伊豆高原 向いが大島
城山公園は館山市街の南側丘陵にある。この地にはかつて戦国時代の武将、里見氏の居城があり、公園内には、椿・梅・桜・ツツジ等の花木が小径をうずめ、季節に合わせて見事に咲き誇ります。
山頂には天守からの眺めが楽しめる三層四階天守閣様式の館山城(八犬伝博物館)、中腹の館山市立博物館本館と併せて歴史の散策が楽しめます。
また、頂上付近には万葉集にも詠まれた植物を小径に集めた万葉の径や、桜・楓・松・梅などを配植し、白砂利の枯山水、小流れなどを設けた日本庭園と茶室があり、茶会等に利用することができます。
県南部房総半島西・東京湾入口にある湾入と「鏡ヶ浦・北条海岸」が。
安房地方の政治・経済・文化の中心都市「館山」
古代には、阿波国造の支配地・中世には、「里見氏」が勢力を伸ばす。
1590年9代「里見義康」築城ー1614年移付により幕府直轄旗本領に。
館内には、「里見八犬伝」の資料展示。
里見氏9代・義康の御殿跡の前を通って、 「八遺臣の墓」を探しながら、坂道を下りて行きます。
分かり辛い「八遺臣の墓」の案内標識に従って行くと、急な坂道の途中に、苔むした「八遺臣の墓」がひっそりとありました。
1622年、最後の当主・里見忠義が鳥取県倉吉で没した際に、8人の家臣が殉死しました。
その8人の家臣の遺骨を分骨し、ここに供養したのだそうです。
この殉死した8人の家臣が、曲亭馬琴の「南総 里見八犬伝」の「八犬士」のモデルになった そうです。
「八犬伝」の最初は、史実の通り、里見氏・初代の義実の安房への入国の物語に始まります。
しかし、江戸時代になって、里見家には内紛が発生したため、幕府に目を付けられ、伯耆国 (鳥取県)倉吉へ転封になります。
千葉県市川市国府台の「里見公園」
「江戸川を挟んで里見軍と小田原北条の激戦地」
「里見公園」は、市川市国府台にある市立公園。
春の花見の名所 として知られる。面積8.2haと広い。
江戸川の流れを見下ろす高台にあるため、江戸川、東京 東部の市街、富士山等山々の眺望に優れている。
15世紀に、この地に太田道灌が仮陣を建設し、それが「里見城」と変わっていく。
公園入口の桜並木 満開時は桜のトンネルに
北条軍の反撃
この勝利に気をよくした里見義弘は出陣が正月早々であった事を配慮して兵士たちに酒を振舞う。だが、遠山・富永の早い段階での潰走によって主力を結果的に温存する事になった北条軍は撤退したと見せかけて、翌8日未明に再度江戸川を渡って里見軍に夜襲をかけたのである。酒宴の後の里見軍は大混乱に陥った。更に北条軍の工作で里見軍の主力である土岐為頼(一説には義弘の外祖父ともいう)が義弘を裏切って戦場を離反、筆頭重臣正木信茂は戦死し[3]、義弘は同じく重臣の安西実元が身代わりとなり、合戦直前に里見側に寝返ったために戦場に遅参してきた土気城主酒井胤治に救出されてやっとのことで戦場を脱出したのである。
近年の再検証
近年になり、こうした合戦の経過記録は永禄6年1月の戦いと翌永禄7年1月の戦いが混同されて出来上がったものであるとの考えが有力視されている。6年にも本格的な戦闘があったとする史料の存在が明らかになり、従来は7年のものの誤記と考えられてきた記録も、単純に誤記と信じるわけには行かなくなったからである。 1月8日未明の奇襲については永禄6年とする記録があることに加えて、現存する北条氏による発給文書において永禄7年の戦いで里見軍を潰走させた日付を2月18日としているものが存在する。
戦後 いずれにしろ、永禄7年の戦いの後、北条軍は一気に上総にまで進出して、土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させた。だが、苦境に立った里見軍は却って積極的な軍事行動によって北条軍を牽制した。そして三船山の合戦での勝利により北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、両氏の戦況は再び膠着するのである。
小田原北条氏と里見氏の確執の場、数次に渡る激しい戦いがあった。 国府台は江戸という肥沃で広大な平野を一望に見渡せる重要な戦略拠点。この台地をめぐって何度も血腥い争いが繰り広げられた。
中でも有名な戦いは、天文7年(1538年)の第一次国府台の合戦、永禄7年(1564年)の第二次国府台の合戦である
国府台城址の碑
第二次国府台の戦い
第二次国府台の戦いは、里見義弘(義尭の子)・太田資正の連合軍と、北条氏康(早雲の孫)の間で繰り広げられた。
緒戦は里見軍が勝った。思い通りの用兵と要害に拠り闘う利点が功を奏したのだろう。
里見義弘はその夜、戦勝祝いの酒を酌み交わしていた。しかし北条軍は、勝利の美酒に酔いしれる里見軍に気づかれることなく密かに部隊を展開していた。そしてその夜の内に里見軍を包囲してしまっていたのだ。
翌朝、夜明けとともに北条軍は里見の陣になだれ込んだ。狼狽した里見軍は、甲冑をつけることも太刀を取ることも適わず、名ある将兵が次々と討ち取られていった。義明自身も乗馬を撃たれて、部下の馬に跨って這々の体で戦場から離脱したという。
この2回の戦いで多くの将兵が討死にした。今でも土を掘り返すと茶碗のかけらや、武具の切れ端が見つかることがある。
里見公園内には戦死した将兵の霊を鎮める江戸時代の石碑が建っている。江戸川を見渡す崖のあたりは樹木がうっそうと繁り、今にも箙に矢を立てた血まみれの鎧武者が現れそうだ。夜中になると泣き声が聞こえるという言い伝えの石もある。
公園には大勢の人が歩いている
僅かに残る土塁・堀跡 郭跡 第二次国府台合戦で敗死「里見広次」か?
「夜泣き石」里見広次の娘が、石にもたれ、泣き続け、息絶えてから、夜な夜な、泣き声が、もたれた石から聞えていたという。
また、里見諸将霊碑もある。この城で5000人以上の死者が出たという。供養とも最近立てられたという。
物見櫓台跡がある 里見軍は、北条軍を江戸川で向かい討ち決戦の場に
「北原白秋」 (旧宅の紫苑草舎が)1885-1942 与謝野鉄幹に不満で「明星」を退き、「パンの会」結成、「邪宗門」「思い出」
「桐の花」抒情詩人と云われ民衆に親しまれて。「赤い鳥」で詩と音楽に著作200冊に上る。福岡出身。
白秋の旧家が展示されている 国府台城内の中心であったと思う
石垣が、 日中でも寂しい本丸付近、 伝説、夜泣き石の有る所
太田道灌が築城工事中、出土したと伝わる「明戸古墳跡と石棺」
里見広次・正木内膳らを始め5千の戦死者を出し、里見義弘 は安房に敗走。
以後、この地域は北条氏の支配を受け、1590年に 徳川家康が関東を治めると国府台城は廃城となった。
その後明治に入り、新政府軍の陸軍教導団 が移った。
「羅漢の井戸」 国府台城の飲み水場であったようだ、今も湧水が出ている飲用は出来ない。
里見公園の裏階段を下りると 江戸川、 「羅漢の井戸」
「矢切りの渡し」付近は、戦国時代、北条氏と里見氏による「国府台合戦」の戦場となった場所であり、この付近から市川市国府台付近にかけては同合戦にちなむ伝説や史跡が多く伝わっている。
又、「江戸川」は、東北地方や北関東からの物資を涸沼・霞ヶ浦・銚子から利根川経由で江戸へと運ぶ流通幹線。
房総半島を周回する海路よりも距離が短く安全性も高かった。江戸川周辺からも、野田の醤油、流山のみりんなどが産物として江戸に運ばれ、
重要な川。歴史もあり、古くは、太日川・太日河と呼ばれ、渡良瀬川の下流部で、利根川とは別に江戸湾へと流れている。
更級日記、吾妻鏡、義経記などにも「太日川」を渡ると云う述が見られる。
矢切りの渡しで 向かい側は、、葛飾柴又へ
千葉県は、縄文時代の貝塚、加曾利・そん生、弥生時代の田子台・山木古墳、古墳期の姫塚・金鈴塚・内裏塚等が知られ、708年には、
「上毛野朝臣安麻呂を上総守」・「下総守に賀茂朝臣吉備麻呂」に任じている。
718年、上総国に安房国を設置され、757年に、房総は安房と上総と下総の3国に定めている。
1128年には、「千葉常重」が千葉城を築城。1222年「日蓮上人」安房国に誕生。1260年日蓮「立正安国論」。
1453年には、「千葉胤直など一族自害」。1538年「後・北条氏綱、氏康が足利義明、里見義尭連合軍を江戸川国府台で破る。
1590年には、利根川16島の新田開発が行われている。
県も、千葉市・成田・木更津、君津産業三角構想で道路などは整備されいるが、北太平洋側の館山・鴨川・勝浦・茂原は、遅れた地域。
「房州よいとこ」
房州よいとこ 南を受けてよ ショコ ショコ ショコ ヤレサノサ
夏は そよ風 袂を払い 冬も菜種の花が咲く おおさ菜種の花が咲く
房州よいとこ 大波小波よ ショコ ショコ ショコ ヤレサノサ
沖のカモメが 夕日に舞えば 音頭勇まし カツオ船 おおさ勇まし カツオ船
鴨川市太海(安房鴨川駅一つ手前で、太海駅は、内房線)
内房線ー太海駅から歩いて2分・山号・西福山 「宝光寺」 境内に慈母観音菩薩像
宝光寺は、曹洞宗の寺。
曹洞宗は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、 日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。
本堂
「太海村社・香指神社」
祭神は、弟橘媛。東京湾一帯で信仰され、海に関係のある「オトタチバナヒメ」を遠い昔に氏神として祀り鎮座、村の安泰を願った。
境内には縄文時代の遺物を包蔵する浅い洞窟があり、香指神社遺跡と呼ばれ、歴史を感じる。
狛犬は、伝武田石翁の作で、境内からは、太海の海岸、仁右衛門島が一望。
「太海村香指神社海岸夏祭り」
毎年7月下旬に開催される。
神社例祭。太海・太海浜の両地区から伝統的な船形屋台や神輿が出され、練り歩く。
岩場が続く印象的な海岸線の町が、毎年多くの人々で賑わうと云う。
「南房総国定公園」
県南部、房総半島南部に位置する国定公園。1958年(昭和33年)指定。
大半を海岸部が占めるが、飛び地的に内陸部にも指定地があるのが特徴。
海岸部は内房の富津岬から外房の太東崎までの海岸線が指定されており、勝浦は海域公園(旧:海中公園)が指定。
一帯には砂浜が多く、首都圏にも近いことから、海水浴場や別荘地、マリンリゾートとしての発達を見せ、気候が温暖なことから花卉栽培も盛んで、
花畑が多い。
内陸部では鹿野山と清澄山が指定され県立自然公園から格上げされた。
釣り宿の「こはら荘」宿泊・1万以下で2食付き、魚料理中心。
太海海岸に、ぽっかり浮かぶやく30000m2の島「仁右衛門島」
源頼朝隠れ岩・日蓮聖人の伝説の島
僅か2~3分の乗船で
歌・句碑を読みながら美しい自然に触れながら散策
以下の記事は、「千葉県内房の旅ー源頼朝」2013年6月8日掲載分の一部です。(参考までに)
「吾妻鏡」では、(現代語)
治承四年(1180)九月大一日庚戌。頼朝様が上総介廣常の屋敷に行こうと言い出しました。北條時政殿始め面々はそうすべきだと云いました。安房国の安西景益は頼朝様の子供の頃に特に仲良くしていた人なので、最初に手紙を出しました。その内容は、「令旨は間違いなく従うべきなので、国衙に勤める在庁官人を同行して参上しなさい。又安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来なさい。」と
ある。
1180年、「石橋山の戦い」に敗れた源頼朝は箱根別当にかくまわれた後、真鶴町から出航。安房国平北郡猟島、ここ「竜島付近」に到着。
ここから再起を図った。頼朝上陸の碑が、竜島海岸に建立され、同地は、県の史跡に指定。
最初に頼朝のもとに参じた「安西景益」は、安房国の住人で、幼少時の頼朝に仕えていたという。
道路と砂浜の間に「源頼朝上陸の碑」が
「竜島」は、昔、島。北端の富津市との境に霊場で知られる鋸山がある。
南端には浦賀水道に突き出た西ヶ崎、海岸線は起伏に富んでおり、保田、勝山などの漁港、又勝山沖には浮島などの島、岩礁も多い。
内陸の山間部は房総丘陵の一部を形作っている。
勝山海水浴場は、入り江の奥にある静かな砂浜と小さな島が並ん人気がある。
昔は「竜島」で小さな島であった。
「キンギンナスビ(金銀茄子)」
ナス科 ナス属、草丈50~100cmの1年草。帰化。
茎は枝分かれし、基部は木質化し、鋭い刺が密生、葉は互生し、卵円形で長さ幅とも6~15cm。縁は3~5に浅~中裂し、両面に剛毛が生え、
葉脈上にまばらに刺がある。
花は茎の途中から短い枝を出し、総状に1~5花つける。花冠は白色で、径約2cm、5裂して皿状に開き、果実(液果)は球形で、径2~3cm。
初めは白色で緑色の縞があるが、その後赤く熟する。
分布・生育地ー 帰化(熱帯アメリカ原産)・本州(関東地方南部)~沖縄 路傍、荒地・•花期ー7~9月(南方では1年中?)。
仁右衛門島は、四季の花の絶える事無く、特に「キンギンナスビ」という珍しい植物がある。
「島主、平野仁右衛門さん」
島主、平野仁右衛門さんは、代々、仁右衛門を名のり、県指定の名勝地・仁右衛門島(3万平方米)に観光をなりわいとして暮らしていると云う。
38代(推定と云う)一つの島に住みつづけ、島には数々の伝説があるが、1703年に、鴨川を襲った大津波で、系図、古文書等がほとんど流失したという。
島には、伊豆・石橋山の戦いに敗れ、逃れてきた源頼朝を一晩匿かくまったといわれる「かくれ穴」や、日蓮上人にまつわる話が伝わっている。
近年、千葉県史研究財団の人が島を調査し、わずかに残っている島の資料から、上人が名を成した後にも、仁右衛門島を訪れた形跡があると云う。
日蓮上人は、地元鴨川市の生まれ、平野家は元来天台宗であったが、後に日蓮宗に改宗したという。
仁右衛門さんの父上は「将来はお前の好きなことをやれ」と言ってくれたという。
当時海軍であった仁右衛門さんは、商売が苦手にがてで、海軍工場の経理の仕事を望んでいたが終戦を迎え、 仁右衛門島を継ぐことになった時。
なるべく近代化しないで、頼朝の頃からの自然を残すことで、自然を守ること。
島は一枚岩で、水はすべて雨水にたより、台風が来れば目と鼻の先の対岸へ渡し船を出すことができないため、平野家の子供たちは学校の皆勤賞がもらえない、、、、。
島主の大切な仕事は、毎日波を観察し、防波壁を越えてくる波も、波の腰を折り、うまく誘導する設計になっていると云う。
火防のために、常緑樹やアロエなどを増やし、燃えやすい茅かやなどを減らし、花好きの奥さんが島中に花を植える。
1704年に建て直した家屋に住み、建物を観光客にも公開していると云う。
三笠宮殿下・皇太子殿下・義宮常陸宮殿下の記念碑
「弁天道」には、「富安風生句碑・岡本眸句碑・芭蕉塚・源講修歌碑・鈴木直砂女句碑・小林秀穂女句碑・水原秋桜子句碑・小出秋光句碑」
等が点在している。
一人¥1350(往復)
「富安 風生」1885ー1979年
愛知県出身の俳人、本名は謙次。高浜虚子に師事。
逓信省に勤めながら 俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。
初渚ふみ 齢を愛し けけ
海暮れて 鴨の聲 ほの可尓白しー芭蕉句碑
鈴木直砂女句碑
あるときは 船より高き 卯波かな
展望台・見晴らし台・舟の着船場・海水浴場・休憩場・全島釣り場である。
「日蓮」開祖 1222-82 安房の生まれ、故郷の天津・摩尼山「清澄寺」で出家。鎌倉に出て「立正安国論」を書く。
日蓮と神楽岩ー聖人霊地
「源頼朝」武家政治の創始者 1147-99
鎌倉幕府の初代将軍、源義朝の嫡男、母は、熱田大宮司藤原季範の娘。平清盛に敗れ、義朝は殺され・頼朝は伊豆に流された。
20余年流入生活。治承4年「以仁王」の令旨を受け挙兵するが、小田原早川石橋山の戦いで「大庭景親」に敗れ、房総に逃れ、ここで武士を集め
鎌倉に入る。次いで「富士川の戦い」で平家方を敗走させ、常陸の「佐竹氏」を討ち関東を固める。
頼朝は、少年時代の平治の乱後、一人で関ケ原をさまよっているところを捕えられたが、清盛の継母「池禅尼」は、我が子の「家盛」の生き写しの
頼朝を見て、清盛に命乞いをしている。
平家を滅ばした頼朝は、「池禅尼」の実子(清盛の異母弟)平頼盛の所領を安堵し、大納言に還任させ、禅尼の恩に報いたと云う。
1180年、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に流れて来た時、夜襲を避けて、身を潜めたと伝わる「洞窟」がここ、「正一位稲荷大明神」
が祀られている。上方には、維新前黒船渡来時、砲台を築いたところでもあり、弁財天・稲荷神社等江戸時代から祀られていると云う。
水原秋桜子句碑 巌毎に 怒涛を あけぬ
春の虹立つや 雨雲ひくき 汐の列
冬凪きて 岩壁映ゆる 夕焼雲 など。
江見・太海地区は、観光と花畑の広がる海沿いの街と太海には、城西国際大学や早稲田大学もあり,近年は文教地域でもある。
磯釣りでも知られ、岩肌が険しく、亀岩から大小の岩が飛び石のように連なっている。