、大正時代に入り自動車が輸入され、通行するようになると橋がないことが
問題になり、「馬船2艘並べ、その上に横に長い板を敷き並べ、その上に自動車を乗せて対岸へ運んだ」と伝えられるような不便が生じてきた。
大正15年、日野橋とその取り付け道路が完成し、日野の渡しは長い歴史を閉じている。
谷保方面から現在の日野橋交差点付近まで河岸段丘上を来た甲州街道は、根川と多摩川の氾濫減を一旦避けるために、崖線をなぞり弧を描くようにして、日野の渡しへ向い、柴崎体育館東側にこの旧甲州街道が残っており、その正面に富士山を見ながら渡し場へ向うこととなります。
多摩川の流れ、丘陵から連なる山々、そして、その後に富士山で絶景であったと云う。

                  JR日野駅
    

「日野宿」
甲州街道の5番目の宿場町。
宿場町として整備されたのは1605年、八王子宿を整備した「大久保長安」の手によって開かれている。
甲州街道は幾度か経路の変遷があるが、1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越え、都道149号立川日野線を南下し、新奥多摩街道入口信号で右折して都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋。
本陣跡には本陣としては、都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。
長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた所で、この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。
近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。
この向かいに問屋場と高札場があったが、現在は石碑が建つのみ。前後の宿場は、府中宿・ 「日野宿」・ 八王子宿となる。
明治22年、町村制が施行された時点では、日野宿という名称のまま神奈川県南多摩郡の自治体となったが、東京府への移管後に日野町へ改称されている。

    奈良時代ー烽火台「飛日野」・武蔵七党の日奉氏「日野宮権現」でー日野


「JR日野駅」
1890年の明治23年、 地元有志の寄付により甲武鉄道の駅として開業され、旅客および貨物の取り扱いを開始。
駅北50mほどのところに用水路を跨ぐ小さな跨線橋が、赤レンガを積んだ風情のあるものだが、これは甲武鉄道開業当時(1889年)からのもの。
ここで使われているレンガは日野煉瓦(現在は廃業)製のもので、多摩川橋梁の橋脚にも同社製のレンガが用いられており、現在も上り線の立川寄りの橋脚に見ることができる。
明治42年、 線路名称制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属に、昭和12年、 複線化に伴い300mほど北、現在地に移転。
民芸調の入母屋造りの駅舎が建設されたが、これはこの地が「多摩の米蔵」と称された日野でも「八丁田圃」と呼ばれる稲作地帯だったことによる。
その田園風景との調和を考えたデザインとなっていると云う。
昭和24年、 日本国有鉄道発足され、昭和34年に 貨物の取り扱いを廃止。平成22年、 開業120周年記念として記念セレモニー・記念入場券発売。

                 新撰組「土方歳三」出身地。


「平山 季重」
平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵七党の一つ西党(日奉氏)の武将。
平山直季の子。多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山)を領し、院武者所に伺候したため平山武者所と呼ばれた。
武蔵国平山(平山城址公園駅付近)で生まれ、1156年、の「保元の乱」で「源義朝」に従い、1159年、の「平治の乱」では義朝の長男源義平に従い
待賢門での戦闘で平重盛の軍勢500騎に17騎で戦いを挑んでいる。
義朝の敗死後は平家に従い、在地領主として平穏な日々を過ごし、1180年、に伊豆国に流罪となっていた義朝の遺児源頼朝が挙兵するとそれに従い、
その弟源義経に従って富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍している。
特に佐竹氏征伐の金砂城の戦いでは同僚の熊谷直実とともに抜群の戦功を挙げている。
1184年、季重は源義経率いる木曾義仲追討軍に従い上洛。「宇治川の戦い」で根井行親、楯親忠を撃破して京都へと入った。
「一ノ谷の戦い」では「源義経」に従って、奇襲部隊に参加。同僚の「熊谷直実」とともに「一ノ谷の平家軍」に突入して、勝利のきっかけを作った。
1185年、の「屋島の戦い、壇ノ浦の戦い」でも常に先陣を切って、勇猛果敢に戦った。
戦後、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられたが無断での任官であったため、これが源頼朝の怒りを買った。
「吾妻鏡」に他の無断任官者と共に「平山季重、顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と頼朝に罵られた記述が残っている。
この頃に、筑前国三笠郡原田荘の地頭職を得ている。1189年、には「奥州合戦」に息子の「平山小太郎重村」と参戦。そこでも戦功を挙げ、
鎌倉幕府の元老として取り立てられた。
建久3年の1192年、の「源実朝」誕生の際、鳴弦の大役を務めている。

    

「根川」
市内を流れる準用河川ー流域全体が程久保川のような三面護岸構造、日野用水や上田用水が流入する。
ただし、これらの水路には生活廃水が流れ込んでいる為に水の清浄度は低めであり、下流では泥臭がする事もあると云う。
今は、全流域にフェンスが張ってある為、本河川へ立ち入ることはできない。水鳥が水底に足をつけて休んでいるのを見かけることもあると云う。

    

「土方歳三」 1835-69 北の果てに散った新撰組副長
多摩郡石田村、農家出身ー天然理心流剣術を学ぶ。道場主「近藤勇」らと「新撰組」結成。
鳥羽・伏見・宇都宮・会津・転戦後北海道箱館(函館)・箱館戦争で旧幕軍陸軍奉行並を務めた。

         菩提寺ー高幡不動尊末寺「地蔵院石田寺」


「八坂神社」
伝説ー多摩川の淵から拾い上げられた「牛頭天王像」を勧請し祠を建てたのが神社の始まりと云う。
1398年、普門寺が開基され、牛頭天王社を管理し、600年以上の歴史を持つ神社で、1570年、、普門寺の移転。
神社は、現在地に遷座。 本殿は、1800年、建造・彫刻が組み込まれた江戸後期を代表する神社建築。(市指定重要文化財指定)
明治維新政府の神仏分離によって別当であった普門寺から切り離され、神道で祇園の神といえば素盞嗚尊、八坂神社に改名。
「祇園社」の篇額が掲げられていましたから、「八坂」と称されたと云う。
佐藤彦五郎氏が万延元年の1860年、奉納した「祇園社」の篇額が残されている。

          天然理心奉納(額)、新撰組の剣術流派
    

「日野宿本陣」
本陣跡には本陣としては、都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。
この辺りに、長屋門を改装して「佐藤彦五郎」が「天然理心流」の道場を開いた。
この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。
近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。

          向かいに問屋場と高札場があった。
    

「甲州街道」・(江戸:日本橋) - 内藤新宿 - 下高井戸 - 上高井戸 - 国領 - 下布田 - 上布田 - 下石原 - 上石原 - 府中 -「日野」 - 八王子 -
駒木野 - 小仏 - 小原 - 与瀬 - 吉野 - 関野 - 上野原 - 鶴川 - 野田尻 - 犬目 - 下鳥沢 - 上鳥沢 - 猿橋 - 駒橋 - 大月 - 下花咲 - 上花咲 - 下初狩 - 中初狩 - 白野 - 阿弥陀海道 - 黒野田 - 駒飼 - 鶴瀬 - 勝沼 - 栗原 - 石和 - 甲府 - 韮崎 - 台ヶ原 - 教来石 - 蔦木 - 金沢 - 上諏訪 -
下諏訪(五街道ー東海道・ 日光街道・ 奥州街道・ 中山道)

                日本橋から11番目「日野宿場」
    

日野宿本陣は、1849年、大火によって古くからの主屋は消失。
現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が10年に及ぶ歳月を費やして準備を進め、1863年、に上棟し、翌年、住み始めた建物。
木造り平屋建、切妻造瓦葺屋根、式台附の建物で当初の建坪は約100坪です。
日野宿本陣には、佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」があり、後の新選組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、
井上源三郎たちが激しい稽古に励んだ道場が。(長屋門は、大正15年の大火で類焼、現在は無い)

                   入館有料
    

「大田 南畝」 1749ー1823ー天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。
膨大な量の随筆を残す。狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。
南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称され、名は覃。字は子耕、南畝は、号。
通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。
山手馬鹿人も南畝の別名とする説がある。
狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称したと云う。



「問屋場・高札場跡」
江戸時代の宿による荷物の輸送は、前の宿から送られた荷物を自分の宿の人馬に載せ替えて次の送る「継ぎ送り」が原則。
このような宿の事務を行う役所がー問屋場ー

高札場は、幕府からの通達などを提示する施設で、問屋場の前にあったと云う。

               問屋場・高札場跡の碑がある。
    

「日野図書館」
             新撰組・宿関係資料、本などがある。 
    

「三鷲山・大昌寺」
創建は、慶弔12年の1607年、「讃誉牛秀上人」により建立。
寺の檀家に佐藤家があるが、当時この地域の名士であった佐藤家に土方歳三の実姉が嫁いでいる。
佐藤家は実家の前に佐藤道場を構え、自ら師範代として剣術の指導にあたり、近藤勇、沖田総司ら天然理心流の兄弟弟子を集め剣術の腕を磨いた。
土方歳三もまたここで後の新選組の面々と剣術の腕を磨いたという。
佐藤氏は土地の名士という身分から新鮮組には入らなかったが、資金面での援助で陰から支えた一人だったと記録されている。

               浄土宗ー1594年讃誉上人が創建
    

樹齢何百年という大木は繁り、いまなお静寂に包まれ、大きな山門をくぐると、正面に生まれ変わった本堂が悠然と構え、
右手には高さ7mの鐘桜堂が建つ。
参道には六地蔵がある。
寺宝ー「説法色葉集」があるが、これは開山の牛秀上人の直筆といわれている。(全10巻の古書は都文化財指定)

           名主日野宿問屋佐藤家(新撰組を支援)菩提寺
    

           「時の鐘」として日野宿その周辺に告げていた。
    

「宝泉寺」-臨済宗の寺・1329年頃の創建ー

         新撰組六番隊隊長・井上源三郎・八王子千人同心井上松五郎の墓がある。
    

           堂内には、「馬頭観音立像・持ち上げ観音」が
    

「新撰組」
文久2年の1862年江戸幕府は、
庄内藩郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍「徳川家茂」の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。
集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。
浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。
京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。
浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。
これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。
鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。
これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退。
殿内・家里は排斥され、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。
一方、江戸に戻ったメンバーはー新徴組を結成した。

    

次回は、京王百花園方面へ。

拝島・昭島  八高線  多摩川散歩(26)

2016-02-25 | 気まま旅
JR青梅線も「拝島駅」へ。

「西武拝島線」は、1928年開業、多摩湖鉄道→武蔵野鉄道→西武農業鉄道→ 西武鉄道。
現在、終日にわたり新宿線田無・西武新宿方面との直通運転を行ってい、日中は直通列車に加えて車両基地を併設する玉川上水駅を起点とした
小平駅 - 玉川上水駅間や玉川上水駅 - 拝島駅間の区間運転もある。
2007年のダイヤ改正で昼間の小平駅折り返しの列車がすべて西武新宿駅発着に統一され、2012年のダイヤ改正で小平駅折り返しの各駅停車が復活。
基本的には小平駅で新宿線(所沢・本川越方面発着)の列車との相互接続・急行は、新所沢駅・本川越駅発着の各駅停車に、各駅停車は
昼間は、1時間あたり西武新宿駅 - 拝島駅間の急行3本(20分間隔)、拝島線内折り返しの各駅停車3本(20分間隔、3本のうち2本は小平駅 - 玉川上水駅間、1本は小平駅 - 拝島駅間:小平駅で本川越駅発着の急行と相互接続)し、小平駅 - 玉川上水駅間は10分間隔のパターンダイヤと云う。

「JR八高線」は、八高南線(昭和6年、 八王子駅 - 東飯能駅間 (25.6km) が開業。八高北線(昭和6年、 倉賀野駅 - 児玉駅間 (16.1km) が開業。
昭和8年、児玉駅 - 寄居駅間 (12.0km) が延伸開業。松久駅・用土駅・寄居駅が開業した。

「八高線」-昭和9年、小川町 - 寄居間 (11.1km)が延伸開業し全通。八高南線を改称して八高北線を編入し八王子 - 倉賀野間を八高線となる。
竹沢駅・折原駅が開業。昭和20年、小宮駅 - 拝島駅間の多摩川橋梁上で上下の列車が正面衝突する事故が発生「八高線列車正面衝突事故・少なくとも105名が死亡」•昭和22年、東飯能駅 - 高麗川駅間で下り列車が過速度により脱線・転覆(八高線列車脱線転覆事故)、184名が死亡。
昭和33年に全旅客列車が気動車化された。
八王子駅 - 高麗川駅間が電化。高麗川駅を境に南北運転系統分離、川越線川越駅まで(一部が南古谷駅始発)直通運転開始、
平成26年、全通80周年を記念して、「八高線全通80周年記念号」が八王子駅 - 高崎駅間で運転される。全線を走破する旅客列車の運行は18年ぶりと云う。平成27年、拝島駅(八王子行き)ホームにて、昇降式ホーム柵使用開始し、将来の計画では、箱根ケ崎駅 - 金子駅間に、主に中央本線用の車両基地を設置する計画があり、用地買収が進められている。
東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の都営瑞穂アパートで建替えを行ったときに、新駅設置のための駅前広場用地に、非電化区間沿線では、本数増加と複線電化、八王子までの直通運転復活を望む声がある。
北藤岡駅は高崎線と近接しているにもかかわらず高崎線の方に駅がなく、相互に乗り換えができないために、高崎線上野方面と行き来する利用客はわざわざ一駅反対方向の倉賀野まで行かなければならない。
このため、同線の方にホームと駅舎を移設する構想があると云う。

               拝島駅ホーム(向かいに西武拝島線が)


                    近代的な拝島駅


八王子~倉賀野間92.0㎞の地方交通線「八高線」
今から40年前の昭和45年頃までは、蒸気機関車による運転が東京で最後まで残っていた路線。
現在、八王子~高麗川間(31.1㎞)は電化線区となっており、その先高崎までは気動車による運転の非電化ローカル線区(65.3㎞)である。
その「八高線」で、終戦直後の2年足らずの間に、国鉄の戦後列車運転事故史上5指に入る大事故が2件発生している。

( 国鉄八高線東飯能~高麗川間列車脱線転覆事故・1947.2 )
その一つは、昭和22年、朝7時50分頃に、東飯能~高麗川間で起きた列車脱線転覆事故である。
終戦直後の食糧難の下、かつぎ屋や買い出しの乗客で超満員の下り第3旅客列車(C57形蒸機+客車6両)が20‰の下り勾配個所で速度超過に至って曲線部で脱線し、高さ5㍍の築堤下に4両の客車(木造)が転落して粉砕大破し、184人死亡・495人が重軽傷を負った事故。
運転手の実乗務6ヵ月という技量の未熟から発生・真冬の朝の大惨事であった。

「国民の大半が敗戦のショックの最中にあった今から65年前の、終戦9日目の昭和20年8月24日午前7時40分頃に起きた」
まだ、国民が戦時の生活環境から抜け出しきれずにいた、終戦7日目の東京は曇天となり、夜に入って関東の西北部を激しい雨を伴った豆台風が襲った。
8日目に入っても、時折の驟雨が続き、各地で出水騒ぎが起きていた。衰えを見せない風雨は、深夜になって風速を増し豪雨となって八高線の小宮駅(現・東京都八王子市)の小さな駅舎を震わせていたと云う。

       JR東日本ー八高線小宮駅 - 拝島駅間にある陸橋は、多摩川に架かる鉄道橋。
    

激しい降雨に灰色に煙る薄暗い多摩川鉄橋上を対向する上・下双方の列車は、前方から進んで来る列車を直前まで互いに認めることができなかったと云う。非常ブレーキの暇がないほどの距離で相互に相手を認めた時には、約360人余りの乗客を乗せ60km/hの速度で進む上り第6旅客列車と約450人余りの
乗客を乗せ50km/hの速度で走行する下り第3旅客列車はともに高い速度のまま単線の
「多摩川鉄橋上で遭遇し」
拝島方392m・小宮方180mの地点で正面衝突。

  八高線が開通した昭和6年、に架橋されており、現在も架橋当時の桁を使用していると云う。
    

あきる野市の「秋川」と小河内ダム・奥多摩からの「多摩川中流」が合流。
昭和36年、には本橋梁の下流36mの河原から、「アキシマクジラの化石」が見つかっている。 鋼鉄道橋・ 上路式プレートガーダー・橋長 - 571.640m

               朝9時頃の「多摩川」
  

「昭島市」都西部・武蔵野台地南西で多摩川が南境を東流。
拝島が昭和29年合併、農業中心であるが、日光東照宮建立の1617年以降、「日光往還の宿場町」として栄えた。
昭和12年以降の日中戦争勃発にと伴って軍需工場に。

昭島駅周辺は、国道16号線・新・奥多摩街道・緑街道・江戸街道・拝島大師通りと住宅団地などで住宅地化が急速に進んでいる地位である。



「拝島日吉神社」
村上天皇の天暦年間の 947-957年、創建
拝島山大日堂が再興された天正年間の1573-1592年、にその守護社として建立されたともいう。
寛保元年の1741年、「山王大権現」の社号が許された。(明治2年には日吉神社と改称)

狛犬                手水舎               鐘楼


拝島公園・ 拝島大師・大日堂・日吉神社、拝島のフジ、拝島公園プール、
戦国武将石川土佐守の娘「おねいの眼病治癒」を祈願して目を洗ったといわれる「旧跡おねいの井戸」などがある。

        一帯を総称して拝島公園・拝島大師と呼ぶ。


拝島藤ー記念物
根元の周囲は3m、高さ2.4m、広さ約300㎡、 のフジ棚に広がっている、樹齢800年以上と言われるフジ。
 大日堂の境内にあり、地元の人たちは「千歳のフジ」とも呼んでいる。

「本覚院」ー天台宗ー
     山号ー拝島山。1578年、慈恵大師の木像を安置したのが始まりと云う。


「良源ー慈恵大師」  912-985       -出身地は、近江国ー
平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師。一般には通称の元三大師の名で知られる。
第18代天台座主であり、比叡山延暦寺の中興の祖。

総門南大門  中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。


良源は、延暦寺諸堂の復興に邁進し、「二十六箇条起請」の布告して僧風の刷新に努め、天台教学や法要儀式の整備をはじめ、僧侶育成に力を注ぎ、
「広学豎義」を新設して学問を盛んにした。
まさに慈恵大師の時代に比叡山は一大発展をなし、後代の日本仏教の基礎となったと云われる。
平安時代後期は、末法思想が流行し、念仏(阿弥陀信仰)が盛んとなったが、慈恵大師は、「極楽浄土九品往生義」等を著している。
門下三千人といわれる中、弟子に「往生要集」の恵心僧都源信や檀那院覚超などがおり、その後の日本浄土教の展開に影響を与えた。
985年、に遷化されたので「元三大師」と呼ばれ、「慈恵」の諡号を賜わったことにより慈恵大師と称される。
数々の霊験や説話が残されており、降魔大師・魔除大師・角大師・豆大師など霊験ある聖者・元三大師として信仰を集めている。
角大師は厄災を降伏させる恐ろしい様相の護符である。
豆大師は小さな大師の姿が豆粒のように9段33個並べられているお札で、慈恵大師は、「如意輪観音」の化身とも仰がれ、観音様として
三十三の童子に姿をかえて農民の田畑を守ったという故事によるもので、我々を救って下さる威力を示したものであると云う。

天台寺院では、慈恵大師尊像や掛軸を祀るところが多く、現代に続く強い信仰は、まさに大師の広大な慈悲の証であろうと云う。


「本覚院」
日光街道(現国道16号)と奥多摩街道の交差点、「拝島」にある。
ご本尊は、大師自刀自作の元三慈恵大師様で、永く比叡山横川にありましたが、元亀2年の1571年、織田信長の兵火により焼尽に帰すべきところ、
敬大僧都により救出され、諸国行脚の末、天正6年、拝島本覚院に安置された。
爾来400有余年。三多摩・武蔵の西関東随一の「お大師さま」信仰の霊場として、春夏秋冬参詣者の絶えることなく、ことに厄除、病気平癒に絶大な御利益
ありとされ、本覚院の「お大師さま」は、拝島大師の呼び名で親しまれている。
初縁日の正月2日・3日には、参道の両側に、江戸時代19世紀半ばから続く「だまる市」が全国一早く開かれることでも有名。
幕末、横浜が開港し、欧米各国へ絹、生糸の輸出が増大するに伴って、現国道16号が横浜-相模原-八王子-拝島-箱根ケ崎-豊岡-川越さらに上州、野州
と結ぶ、いわゆる日本の絹の道(シルクロード)として登場し、街道周辺農村に養蚕、製糸業ブームが到来する中で、蚕の病気、増産に効き目があるとして
農家の副業による紙製ダルマ作りが始まり、大勢の人出で賑わう大師の初縁日に売りに出された、これが「拝島大師ダルマ市」。
昭和48年、「文殊菩薩」をおまつりする文殊楼、昭和53年、元三大師と母上とのいわれある大梵鐘ちぶさの鐘、昭和58年、大師様御本地如意輪観世音菩薩を
まつる奥の院多宝塔、新本堂元三大師中堂、(御本山国宝根本中堂と旧国宝大講堂とを併せた、総欅造の本格的天台密教建築)
水屋水天宮、平成7年に総門南大門、平成8年文殊楼拝殿、平成9年西大門転害門、平成10年八角円堂へと続き、旧本堂は現在大黒天堂、八角円堂は弁財天堂が。



拝島大師は、七堂伽藍が整備され、新本堂元三大師中堂(平成6年落慶)、講堂(客殿、昭和42年)、文殊楼(昭和48年)、
鐘楼(昭和53年)、多宝塔(昭和58年)、大黒堂(旧本堂、文政二年)、

八角円堂弁天堂(平成12年)、南大門(平成8年)、西大門(平成11年)と続きいた。
経蔵堂ー仏教の経典に対する日本人の信仰は格別なものがあり、経典を架蔵する輪蔵をぐるりと一回転させれば、そこの経典は全部読んだことになる。
経典の功徳は絶大、亡くなった人の追善供養に最も善いとされる。
拝島大師では、経蔵堂建立を計画していると云う。



「戦国時代」
小田原北条氏と上杉謙信との相越同盟がなされ、自国の孤立を懸念した武田信玄が小田原城を攻略するという事態が。
小田原に至るその進軍経路に「北条氏照」(1540-1590)が本拠とする滝山城が包囲・攻撃を受ける際、
信玄がこの拝島大師を含む大月堂を本陣として設営している。
1554年、に結ばれたいわゆる相甲駿同盟は駿河国の今川義元(1519-1560)は、桶狭間にて討ち死にしその結果勢力のバランスが崩れる事になり、
1560年、甲斐の武田信玄は駿河の今川領に侵入しここに三国同盟は破綻する。
信玄の駿河侵入に対し永和12年の1569年、小田原北条氏3代の氏康は、
北からの脅威を排除するため、これまで敵対していた越後国の上杉謙信と同盟して信玄勢の孤立を狙い、1569年、越相同盟に激怒した信玄は
北条氏攻略のため2万の大軍を率いて碓氷峠を越えて小田原に向かう。



「拝島大師奥の院・多宝塔」
         大師様御本地如意輪観世音菩薩をまつる奥の院多宝塔、


「圓福寺」ー天台宗・山号拝島山ー
開創は、不明だが、再建天正元年の1573年。
寺は、大日八坊の一寺として再建。
大日八坊の開基は、滝山城主「北条氏照の家臣石川土佐守」。
北条氏照は早雲から数えて4代目の北条氏政の兄弟で、石川土佐守は氏照の重臣で、拝島・羽村・久保・天間・高築の5ケ村の領主。
石川土佐守の娘おねいが7才の時、不幸にも眼病を煩い両目が見えなくなり、父母はせめて一眼だけでも見えるようにと大日堂に祈願し、
更に大日堂の下から湧き出る水で眼を洗ったところ、何と左目が見えるようになったと云う。
石川土佐守一族はそのお礼に古い大日堂を建て直し、また新しく一山八坊を建立し、これを滝山城の鬼門よけにしたと伝えられている。
大日八坊とは、別当である普明寺のほか
本覚院・圓福寺・知満寺・密乗坊・龍泉寺・蓮住院・明王院で、現在では普明寺・本覚院・圓福寺の3寺しか残っていない。
寺は、新編武蔵風土記稿によると、
「客殿三間に七間南向、本尊は聖観音を安置す。開山詳ならず。大日領一石の配当、廃寺の蓮住院の寺務を摂行し、都合二石をおさむといへり。」とあり
本尊は「聖観音」となっている。

      「阿弥陀如来像・水子地蔵尊」(本堂は昭和49年再建)


                      普明寺本堂前


「普明寺」-天台宗・山号ー拝島山ー
創建年代については不詳。
戦国時代に再建されたという。もとは本覚院(拝島大師)などとともに隣接する大日堂の子院のひとつとして建立。
大日堂の別当寺であった。江戸時代には大日堂領として朱印状が与えられていたと云う。

                本尊ー大日如来


都指定文化財ー(大日堂) 木造大日如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿弥陀如来坐像・木造金剛力士立像

文禄年間の1592-1595・に谷保天満宮から分霊を奉斉したと伝えられている。
祭神は菅原道真で子供達の信仰が厚く、1月25日の初天神などに天神講が開かれている。
境内にあった大ケヤキは樹令八〇〇年以上と言われ、文部省の天然記念物に指定されていたが、老令化のためか自然に倒壊。
(「昭島市史」より)



次回は、JR日野駅へ。

基地の町福生・牛浜ー多摩川散歩(25)

2016-02-22 | 気まま旅
「横田基地」
は、旧日本陸軍によって建設された航空審査部と航空整備学校などが所在した陸軍多摩飛行場。
1940年、「立川基地」の陸軍航空技術研究所から独立した飛行実験部が移転ー1942年、全長1,200メートルの滑走路の運用は、
飛行場は、当初「多摩飛行場」と名づけられ、職員や地元住民からは「福生飛行場」とも呼ばれていた。
多摩川に沿って関東平野の西の端に位置している飛行場周辺地域は、畑、林、荒地、そして幾つかの小さな村が点在しているだけの地域。
飛行場の中央には、「誠明学園」と呼ばれる「少年教護院」。南部分には、戦後米軍に接収されることになる陸軍航空立川支廠の熊川出張所という燃料倉庫があった。
多摩飛行場は、東京の中心に比較的近い場所にあるにも関わらず、1940年代の初期にはまだ遠隔の地、公にしにくい任務に適した場所で、飛行場に最も近い福生町中心部は1.6キロほど正門から離れ、産業は実質的に存在しておらず、周辺の町の道路は未舗装のままと云う。

多摩飛行場が最高機密の任務を担ったことと戦時中の環境の証として、近くを南北に走る八高線の乗客は飛行場を通り過ぎる時に、窓のブラインドを下ろすように指示されていたと云う。
昭和天皇は、昭和19年、その重要性を象徴するかのように同飛行場へ行幸されている。
「甲府岩」として知られる大きな栗色の石は、天皇の訪問の記念として多摩飛行場に置かれ、現在も飛行場内の庭園で見ることがでる。
当時の米軍が所有する日本地図の上にも多摩飛行場は載っていないと云う。
1944年後半に始まった航空機による日本本土偵察によって飛行場と1,200メートルの滑走路の存在を初めて知った。
その発見の後、アメリカ軍はその飛行場を「横田」と呼ぶようになる。

B-29による東京への空襲は1944年から始まりましたが、この飛行場への空襲の記録は現在まで見つかっていない。
それが意図的か否かは別にせよ、多摩飛行場の施設はほぼ無傷な状態に保たれ、1945年9月上旬に米陸軍が占領した時には飛行場の全ての戦時施設を直ちに使うことができた。
米陸軍に接収された多くの建物には飛行場地区にある格納庫も含まれ、それらの幾つかは米空軍によって今なお使われている。(早い返還を)

 JR青梅線福生駅                  玉川上水と「しんばし」                    
    

江戸期・地誌「新編武蔵風土記稿・福生村」
「高札場」小名 宿にあり。と記されています。「宿」とは名主家の屋敷を中心とした村内の一地域で、紺屋・味噌屋・足袋屋・さなぎ屋・下駄屋・屋根屋・鍛冶屋・車大工・酒造等の家々を含めた村一番の集落。
「福生の渡し」(多摩川の渡船場の一つ)を越えて、「上・下江戸道」「八王子道」「青梅」への道につながり、「下江戸道」の玉川上水に架けられたのがこの「宿橋」(平成5年、玉川上水に架かる橋梁であることからも、美観を十分考慮して、旧態を尊重し修復される)
橋長・12.30mー幅員・6.80m。

「新橋・しんばし」五日市のあきる野、方面から福生に通じる都道95号線。昭和27年、福生町・多西村が共同提出した
福生駅前より玉川上水を渡り、新設多摩川架橋ー永田橋、に至る延長550mなる。
昭和32年、着工した都道第95号(五日市から所沢線)改修工事は多摩川に架ける永田橋(長さ241.5m、幅6m)玉川上水に架ける

「新橋」の二橋新設を主な工事として、その間を総延長316.4mの道路で結ぶ。昭和36年に完成。

                   橋長・13.2mー幅員・16.0m
    

「古民家」工事中でした。
この古民家は明治35年建築と書かれた棟札が確認、古民家の面する「宿橋通り」は、遅くとも明治期より戦後まで福生村の中心地地域の目抜き通り。
市としてもこの場所に位置する明治期の勇壮なこの古民家には文化財的価値があるものと考え、福生市内の古民家の調査経験をもつ
横浜国立大学の大野准教授に調査を依頼ー明治35年、建築の母屋をはじめ、明治37年及び44年建築の土蔵2棟など建造物の保存状態の良好性や、全体として明治末頃の豪壮な屋敷景観が現在も良好に維持していると云う。

つるべ井戸                         古民家
    

「武蔵五日市線散歩」でも福生市掲載しましたので再度掲載。
都福生市は、都中西部、多摩川の北東側に位置し、3段川岸段丘からなる市、フサは麻のことで麻の原で福生と云う由来など諸説あり。
元は、神奈川県多摩市福生村で、1893年の明治東京府に編入、昭和15年町が成立している。
奥多摩湖埋め立ての代替地に選ばれた所でもある。1653年玉川上水が開削されている。
台地は、養蚕畑地・水田農村で、多摩川では、筏流し漁労が行われている。
昭和15年設置「陸軍航空審査部と整備学校」大戦後「米軍横田基地」で基地の町に。
鉄道は、JR青梅線・牛浜・福生駅ー八高線東福生駅・五日市熊川駅で国道16号線が。

            福生市熊川の古式の門構えの家


多摩川合流地点(東京都福生市・あきる野市・八王子市・昭島市境)ー 武蔵五日市駅(東京都あきる野市)
秋川、この美しい名前を持つ川は多摩川最大の支流、多摩川に合流するが、支流と言っても37.6kmもある。
位置的には、北に多摩川、南に相模川と2つの大きな川に上下を挟まれる。
拝島駅ー多摩川と秋川の合流地点。

「多摩川緑地福生南公園」
多摩川沿いにある河川敷公園。
一日中遊べる公園。 野球場、テニスコート、アスレチック遊具、ジョギングコース など。

                 福生南公園と睦橋。


「多摩川暴れ川」
堤防が、洪水から暮らしを守るために、昔の人々が努力して造り上げ続けてきた多摩川。大雨のたびに氾らんを繰り返し、あばれ川・多摩川、
堤防の決壊で、先住民が立ち上がって現在に、今の多摩川は、あばれ川のおもかげも薄れ、めったなことでは大きな洪水は起こりません。
それは、現在の私達に残してくれた遺産です。明治40年の大水害で水びたしになった川崎町・明治43年の大水害で破損した六郷大橋、 道路となった
有吉堤のなごり・昭和49年の狛江水害で濁流に飲み込まれる家 、、、。記録をたどると。
1550年ー 大洪水、伊豆美神神社流失・1590年ー 大洪水で多摩川の流路変わる・1600年ー 六郷大橋、架橋。以後洪水のため度々流失・再架橋
1627年ー 羽田、川崎水害 ・1644年ー 大洪水で六郷水害 ・1650年ー 羽田・野毛周辺水害 ・1688年ー 大洪水で六郷大橋流失、架橋をやめて渡船に。
1694年ー 川崎水害・1699年ー 川崎水害・1723年ー 六郷水害(以後、度々水害起こる)・1781年ー 享保以来の大洪水・1790年ー 矢口・菅村堤防決壊
1803年ー 川崎堤決壊・1816年ー 川崎、八王子など水害・1868年ー 六郷用水取入口壊滅・1875年の明治8年、 洪水で六郷橋、弁天橋流失、堤防決壊
1878年ー 数ヶ村で堤防決壊・25ヶ村で水害、横浜~東京間鉄道不通 ・1889年ー 各地で堤防決壊 ・1894年ー 各地で堤防決壊 日清戦争開始
1896年ー 河川法公布・1898年ー 布田で堤防決壊、二ヶ領用水締切元付近決壊。高津村、久地村で堤防決壊、 二ヶ領用水宿河原取入口大破損
1904年ー 日露戦争開始 ・1907年ー 大洪水、各地で堤防決壊、横浜~東京間鉄道不通  被災市町村数は50、川崎町は全町浸水
1910年ー 下流部、未曾有の大水害。被災市町村数55 ・1911年ー 洪水で六郷大橋流失
1914年の大正3年、 早期築堤を求めたアミガサ事件 ・1916年ー 代用堤防の有吉堤完成・1917年ー 洪水。高潮と重なり被害甚大
1918年ー 多摩川下流改修工事開始(1934年に完成)
1945年昭和20年ー 太平洋戦争終結 ・1974年ー 狛江水害・1997年ー 河川法改正した。

                熊川付近の多摩川と川岸


秋川・平井川・多摩川・湧水の名水、その周囲の田園、夏のとうもろこし、秋のお祭り、、、。

                   玉川上水ー 分水路


名水地域には「美味い酒がある」。
清酒「多摩自慢」と東京地ビール「多摩の恵」の製造元「石川酒造」
多摩の恵を醸造する石川酒造は、1863年(文久3年)創業の長い歴史を持つ老舗の造り酒屋で、
地元の水と空気から生まれた銘酒「多満自慢」(たまじまん)の蔵元です。
1880年(明治13年)にここ熊川の地に酒蔵を建造以来、造り酒屋としての歴史を積み上げて来て、
1997年に、地ビール「多摩の恵」の製造を開始しました。

                 石川酒造工場ー1880年・明治13年
    

石川酒造の入口を入ると正面に、本蔵が。
創建から100年以上が経つ酒蔵、近代酒造工場と昔ながらの蔵と日本建築のすばらしさを調和。
石川酒造を代表する清酒「多満自慢」の「たま」の字が、地元「多摩」ではなく「多満」としているのは、広くみなさんに満足してもらえるお酒に、、。
という思いが込められて「多くの満足」から「多満」となったと云う。
石川酒造では、酒蔵の見学も、事前予約すればよいと云う。
酒蔵をはじめビールの醸造所や100年以上前に使用したと言るビールの醸造釜など見どころ多い。

                石川酒造工場内・本蔵(1890年玉川上水ー熊川分水)
    

「日本酒のきき酒」いろいろの酒を口にしましょう。
1)瓶・容器に張られたラベルをよく読みましょう。
2)人に聞いてよい物を知って下さい。
3)先ずは欠点から、減点。
4)きき酒の言葉を知りましょう。
5)自分のものさしを作りましょう。
6)長所・欠点を書き留めておきましょう。
7)酒の温度はs、20℃位(ビールは10℃)
8)きき酒の直後に甘辛・刺激の強い物は口にしないでおきましょう。
9)先入観・話をしながらのきき酒は避けましょう。
10)着色グラスなどを使いましょう。(色が濃い・濃厚・番茶色・黄色・赤・・・薄い・水のよう・雑味。酒の特徴があり、気を付ける事)

           玉川上水ー 熊川分水
  

「香」
1)新酒ばな・こうじばなー生・活性・おり酒を好む人もいます。
2)吟醸香ー高度に精白(精米歩合50%以下)作り手の技術を要求されます。
3)老ね香・熟し香ー古酒で特有の香り・ひねすぎ・熟し過ぎ。
4)びん香ーガラスの匂い。逆で2~3年貯蔵し適度の老ね香を付ける酒もある。
5)つわり香ーチーズ・バターなどの香りは、発酵不完全の場合な。
6)火落香ー貯蔵中・びん詰品に細菌が繁殖して生じる香
その他ー酸臭・木香・炭香・油・ゴム・袋・濾過・・・・・。

   仕込み水(地下約150m)                雑蔵・資料館
    

「味」
濃い・薄い・雑味・ごくみ・ガラが悪い・きたない・後味・後味が悪い・ハリがある・甘みが残る・苦みが残る
若い・未熟・荒い・過熟・甘い・すっぱい・しぶい・苦い・ぼけ
香と味の調和・香りと味の不調和・調和取れている・香味良好・・・・・。

お酒・かまぼこ・スープ・清涼飲料、、・口にするもの全て、品質の判定に化学分析を導入研究に時間費用を費しますが、如何しても人間の
「官能」に優る方法は発見されておりませんし永久にないでしょう。
我が国では、大昔から先人達が残してくれました。また、これは「日本の文化」です。

            麦酒釜              麦酒工房
    

「順序」
1)色沢とサエ(透明度)
2)鉄分・過熱・貯蔵・精米歩合・アミノ酸・・・・不調和は、色が濃くなる。
3)青ザエした澄明な酒ー育ちが良い、貯蔵管理が上手い(薄くてうま味が無いのも)
4)サエが悪いーなんとなくスカッとしていない・照りが悪い(精製濾過が不十分な場合・瓶底にオリが生じる場合が)
5)白く濁っている酒は、火落ち(酸敗)の可能性が
味は、口に含んで、多からず少なからずで、試験官は、5mL程度と云う。
人間の舌の部位と味覚は、舌先から甘味・辛味・奥に行って酸味・奥の中央で苦味。
後口さっぱりがー普通は口から吐き出すのですが、喉越しを見るのには飲み込む場合も。

           工場内                古井戸(酒は水が命)
    

「熊川神社」
神社は、福生市熊川にある。創建年代は不詳ながら、礼拝明神社と号し、生石命を神体としていたという歴史あり。
明治3年「熊川神社」と改めている。祭神ー大国主命 ー境内社・琴平神社、稲荷神社、山神社、天神社、八雲神社

祭日ー例祭日9月1日 、社伝によると、夜ごと多摩川に雷光を放ち、のち一老翁が現われ、この付近に守護神ありといって姿を消し、
そこに一個の御神像をみつけ、これを生石命と尊称し、大国主命を祭神として一社を創設したという。
日本古来の漂着神、寄り神信仰の姿を伝えている。
もと礼拝大明神と称していた。都神社名鑑より
                    熊川神社 
    

「奥多摩街道」
奥多摩を走る道筋と勘違いされるが、立川の 日野橋交差点で甲州街道から分岐し、昭島、福生、羽村を経て青梅に至る道筋。
大正 時代の終わり頃からそう呼ばれるようになったと云う。

JR五日市線、拝島駅ー「熊川」ー東秋留ー秋川ー武蔵引田ー武蔵増戸ー武蔵五日市駅

拝島の次の駅であるが無人駅
    

              福生・牛浜駅と米軍横田基地


             国道16号線沿いに米軍横田基地が
   

横田基地の前身は、旧日本陸軍によって建設された航空審査部と航空整備学校などが所在した陸軍多摩飛行場。
1940年、立川基地の陸軍航空技術研究所から独立した飛行実験部が移転し、1942年、飛行実験部は航空審査部となり、全長1,200mの滑走路。
米軍は、1944年後半に始まった航空機による日本本土偵察によって飛行場と1,200mの滑走路の存在を初めて知り、発見の後、アメリカ軍は
その飛行場を「横田」と呼ぶようになったと云う。

玉川上水は「羽村」から 多摩川散歩(24)

2016-02-20 | 気まま旅

「羽村堰」-玉川上水取水堰
1653年丘陵の北東麓を流れる「多摩川」の曲流を利用してつくられた「水門」。(現在は、上流の小河内ダムで堰と羽村堰)
多摩湖・狭山湖への水を導入し都の多摩川給水系の取入れ口となっている。

「玉川庄右衛門・清右衛門兄弟」
玉川兄弟-は、江戸時代。兄は庄右衛門・1622 -1695・弟は、清右衛門は、、生年不明 -1696。
多摩川沿いの地域の農家であったとの説が有力、1653年から54年にかけて玉川上水の開削の指揮をとったことで知られる兄弟。

上水工事は2度失敗。
一回目は、日野を取水口としたとき、地面に水が吸い込まれてしまう「水喰土」、
2回目は、福生を取水口としたとき、工事の途中岩盤に当たってしまったことで、水喰土の失敗跡は今でも残されていると云う。
1653年、から工事が行われ、1654年までに開通したとある。
これにより兄弟は、「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理も玉川家の世襲とされたが、1739年、に職を剥奪される。
(兄弟の墓所は台東区の聖徳寺にある)



慶長8 年の1603年、江戸幕府開設後、三代将軍徳川家光の時代(1623)に、江戸の町・城造りは完成します。が、急激な人口の増加により、
神田上水(井の頭池が水源)や溜池上水(赤坂の溜池が水源)だけでは増大する水の需要に対応できなくなり、
四代将軍家綱の時代、承応2年の1653年、に多摩川の水を江戸に引き入れるという壮大な計画を立案した町人が 庄右衛門・清右衛門兄弟の
設計書を採用し、工事を請け負わせた。
1653年、4 月ーの着工後わずか8 ヶ月で羽村取水口から四谷大木戸までの43 kmの白掘が完成し、翌年1654年、には石樋・木樋(石や木で出来
た配水管)で四谷・赤坂・芝・京橋などの東京南西部一帯に給水し、その後、給水先が順次拡大し、青山上水・三田上水・仙川上水などの水源に。
江戸は百万都市といわれますが、玉川上水は水という最も重要な基盤の一つで江戸の町を支えて来ました。



取水堰とは川を堰き止めて水を引き込むもの。
ダムのように完全に堰き止めるのでなく丸太・板などによってかなりの水量を漏らしながら取り込むようになっている。
江戸当初からの方法が今でも活かされていると云う。
更にはこの場所は上流の材木を下流に流す要所でもあり、そのための場所も確保され、当時の位置と技術は基本的には変わらず受け継がれている。
第一水門は二種類の構造形式で構成されていて、手前の水門はこの中では新しい。
レンガによる組積造で櫛形アーチで掛け渡されたものが並んで、吐出門も古い取入れ門と同時期のもの、アーチ形式の石造である。

    

江戸開幕から50年後の1653年、
羽村の取水堰から江戸(新宿の四ッ谷大木戸)までの43kmに掘割(玉川上水)が造られ、多摩川の水が江戸住民の生活用水として使われた。
関東平野への分水路(野火止用水等)も造られ江戸の農業発展の礎とに。



牛枠(川倉水制)ー看板引用ー
昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。
そうした治水の技術のひとつが、水の勢いを弱め、堤防が壊れるのを防ぐ「川倉」です。
かたちが馬の背中に似ているところから「川鞍」と名付けられ、のちに「川倉」と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、
最も一般的なものは「牛枠」といわれています。  
「牛枠」は、堤防に植えた河畔林を切り出し組み立てます。
木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川底の玉石を詰めた蛇籠で固定します。
堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。  
かつて「牛枠」のほかにも、「聖牛」・「笈牛」・「鳥脚」などの「川倉」があり、あちこちの川で働いていました。
しかし今日では、ほとんどその姿を見ることができなくなっています。



「羽村堰下橋」歩道橋
長さー 267m・幅ー 2.10m・竣工は、1979年・合流からの距離ー 57.84km・上流の橋からの間隔 2.34 km
北詰ー西詰 羽村市羽・南詰ー東詰 羽村市玉川
                                     奥の橋は、羽村大橋


「羽村・どんど焼き」
ワラや竹で作った小屋のまわりに、正月のお飾りなどを積んで焼き、その火で餅や団子を焼いて食べ、一年間の無病息災を願う伝承行事。
日時ー1月11日、午前8時(午前8時30分点火予定との事・荒天の場合は17日)

 三つの小山に点火される。      地元の関係者               桜並木が


玉川上水                    多摩川             天然記念物の欅


市指定史跡ー伝 三田雅楽之助平将定等の墓がある。
五輪塔、伊奈石で江戸初期に作られたものと思われ、1424年、に一峰院を開いた三田雅楽之助平将定等の墓といわれている。
中央にある宝篋印塔は、室町後期の様式を残していると云う。
一峰院の縁起によれば、中世に青梅地方を支配した豪族三田氏の一門で、羽村に関係深い武将であったと云う。
今回は、記事のみとします。
                                          羽村動物園前
    

羽村駅から約1.5kmに「羽村動物園」がある。
ここは、1945年9月、「米戦艦ミズーリ号」上で日本は無条件降伏文書に調印し、太平洋戦争が終結。
それからほぼ一年後の1946年9月、進駐軍により占領された日本で「アメリカンスクール」が三校開校した。
三校とは、埼玉県のジョンソン小学校(現在航空自衛隊入間基地)、東京の目黒小学校(1952年に返還)、横田小学校である。
「横田小学校」
米軍は1945年9月、埼玉県にあった旧陸軍豊岡士官学校を接収、当時25歳の若さで亡くなった英雄Gerald Johnson大佐を偲び
翌年2月にジョンソン基地と名付けられ、その施設は1973年日本に返還されている。
現在航空自衛隊入間基地となっている。施設の日本への返還に伴い1946年9月開校したージョンソン小学校は、1973年閉校。
当時のジョンソン扶養家族学校、後にヒルトップという名前で呼ばれた地域である。

管理ー金沢八景園
飼育動物は、キリン・ビーバーアライクマ・レッツサーパンダ・オオカミ・トナカイ・マントヒヒ・クジャク・ダチョウ・コンドル
      ニシキヘビなど。

入園料ー75歳以上は無料。
                    本日は、休園(月)
    

次回は、次の駅「福生駅」へ。