syuの日記・気まま旅

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哲学の道 あれこれ

2013-04-23 | 気まま旅

「西田幾多郎」の京都帝国大学教授時代は、18年間、教鞭をとり、三木清、西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。
戦時中、国策研究会において佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機が大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼され、彼は「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを表している「世界新秩序の原理」と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だった事や、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説に彼の原稿が反映されなかったという。

和辻哲郎宛の手紙の中で、「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。
鎌倉にて、尿毒症により急逝。その時一緒にいた、在家仏教「鈴木大拙」は彼の死を前に座り込んで号泣したという。
西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。

「弥勒院」は、銀閣寺近くにあるのが、「幸せ地蔵尊」という赤い旗が目を引く。
このお地蔵さんは木造で子供を抱いた「子安地蔵」。もとは室町の呉服商が弥勒院に預けたものと云う、預けられた当時は本堂に安置されていたが、台風で土塀を修理するときに道沿いにお堂を建て祀ったという。

「哲学の道」で、何を信じてこれから生きて行くかを考えて歩く
    

今の京都には、平安時代の遺構は無い、街路名は残って居る。四条高倉の交差点に立てば、四条大路、高倉小路で懐かしい。
16世紀後半、織田信長は荒廃した京都をふっこさせている、その後も豊臣秀吉は、聚楽第を造営し、寺の集め、方一町の区画、細長い
短冊型の新しい町割りをして伏見城を、徳川家康は、上洛のため二条城を造営し所司代を置いた。
1870年明治には、琵琶湖から京都に水を引き疎水を開通させ、水力発電所を90年に、その電量で日本初の電車が市内を走った。

「法然院」鎌倉時代、専修念佛の元祖「法然房源空上人」は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。
1206年、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、
「法然上人」は、讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。
江戸時代1680年、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれたと云う。

在家仏教とは
    

その疎水脇に桜の木が植えられ「京都哲学の道」が完成している。

親鸞上人とは
    


哲学の道のルートは、哲学の道を南に下る寺社巡りコース
慈照寺(銀閣寺)から琵琶湖疏水沿いの哲学の道を南に下るコース。霊鑑寺は椿の名所として名高い。
哲学の道を北に上る社寺巡りコーなどあると云う、私は、疎水に沿って。

四季の京都
    

「大豊神社」は、下流、100mほどのところ、大豊橋があり、傍に大きな石灯篭がある。この橋が「大豊神社」参道。
神社は、平安時代前期の887年の建立、鹿ケ谷村・南禅寺一帯の地主神であって、その昔は、現在の地よりさらに東の椿ヶ峰山中にあった山神。鎮疫神として信仰されていた神。1017年に現在地へ移り、大豊神社とされた。
応仁の乱で荒廃。祭神は、主神が少彦名命で、応神天皇・菅原道真を合祀している。

大国主命を祀っている末社の大国社には、珍しい“高麗ネズミ”が狛犬ならぬ狛鼠で、これは大国主命が野火に遭われて命が危ない時、近くのネズミが洞穴に案内し、命拾いをした伝説に基づき、ネズミを狛犬としたという。
健康・長寿・福徳に御利益があるといい、本殿の南に鎮座している。また、本殿北に鎮座する、日吉・愛宕社も、狛犬ならぬ狛サル、狛トビである。

足利尊氏・義政が桜の宴を
    

神社は“若王子さん”と呼ばれ、縁結びの神様として若い人達に人気、境内末社の恵比須社で祀られている恵比須大神は、かっては西洞院中御門(椹木町)あたりの蛭子社で祀られていたが、応仁の乱で神だけ残し焼失、その後この若王子で祀られるようになったとか。
蛭子社の傍を恵比須川が流れていたが、現在では“夷川通り”の名だけが残っている。勿論、この恵比須社へは開運・商売繁盛を祈願する人のお参りがある。
神社は、1160年、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂禅林寺の守護神として分霊を迎えられ祈願所とされ、禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれたこともある。室町時代には、足利尊氏、義政などが境内で花見の宴を催したという記録がもある。
この神社の神木「椰」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気。

会津日新館川崎氏と離婚し、アメリカ使節団に通訳の「新島襄」と再婚した「八重」1876年である。
    

熊野若王子神社を昇ると、若王子山の山頂には、新島襄と八重の墓がある。標高200m。若い学生が、続々と降りてきていた。
「大河ドラマ」か、同志社の学生か・・・・。

1864年上海ローウ”アー号で「ジョ―」と呼ばれ、1865年フイリックスアカデミーに入り、札幌でクラークに学んだ「ジョー」
    

ジョーは、八重を「美人じゃないが生き方が好きだ(ハンサム)それで十分」と云っている。
    

琵琶湖疏水開通、禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都に伴い京都市は人口が減少し産業も衰退、
第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画。主任技術者として、大学を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせた。
第1疏水は1885年に着工し、1890年に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線が完成した。
第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられたという。

京都は一日にして成らず。
    

琵琶湖疎水分水線で散歩終了、昼食は、「禅」のお好み焼きにした。

京都の「お好み焼き」は、旨かった。
  

次回は、左京区南禅寺、平安神宮方面に。




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