syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

村上市と銘酒「〆張鶴」

2012-06-29 | 気まま旅

「村上市」県北の城下町、東は、山形県うさみ温泉、鶴岡、町の中心部が、臥牛山(136m)中世から江戸時代までの平城であった。
村山城、舞鶴城、お城山で、戦国時代「本荘繁長」が要害とした城、村上義明(1596-1615)・堀直奇が、石垣、堀を築き、松平直矩(1661年)が、
天守、本丸を築いている。戊辰戦争で焼失。
下級武士「青砥武平治」は、サケの日帰性に注目し、世界初の「種川の制」、サケの産卵の人口河川を「三面川・みおもて」につくり、明治に入り、
北海道でその技術が導入されている。イヨボヤ・サケの方言会館では、生態観察室がある。
あと、村上と云えば、お茶、堆朱、漆の木彫り細工は、伝統工芸指定を受けている。もう一つに、街中がT字路、曲がりくねった道になっている、
遠見遮断、武家屋敷も点在されている。攻撃に備えたという。西方面が瀬波温泉で、村上の奥座敷。


「曹洞宗・大雄寺」三面川に近い寺。

    

日本における曹洞宗は道元に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山で曹洞宗の長翁如浄に師事し、1226年に帰国した。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓山慧能禅師(638~713)と洞山良价(807~869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞土民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、
下級武士、一般民衆に広まった。

石仏                           本堂
  

「臥牛山」と「村上・舞鶴城」街中の細い道の住宅街を、山に向かうと、観音像と舞鶴城碑が見え、公園と、山道の階段に出た。

村上城碑              柱の土台                   古木
    


城の歴史は、1500年代、初頭、越後小泉庄領主、本庄時長によって築城されるた。1598年、村上頼勝が入城、櫓や堀などの改築を始める。
1619年、堀直寄が入城。改築を完成させる。1642年、村上堀家断絶。幕領出雲崎代官の管轄となる。
1644年、本多忠義が入城。1649年、姫路から松平直矩が移封。1663年より、松平家による大改修が行われる。
1667年、天守、本丸櫓が落雷で焼失し、以後、天守・櫓は再建されず。1729年、内藤弌信入城。以降明治まで、内藤家が藩主となる。
1778年、火災により三重櫓、月見櫓が焼失。1868年、北越戊辰戦争で村上藩士撤兵の折全城焼失。
明治8年(1875年)、残存する建物遺構の解体撤去が終了。、国の史跡に指定。

山頂にある城             石垣                   山頂から見た村上市内               
     

慶長3年・1598年に、本庄氏の会津転封にともなって、堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となる。村上氏によって始められた近世城郭への改築工事は、堀直寄の時代に完成を見た。
堀氏の時代には3重の天守が建てられ、また城下町の構えや町割りも整備された。

山道の石垣
  

臥牛山城は戦国時代(16世紀初頭)に、阿賀北の領主、本庄氏によって築城されたとみられている。当時は本庄城と呼ばれており、木柵で防御された中世式の城郭であった。
1568年、城主本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻す。1年に亘り籠城し、謙信に抵抗した繁長であったが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子顕長を人質に出し、
所領を一部没収されることで講和を受け入れた。


    

舞鶴城の名は、村上城が舞鶴城と呼ばれたのは江戸時代。 築城当時は黒い板張りの城で、江戸時代の改修により白い塗り壁になり、雅称が舞鶴城となったようである。
舞鶴城の雅称を持つ城は、 三春城・太田城・甲府城・丹後田辺城・福岡城・柳川城・唐津城・津奈木城など。


    


「飯豊連峰」は、 大日岳(2128m)、 飯豊山(本山・2105m)、 北股岳(2025m)、 烏帽子岳(2,017m)、 三国岳(1644m、 朳差岳(1636m)、
飯森山(1595m)、 二王子岳(1420m)。
「朝日連峰」は、大朝日岳 (1,870m)、北から障子ヶ岳 (1,482m) 、三角峰 (1,520m) 、オツボ峰 (1,582m) 、以東岳 (1,771m) 、三方境 (1,591m) 、
寒江山 (1,695m) 、龍門山 (1,688m) 、西朝日岳 (1,814m) 、大朝日岳 、小朝日岳 (1,647m) 、鳥原山 (1,430m) 、祝瓶山 (1,417m) 。今日は曇空だった。

臥牛山頂上
  

淡麗旨口の〆張鶴「宮尾酒造」は、街中、三面川沿いにある。
少しでも“いい酒”をと、蔵が一丸となって築きあげてきた伝統の味わい。
創業は、1819年、村上は、五百万石や高嶺錦など良質の酒造好適米を産出する米どころ。酒の味に影響を与えると言われる水、敷地内の清冽な井戸水を
仕込みや洗い水などに使用している。この地下水は、鮭の遡上で知られる三面川の伏流水で、きめ細かな甘みを持つ軟水。

蔵に脈々と受け継がれてきたのは、酒造りに対する真摯な姿勢。良質の米と清冽な水を原料に、“うまい酒”を目指し、杜氏と蔵人らが日々、酒造りに励む。

宮尾酒造事務所            展示品 
  

「三面川」は、二級河川、延長 二級河川区間 41.022 km、面積 677 km²、水源 朝日連峰(村上市)、河口 合流先 日本海、
       サケの産卵、人工河川。

三面川に沿って、               工場が
    


〆張鶴 吟撰  吟醸酒、精米歩合  麹米 50%・掛米 50%、アルコール度 16%、価格 1,800ml ¥3,549 化粧箱入り
                                          720ml  ¥1,774 化粧箱入り

        吟醸酒、精米歩合  麹米 50%・掛米 55%、アルコール度 16%  価格 1,800ml ¥2,730
                                          720ml  ¥1,312

    吟醸生貯蔵酒、生酒、越淡麗、純米吟醸、本醸造酒、しぼりたて原酒、梅酒など製造している。


酒造蔵
  

阿賀野川ライン舟下りは、国道49号線沿いにある道の駅で、阿賀野川のライン舟下りが楽しめる。

角神ダム湖遊覧船 出航時刻 10:00 11:00 12:00 13:00 14:00 15:00であるが、欠航となる場合が多い。


                    舟下り乗り場
  

「平等寺・薬師堂」は、6世紀初めの建立で寄棟造り茅葺き。
室町時代からの参詣者の落書きや、御館ノ乱で敗走した会津の将兵の墨書が残る。境内には平維茂の遺体の上に植えられたという将軍杉(幹回り日本一)もある。 
(落書庵) 通年 堂内拝観は火曜休、冬期は不定休、拝観無料


    


  

「将軍杉」の平 維茂は、平安時代中期の武将。大掾維茂とも呼ばれる。陸奥守平繁盛の子。
 
将軍杉
    


    



「酒造りの話」 圧搾機
醪は、溜後約20日で搾り液状部分と固形部分(酒粕)搾ることを「アゲフネ」、ここまでお話してきました。酒袋は5.5~9Lして約一日上から圧力をかけ搾ります。
又袋を積み直し圧搾しますと、酒袋の間から一部白い醪が、にじみ出てきます、薄く濁っています。これをタンクに入れると、濁りがオリとなり底に沈みます。
オリが下がったところで透明部分を抜き取りオリと分けます。これを「オリ引き」と云います。酒袋は、板粕となります。


次回は、津川(麒麟山)へ、これで越後は終わります。

村上 名勝笹川流れ

2012-06-27 | 気まま旅

中条から村上方面に、海から国道113号線、日本海東北自動車道、国道7号線、JR羽越本線、国道290号線、並行して伸びている。

「普光山・千眼寺」は、1457年、北越の国人領主色部氏により平林城下(新潟県岩船郡神林村)に建立された。もともとは真言宗だったが、
1573~1592年に色部勝長の次男長真が曹洞宗に改めた。
戦国時代には、上杉謙信の重臣として、色部勝長が活躍。1562年の川中島合戦では謙信から「血染の感状」をもらっている名門。

勝長は永禄12年、本庄繁長の夜襲により戦死。家督は嫡子顕長が継ぐが天正4年頃、家督を弟長真に譲って死去。長真は天正20年に死去。
長真の子光長は直江兼続の妹を妻に迎えている。
上杉景勝が会津120万石に移封となるのにともない、色部光長も1598年、平林城から出羽金山城(秋田県南陽市)に移る。上杉景勝は関ヶ原の合戦で西軍についたことから、
1601年米沢30万石に減封となる。
色部氏も米沢城下に移り、窪田に4万坪余りの知行地を与えられた。千眼寺もこれらの移動にともなって米沢に至った。


千眼寺 
    

「千眼寺」は、色部氏の菩提寺と保呂羽堂の裸餅つきで有名な寺。
保呂羽堂は、色部勝長の次男、色部長真が、出羽国の検地を行ったとき、保呂羽山波宇志別神社(秋田県)から自領の平林城下へ分霊してもらってできた。
上杉景勝の移封とともに、米沢へと移るが、1641年、病害虫がはびこったとき、お告げにより保呂羽堂縁下の土を田にまいたら病害虫が退散し、
お礼に餅を供えたのが始まりという。

                              本堂
  

「平林城」は、南北朝時代に南朝方に付いた平林氏の城であったが、北朝方で鎌倉時代以来の地頭だった色部氏が攻め滅ぼし居城にした。
以降、代々色部氏の本拠地となった。
「永正の大乱」では、城主色部昌長は越後守護上杉房能に従い、守護代長尾為景と対立。1508年に為景方の鳥坂城主の中条氏や築地氏らに攻められ落城、
降伏して長尾氏に帰属した。
1539年、色部勝長の時には守護上杉定実の養子縁組問題から伊達稙宗・中条藤資に攻められるが、伊達氏の内紛で撤退した。
その後勝長は上杉謙信の重臣として活躍。色部長真の代の1598年、上杉景勝の会津移封により廃城。1978年、平林城跡は国の史跡に指定。


平林城跡
    

色部 昌長(生没年不詳)は、戦国時代の武将。越後の国人である色部氏当主で平林城主。色部重長の子。色部憲長の父。遠江守。

城案内板                            土塁
  

鏡岩、美しい笹川流れの景観を、より高めてくれる。 びょうぶ岩、大きな岩山が、まるでびょうぶのように立ち並ぶ。恐竜岩、恐竜が、両手をついている姿を連想させる。
舞子岩、義経の労苦をねぎらうため、義経の家来がこの岩をバックにして、船上できれいな舞を披露したことから、この名が付けられた。
ニタリ岩、源義経を笑わせたという、ユーモラスな岩、君戻し岩、源義経が笹川流れの大きな景色に気がつかず、何気なく通り過ぎてしまった際に、義経の家来が
景色を見せようと呼び戻したことが名前の由来となっている。
汐吹岩、岩の中央に大きな空洞が開いており、洞窟の天井には穴が開いており、大波が入ると天井の穴から汐が吹き上げることから、この名がつけられている。

笹川流れは、市浜新保集落内「鳥越山」より村上市寒川集落内「狐崎」までの約11km。


村上の名所笹川流れ                     近くは瀬波温泉
  
  
国の名勝天然記念物(県立自然公園)に指定されており、今や美しい海の代名詞。

    
  

国の名勝天然記念物(県立自然公園)に指定されている。

    

海上から観る陸の景色は 格別。

  

四季折々、それぞれの魅力を放つ。



頼山陽の子で詩人であり、幕末の志士でもあった頼三樹三郎が、「海府遊記」で、松島と 男鹿の美観を併せもつ「笹川流れ」の景観をたたえ絶唱した詩が刻まれている。
          「松島は この美麗ありて此の奇抜なし男鹿もこの奇抜ありて此の美麗なし」碑。






国の名勝と天然記念物に指定(1927年指定「笹川流」)、日本百景にも選定、県下有数の海岸景勝地である。笹川流れの笹川とは集落名。

     


羽越本線、米どころ広がる平野と海岸線を楽しむ。新潟から山形を経由して秋田までの日本海側の走る羽越本線(新津~秋田)。
特急「いなほ」や「きらきらうえつ」なども走る路線は、日本海に沈む夕日のスポットも点在。由利高原、山居倉庫、鳥海山、本間美術館、あつみ温泉、瀬波温泉などがある。


「酒造りの話」  上槽(アゲツネ)

仕込が終わり、泡も治まり、タンクの中が、鏡のような時「坊主」よいう。醪は、溜後約20日目で液状する。上槽、搾りこむ
酒袋を数回変え搾っていく。槽直しという。


次回は村上市内へ。

越後 石油の町と胎内観音

2012-06-23 | 気まま旅
胎内市中条町は鎌倉時代、荘園奥山庄の中心部を示す地名、「越後国奥山庄波月絵図」は、当時の荘園のようすを伝えている。
江戸に入ると。米沢街道の宿場町、近郷農村部相手の「六斉市」知られている。幕末から明治では、桃崎浜が西廻海軍の寄港地として栄えた。
胎内川の湧水と天然ガスを利用したガス化学コンビナートで大工場が次々進出された。

JR中条駅は、県胎内市 東日本旅客鉄道(JR東日本)、日本貨物鉄道(JR貨物)、羽越本線 39.1km(新津起点)、1,236人/日 -2010年-
1914年(大正3年)開業、
駅は、胎内市の中心駅で、特急「いなほ」の全列車が停車する。

中条駅                              村松浜


日本書紀には、越後国より天智天皇に「燃ゆる水(燃水)」が献上されたという記述がある。胎内市より産したものであるとされる。
自然にわき出た原油は「臭水、草水(くそうず)」などと呼ばれた。国内油田の本格的な利用は明治時代以降のことである。

「黒川油田」北西部、下館に、明治に手掘り井戸による石油の油坪群が見つかっている。現在シンクルトン記念公園になっている。
坪跡には手掘り跡と上総掘り跡、明治6年、英国人シンクルトン指導のたて穴掘りの異人井戸跡が残っている。
カクマ(シダ類)ですくう昔の採油から、機械採油までの様子を見ることが出来る。

我が国初の黒川油田
  

「湖彦山・廣厳寺」は、曹洞宗の開創、1389年頃、胎蔵界大日如来を本尊とする真言宗のお寺が建立されていたと伝えられている。
本尊は京都の大仏師定朝法印の作でその当時のものと思われる。世源康伝によって修復されている。
曹洞宗開創当時 天正16年は、戦国時代であり、戦乱の世の中でお寺も非常に荒廃し、住職もいなかったと思われる。

                         本殿                        末社 
    

「熊野・若宮神社」は、中条駅の北東500メートルに鎮座。旧中条町の産土神で, かつては川下(西本町)に鎮座したが1797年に現在地遷座した。
古くは「若一王子」としたが,1872年に村社となり「熊野若宮神社」と改められた。
祭神は饒速日命,事解男命,速玉男命,伊邪那岐神,天目一箇神,神功皇后,武内宿禰。饒速日命・神武天皇より前に降臨していたが,神武天皇に従ったとされる神。
 
拝殿と本殿は弊殿によってつながっており,いずれも規模が大きい。残された棟札に1789年の記載があり,建立の時期もそのころだと考えられる。
本殿内に安置されている宮殿は,1690年の作で,県の文化財指定。

境内の大木                       本殿
     

「黒川郷土文化伝習館」は、縄文時代の遺跡資料から、近世の民俗資料まで胎内市の歴史資料を収蔵・展示。展示品は、遺跡の資料、民俗の資料、胎内の動植物、
郷土芸能など。「中条駅」より車で10分。入館料¥200、


伝習館正面                  展示場
  

「黒川城」は、1277年、高井道円(奥山庄と本領相模国津村の所領、阿波国・讃岐国・出羽国の所領を茂連・茂長・義基の3人の孫に譲与する。
三代の茂実は、南北朝時代に足利氏に従い北条氏を打ち、越後守護長尾邦景を勝利に導くなど活躍し、1423年には、6代基実が守護側に背反し300騎で、黒川城に籠ったが、
逆に中条房資、上杉頼勝、伊達持宗ら5000騎に攻められ降伏した。さらに黒川館も滑沢何某に夜打ちをかけられ黒川基実は切腹し、その子弥福丸(氏実)が中条房資に
救出されて、再興を果たす。

大きく分けて2か所の曲輪群があり標高203.9m地点(赤坂山砦=黒川城前要害)と、本城に相当する標高462m付近に赤坂山砦がある。

展示場館内                     正面赤坂山・黒川城跡がある
    

「無形文化財保持 瞽女・ごぜ、小林ハルさん」
盲目の女性が3~4人で組を作り、農山村の奥地まで訪ね、三味線芸を披露して歩く旅芸人たちを云う。室町時代の「看聞御記」の
盲女絵巻「七十一番職人歌合」にみられる「鼓打ちで歌う女盲」を瞽女とも言われていた。

引退直後の小林ハル 
    

「越後胎内観音」は、 昭和41年7月16日に新潟県下越地方を襲った集中豪雨は、3日間にわたって降り続いた。そのため胎内川は毎秒100トンを超す濁水が激流し、
中小河川がいたるところで氾濫するに至り、新潟県北蒲原郡黒川村は水攻めの大被害を受けた。
昭和42年8月28日には集中豪雨により土石流が発生し死者・行方不明32名、家屋の倒壊・埋没・流失121棟、田畑の流埋冠水5,000ha、道路・橋梁の決壊流失など、
郷土史上いまだかつてない惨事となり、黒川村は壊滅的な打撃を受けた。

この2年連続の大水害に対し、村長を先頭に「災を転じて福となす」を合言葉に再建に取り組むとともに、殉難者の冥福と災害復興を願って昭和45年日本一の大観音像を建立した。

越後胎内観音像                     楼門


「42年水害」は、胎内川流域では上流の、胎内第一ダムで一日総降水量が645ミリ、同胎内第一発電所で542ミリを記録。
北蒲原郡中条町と黒川村(いずれも現在の胎内市)では胎内川中流部の赤川と下流部の熱田坂で堤防が決壊、家屋の浸水が2,170戸、農地などの浸水が2,330haに及んだ。

六角堂                          境内



胎内の歴史は古く、桓武平氏の一族、城氏が平安末期に「奥山荘」周辺を支配した。
1201年、城資盛は平氏復興のため鳥坂城で挙兵、幕府は佐々木盛綱を越後御家人の総大将として追討軍を派遣、城氏は事実上滅亡した。
その後幕府は木曽義仲追討の恩賞として、三浦和田氏の和田義茂に「奥山荘」地頭職を与えた。

三浦和田氏は土着して中条氏を名乗り、黒川氏、関沢氏、築地氏、金山氏など多くの庶流を生み出した。
中条氏と黒川氏は波月条や金山郷などの周辺の所領をめぐり度々紛争を起こした。江上館は越後三浦和田氏の宗家・中条氏の15世紀の居館と見られている。
戦国期の後半は中条氏は庶流の羽黒氏の居館を接収し、鳥坂城南麓にも居館を構え、居館と要害を一体化した根古屋式城郭とした。
1598年の上杉景勝の会津移封により、中条氏もこの地を離れ、奥山荘における三浦和田氏の支配は終わったと云われている。


               



波乗り観音・越後胎内観音は、総丈7.3m、重量4t、鳥坂山を背に蓮華台で合唱姿は波の上に載っているように見えるところから、波乗り観音とも言われている。
羽越水害で、犠牲になって亡くなった32名の人達の供養する観音像である。

薬師堂など、ボランティアの掃除の小母さんと話が出来た。


胎内観音供養堂内




「酒造りの話」第三仕込「溜」

約仕込んで温度が7~8℃が、醗酵熱で15~16℃にあがる。醪を検査する。比重計(ボーメ)で酸度分析
溜後2~3日で泡が出だす。筋泡、水泡、岩泡、高泡、落泡、玉泡、最後が「地」で終わる。
醪をもう一度加えるのを「四段仕込み」     アルコール分は、18~19℃になっている。
味を調えるため、アルコールを添加、これは国で定めれている清酒のみ、(純米酒はアルコールを添加しない)

次回は、笹川流れ。

新発田城と菊水

2012-06-21 | 気まま旅
新発田藩は、越後国蒲原郡新発田を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。
藩庁は新発田城。藩主は溝口氏。家格は外様大名で、石高は6万石、のち5万石→10万石に。
新発田藩初代藩主溝口秀勝は1600年の関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の東軍に与して越後に在国し、越後で発生した上杉旧臣の一揆を鎮圧した功績により、
家康から本領を安堵され、ここに新発田藩6万石が成立した。越後国の譜代大名・親藩のひしめく中に位置する外様大名であった。

「堀部安兵衛」 1670-1703 二度の敵討ちを、赤穂義士の一人、新発田藩士中山弥次衛門の子で、父死後江戸へ出て剣術を学び、高田馬場
の決闘で勇名に、赤穂藩士堀部弥兵衛の養子に入り吉良邸討ち入りに義父と共に主君のかたきを討った。中山家の再興を願い続け、堀部の名を名乗らなかったという。

大倉製糸創設者「大倉喜八郎」も新発田出身、1837年 - 1928年は、日本の実業家。中堅財閥である大倉財閥の 設立者。明治・大正期の実業家
大成建設、
サッポロビール、ホテルオークラ、東京経済大学、千代田火災 海上(現あいおい損害保険)、日清製油など。


「蕗谷虹児」画家・詩人 1898-1979 21歳で少女画報から挿絵画家デビュー。詩画集出版
              
        「花嫁人形」

     金襴緞子の 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ 文金島田に 髪結いひながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろう
     あねさんごっこの 花嫁人形は、、、、、、。

    

記念館は、市役所に隣接し、ロシア正教会をモチーフに建てられている。虹児のモダニズムの世界そのものを絵・遺品が展示されている。
虹児は、竹久夢二に紹介され、少女画報で出ている。吉屋信子「花物語」「海の極みまで」などの挿絵も書いている。
日本昔話・童話などの絵本で子供達の夢を与えた。

蕗谷虹児記念館                         執筆の部屋
  

1925年渡欧、アンデルセンの童話・絵本の分野で活躍される。晩年は伊豆で、80才で没。
記念館は、昭和62年開館している。 入館料 ¥500

雑誌                             筆記具
  

「新発田城・アヤメ城・浮船城」 平城
最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城と
なっていたが、1581年、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。
1587年、景勝により新発田城は落城。新発田氏は滅亡した。その後上杉氏の会津転封に伴い、1597年、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。
新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。
城が完全な形となったのは1654年頃、3代宣直の時代といわれる。その後1668年、1719年に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。

新発田城
    


新発田川の流れを利用した平城。石垣には石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる工法である切り込みハギが用いられている。
櫓の壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ)が用いられていた。その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られている。
天守はなく、本丸の北西隅に3重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。三階櫓は新発田城における実質的な天守。
1654年に創建されたものは、1668年の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは1679年に再建。
続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3重3階で、1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落としを兼ねる出張りがあり、3重目屋根の棟は丁字型に造られ、
棟上には3匹の鯱が載せられている。1874年に破却された。堀も直角を避け、変形になっていた。

    


城跡の大部分は、日本軍解体まで陸軍が置かれ、現在は、陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。
城内の建築のうち観覧できるものは、二の丸隅櫓・本丸表門・辰巳櫓。
自衛隊の敷地に入り込んだ所に位置する三階櫓の内部は公開されていない。表門と二の丸隅櫓は国の重要文化財に指定。

城周辺は、「新発田城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。
城跡には、初代藩主・溝口秀勝の銅像と、溝口秀勝の曾孫にあたるといわれる堀部武庸の銅像が建っている。


  

「菊水酒造」は、創業 1881年(明治14年)、売上高 51億円 従業員数 139名(2011年)国道7号線、加治川の沿って社屋、工場がある。

「二級水系 加治川」は、延長 65.1 km、水源 御西岳付近と日本海 、水害で桜の木が切られてしまったが、今は、復活し、昔の桜の名所となっている。


加治川                                  菊水本社
  

銘柄は、ふなぐち菊水一番しぼり、 熟成ふなぐち菊水一番しぼり、 新米新酒ふなぐち菊水一番しぼり、 菊水知命、 菊水の辛口
     四段仕込、 純米酒 菊水、 お晩です、 本醸造 菊水、 無冠帝、 源流、 麗流、 純米大吟醸、 にごり酒五郎八等がある。

菊水 近代的な工場 ふなぐちはここから生まれる。
  

酒質は、端麗辛口でしっかりした味である。

    

ふなぐちしぼりは、北越後・新発田の豊かな自然風土、自然肥沃な大地と清らかな伏流水。 この恵まれた環境を活かし、酒を醸し続けている。

昭和47年の発売で歴史ある。晩酌、旅行、アウトドアまで、 いつでもどんな場所でも楽しめるお酒として人気がある。
フレッシュな果実 のような 香り、コクのあるしっかりとした旨みが楽しめる。

日本酒は、出来立て、早めに飲もう。

  



「酒造りの話」仕込み
コシキ越しー初めて白米を蒸す。コシキ倒しー最後の仕込。          仕込容器は、白米の約三倍量の大きさ。
初日は、酒母に麹と水を加え仕込んでいく、冷却した蒸米を加え「添え仕込」します。
二日目に酵母が増殖します、泡が踊っている、「踊り」という、一日休みます。三日目仲仕込み、四日目に留を仕込み醪一仕込に四日。
一仕込1500~2000kgが普通。今は、冷却設備が良く、普及しており10t~20tになってきている。


次回は、黒川、中条方面へ。

  

新発田 寺町散策

2012-06-19 | 気まま旅
市内巡回バス停に、寺町たまり駅(寺町通り)と、あんみつ姫の看板と休憩所があった。
そこのおばさんに話を聞くと、市民と他県の観光客が交流できる場で、「たまり」場と名がついたという。
店内には、地場の特産品とお菓子が並べてあった。通りの向かいに清水園がある。右左歴史あるお寺が並んでいる。



まず、「三光寺」に参拝する。
瑠璃山・浄土宗の寺、本尊 阿弥陀仏  浄土宗は、法然上人をお祀りしている。

                 鐘楼                      本堂         
    


「宝光寺」は、「溝口秀勝」が加賀国大聖寺城にいた際に雪堂を開山に加賀国で創建された大麟寺で、1598年の溝口秀勝の新発田藩移封に随行して、越後国に移転。
はじめ五十公野村に所在していたが、後に現在地に移転した。
秀勝が死亡すると埋葬され、浄見寺と改名。1648年に藩主溝口宣直より200石の寄進を受ける。
1709年に将軍徳川綱吉が死去すると綱吉の院号である常憲院と音が通じるのをはばかって、宝光寺と改名された。

山門は、1845年、に建立。(有形文化財)

                                   楼門                     境内
    

宝光寺は、曹洞宗の寺、山号は広沢山。新発田藩藩主溝口氏の菩提寺で、江戸時代は新発田藩領内の曹洞宗録所であった。
他にも市の、絵画、仏像等が指定を有し、境内の「しだれ桜」は、推定樹齢350年、徳川家光から寄進されたと云われている。

新発田藩主溝口氏菩提寺、歴史を感じさせる
    

「福勝寺」は、 1394年創建、新発田重家が開基となり雲洞庵(南魚沼市)の住職悦叟和尚が開山したと伝えられている。
新発田氏の祖先である佐々木氏は鎌倉時代から地頭として周辺を支配し土着し、新発田氏は揚北衆の1人として上杉謙信に仕え、跡継ぎ争いである
"御館の乱"では景勝に組する。しかし、恩賞が領土安堵だけだった事などから景勝と対峙するようになり、越中侵攻を目論む織田信長や芦名氏の支援を得て
1581年に"新発田重家の乱"が勃発。乱は1587年に新発田城が落城し重家が自決。

禅宗寺                                                  新発田重家像  
    

南魚沼市の「雲洞庵」は、「天地人」ゆかりの地、与六(のちの直江兼続)と喜平次(のちの上杉景勝)が少年期に学問を学んだ寺。

寺町通り
  

「託明寺」は、宗派 真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来の寺、
親鸞 1173-1262  浄土真宗の開祖、弾圧で法然は、土佐へ、親鸞は越後へ流された。法話の「歎異抄」がある。


                           楼門
    

中央にある「法華寺」は、日蓮宗
日蓮 1222-82 開祖   他宗から攻撃され、伊豆、佐渡へ流された。

    

「堀部安兵衛」関係の「長徳寺」と碑などは、市内の旧新発田城二の丸跡に、義士「堀部安兵衛誕生之処碑」が1918年建立。
長徳寺に、堀部安兵衛父祖の菩提寺で、浪曲師桃中軒雲右衛門が、1913年に寄贈した義士堂がある。
そこに、四十七士の木像が安置されている。「義士堀部安兵衛碑」と安兵衛が植えたとされる「石台松」もある。
城表門公園内 安兵衛銅像が市民の浄財によって、1984年建立された。


「酒の話」新発田の酒
市島酒造・王紋、夢、北国の春。
菊水酒造・菊水、五六八、無冠帝、ふなぐち一番しぼり。
金升酒造・金升、初花、くら酒等がある。

次回は、城、菊水酒造方面へ。