駅東口の飲食店街「すしや横丁」は、1962年の昭和37年、有楽町駅前整備の都市計画によって撤去。
昭和38年、都と三菱地所の共同出資による株式会社東京交通会館が創立され、昭和40年、回転展望レストランを備えた交通会館ビルが完成している。
戦争終了後は、対米友好感情の醸成と日本国民への啓蒙宣伝活動の一環として、アメリカ文化の象徴する映画が日本に流入。
銀座・日比谷映画や有楽座、スカラ座など主要な映画会社の看板館が集中し、洋画ロードショーのメッカとして、多くの観客を集めた。
「有楽町映画街は黄金時代」を迎え、日活、東宝、新東宝など日本の映画産業業界の大手6社の本社が有楽町に集中。
昭和30年代前半、これら6社は、毎週2本立ての新作映画によって興行を続ける体制をとり、激しい映画の大量生産競争を繰り広げる。
現在の新橋演舞場ビル
新橋演舞場は、大正14。12月演舞場に出向いた。今日の出し物はベテラン歌手の芝居と歌。
京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという「川村徳太郎(芸者屋屋号森川家)」の発案で、
五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源。
当時、東京市京橋区・(現在の中央区銀座6丁目)場所は、偶然にも「芝居狂言・加賀見山旧錦絵」のお初が、主人尾上の敵である岩藤を討った松平周防守の下屋敷跡、建設以前は、狭い川に面した荒れ果てた空き地で、草木もうっそうと茂り、夜は道行く人も珍しい実に不気味なところだったという。
そこに、定員1,679人の三階建ての立派な劇場が建てられた。
大正12、その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプニングも、が、20ヶ月にわたる全工事を完了し開場に。
当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。昭和15、新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場。
観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新國劇、前進座を演舞場のカラーとして 今に。
第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。
昭和23、復興し、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなり、昭和57年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場。
「歌舞伎座」
地下鉄日比谷線・東銀座駅にある。1889年の明治22年ー福地源一郎と金融千葉氏によって開場している。
木挽町の地に誕生し、歌舞伎の殿堂として明治、大正、昭和、平成にわたって、古典演劇としての洗練を極めると共にその時代 の息吹を取り入れた舞台を上演し続けてきた。また、その間には幾度もの災禍を乗り越え、力強く復興を果たしてまいりました。
歌舞伎座の歩みは、まさに近代日本の演劇史そのもので、平成25、第五期となる歌舞伎座が開場し、現在も賑わいをみせている。