syuの日記・気まま旅

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南部氏  盛岡城築城  東北の旅14

2015-11-28 | 気まま旅
東北の旅の続きに戻ります。

「日本紀略」
坂上田村麻呂がー802年ーに陸奥国「胆沢城」を造るために征服地に派遣されたことを伝える。
征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任、東国の10か国、「駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国」の浪人4000人を「胆沢城」に配する勅が出された。田村麻呂は、蝦夷の指導者アテルイの降伏を報じたとある。
新征服地の城としては、翌年これより北に「志波城」が築かれた。
志波城の方が規模が大きく、当初はさらなる征討のため「志波城」を主要拠点にするつもりだったと推測される。
が、征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいでー812年ー頃に小さな徳丹城に移転。
これによって後方にある「胆沢城」が最重要視されるようになる。
9世紀初めに鎮守府が国府がある「多賀城」から「胆沢城」に移転し、(年は不明)

(802年~812年の間)「日本後紀」-808年ーこの時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。

「南部氏」-陸奥の武家で本姓は源氏。
本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。
南部氏初代の「南部光行」は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、平安時代から平安時代末期に活躍した武将。

       黒源太清光の子孫、甲斐源氏・加賀美遠光の流れを汲む。


「安倍 貞任」1019-1062・安倍頼時の次男。「源頼義」奥州へー前9年の役開始ー 安倍貞任と源義家は、奥州を二分して戦うー天然の要害・北上川支流「衣川」
「源義家」-頼義の長男、後三年の役起こす(朝廷は私戦と見なしたー吹く風を、、、)

「厨川柵」
岩手県盛岡市の西にあったと言われている。
平安時代の奥六郡のうちの岩手郡に存在した安倍氏の柵の一つで、現在の岩手県 盛岡市の西方にあったと考えられている。
厨川柵は、安倍頼時の次男ー安倍貞任の拠点。
安倍貞任の城・北上川流域に広大な支配地ををもつ安倍氏の 最北端の拠点ー安倍貞任が 拠点にー
盛岡市安部館町に所在したと考えられている。
「嫗戸柵」は、 厨川柵とともに安倍氏最北の重要拠点と考えられ 北上川の段丘上に所在していたと云う。

「源義家」 1039-1106 ー吹くかぜをなこその関と思へども道もせに散る山桜かなーと詠んだ武将。
頼義の長男で前9年の役で奮戦、後「陸奥守鎮守府将軍」・3年の役ーを起こす。

安倍頼時ー安倍貞任(頼時の次男)
     藤原経清(奥州藤原氏祖)・妻(安倍頼時の娘)-藤原清衡(二代目母の連れ子・源義家と結ぶ、中尊寺建立)
     藤原秀衡(三代目源義経保護するが病没)-藤原泰衡(四代目義経攻め滅ぼすが、頼朝に征討され、逃亡途中で家臣に殺される)

「桜山神社」
南部信直公と盛岡城の築城ー1591年ー
信直公は、浅野長政らの助言に従い、この地に新しい城を築く決心を固めました。
この地は北上川と中津川の合流点に近く、城を築くには格好の場所。
慶長二年の1597年ー築城の地鎮祭「鍬初」が行われ、不来方の地名を森ヶ岡、後に盛岡と改めている。

創建、1749年 祭神 南部光行(開祖)・信直(盛岡藩初代)・利直(三代)・利敬(十一代)
    

社殿は、盛岡城三の丸跡。
南部藩の総鎮守として信仰され、国の重要文化財に指定される南北朝時代初期の国長作の刀が所蔵されている。

毎年5月(3日間)「例大祭」
神輿が騎馬武者に先導されて盛岡市内を練り歩く。
1月26日に開催される伝統行事裸参りは、盛岡の冬の風物詩として有名。

    

                   佐倉山神社  本殿


1590年、南部家中興の祖とも呼ばれる「南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)」

豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から宇都宮において、南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、志和郡、そして遠野保)についての覚書の朱印状を得、豊臣大名として公認。

1591年、九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが
「津軽為信」に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、
9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっており、
「蒲生氏郷」や「浅野長政」より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年の1592年、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。

「烏帽子岩・兜岩」
本殿横に巨石がある。城築城時出現。
南部利直公は、この岩石を「瑞兆」を慶び、歴代藩主の「宝大石」として祀られてきたと云う。

    

「盛岡城跡」 南部氏の居城
城郭は、中津川・旧北上川に接し花崗岩の孤立丘上につくられた平山城。
濠と石垣がバランスよく配置し、内丸地区(旧重臣屋敷地域)に官庁街になっている。

    

盛岡市の市章は、「違菱」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の
家紋「菱」を連想させるもの、市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代
南部家で使われていたものと言われている。

    

「南部信直」 1546-1599  豊臣秀吉に通じた東北の南部名族・26代当主・三戸城主。
石川高信の長男、宗家晴継の後。安藤愛季・津軽為信・九戸政実と戦う。豊臣秀吉に通じ「小田原征伐・朝鮮出兵」従軍した。
情報が第一・京都の鷹商から豊臣秀吉の権勢を知った南部信直は、即使者を探すが適任者おらず、これを哀れに思った鷹商は、信直から家人
数名を借り受け自ら使者になり秀吉に、南部信直は秀吉から後援を得て劣勢を挽回する。
一介の商人の情報と協力のお蔭と言える。

   不来方のお城の草に寝ころびて空に吸い込まれし15の心ー(啄木)の碑が
    

盛岡城は1597年、に鋤初めすきはじめ(起工)をしたと伝えられ、翌3年に豊臣秀吉の許可を得て本格的築城が始められた。
本丸・二の丸・三の丸を中心に、腰曲輪(淡路丸)や榊山曲輪などの平坦部が配置されている。

                    盛岡城の別名「不来方城」
  

時を知らせるため、時鐘が設置、鐘は、外堀の土塁上にあった。1679年、に鋳造された鐘と云う。
三の丸北側、桝形門そばの堀と土塁で、烏帽子岩の三の丸跡、公園の北入口にそびえたつ巨大な岩石。
城地を削って三の丸を整地しているとき、烏帽子に似た岩石が出現している。

  

江戸時代の1615年、総石垣の城として完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。
利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在、桜山神社の社宝として崇敬されている。
築城と共に城下町の建設を進め、中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地とし、
中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋された。
1609年、「上ノ橋」に、1611年、には「中ノ橋」に、それぞれ城下町建設を記念して、旧府・三戸から移された青銅製の擬宝珠が付けられたと云う。
上ノ橋の擬宝珠は、国の重要美術品に認定、城の全城が竣工したのは3代藩主重直の時代、1633年。
翌年の1634年、失火により本丸を焼失し、一時、「福岡城(九戸城)」を居城。
翌年の1635年、修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えた。

    

「日影門外小路」
内丸の西門にあたる日影御門(現在の北日本銀行本店)
日影御門の外,四ツ家町に至る一画を日影門外小路と称し、中下級の武士が住んでいた。
盛岡城下の草創期には,三戸から移って来た人々が住み三戸町と呼ばれていた時代もあったと云う。
日影門外小路の入口右角には,御稽古場(藩校)があり,明義堂を経て,1866年、に作人館と改称され、文・武・医を教授。
幕末から明治にかけて多くの人材を生む。
作人館跡は明治5年、学制公布により仁王小学校となり、明治9年、明治天皇巡幸のとき行幸があった。(明治天皇の聖跡記念公園・日影門緑地)

    

「石割桜」天然記念物
城址の北、地方裁判所構内に桜老木と大きな花崗岩の割れ目に、現役で生育している事で有名な桜

            樹齢300年以上・根廻り4.3m・樹高10m。
    

次回は、青森県八戸方面へ。

盆栽 昭和記念公園

2015-11-25 | syu散歩

「盆栽の魅力」

平安時代に中国から輸入された盆栽は日本で独自の発展を遂げ、今や「BONSAI」として世界でも注目を集めるようになった。
盆栽の手入れは肉体的な負担が小さいので、年を取っても楽しむことができ、身体を動かして日々の手入れを行うことで、健康にもいいと言われている。
植物と触れ合うことで、心が癒されてストレス解消にもなり、イライラすることの多い現代、盆栽に取り組むことで気持ちをすっきり。
盆栽は、枝を切ったり水をあげたりと、軽作業、適度に身体を動かすため、健康維持にも繋がり、手先を使う。
盆栽は、単なる園芸趣味ではなく、芸術でもある。
作った作品を販売することも可能で、時には数十万円、数百万円以上の価値が生まれることもあると云う。
盆栽仲間に出会え、共通の趣味を通じて、様々な人に出会うことができ、年齢や性別に関係なく、同じ趣味を持った人達と交流を深めることが。

                   日本古来の伝統文化盆栽


                    植物成長のー生きた芸術ー


                    若木が成長して盆栽のなる過程を


    根張ー根が四方八方に張り出して・幹ー上に行くほど細く変化を・枝配ー江戸の太さやバランス


                  盆栽の長所を生かし伸ばしていく


株立ー幹が立ち上がる・直幹ー真直ぐの幹・寄せ植えー複数の木、風景を・模様木ー幹と枝のバランス


    懸崖ー崖から乗り出している・石付きー石の木を付ける・文人木ー細幹で変化を。


鉢ー長方鉢・楕円鉢・正方鉢・丸鉢・六角鉢・木瓜鉢・袋式鉢、、、盆栽と鉢印象ががらりと変わる。


        若い木の枝を多く残し整姿し、徐々に不必要な枝を整理


           日光がよく当たる風通しの良い所ー夏半日陰・冬寒さ保護


                  3月初旬~中旬が植え替え期


                   ゆとりのある時


                   お客の「おもてなし」



国営昭和記念公園・日本庭園盆栽苑から。

立川基地跡の 国営昭和記念公園

2015-11-23 | syu散歩

東京都立川市は、都の中央部武蔵野台地南端に位置する。市名は武蔵七党「日奉一族・立河氏」に由来すると云う。元は神奈川県北多摩郡立川村。
江戸時代初期は砂川ー玉川上水分水・元禄以降畑作を中心とするの農村地帯。
幕末から「藍染・砂川太織」で知られるようになった。それ以降は養蚕地として発展する。生糸や桑苗の集散地三多摩地域と広がっていった。
大正11年陸軍航空第5大隊が岐阜から移り、「立川飛行場」が建設された。技術研究所・陸軍施設・軍需工業基地となっていった。
立川駅北口と云えば、米軍むけ商店や歓楽街や闇市が形成され、基地拡張で「土地没収」に反対した住民の「砂川事件」があった。
1977年、基地は断念され全面返還された。
その跡地に、自衛隊立川駐屯地と広域防災基地とこの公園「国営昭和記念公園」が出来た。

「多摩モノレール」全長16km
上北台駅ー 玉川上水駅ー(西武:拝島線)- 砂川七番駅ー 泉体育館駅ー 立飛駅ー多摩都市モノレール運営基地 ー 高松駅
ー 立川北駅・立川駅ー(JR東中央・青梅線・南武線)→ 立川南駅ー 柴崎体育館駅ー 根川ー 残堀川ー多摩川 ー 甲州街道駅 (中央自動車道)
-万願寺駅- 浅川-動物園線- 高幡不動駅- 程久保駅ー 多摩動物公園駅ー(多摩丘陵トンネル)ー小田急・京王 多摩センター駅。

                JR立川駅と駅前・多摩モノレール
    

「国営昭和記念公園」
昭和天皇御在位五十年記念事業の一環として、戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川市と昭島市の両市にまたがる立川基地跡地のうち、
「180ha」を記念公園として建設。
1983年の昭和58年、昭和天皇臨席のもとに約70haで開園。
レインボープールや子供の森、日本庭園、砂川口、盆栽苑等次々と施設が整備され、平成17年、みどりの文化ゾーンが共用され、昭和天皇記念館が開館
公園は、震災や火災が発生した場合は、避難場所としての機能を果たすよう設計され、立川市と昭島市の広域避難場所の一つに指定されている。

            立川駅から徒歩10分程で「国営昭和記念公園」


立川口イチョウ並木の106本・うんどう広場脇のイチョウ並木の98本の黄葉は見応え。
日本庭園のモミジはとても風情がある。他にも、メタセコイアの並木やナンキンハゼなど。

             銀杏の黄葉のトンネルを「紅葉祭り」


                  東京ドーム約40個の広さ
    

   パークトレイン(¥310)で・自転車で・搭乗型移動ロボットで、おススメは歩いて
    

                 日本庭園では、いろいろ開催が


出入り口は、あけぼの・立川・記念口・高松・西立川(奥多摩線)・玉川上水・砂川。
    

        水鳥の池・残掘川・日本庭園池・木漏れ日の池がある


        広大な原っぱには、花畑が(コスモスは刈り取られていた)
    

   夢広場記念館は、高松口・立川口(昭和天皇記念館・花と緑文化センター)
    

       ハーブ園・運動広場・バーべキュウーガーデン等も
    

           自転車は、3時間ー¥410


           夏には、レインボープールが営業する
    

               花の丘には、季節の花が


「砂川闘争・砂川事件」
昭和32年・1957年7月、特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件を指す。
住民や一般の人々と全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点の事件。


       公園近くで食事ーランチセット・コーヒー付きで¥750


次回も昭和記念公園続き。

富士の山荘を閉める

2015-11-21 | 富士山麓日記
冨士の山荘も11月いっぱいで閉店します。最近は年のせいか閉める日が早くなりました。
今日は水抜きをして帰ります。真冬はマイナス15℃にもなるので水が凍ると水道関係が破裂します。



紅葉の名残でまだ落ち葉が沢山、来春までさようなら!




真冬でもヒマラヤユキノシタなどは冬に強く青さが残ります。




紅葉の残る中央高速を一路東京へ!

盛岡と石川啄木 東北の旅13

2015-11-19 | 気まま旅
雫石川・中津川・北上川が合流する「水と杜の城下町・盛岡」
岩手県の県庁所在地、南部藩20万石の城下町、東北地方北部の交通卯・観光拠点、歴史的文化都市で、「盛る岡・盛岡市」まで来た。
北西に南部冨士・岩手冨士のー「岩手山」、北東に姫神山、南西に南昌山、に囲まれ、南方に豊かな「北上平野が開ける。
1597年「南部利直」が城を築き~1618年頃には、城下町の骨格でき、家臣団が「三戸・青森」から移った。
城下には、二重の囲郭を築いている。侍町・町人町・寺屋敷町は内側に配置され、商店街は城の北側・南方に新山河岸・東側呉服・紺屋等の町方、、。
現在、中心部の道路網は城下当時の形態をとどめていると云う。

東北新幹線・本線・盛岡IC・南IC・国道4号線・46号・106号・396号・455号   北上川
    

「岩手山」
県八幡平市、滝沢市、雫石町にまたがる。西に姥倉山、大松倉山が続くものの、奥羽山脈の主稜からは離れており、独立峰に近い。
東の盛岡側から見る姿は富士山のように長い裾野を引く整った形で、「表岩手」と呼ばれ、南の雫石町や北の八幡平市松尾方面から見ると、
外輪山の連なりが凹凸をなし、「裏岩手」と呼ばれる。
山域は、昭和31年、に十和田八幡平国立公園に指定、山頂には一等三角点「岩手山」(重点整備点)が設置。
別名に、「巌鷲山」がある、本来「いわわしやま」と呼ばれていたものが「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛。
春、表岩手山には雪解けの形が飛来する鷲の形に見えるため、これが山名の由来になったとも伝えられる。
静岡県側から見た富士山に似ており、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」とも呼ばれる。
古名に「霧山岳」「大勝寺山」。俗称に「お山」。「子富士」とペアで「親富士」と表現することもあると云う。
古来から信仰の山で、山頂外輪を取り囲むように石仏、山麓の滝沢村・盛岡市に岩手山神社が祭られる。

「前九年の役」以後、巌鷲山大権現大宮司として伊豆国出身の「栗谷川(厨川、工藤)家」が代々祭事を務めることとされていたが、後に祭祀権をめぐり攻防があった。
      標高ー2037.95m 成層火山(奥州山脈) 常時観測火山
    

「新渡戸稲造」  1862-1933  国際連盟事務局次長 教育者・農業・思想家 盛岡生まれ
1877年札幌農学校、内村鑑三らと共にキリスト教入信、1884年私費でアメリカ留学・ドイツ大学で農政学・経営学を学ぶ。
札幌農学校の教授・第一高等学校校長・東京帝大教授ー国際文化交流を志す「武士道」英文。
国際連盟事務局次長としてジュネーブ活躍した。
女子教育で東京女子大創立に参画し初代学長に。肖像が5千円札となった。



        小さいとき髪をといてくれるのも、ほかの人がすると痛いが、母親だと痛くなかった。
        ここに自然な無理のない母の愛がある。

        学べどもなお学べども学べども学び足りぬは学びなりけり。

        自分が生まれてきたときより死に至るまで、周囲の人が少しなりともよくなれば、
        それで生まれた甲斐があるというものだ。

        強き人はよく耐える。よく耐える人を強者という。(武士道より)
    

「原 敬」 1856-1921  初の政党内閣を組織した。「平民宰相」-南部藩重臣の子ー
苦学、司法省法律学校中退、報知新聞記者を経て外務省、「井上馨・陸奥宗光」に見込まれて次官に、朝鮮駐在公使で退官。
毎日新聞社長で、経営手腕発揮する。
1900年立憲政友会創立に参画、北浜銀行・古川鉱業・財界に勢力を築く。第4次伊藤博文内閣逓信大臣・西園寺公望内閣内務大臣
1918年政党内閣を組織ー腐敗事件が暴露され暗殺。

       東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件。


「金田一京助」 1882-1971 言語・民俗学者  盛岡生まれ  アイヌ語研究ー金田一学と称されているー
東京帝国大学の教授で恩師「上田万年」の勧めで樺太アイヌの言語の研究を。
当時はアイヌ語の研究者がほとんどいない時代で、言語学の聞き取り調査では最も重要な言葉の一つである「ここは何処?」ですら何と言うのか
よく分らない有様だった。
金田一は思案の末、訳の分からない絵を描いた紙をアイヌの子供たちに見せ、その反応から「何?」という言葉を聞き出すことに成功。
ここから膨大な樺太アイヌ語の単語を一つひとつ聞き取り調査で記録するという地道な事業が始まったと云う。
生涯に渡り貧しい生活に耐えながら、金田一はアイヌ語の研究に一生を捧げた。
第二次世界大戦後はアイヌの同化政策に協力したとして批判を受けたと云う。
最近になり再評価が進み、孫に当たる金田一秀穂は、京助がいなければアイヌ語は残らなかったかもしれないと語っている。
当時はアイヌ民族は和人よりも劣った民族であると教え込まれていたが、金田一は「アイヌは偉大な民族だ、
「アイヌ文化は、決して劣ったものなどではない」と真摯に接した。一方で次のようにも書いている。
「しかしまた、それはそれとして、同学の人たちがみんな、りっぱな西洋文学へ入っていったり、西洋の哲学とか、日本の哲学とか、そういう高い思想をたどって、自分自身をつくりあげているとき、自分一人、野蛮人のそんなものをやっていたら、みんなからとり残されてしまうのではないか。
考えてみると、ずいぶんそれも寂しい気がしました。」

          「金田一京助ー 私の歩いてきた道」より


「上・中・下の橋」
上の橋は、南部家第27代当主(第2代藩主)「南部利直」によって、盛岡城築城にあわせて中津川にかけられた橋。
中の橋は、「下の橋」のうちの一つで、1609年と3橋の中では一番歴史が古い。青銅製の擬宝珠が取り付けられたのは、1336年後
村上天皇より恩賞として京都鴨川橋の擬宝珠の使用が許された故事によると伝えられている。
元々は南部氏の居城であった三戸城下の川の橋にあったが、盛岡城築城の際に鋳直されて取り付けられた。
何度も橋の流出という災難にあったにもかかわらず、現在慶長14年銘のものが8個、慶長16年銘のものが10個、合計18個の擬宝珠が取り付けられ
昭和20年に国の重要美術品に指定。(重要美術品がそのまま橋に取り付けられているのは大変珍しいという)

「下の橋」
1612の慶長17年、に架けられた。
上の橋や中の橋同様、何度も洪水による橋の流出に見舞われた。
下の橋の擬宝珠は、明治43年の洪水で流されて、洋式橋に掛け替えられた中の橋のものを移築したものであり、もともと下の橋には擬宝珠がなかった。

             現在の下の橋は、大正元年に架けられたもの。
    

「ちやんがちやがうまこ」の詩情の地ー宮 澤 賢 治ー
         夜明げには  まだ間あるのに 下のはし  ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。
         ほんのぴゃこ 夜明げがゞった雲のいろ  ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。
         いしょけめに  ちゃがちゃがうまこはせでげば 夜明げの為が 泣くだぁぃよな氣もす。
         下のはし  ちゃがちゃがうまこ見さ出はた  みんなのながさ  おどともまざり。

賢治、1896ー1933、現花巻市で生まれ、 盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)、青春時代を盛岡で過ごしている。
大正6年、賢治が高等農林3年生の時、盛岡中学校に入学することになった弟とともに下の橋のたもとの玉井家に下宿、当時をしのぶ井戸だけが残され、
「下の橋」-南部氏が盛岡に城を築き、城下町をつくったとき、河南地区を結ぶ重要な「はし」としてつくられ、
欄干には歴史を感じさせる擬宝珠がついている。この橋が、盛岡の初夏の風物詩チャグチャグ馬コの馬が渡る道筋で、賢治の方言短歌が。

           賢治が使っていた井戸が、今は空き地
    

賢治は、弟青六と飲んでいた「賢治清水」現在も健在。

           ちゃんがちゃがうまっこの詩碑が
    

1914年の大正3年、18歳、
賢治は、肥厚性鼻炎手術のために岩手病院、(現在の岩手医科大学附属病院)入院。

詩は晩年、入院当時のことを回想して書かれたものですが、実はこの岩手病院には、賢治にとって忘れられない思い出があると云う。
それは、入院した賢治は、岩手病院の看護婦「高橋ミネ」さんに恋をする。
賢治の初恋と云う。(賢治研究者の間でも知られていますが、恋の相手のミネさんの人となりについては、わずかな情報しかないと云う)

    

「まちづくり」
県都として政治・経済などの中心的役割を担い,今日では商業・業務などの都市機能が集積する近代的な都市として発達し,まちの姿も大きく変貌。
明治時代に城郭は取り壊されたものの,まちづくりの中心には常にお城があり,地域の人々の手で磨かれてきた城下町盛岡ならではの魅力が多くの
人々の心を引き付けている。
城下盛岡町名由来記(改訂版)ー旧町名については,市内27カ所に各町名の由来を記した説明板を設置・管理を行っていると云う。

                 1598年盛岡城築城ー城中心の城下町
    

   はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

「石川啄木」-作品を書いた当時の啄木は、家族4人(妻、娘、父、母)を養うために、病弱な体に鞭打って、働きに働いた。
こうした無理もたたって啄木は、わずか26歳でこの世を去った。
啄木は、この作品をー明治43の1910年7月26日に詠んだと言われ、前年、東京朝日新聞に校正係として入社し、月給による生活を始め、家族を函館から東京へ呼び寄せた。しかし母と妻・節子の折り合いが悪く、家庭の雰囲気は悪かったようだ。
新聞社から給料を得てはいても、暮らしは楽ではなかった。
啄木は、会社や金田一京助をはじめとする友人らから借金を繰り返して、なんとかやりくりしていたが、生活を切り詰めてつつましく暮らしていたというわけではなく、むしろ遊興に貴重な金を浪費していた。金田一などは、啄木のためを思い、大切にしていた蔵書を売り払って、金作していたにもかかわらず、当人はそうしたまとまった金を手に入れると、浅草に度々足を運んでは、プロの女性との一夜を楽しんでいたと云う。
啄木は、校正の仕事のかたわら、歌集「一握の砂」出版の準備や「二葉亭四迷全集」の校正、新聞歌壇の選者などを手がけるほか、いくつもの新聞などに作品を発表している。
                  石川啄木新婚の家
    

啄木 1886-1912 国民的詩人・歌人 盛岡中学時代に文芸雑誌「明星」愛読し、上京するが失敗、北海道で新聞記者などを送っている。
1905年ー詩集「あこがれ」出版、翌年朝日新聞校正係就職するが貧乏と病気に苦しむ。
社会主義に感心を深め「一握の砂ー流浪と望郷の思いを」・多くの人に愛唱されている。が、病床で再起できなかった。

                   没後「悲しき玩具」刊行
  

盛岡は、文学と彫刻の町とも云う。
文学碑が多い。中でも「石川啄木」ー家・望郷の丘。「宮沢賢治」ー童話「注文の多い料理店」・記念碑。「立原道造」「山口青邨」等
彫刻は、「船越保武」作が多い。
又、盛岡は交通結節点としてよく整備されている。

    

伝統的特産物は、南部鉄器・紫根染、古代染・南部せんべい・わんこそば。
無形民俗文化財は、さんさ踊り・舟っこ流し・裸参りなど。

                     西部に繋温泉


次回は、盛岡城へ。