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小田原 春日局ー足柄の旅11

2016-07-16 | 気まま旅
「石垣山一夜城」は、1589年 北条氏は「真田昌幸公」の名胡桃城を攻めます。これが、秀吉公の小田原攻めのきっかけを与えてしまいます。
その後、小田原攻めの準備は着々と進み、2月には徳川家康公、が先発隊を出陣させます。
この段階で北条氏がもくろんでいた三国同盟の一角はくずれます。4月には秀吉公は小田原城を包囲します。

                         石垣山登り口
  

氏政公の弟氏照公の居城八王子城も落城します、北条氏が誇る支城システムは完全崩壊します。

「小田原評定」、1590年、北条氏は城の中で毎日毎日戦いを続けるか降伏するか、会議を開き意見がまとまらず日時が過ぎていた。
        小田原相談、評議、談合ともいう。

石垣の上に生えた樹木
  

四方を完全に包囲されてしまい、毛利水軍や長曽我部水軍や九鬼水軍が海からの包囲を実現。その軍勢総数20万と云われている。
北条は、抜け出る隙間もなく、完全包囲の結果、北条が誇る支城システムも機能せず、各個撃破されてしまう。

            石垣山天守閣辺りからの小田原城方面
    

6月に、伊達正宗公、秀吉の陣に到着。これには北条側もがっくりです、軍事的にも後詰のない篭城は城兵の希望もなくなり士気が喪失されてしまい、伊達氏が北方から援護してくれることをひそかに期待していた。北条氏側はその思惑の甘さにがあったようです。
北条早雲公から5代100年の歴史がここに幕を閉じます。

「小田原早雲寺」は、箱根町湯本、山号 金湯山、宗派 臨済宗大徳寺派、本尊 釈迦如来(坐像)、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊。
創建 1521年、開山 以天宗清、開基は、北条氏綱、 文化財ー絹本淡彩北条早雲像。

湯本早雲寺                      厚い石畳
  

1521年、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建。
1590年、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。
北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の 1627年、僧・菊径宗存により再建。
1648年、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興。

    

早雲寺境内にある北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓所は、江戸時代の1672年に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、北条早雲命日の8月15日に建立した供養塔がある。
氏綱墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に、氏康墓所は大聖院に葬られたが、豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、その位置は不明となっている。

  

小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇がおこっています、 千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられている。

早雲寺正面                       梅が咲き始めている(2/11撮影)


「山上宗二」は、秀吉公から、家を横領するばかりか、故主の妹御までも横領した。と罵倒したことで、茶頭を解かれ追放されている。
宗二は、流浪の身となり徳川家康や佐々成政を頼り、各地を放浪し、天正十六年に北条氏政の招きで、小田原城に赴いていた。
天正十八年、小田原攻めの本陣がある「早雲寺」に、千利休が滞在していることを知らされた宗二は、密かに早雲寺を訪れて利休と再会。
この時、利休の取り成しで秀吉の勘気を解かれた宗二は、茶会の席で暴言を吐いた。
「鶴を得て、更に楢柴を得るため、民の苦しみを顧みず兵を興した。こたびは関八州と云う名物を得るため、幼主を掲げて下向してきた」

罵詈雑言に慣れている秀吉も、国土から争いを無くし、民の安寧を願い、天下の仕置きを理解しない宗二を生かしては置けなかった。
・・小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給せし・・と、長闇堂記は伝えている。

愛弟子を残酷な刑で処刑された千利休は、嘆きを抑えて仕候しており、秀吉は利休の立場を思いやって、笠懸山での茶会を催したという。


                              マンサク
  

「長興山の紹太寺」は、箱根登山鉄道、湯本駅一つ手前の「入生田駅」に近い、稲葉正則が形見に植えた「しだれ桜」で知られている寺。
宗派 禅宗、開山 鉄牛和尚ー大慈普応禅師、本尊 釈迦如来、開基 稲葉美濃守正則、本山 京都万福寺。



小田原藩主、稲葉氏一族菩提寺、小田原城内にあったが二代目正則が1669年移建させ、父母祖母「春日局」の霊を弔った。
その当時は、東西14町70間、南北10町16間の広大な寺域に7堂と云う。

  

稲葉正則の「春を忘れぬ形見・しだれ桜」は、樹齢340年樹高13m、4月上旬開花する。

「春日局」1578-1643 明智光秀の重臣斉藤利光の娘、徳川三代将軍家光の乳母、山崎の合戦で父討死し辛い少女時代を過ごす
稲葉正成に嫁ぎ4男をも受け離婚、26歳で乳母に、家光の信任を受け大奥の実力者に、実子稲葉正勝は、春日局で老中に。

  

重要文化財ー稲葉一族と春日局の墓、鉄牛和尚の寿塔、しだれ桜、であるが、鉄牛和尚の血書(自らの血で書いたという大乗経10余巻と
釈迦如来像を製作している。
                            春を待つしだれ桜
  

稲葉一族の墓所は、長興山(標高209m)の中腹にある。東西約20m、南北約9mの長方形で、三面を低い石垣で山際を区切り、堂々とした8基の墓石が横に並んでいる。
墓石は、正面向かって左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、
稲葉丹後守正通の後室、稲葉美濃守正則の長兄、塚田木工助正家の墓および供養塔となっている。
塚田正家は、丹後守正勝の近臣で、正勝の一周忌に殉死し、忠節をたたえ藩主の墓地に葬られたという。

稲葉氏は、1632年から1685年まで、正勝・正則・正通の三代約50年間、小田原城主。

  

鉄牛和尚は、長興山紹太寺の開山第一祖で、臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺の隠元禅師に師事したが、1669年 長興山開発のため、稲葉正則に招かれ小田原に来て、紹太寺の開山となる。
1700年に死去しましたが、1712年の13回忌に朝廷から生前の功績をたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜わった高僧。

寿塔は、貞享4年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹太寺二世であった超宗和尚が建立した。
    

次回は、下曽我へ

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