syuの日記・気まま旅

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御坂峠・勝頼の北条夫人

2015-08-29 | 気まま旅

「御坂峠」ー国道137号線ー
山梨県南都留郡富士河口湖町ー笛吹市にまたがる峠。(鎌倉往還御坂路・御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来)
富士吉田側と甲府盆地側にまたがる御坂山地の御坂山(1596m)と黒岳 (1793m) との中間付近に存在する (1520m) 。
御坂トンネル開通までは、富士吉田側と甲府盆地側の行き来は徒歩により御坂峠を越えなければならなかった。
1931年の昭和6年、御坂隧道(延長396m)を含む旧・国道8号(現在の国道20号)が開通、後に御坂トンネルを通り甲府と富士吉田を結ぶ路線バスも運行。
昭和27年、新道路法制定に伴い旧・国道8号が国道20号に変更された際に御坂峠越えから笹子峠(大月市・甲州市)越えにルート変更
昭和28年、国道137号指定。
御坂峠の呼称は、御坂隧道の富士吉田側入り口地点(標高1300m)付近を指すようになり、古道の峠を「旧御坂峠」、御坂隧道の峠を「新御坂峠」と分けて呼称する場合も。
1994年の平成6年に、御坂トンネル有料道路が無料に、
1967年(昭和42年)に旧御坂峠のほぼ直下の標高1000m付近を貫く形で新御坂隧道が開通され、延長は2778m。

「御坂峠と文学・美術」-葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三坂水面」-
           - 歌川広重「富士三十六景 甲斐御坂越」ー



江戸時代後期には浮世絵師の葛飾北斎が御坂峠から見える富士山を描いている。
1830年、から1834年、刊行、「冨嶽三十六景」では甲斐の裏富士を描いた作品が六作あるが、そのうちのひとつ「甲州三坂水面」では御坂峠から河口湖に映る逆さ富士が描かれている。(実景としては逆さ富士は御坂峠から見ることが出来ない)
「甲州三坂水面」では実景として描かれる富士は夏山なのに対し、湖面に映る逆さ富士は冠雪した冬の山として描かれている。
北斎没後の1849年、刊行、「北斎漫画 第十三編 無題(甲州三坂水面)」においても同様の御坂峠から望んだ逆さ富士が描かれている。
同じく浮世絵師の歌川広重は、1858年、に刊行、「富士三十六景」において御坂峠から見える河口湖と富士が描かれている(逆さ富士は描かれていない。広重は、1841年に甲斐を訪れ「甲州日記」に甲斐名所のスケッチを残してるが、御坂峠を訪ねた記録は見られないと云う。 

           -作家の井伏鱒二と太宰治ー
御坂隧道の富士河口湖町側入口横にある天下茶屋に滞在して執筆活動をしている。
茶屋付近には太宰の作品「富嶽百景」にある「富士には月見草がよく似合ふ」の一節を記した文学碑が。



「ヤマトタケルノミコトが越えたことから「ミサカ・御坂」と呼ばれるように。
御坂路ー関西と甲斐を結ぶ主要道路として使用さている。
武田の軍勢の甲斐源氏もこの道を通り、御坂の山を越えていった。



「鎌倉古道御坂道の峠」
戦国時代に山城が築かれていたと云う。
天正10年(武田家が滅んだ年)の記述に御坂城で戦があったとの記載ある。
調査の結果峠の鞍部を中心にやや西側に多くの城郭遺構が見られると云う。ー富嶽旧御坂峠ー


御坂黒岳,ー御坂山塊の最高点ー
旧鎌倉往還の藤ノ木から石畳の残る道を上がると御坂峠、目の前に河口湖、富士山を見る、甲斐富士見三景の1つになる。
往古、日本武尊はここを越えて甲州に入ったと云う。
ブナ林の中の土塁は、徳川家康と北條氏政の覇権争い(黒駒の合戦、天正10年8月12日)の跡と云う。



東海道から甲府へつながる「鎌倉往還」の途中になる「御坂峠」。
富士河口湖町と笛吹市にまたがる「御坂峠」は、東海道から甲府へつながる鎌倉往還の途中。
富士山がそびえる。この眺望に旅人の心が洗われるのは今も昔と変わらないのでは、
作家、井出孫六氏は昭和57年出版「日本百名峠」でひとつに数えている。



           北条夫人辞世の句(武田勝頼の正室ですが、北条家より嫁入りしたので)
 ー黒髪の乱れたる世ぞ、果しなき、思いに消る、露の玉の緒ー

武田家と北条家の同盟の証として、嫁入り、その後、両家は仲たがいし、闘いの日々が、織田の乱入で滅亡の定めへ勝頼の「北条へ帰って、生き延びよ」との、説得に応じず勝頼の妻として、武田の女として死を選んだのでした。

北条夫人  1564-1582 北条氏康の6女? 名不明(氏康の子女で生年が判明しているのは「氏規と北条夫人のみと云う」
夫人が輿入れの際、御坂路を通って甲斐の国へ・黒駒の地主の家に一泊し、翌朝記念に松を植樹し、昭和30年まであったと云う。北条夫人は、戦国時代の強い女性であった。

「駒木戸の口留番所案内板」より。
江戸時代に駒木戸(立沢)には口留番所と呼ばれる関所があった。
甲州には二五か所の口留番所があり、信濃境・駿河境や江戸へ近い上之原などは、侍身分の役人が取締っていた。駒木戸では上番(名主)下番(平百姓)が駐在し通行手形など厳しく取り調べた。この番所は平屋茅葺で二間半・四間の建物で役務室と控え室の二部屋からなり、外周りの矢来は栗材で高さ六尺(役百八〇糎)、東側三間・西側二間で囲まれていた。
通行手形を持たない者とか不法狼藉をはたらく者に備えて、刺股・袖がらみ・突棒なども用意されていた。

鎌倉街道に沿った駒木戸の集落の東側で、金川と立沢川の交差する付近に口留番所はあったが、水害の延宝二年(一六七四)には、称願寺の前に移動したこともある。今も関所があったことから関元とか、関下などの地名が残されている。


「棒道」
武田晴信・信玄が、開発したとされている軍用道路。
八ヶ岳南麓から西麓にかけての甲信国境(甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の境)を通る。
甲斐国北西部の逸見筋(現在の北杜市域)にあたる山梨県北杜市(旧北巨摩郡小淵沢町、長坂町)や長野県富士見町には現在でも上の棒道、中の棒道、下の棒道の三筋が残されており、それぞれ市・町指定の史跡となっている。
地元では信玄棒道と呼ばれており、「棒道」の由来は、荒野にまっすぐ一本の棒のように存在していたので棒道と呼ばれるようになったとされる。
別名は大門嶺口。
           信玄の道は、信玄菩提寺、恵林寺の参道


「ほうとう」
山梨県内のほどんどの地域で古くから食べられていた郷土料理。 小麦粉を練った麺に、地元でとれた野菜や、地味噌で煮込んだ麺料理の一種。
農山漁村の郷土料理百選にも選ばれている。県は山国で水田が少なくお米の代わりによく食べられていたのが、「ほうとう」。米作に恵まれなかった
山梨県では、数十年前までは県民の主食で、特にお嫁入り前の娘さん達は、ほうとう作りの腕を磨いていたと云う。
野菜類、カボチャ、じゃが芋、里芋、白菜、ねぎ、ごぼう、にんじん、しいたけ等を入れ、食物繊維が豊富に含まれる。
カボチャの入ったほうとうは栄養価が高くて、寒い季節には身体が温まり、夏は汗が出るのを好み、涼しくなる、早く簡単に調理できる。

             武田軍は、「ほうとう」が食べられると喜ばれたと云う。


「石和温泉」温泉の出る前は田畑。
1961年の昭和36年、「いすみ荘」で温泉掘削を行った際、毎分2,000L、泉温49℃の温泉が湧出し、周辺の川や田畑に流れ出したと云う。
その後即席の露天風呂が作られ、「青空温泉」と称したのがはじまり。
その後山梨県企業局や地域内の温泉宿によって掘削が行われ現在に、都心に近く人気に。





「笛吹川」
山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。
広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する。
流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園は、ブドウなどの果実栽培が盛ん。



次回は恵林寺方面へ。

東海道15.~17番吉原・蒲原・由比宿

2015-08-28 | 気まま旅

東海道五十三次吉原宿


広重の「左富士」、松並木を行く馬の背から進んでいく前方を見ると、「富士山」は左にある。東海道で唯一の左富士と云うが、相模川の位置
も左と云う。広重は、吉原を選んでいる。これは、ここで北西に曲がっている。
街道脇に「左富士神社」があると云う。

田子の浦の今は、田子江川、潤井川、小潤井川、和田川、沼川が流入し、港の周辺は、古くから製紙の町として発展。
日本製紙・王子製紙・三島製紙などの製紙工場が多く、倉庫(埠頭倉庫)、運輸業、食品加工工場も集中。
南側には石油埠頭があり、油槽所も多い、西側には、旭化成の工場、東側寄りには貯木場となっている。
港を作る前は砂浜海岸であり、湾になっていることで、定期的に浚渫工事が行われている。
田子の浦港に入港する外航船(外国貨物を運ぶ船舶)は、主に紙の原料となるチップや コーンスターチの原料となるトウモロコシなどの
バルカーがあり、これらはパナマックス級であることが多いが、このクラスの船に貨物が満載の状態や潮の干満を考慮しないと船底を擦ってしまい、接岸できなかったりする。
田子の浦湾


富士市から


「富士川」は、
町の西方であるが、昔は、原宿の浮島ヶ原にかけて一面が富士川の河原で、大雨等で流域が大きく変わっていった。


吉原宿は、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。


            田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)。
    

      公園展望台から                  園内の神社で参拝
    

 「富士川の戦い」
治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始、この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、
一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」で、
実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれていると思える。
士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かと云う。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。
頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。

この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。

                   浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが


吉原宿からー「蒲原宿・由井宿」
                      東海道蒲原宿


15番目の「蒲原の宿」は、由比と同じ細長く、今でも格子戸が並ぶ町並み、
「蒲原宿」は、山、川、海に囲まれ、今は、静岡市清水区蒲原。駿河湾で最も奥深い海岸沿いに広がる東西約6.4kmの細長い町並み。
東海道五十三次の時代から、交通の要所として栄えた歴史のある地域で、温暖な気候や豊かな海に恵まれて柑橘類、桜えびなど特産品で知られている。

「蒲原城」
山城、築城時期は、 南北朝期。築城ー 蒲原氏、その後、佐竹氏、北条氏等。遺構ー 曲輪、土塁、堀切、石積 等がある。歴史は、
鎌倉期に「入江清定」の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗り、築城は南北朝期と推定されている。
1582年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城した。
城は、東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれている。
城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではない。南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続き、そんな中でも、北条の長老格であった、「幻庵長綱の子」ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつという。

             蒲原宿から見える  蒲原山城跡の山  善福寺           


蒲原城跡の約650m東に標高約164mの御殿山山頂に、「狼煙場」と呼ばれてい 所がある。
蒲原城の東側は北方から山が張り出している、 そのため、「狼煙場」は、敵の動向を監視する目的で築かれ、蒲原城の外曲輪の働きを。

   宿場と山城跡                        御殿山向かいの山に狼煙場が     


「薩った峠の戦い」
戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂している。
直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信 濃を経て鎌倉へ至る。
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」
直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏している。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死、病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。

「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。

海側の下道と、ここ中道の薩った峠      昔の石塔          合戦案内板            
    

薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像出来ない。

東海道旧道          鰻の寝床の街並みが             中道から下道の水路
    

さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。
広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。「親不知、子知らず」の道と呼んでいると云う。

狭い旧道の中道                 興津川・広重はこの辺から
  

                東海道五十三次「由井宿」


「由比宿」は、16番目の宿場。
小さな宿場町、海と山に挟まれた鰻の寝床が連なる農漁村だが、本陣、脇本陣が一軒ずつ有って密集し、昔は賑わいを見せていたのであろう。

「弥次喜多道中」で茶屋の女性達の呼び込みに辟易したのはどの辺であったのか。
宿場の西に由比川が流れ、水量が増すと「歩行渡り」で、越えなくてはならなかったという。
「踏み込めば 草臥足も治れるかや 三里たけなる由比川の水」と当時の狂言である。

JR東海道本線「由井駅」                   駅前商店街
    

「地持院」は、山号を北田山、臨済宗妙心寺派に属し、往古地持院山の麓か西山寺にあったという。
1573~91年 開山暗室和尚により、現在地に移転再興された。

爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行って、明治初年の神仏分離策により、現在の寺形になった。
本尊は地蔵菩薩「市指定文化財」、他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地蔵」や「六地蔵」「わらべ地蔵」「のっぺらぼう地蔵」、
寺領ヌクイから掘り出された「掘り出し地蔵」等がある。
お地蔵さまの寺とも呼ばれ、本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立し、開山暗室和尚より鮎川博道和尚で27代目と云う。

地持寺                               楼門
    

境内は、約二千坪に本堂・堂・客殿・書院・庫裡・山門・鐘楼等諸堂が配置され、飾る四十四面の襖絵・彼岸庭になっている。
心にやすらぎを与える禅寺らしい寺。本堂(大正10年建立)、客殿(平成7年建立)、彼岸庭より見た客殿。
書院(平成7年建立)、鐘楼(昭和34年建立)、住職手造の山門・塀と所々の彫刻もある。

寺の隣には、「駿河國廬原郡 豊積神社・旧郷社」がある。御祭神ー木花之佐久夜比賣命、旧由比町の鎮座。
鳥居をくぐると、茂った木々で境内は暗い、境内に、二基の鳥居、大イチョウの木がある。
神事の、「太鼓祭りは有名」境内には、太鼓の彫刻もあった。正面の社殿の後方には、垣に囲まれて、流造の本殿がある。参拝。

神社鳥居               拝殿                  地持寺   本堂
    

浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していたという、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇から取られたという説もある。

坂上田村麿が東征の戦勝報告に当社に立寄り、ここで、宴を催したことから、太鼓祭りが起ったという。境内社の数も多い。

神社本殿                            緑に囲まれた境内
  

「経塚山、妙栄寺」は、1854年、日満上人が境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り、土地の有志と石塔と草堂を建立。
これを経塚山妙栄寺と称し自ら開山となった寺。
当初は三間四面の辻堂にして、無檀無禄であった。明治23年、望月与平が堂宇を修繕してついに題目修行の道場とした。
18世一妙院日久と一浄院日豊法尼の心願によって現本堂が建立され、20世真亮院日恩に至って境内地の整備された。

                           本堂
   

「由比本陣」(大名が宿泊する施設)は、本陣一軒と脇本陣一軒、旅篭屋が三十二軒あり、相当な賑わいを見せていたと伝えられている。
弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」の文中でも往時の賑わいぶりを伝えている。
由比町には、今も当時の面影を残す所が多く、町ではこの本陣屋敷を整備し、江戸時代の生活文化を知る貴重な体験ゾーンとして町民をはじめ訪れる人々が
江戸文化に触れることのできるよう由比本陣公園として開放。
                                 資料展示場
    

表門、石垣、木塀など、本陣は普通に見られる本陣とは少し異なっていて、街道に家屋を直面させないで塀などで遮蔽した。
「遮蔽型本陣」といわれる形式を特徴としている。表門、石垣、木塀や馬の水呑場などは、当時の佇まいを彷彿させる物。
「本陣記念館(御幸亭)」明治天皇がご小休された離れ屋敷。
茶室、水屋などを備えた伝統的な和風建築、出来るだけ当時のままを復元されている。
記念館前にある庭園は「松榧園」といい、その由来は家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名したもの。
記念館北側の庭は、小堀遠州作といわれており、当時の石組みなどを修復しながら再整備された。

                     本陣 庭園
    

「楠木正雪」は、慶安4年・1651年に、「由井正雪の乱・慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47。正雪の首塚が「菩提樹院」に存在する。
慶安の変 は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を
集めて幕府転覆を計画した事件。しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に発覚したため、正雪は駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
事件は、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つ、とも言われている。

東海道幕末の風雲児、正雪は、駿府まで逃げて自刃したが、遺髪を託し「正雪紺屋」の浦に埋められているという。
明治に掘り出されかけたが、災いが起きたため中止されている。

明治天皇休息処碑                 本陣前の紺屋
    

これで伊豆・沼津・東海道原宿ー由井宿は終わります。次回は、山梨県、大菩薩峠方面へ。 

東海道13・14番沼津宿・原宿

2015-08-25 | 気まま旅
1560年、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。
西からは,徳川氏、北からは、武田氏、駿河に攻める。東の「後北条氏」も武田氏に対抗して駿河に進攻。
後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げ、武田氏の、駿河における拠点の一つが「三枚橋城」。
三枚橋城は、現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていたと云う。
城の築城時期については、1577年、に武田勝頼が築城したという説と、信玄生存中の1570年、には既に築城されていたという説がある。
現在では後者が有力で、城の城主としては「高坂源五郎」が名高い。

この三枚橋城と川を挟んで対立したのが、後北条氏の「戸倉城」で、三枚橋城による武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。
1580年には、武田と後北条の水軍が重須沖の駿河湾で海戦を行っている。

1577年、武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して、沼津城を築城し、「高坂源五郎昌信」に守備させたといわれている。
しかし、「信濃史料」から、築城の時期は天正5年ではなく、元亀元年、
信濃の諸士に城普請を務めさせている記事がみえるため、この時期に創築を求めようとする説が有力と云う。

沼津城の遺構はほとんど残存していないが、昭和48年ビル建築工事で発見された石垣が同城のものであったと推定され、石垣の組み方は戦国末期の実戦的築造であるという。


「千本浜通り」
出雲の神を祀る「日枝神社」が、昔この辺りは、一面都の荘園で,大岡庄と呼ばれていたと云う。
狩野川がうねり,沼地のようなところを干拓し,次第に水稲を作れる荘園に作りあげて行ったのが,この神社創建の平安中期と云う。

日枝神社                拝殿                      千本松原に
    

「長谷寺」は、稲久山と号し、本尊は十一面福聚自在観世音である。
825年、淳和天皇の御代に、弘法大師が勅を奉じて駿・豆地方を巡錫中、鎮護国家の祈願道場として創建したものだという。
昔、大和の長谷寺の末寺で、法相宗から真言宗に変わり、現在は時宗に属している。地元では、「浜の観音さん」と呼ばれ親しまれている。

公園前の長谷寺                                 堂
   

長谷寺は、江戸時代より駿河一国三十一番札所及び横道十三番札所となっている。

                        本堂


東海道随一の景勝地である千本松原を有する沼津を代表する公園には、数々の歌碑・文学碑が。

千本松原(先人たちが一本一本植林)


風致公園で、沼津港の海岸に沿っている。面積 146000㎡と広い。

公園内 
    

「増誉上人の像」と千本松原は、1537年頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐きり払われてしまう。
そこへ、一人の旅の僧がやって来ました。「増誉上人長円」です。
潮風の害を受けて困窮していた住民をみた長円は、人々を救うために経文を唱えながら、何年もかかって千本の松苗を植えた。
千本松原はこうしてできたもので、増誉上人長円は千本山乗運寺の開祖です。

増誉上人像は、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われている。

東方寺前の千本山乗運寺開祖「増誉上人」が千本松苗を植えたと云う
    

角田竹冷句碑がある。
角田竹冷は、安政3年、富士郡加島村(現在の富士市)に生まれ、家が貧しかったので少年時代は魚町の商家の奉公をした。
明治5年、16歳の時に東京へ出て働きながら法律を学び、24歳で、弁護士の免状を取り、35歳で衆議院議員に当選、その後6期17年間にわたって議員として活躍。
俳句には幼少時から生涯を通じて親しみ、俳人としても名を成し、「毎日新聞」「読売新聞」の俳句選者にもなっている。
代議士就任中、新聞紙上に軽妙な時事俳句を発表したことは有名である。大正8年62歳で永眠した。
  句碑  時は弥生  瓢枕に  鼾かな。 亡くなる前日に。

1856年富士市苗村出身の 角田氏句碑




「東海道五十三次・原宿」


東海道11番「箱根」・12番「三島」・13番「沼津」

「14番「原」」

沼津市、駿河湾がら堤防に立つと西方、工場の煙突から煙を出した工場、製紙工場が点在、沼津から原まで、6kmの海岸線は、
黒松の松原「千本松原」の名で。

東海に進出を目論んだ「武田軍団」は、三枚城を取り囲み、千本松原を切り払ったが陽動動作戦には乗ぜられず、根負けした
武田勝頼軍は、引き上げたという。
勝頼の切り払った松林を、増誉上人は、自ら修植し、再び元の姿に戻した。




隣吉原宿まで11km、2里強、東海道で一番小さい宿場と云う。


「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師。
1716年父の病で松陰寺に戻り、1717年 松蔭寺の住職となり、34歳の時京都妙心寺の第一座となった。
その後、禅の大衆化を図り、ついに50 0年に1人と言われるほどの高僧となり、臨済宗中興の祖と仰がれ、白隠は、禅画を確立した事でも有名。
好んで釈迦,観音,達磨等を描きその名も高い。白隠の郷里。

小田原の北条早雲は、旗揚げを、「興国寺城」であった。城は、浮島ヶ原湿地帯の難攻不落の城と云われ、北西に富士山で湧水が溜まって湿原。

天保14年頃の原宿、人口1939人、家数398軒、本陣1軒、旅籠25軒
 

500年前、江戸中期の禅僧「白隠慧鶴」、民衆教化に捧げ、現代の臨済宗中興の高僧。
天皇より「神機独妙禅師」の号を賜った、白隠(はくいん)1685-1768 駿河国(沼津)で生まれるいる。

15歳で臨済宗、松蔭寺に出家し全国行脚、33歳で松蔭寺に戻り住職に、臨済宗を説く、僧には珍しく豪勇で、狼が昼夜出没し村人に害を
与えているにもかまわず、白隠は、独り座禅を組んだ、狼は、白隠の顔を舌で舐められ、頭上を飛び回っても動じずに座禅を続けていたという。

「臨済宗」とは、お釈迦様が深い瞑想のもとに悟った「無我の境地」を、坐禅や日常生活を通して体験し、自覚すること、
「こだわらず」「とらわれず」、迷いも欲望も苦悩もない、自然と同化した絶対的境地、それが本来、人間がもつ清浄な仏心そのものと云う。

日本の禅宗には、三つの宗旨「臨済宗・曹洞宗・黄檗宗」があり、臨済宗はその中のひとつ。
臨済宗の教えを「臨済禅」
坐禅を宗旨の中心として、師匠から与えられた問題「公案」について工夫し、坐禅により身体で会得した見解を提示し、点検してもらいます。これをいわゆる禅問答「入室参禅」といい、このような坐禅修行を中心とする教えが臨済宗である。

蓮池観音は、珍しく鮮やかな多色づかい。


西念寺(天神さん)は、時宗。山門・観音堂等があり、望海景勝の寺であったという。浮島原に常休庵・休心坊などの末寺もあったが、延宝年中火災により堂字等を消失し、明治26年鉄道火災によって、本堂等類焼。
境内に入って左手に菅原道眞公 をお祀りする天満宮(昭和58年再建)が、西念寺門前で生まれた「白隠禅師」。   

白隠誕生地の石碑  西念寺先駿河銀行前(道路南側)に石碑がある。 




「14番・原宿」ー13・沼津宿ー14・原宿ー15・吉原宿ー16・蒲原宿ー17・由比宿ー江尻・掛川・見附ー東海道五十三次 

富士山の浮世絵に出てくるのは、もっと近いこの地形にある。
江戸から32里で幕府領(天領)伊豆韮山代官(江川太郎左衛門)の管轄であった。   

石碑の奥には白隠の産湯井。


長興寺 臨済宗妙心寺派 約640年前、室町時代、鎌倉・建長寺の開山、「大覚禅師」のお弟子の「友獄和尚」が行脚中に原の浜辺にさしかかり、海の響きに感応道交して身心脱落。
歓喜雀躍して、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安し一堂宇を建立した。
その場所が砂州の上にあり、満潮の時にはあたかも海の上にあるかのように見えたので、山号を海上山とたという。
江戸時代なかば、白隠禅師の道友であった、大義和尚(当山準開山)によって清見寺末となり、妙心寺派となる。
海と御縁の深い寺で、海の神様、金毘羅山大権現 を鎮守神としておまつりしている。
昔、駿河湾ではマグロやカツオなどの漁が盛んでした。お祭りには大漁や海上安全を祈願する漁師が、地元のみならず西浦方面からも舟でお参りし、にぎわったと伝えられてる。
近年、金毘羅堂も再建され、毎年5月の最終日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」が 行われます。江戸時代、お隣の松蔭寺には、日本臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師の指導を求め、全国から修行僧が参集。
その数、数百であったと記録されています。その折り、当山も宿坊として使用されました。修行者が松蔭寺へと参禅にかよった道が今も残っており「白隠道」と称されている。
 
清見寺末、長興寺(白隠禅師の道友、大義和尚開山)
    

京都の「妙心寺」原の「松陰寺」は、全国大名、参勤交代時、あらそって面会を求めたと云う。

    

松陰寺・(白隠さん)は、白隠禅師(1685~1768)ゆかりの寺。
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になる。現在は臨済宗白隠派大本山。

「擂り鉢の松」特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として親しまれています。原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。山門手前に「白隠の里案内図」が設置(2008年3月)されました

松陰寺(世界に知られている白隠禅師ゆかりの寺) 
    

境内に、                                  堂 
  

藤棚                     本堂
    

昌原寺は、浅間神社向かい。
日蓮宗、大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。
1615年 春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえ、ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、こ の地に一山を構えるように要請した。
お万の方は、法華経の信者として朝暮に日蓮大聖人の御真影を敬拝していた。
この御真影は、日蓮聖人の自点眼尊影として、昌原寺落成のとき駿府城を通じて当山に寄進され寺宝となっている。
徳川幕府より境内地5反30畝、大門40歩のほか、御真影供養料田地1反5畝を賜った。
元和8年に念願が成就し、寺院を、建立している。

昌原寺                                            本堂 
    

浅間神社は、祭神木花咲耶姫命(富士山のこと),愛鷹大神(愛鷹山のこと),
浮島ヶ原を最も早く開墾したのは遠州の浪人だった鈴木助兵衛であるという、父が安部郡上土を開拓した後二代目助兵衛が浮島ヶ原へ来てこの地を拓き助兵衛新田と称した。
原「浅間神社」は、1609年武田家臣の植松平次右衛門季重が創建と云う。
興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高 い、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城。
城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だった。
太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。
墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったという。

浅間神社             狛犬                   拝殿
    



次回、吉原宿へ。

北条水軍の長浜城

2015-08-22 | 気まま旅
伊豆半島の西付け根、東部中心都市・中世沼津郷、政治・経済地域、駿河湾北東部を抱き込、沼津町・楊原村・片浜・金岡・大岡・静南・愛鷹・大平
内浦・西浦ー北に「愛鷹山」「狩野川で二分」、先土器・縄文土器の遺跡が多く、弥生土器時代は水稲耕作がい営まれている。
鎌倉時代から東海道の要衝、戦国時代には武将らの争奪の舞台ー「武田勝頼」は、狩野川河口に「三枚橋城」を築城、江戸時代に、水野藩が支配下とし
城下町・宿場町として発展し、「沼津市」は、静岡県東部の中心、大政奉還後 1867年、「沼津兵学校」が開設、近代都市の基礎が築かれた。

「長浜」は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられたと云う。
「長浜城跡」は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山の城。戦国時代、豪族大川氏の居城。
また、「重須」は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」・この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、「重須」と記され、「北条水軍」の根拠地で船大将「梶原氏の陣所」と云う。
田久留輪や城下の地名が残っているいるとも云う。
1580年、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたとある。

「梶原景宗」- もとは紀伊の海賊と言われ、北条氏康が、自軍の水軍を強化するために招いた。北条水軍は領国への海上侵犯や小田原城への攻撃を
防ぐことを役割としており、2度にわたる安房・里見水軍の襲撃を阻止した。また、武田水軍とも駿河湾で海戦を交えたといわれる。

長浜城、伊豆国君沢郡長浜(静岡県沼津市内浦重須)にある。戦国時代の海賊城の遺構を多く残している。
    

「北条氏直」 1562-91 5代目城主ー小田原城主ー北条100年王国の幕引ー
北条氏政の長男、本能寺の変後、上野国にいた「織田信長重臣・滝川一益」を撃破して信濃国へ攻め入る。小県・佐久郡占領する。
甲斐の国をめぐり徳川家康と争うが講和している。家康の娘「督姫」を娶る。「名胡桃城」を攻撃した為、豊臣秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
妻と別れる時にお守りを渡し北条早雲が小田原城を奪った際の、武運を祈って食べた勝栗の半分を錦袋に納めた物、代々伝わる秘蔵の品だったと云う。
ー一族から世に出る者があれば渡してほしいー頼んだと云う。氏直は、復活をあきらめていなかったと云う。
秀吉から1万石を賜り大坂で30歳で没している。

    

駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年、頃、北条水軍の基地として改修し、
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなった。
1580年(天正8年)には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
1590年(天正18年)、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。

国の史跡に指定、
市教育委員会による発掘調査・史跡整備が行われ、史跡公園。
城址の各所に解説版が設置されている。

  

総面積は、15476㎡・城郭の中で最も高い場所の「第一曲輪」は標高約33m。
海側からの攻撃を想定しておらず、敵の銃撃をよける「土塁」は陸側にしかないのが大きな特徴と云う。
全国的にもこの形の城はあまりないとも云われている。

1550年代の戦国武将の勢力図は、関東や伊豆を北条氏、駿河は今川氏、甲斐が武田氏。3氏に囲まれた「緩衝地帯」が

                  現在の沼津市のあたりだった。
  

駿河を手中にした武田氏が狩野川沿い に三枚橋城(沼津城)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が 1579に、
    


「駿河湾海戦」
武田氏の沼津三枚橋城と北条氏の沼津長浜城が整備された翌年、駿河湾内で海戦が行われた。
北条・武田両氏水軍は、天正8年の1580年、ついに両者の間に駿河湾を舞台に大規模な海戦が。
3月15日のまだ夜が明けきらない頃、武田方の軍船5艘による奇襲から戦いは始まり、鉄砲が飛び交う激戦を繰り広げた。
戦いは日没をむかえても決着はつかず、引き分けに終わったと云う。
北条方には「安宅」と呼ばれる50丁櫓の大型軍船があり、武田方は大分苦戦、4月25日に武田勝頼が武田水軍の小浜景隆・向井兵庫助に対して
「伊豆沿岸の郷村を数か所撃破したうえに、敵船を奪った」ことを称えている。
翌年3月29日に起こった沼津市久料(伊豆久龍津)での海戦においても武田水軍が「敵船3艘を乗り沈め、凶徒数十人を討ち捕えた」との記述があることから、3月の開戦後しばらくは武田水軍が優勢だったと思える。

織田・徳川連合軍が武田攻略作戦を進めると、これに呼応した北条軍も河東地域一帯から武田軍を追いやることに成功しているが。
武田軍は、この後盛り返すことはできず、滅亡へと進んでいく。

天正18年の1590年、
豊臣秀吉の小田原攻めに際し、長浜城は再び緊張状態におかれ、北条方水軍は、初めは豊臣水軍の来襲に備え下田城に集結しますが、評定の結果
籠城策と決まったため、小田原の川岸と油壷に移動、北条水軍の去った後の長浜城、在地土豪、大川兵庫が城将として籠城したと云う。
長浜城では大した戦闘はなく、韮山開城とともに廃城になったものと考えられている。



次回は、東海道、原町・吉原宿方面へ。

駿河湾 沼津

2015-08-20 | 気まま旅
「県道17号」
沼津土肥線は沼津市口野のR414交点を起点に、伊豆半島北東部を海岸沿いに走り、土肥町(現 伊豆市土肥)のR136交点に至る54.1kmの主要地方道です。(土肥ー戸田村)


県道17号線を沼津から西伊豆方面に海沿いに走ると、その途中にいくつかの富士山が見られる展望台があります。
その一つ、静岡県沼津市井田にある「煌めきの丘」に立ち寄りました。
この「煌めきの丘」からは井田集落や明神池、駿河湾、そして天気の良い日には正面に富士山が見られるはずなのですが、今回の旅行探検で訪れたときは富士山全体があつい雲で覆われており見ることができませんでした(残念)
しかし、2月~3月頃にしか見ることができない菜の花畑の「井田」の文字を見ることができました。

ちなみに今回は行きませんでしたが、この「煌めきの丘」から少し下ったところにある「明神池」には徒歩10分ほどで行けるそうです。
次回の旅行探検で行った際には「明神池」や「松江古墳群(すんごうこふんぐん)」、駿河湾に面した海岸線まで行ってきたいと思います。



起点である沼津市・口野放水路交差点から伊豆半島西海岸沿いを進み、三津、西浦、大瀬崎、戸田を経て伊豆市に入り終点の土肥中浜で国道136号に接続します。駿河湾を眺めながらのドライブコースではありますが道幅の狭くカーブが多い区間が点在するので快適とまではいきません。沼津から土肥へのアクセスには国道136号



伊豆半島最南端の石廊崎と御前崎を結ぶ線に囲まれた海域が駿河湾で、その最深部は2,500メートルに達し、日本の湾の中では一番深い湾です。
駿河湾は、湾の間口も奥行きも約60km、表面積は約2,300平方kmです。
その水深の特徴は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境に位置し、1,000メートルより深くに海底峡谷が湾口から湾奥部まで南北に連なっています。
湾内には約1,000種の魚類が生息しているといわれています。(日本の魚類は淡水魚を含め約2,300種)イワシ、アジ、サバをはじめ、サクラエビ、メダイ、ムツ、ヒラメ、ソコダラ類、ボタンエビ、アカザエビ、クルマエビ、イセエビ、タカアシガニ等が生息しています。
また、珍しい深海魚が生息していることでも有名です。

日本の深い湾トップ3

1位 駿河湾 2,500m 静岡県

2位 相模湾 1,500m 神奈川県

3位 富山湾 900m 富山県

資料、出典:東海大学出版会日本海洋学会沿岸海洋研究部会編、「駿河湾のなぞ」(星野通平編)
資料協力:沼津市、富士市


雄大な富士山を眺めながら、駿河湾を渡る高速カーフェリー。清水港と西伊豆土肥港をわずか65分で結んでおり、ちょっとした船旅気分も味わえる。特別室もある豪華なフェリーは横揺れ防止装置を備え、快適な乗り心地。広いデッキでは頬にあたる潮風も気持ちいい。

ヘダ号は、戸田村に感謝し命名された日露合同で造船された西洋式帆船の船名。

沼津市の戸田地区 写真は2010年のもの
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震によって伊豆半島は津波の被害にあった。この時、ロシアの海軍中将であるエフィム・プチャーチンは日本との国交樹立交渉のため、フリゲート「ディアナ号」(2000トン級)にて来日し、下田に停泊していた。津波によりディアナ号は直撃を何度も受け、半日もの間激しく湾内を旋回した後、沈没は免れたが、大破した。

ディアナ号は破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て、戸田村へ向かったが、航行中に強風と大波にあい1855年1月15日(安政元年11月27日)に田子の浦沖で座礁し、1855年1月19日(安政元年12月2日)に沈没する。幸いにプチャーチンと乗組員は、大地震の被災者でもある地元の人々の協力により救助され、宮島村(静岡県富士市)に上陸する。 プチャーチン使節団の応接掛であった川路聖謨も、ただちに救難対策を講じた。この時、ロシア人一行は、自身のおかれた状況も顧みず、献身的に救助してくれた地元の人々に対し大いに感謝したと伝わっている。

日露和親条約締結後、プチャーチンは帰国ための船の建造を幕府に願い出る。その申し出は許可され、戸田村・牛ケ洞にて帆船の建造が始まる。日本人は官民合同で300人と、ロシア人500人の計800人に上り、日本史上初ともいえる日露合同の造船が行われた。

日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はあったが、日露双方が一丸になって取り組み、着工から3ヶ月という短期間で、2本のマストを備えた小さな帆船が竣工する。プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けた。「ヘダ号」は無事、ロシアのニコライエフスクまで航行し、プチャーチンたちは3年ぶりに祖国に帰還した。

1856年(安政3年)9月に日露友好のシンボルとなった「ヘダ号」は日本に返還されるが、戊辰戦争の局面の箱館戦争で官軍に対し使用されたのを最後に、その記録は途絶えており、行く末の詳細は、わかっていない。

戸田村では、ヘダ号の同型船である君沢形の量産が行われ、日本の造船技術の発展に大きく寄与した。



梶原 景宗(かじわら かげむね、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。備前守。
紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となり伊豆水軍を率いた。里見氏や武田氏との戦いでは、水軍を率いて活躍したと言われている。しかし『北条記』では「海賊」と記されている。『北条五代記』では、「船大将の頭」と記されている。また、近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が指摘されている(北条家臣安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している事からも窺える)。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で水軍を率いるも本多重次の配下であった向井正綱率いる徳川水軍に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、氏直の死後は紀伊に土着したという。 文書上、最後に動向が確認できるのは天正19年(1591年)に北条氏直が景宗から贈呈された鯖50匹に対する返礼。

北条氏康から景宗宛ての書状で「海上警備の為に現地(伊豆海域)に残ってほしい」とするものや、里見水軍との戦いに際しては「紀伊衆が活躍し~」などと記述が残っており、北条氏の直臣という立場ではなく、前述の交易商人としての行動や、「傭兵」のような形で属し、立場としては客将のような形であったと思われる。(ゆえに北条氏の滅亡後は本拠の紀伊へ戻っている)