syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

那須・道の駅 那須の旅おわり

2017-10-15 | 四季折々 syuのふた旅



















標高470m。那須高原の入口に位置する「道の駅 那須高原友愛の森」は、那須の観光・芸術の中心地として発展し続けてきました。
広い構内には緑が溢れ、お買い物・お食事・体験で楽しめる場所となっております。
那須の自然を満喫しながら、ゆっくり過ごせます。

所在地:〒325-0303 栃木県那須郡那須町大字高久乙593-8







「那須御用邸」
大正14年の1925年、に着工され大正15年の夏竣工、本邸は標高695mに位置し、敷地面積13,172坪。主に昭和天皇が滞在し、かつては外国からの要人を招いて迎賓館として使用されたこともある洋風建築の建物、昭和10年、に竣工した付属邸は敷地面積2,844坪。現在、天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下などが使用されている。
敷地内にはほかに、休憩所である嚶鳴亭は、昭和5年建築、澄空亭昭和5年建築、平成4年に完成した常陸宮邸がある。
那須御用邸用地は、明治23年、官有原野を編入した御料地の一部に隣接する民有地を買い上げた土地からなる。
御用邸設置後に、さらに隣接民有地を買い上げ、官有地の移管が行われた結果、全体で約1,222haの広さに。
平成20年、 北側約560haを自然観察用地として環境省へ移管することになり、現在の面積は約662haの広さに。
御用邸には、温泉が引かれ、源泉は大丸温泉の川上にあり、約8㎞引き湯していると云う。
昭和4年には、御用邸内に9ホールのゴルフコースが造られたが、現在はない。




那須高原の自然の中にイギリスの候爵の邸宅であるマナーハウスを再現。内部は五感で楽しむがコンセプトの美術館になっている。ウイリアム・モリスなど有名作家の作品や、アンティークステンドグラスを展示。なかでも人気の作品はモリスの代表作の一つ「TWOエンジェル」。心ゆくまでステンドグラスの光が感じられる。館内では、パイプオルガンやオルゴールの音色が響き、アロマの香りが漂う。
























これで、那須高原の旅は、終わります。

那須ビール工場

2017-10-11 | 四季折々 syuのふた旅

「那須岳噴火」は、
1408~10の応永15~17年、 中規模水蒸気噴火(泥流)→マグマ噴火(泥流)が。場所は茶臼岳。 那珂川黄変。死者180余名。牛馬多数被害。マグマ噴出量は 0.041DREkm3。(VEI4)・1846年、 水蒸気噴火、茶臼岳・1881年の明治 14年、小規模水蒸気噴火、火砕物降下。鳴動、噴石、降灰で、噴火場所は茶臼岳山頂西側の無間火口及び北西側の火口。那珂川の魚被害とある。
昭和 17年、 噴気・茶臼岳西斜面の噴気活発化。昭和 18年 、噴気西斜面の噴気活発化・1953の昭和 28年、水蒸気噴火、火砕物降下。茶臼岳西側の噴気地帯(無間火口)。旧火口の西側斜面で噴火し、降灰は南6kmに及んでいる。
昭和 35年、水蒸気噴火、火砕物降下、茶臼岳北西側の噴気地帯。噴石、北方0.8kmまで降灰した。
昭和 38年、水蒸気噴火 場所は茶臼岳西側の噴気地帯(無間火口)、西斜面の無間火孔で小爆発。火砕物降下。付近に降灰。
昭和 52年、地震、最大地震は、M3.7。黒磯における有感地震回数4回(最大震度3)。震源は山頂から南西約10kmの山麓。
昭和 60年、地震、北山麓で地震多発、有感 (福島県下郷町等で最大震度3)。12月、北山麓で地震多発、M4.4。有感(若松震度2)
昭和 61年、地震、山頂北方数kmで地震多発、M4.4、有感(大丸震度4)・南西山麓で地震多発(最大M4.1)。有感 。
「若松、白河、那須火山観測所」

那須高原は、県北東の那須岳東麓に広がる高原を云う。
大丸温泉から国道4号線間、火山灰や泥流で形成された火山裾野である。起伏上を余笹川・那珂川の小支流が多数流れる。
「那須岳」は、栃木北部・福島南部にまたがる。主峰「茶臼山 1915m」で最高峰の三本槍岳1917m・南月山1776m・朝日岳1896・黒谷岳1589m
を「那須五峰・五岳」と云う。山麓に温泉地が多数湧出する。かく2000m足らずで一日登山コースあるが、冬は厳しい山となる。

高原ビール
通常ビールは、加熱殺菌の有無によって、「ラガービール」と「ドラフトビール」に、
       色調によって「濃色ビール」と「淡色ビール」に分けるのが一般的。
ビールのラベルには、製造会社・所在地・容量・国税局名・承認ナンバー・酒の種類ナンバー・ビールの場合「4」・種類ー生かドラフトビール
ラガービールの区別、・注意事項。

加熱殺菌の有無ー殺菌息、殺菌味が。また世界的傾向に淡色が大勢。
黒ビールーは、ホップの比率が普通ビールラガーより高く、酵母は比較的浮遊性のあるものを用いる。0℃前後の低温でゆっくり熟成させる。
スタウトは、強いと云う意味、黒ビールより色が濃いアルコール分も高く麦芽の香味と甘い

                  サッポロビール那須森のビール園






































博物館 小野田少尉と横井庄一さん

2017-10-04 | 四季折々 syuのふた旅











 ルパング島で30年戦っている 小野田少尉(横井軍曹など関係書類50点)


「28年間戦争だとおもっていた。・・・・日本兵 横井庄一」
恥ずかしながら生き長らえて、帰って参りましたが第一声。
横井さんが保護されたのは、1972年の昭和47年1月24日。
28年間もの長期間、密林での潜伏生活を送っていた横井さん。なぜ、彼はグアム島の密林に潜伏しなければならなかったのだろうか?

横井庄一は、大正4年、愛知県海部郡で生まれ、昭和16年に2度目の招集を受け、昭和19年戦死の公報が母「つる」のもとに届いたと云う。
2度目の召集では満州に送られ、1944年、部隊は、釜山から安芸丸にすし詰めにされて、南を目指した。3月、輸送船はグアムに到着している。グアム島には2ヶ月ほどの間に、2万を越える兵隊が島に配置された。
横井氏の部隊は、アメリカ軍が上陸するアガット(昭和町)を中心に陣地を作っていた。
7月、横井氏は、初めてアメリカ艦艇を有羽(アリファン)山から眺めている。
米軍が上陸した7月、の様子も、横井は目撃、輜重兵である。つまり、物資の運搬業務がその中心である。
したがって、持たされた小銃弾も30発足らずであったと云う。





明治・大正・昭和・などの紙幣・雑誌・書籍・世界最初の四駆動ジープ(米・中国軍へ)・日露戦争の旅順28cm攻城砲・零戦戦闘機のエンジン
軍艦志賀船首など見ごたえある。


那須戦争博物館 2

2017-10-02 | 四季折々 syuのふた旅
「自分史」から
・・・・疲れきった兵隊引揚者も次から次と東京を目指して集り、東京に行けば何とかなるという人々の街になった。
上野の森では、戦場で傷を負い、白い病衣姿の負傷兵がハーモニカ、アコーデオンなどの楽器で悲しげな曲を奏でていた。
目が見えず、片脚片腕がない、。道行く人々に頭を下げ、胸につるした箱の中に僅かな同情の寄付を集めて、電車の中にも現れた。
敗戦の日本・誇りを失い惨めな、みずぼらしい姿……。彼らが本当にかつて勇敢な日本兵だったのかと子供心に信じがたかった。
日本の武士道と、日本軍人の誇りは何処に?
共産主義者が解放され、地下活動から日の下へと這い出し、待ち望んで革命のときと声高だかに活動しだした……。
かつての静かで落ち着いた雰囲気のよき東京にはもう永久に戻らないのだろうことを、7歳の少年の肌で感じ取るほどに私の古里は荒れた。

私が小学校3年の春頃であったと思う、駒込・上野の山の高台に、大きな穴があった。
その穴の上には、テントが張られ中は見えないようにされていたが好奇心から中に入って見てしまった。
2・3人の男たちがトラックから死体を木のレール(氷を滑らすようなレール)の上に、餓死した死体を1体,1体、竹竿の先にひつかけて移し、さらにそれを滑らせ、まるで荷物を扱うように大きな穴の中に放り込んでいるではないか。
見てはならない恐ろしくもおぞましい風景だった。
ほんとに驚いた。
あのような状況を知っているものが果たしてこの世に何人いるだろう。
地下鉄東西線の工事のとき、現場に人骨が発見されたと新聞に報道されたが、東京の地には、このように今でも数知れない骨が埋まっているに違いない。
昭和20年11月18日付の新聞で、
行き倒れ6人、1日平均2・5人が餓死、累計で150人とある。
日比谷音楽堂では、餓死対策国民大会を開いている。東京の焼け野原の空き地には、肥いだめを作り、糞尿などを肥料とし、所狭しとサツマイモかぼちゃを育て飢えを凌ごうとしたが、出来るまで月日が必要、やせた土地では計画のようにうまくいかなかったようである・・・・・・。









                17歳の特攻部隊・出陣前の一時(子犬が)


               絵ー特攻隊を見送る地元女学生(すべて後ろ姿、顔は涙で)












日本交戦国の小銃が展示

     米・ガ-ランド自動銃・カービン・ソ連製マンドリン自動銃・中国の共産軍小銃・地雷などが








昭和20年8.15国民に天皇戦争終結の玉音放送・米艦ミズーリ号艦上降伏文書調印ー内閣鈴木貫太郎・東久邇稔彦・幣原喜重郎(外交官)
GHQ-新聞検閲開始・第一次農地改革小作地の強制譲渡・リンゴの歌。