syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

江戸川向影の松 syu散歩

2017-05-31 | syu散歩

江戸川河畔に、「小岩関所」が、又北原白秋は、1年間江戸川河畔に居を構え、「柴畑草舎」と自ら名づけて、「白秋小品」短歌雑誌、
「煙草の花」など創刊している。

「市川橋」
川蒸気「通運丸」が通る頃は、「江戸川橋」と云い。「市川橋」の前身にあたる。
明治38の1905年、架設。現在の市川橋の少し北側、市川関所跡のあるあたりに「江戸川橋」が架かっていたと云う。
国府台に陸軍駐屯地がある関係で架けられ、木橋。江戸川橋が架かる前はに「市川の渡し」があった。
当時のデータで、橋長 100間・幅員 21尺・事業費 4万3,265円 とある。

                    現在の市川橋


                江戸川区小岩町の河川敷ー右側は東京湾


「善養寺」
                   真言宗豊山派 星住山地蔵院(小岩不動)


                  「影向の松」で知られている。


                影向の松は、樹齢600年と云われている。



















      


                 銅板ぶきの本堂は、1845年に再建


                   空海立石像


「柴又街道」
葛飾区の金町から柴又、江戸川区の小岩と縦断する柴又街道。葛飾区や江戸川区 を代表するスイーツの名店は柴又街道沿い。




ここは、都営地下鉄「柴崎」駅付近。
江戸川区は、街道の多い所
鹿骨街道・柴又街道・千葉街道・船堀街道・篠崎街道・今井街道・奥戸街道・佐倉街道がある。

              鹿骨街道(篠崎公園)


                  公園内

国府台と江戸川 syu散歩

2017-05-29 | syu散歩

市川の下総台地は、原始・古代の遺跡が多く、中でも縄文中期ー後期の姥山貝塚(史跡)は、我が国初の集落遺跡。また、堀之内貝塚・曽谷貝塚・
環状馬蹄形貝塚がある。
大化の改新により、「国府台周辺は、下総国の国府がおかれ、国分寺・国分尼寺が建立、市川は、下総地方の政治・文化・経済の中心に。
「姥山貝塚」ー文化財(国指定)・貝塚公園。
貝塚は、縄文時代中期から後期(今から約5000年前から3000年前)に形成された、東西約130メm、南北120mの馬蹄形貝塚。
堀之内貝塚と同様、ハマグリを主体としてアサリ、シオフキなど30種以上の貝が出土していると云う。
貝塚の調査は明治26年以降何度も行われ、重要なのは大正15年に東京人類学会が行った発掘遠足会で、調査で人骨や遺物とともに竪穴住居跡などが発見された。
竪穴住居跡の全容が平面的にとらえられたのは、わが国で初めて、人骨は一つの竪穴住居跡の床に、事故にあったとも思えるような折り重なった形状で、子供1体、成人女性2体、成人男性2体の計5体が発掘され、貴重な資料に。
「出土した中期の土器」
発掘調査が続き、土器については阿玉台式、加曽利EI式、堀之内I式、加曽利BI式など縄文時代中期から後期にかけてのものが数多く発見された。
共同墓地と思われる場所からは、多数の人骨とともに装身具や特殊器形の土器なども見つかり、注目、現在までに発見された竪穴住居跡は39か所、
人骨は143体。
「でえだらぼう」は、「ダイダラボッチ」「だいらんぼう」「だいらぼう」「だいだら坊」「デエダラボッチ」「でいらぼっち」等とも言われ、
奈良時代に編纂された「風土記」にも表されているように、古くから伝わる巨人伝説。
古代の人たちが、海から遠く離れた台地に残る貝塚などを見て、不思議に思いながら想像した巨人であると考えられ、市川にも姥山貝塚のある柏井周辺では、台地に湧水の池が多くあり、巨人の足跡ではないかと伝えられている。
県内・近県にも巨人が残した足跡の伝説が語り継がれる。
「日本民俗学の祖である柳田国男氏は、
「ダイダラ坊の足跡」という論考の中で、「大人」を意味する「大太郎」に法師を付けた「大太郎法師」であり、一寸法師と対をなすものと解釈」。

                奈良時代の国府台からは入江であった。


「安藤・歌川広重」 1797-1858 浮世絵師。
江戸末期の浮世絵師で、安藤重右衛門 江戸の定火消しの安藤家に生まれ家を継いでいる。その後浮世絵師にのる。
代表作 東海道五十三次・名所江戸百景・近江八景など。
影響を与えた 歌川豊広・葛飾北斎・ゴッホ・モネなどで世界的ね著名な画家として知られている。

             安藤(歌川)広重 名所江戸百景「鴻の台利根川風景」


市川市の「真間山 弘法寺」にある伏姫桜は、推定樹齢約400年の枝垂れ桜。

                正面27段を登ると伏姫桜が





      
               千葉商科大学校庭の桜








             千葉商科大学と隣接のスポーツ公園の桜並木






                     哲学の川・江戸川




                    「市川関所跡」


佐倉街道
水戸街道新宿分岐点にして、佐倉藩や成田新勝寺に向かう大事な街道で、庶民にとって成田山参詣道。
江戸幕府は、公道として定め新宿ー佐倉間を此処に関所を置いた。

                     常時4人の番士を配置。


             「元佐倉通り逆井道ー江戸両国橋え道法三里」


松戸関所・矢切の渡し・市川関所と

             江戸を守るため橋は、架けられなかった。


                     JR総武本線陸橋


(「千」ーたくさんの)・(「葉」ー草、花、樹木の葉)「千葉県」は、日本一の「緑」の「県」に、哲学の川・江戸川の市川市から。
昔、「市」で賑わった「市川市」、今は、ハゼの旨い「天ぷらの市川」はどうだろうか?。

市川・真間文学の道 syu散歩

2017-05-27 | syu散歩

「北原白秋」 1885-1942 詩人・歌人 福岡 早稲田英文予科中退、新詩社「明星」参加
処女詩集「邪宗門」で耽美主義文学の中心に。「思い出」「桐の花」「赤い鳥」「詩と音楽」童謡・民謡・小唄作詞・・全著作200冊にのぼる。

童謡「この道」 北原白秋作詞・山田耕筰作曲

この道はいつか来た道 ああ そうだよ アカシヤの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら白い時計台だよ

市川国府台里見公園にある 「紫烟草舎」ー白秋の旧居は(小岩村小岩田に、現在の江戸川区小岩町8~263)の場所、昭和40年の江戸川堤防の改修工事で取り壊され、現在は、市川国府台里見公園の中に、復元保存されている。
白秋は1日に20本入りの煙草「敷島」を1ダース吸う程の愛煙家だったという。睡眠と食事の時間を除けばほとんど切れ目無しに吸っている計算になる。文字通りのチェーンスモーカー。保存されている白秋の寓居は、その名も「紫烟草舎」と言う。
大正大正 5年の1916年、「江口章子」と結婚、白秋31歳と云う。
豊かな自然に囲まれた北小岩で、温かな人情に触れながら貧しくも心穏やかな生活を送り、紫烟草舎と自らが名付けた民家に暮らし、芸術の基盤となる優れた作品の創作活動を続け、短歌雑誌「烟草の花(たばこのはな)」を創刊。
白秋は、明治37年、中学を卒業間際に退学して上京、早稲田大学英文科予科に入学し、明治38年、長篇詩「全都覚醒賦」が「早稲田学報」の懸賞に一位当選している。明治42年、処女詩集「邪宗門」刊。実家破産。大正 2年、福島俊子と結婚。「城ケ島の雨」作詩。
大正 5年の1916年、江口章子と結婚。市川の真間ー亀井院に寄寓。

              華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ

紫烟草舎は、何の変哲もない木造平屋建てで、いまは庭に面する部屋も木の雨戸がめぐらされて、傍には、つぎのような長男北原隆太郎による解説が。

「(前略)大正五年晩秋、紫烟草舎畔の〈夕照〉のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父の白秋は、この観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以降数年間の精進の後、詩文『雀の生活』その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行歌集『雀の卵』で実現した。その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月刊の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である」と。

                         北原白秋


市川真間「文学の散歩道」
市川ゆかりの歌人 北原白秋、吉植庄亮、松本千代二、文学者・政治家  郭沫若、市川ゆかりの川柳作家 阪井久良伎、吉田機司、松沢敏行
昭和の俳人が詠んだ真間 水原秋櫻子、富安風生、小説家・随筆家  幸田露伴、幸田文、
小説家・随筆家  永井荷風、真間に住んだ俳人 吉田冬葉、岸風三楼、俳人 能村登四郎、脚本家 水木洋子。
「桜土手公園」独文学者・作家・評論家 中野孝二、 随筆家 山本夏彦、詩人・小説家・美術評論家 宗左近、小説家・劇作家  井上ひさし
市川ゆかりの歌人で 神作光一、高野公彦、日高堯子、画家 東山魁夷・・・。

               文人達が好んだ町「市川真間」












「幸田露伴」 1867-1947 小説家・文学博士
江戸下谷生まれ、明治維新によって家が没落し、中学校を中退電信技師で北海道へ、1889年「風流仏」で文壇に、「五重塔」など男性的思想主義
ロマンチシズムに溢れた特異的作風で、「頼朝・運命・芭蕉七部集」など幅広く著作。
1937年第一回文学勲章受章。



「永井荷風」 1879-1959 小説家
1897年東京外国語学校、広津柳浪に師事、歌舞伎座付作家見習い後新聞記者、父の不興を買いアメリカへ命じられ、渡航前に「闇の叫び・夢の女」
アメリカ・フランスから1908年帰国「アメリカ物語」慶応大学に迎えられ三田文学ー文化勲章受章し、日記「断腸亭日乗」重要の資料になっている。



「能村登四郎」 1911-2001 俳人
「沖」創刊、
           人間を数多く詠んでいる




「市川真間川」
真間川沿いの市川・真間地区には、他にも桜の名所が。
「文学の道」として知られる桜土手公園がる。
400mの桜並木には、市川にゆかりのある文豪たちの紹介板や遊具、ベンチもありのんびりとした雰囲気に、真間川沿いの真間小学校の右奥には
須和田公園、そのすぐ近くには樹齢400年のしだれ桜、伏姫桜のある真間山弘法寺がある。

          江戸川から東京湾へ注ぐ全長8.5Kmの一級河川


「治水」
水害対策として、支流大柏川流域での水田の保全、真間川支流の国分川の水を坂川を通じて江戸川に流す国分川分水路の掘削、川幅の拡幅、国分川調節池の設置などが行われた。
市街地を流れるため空間的な制約が大きく、水辺空間の保全、特に桜並木の保存が問題となった。結果的に川幅の拡幅のため桜並木の一部伐採とコンクリート護岸の設置が行われたが、拡幅部分でも川沿いに桜を植えたり護岸をツタで覆うなど、修景に工夫が。



「手児奈霊堂」
真間にある霊堂で、南隣は弘法寺の日与上人が「万葉集」にも歌われた伝説の「美女手児奈を安産、子育ての神」として1510年建立しとと伝わる。
小さな堂の正面に「山部赤人」の
             「吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥津城処」

               歌が揚げられている。







頼朝と市川葛飾八幡宮 syu散歩

2017-05-25 | syu散歩
「安房国」
国造は「阿波」の表記であり、藤原京出土木簡に「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦699年)とあるなど、郡(評)の表記にもゆれがあるが、これに先立つ和銅6年(713年)の好字令で南海道の「粟国」が「阿波国」に変更されており「安房」の表記となった。
天平13年の742年、に上総国に合したが、天平宝字元年の757年、に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランク。
「国府」-現在の南房総市府中付近に置かれ、古代末期から中世にかけて丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏などの武士団が活動し、
平安時代末期には、「源頼朝」の再起の地となる。
室町時代の守護には結城氏、上杉氏が就いた。
15世紀半ば頃より里見氏が台頭し、戦国期には安房統一を果たして上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。
豊臣秀吉による小田原城攻め以後は、安房一国が里見氏の領地。
関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の慶長19年の1614年、に「里見忠義」が「大久保忠隣」
改易に連座して伯耆国倉吉に転封。
その後は、東条藩、勝山藩、上総百首藩、北条藩、館山藩などの諸藩と、幕府領・旗本領が置かれた。
村数は、280ヵ村・明治2年の1869年、安房ではー勝山、館山、北条の3藩に、新たに長尾藩、花房藩の2藩が置かれた。
この地の幕府領・旗本領は安房上総知県事・柴山典の管轄となり、翌年に宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、
安房4郡の約5万6千石を管理し、明治4年の1872年には、廃藩置県によって木更津県に編入され、明治6年、木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。
明治30年、「安房国4郡が統合」-「千葉県安房郡」に再編。

「下総国」
律令制以前には印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。
律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のち豊田郡が加わる)。
元々東海道は海つ道(海路)であり上総国から下総国へ入る経路だったが、宝亀2年の771年、に武蔵国が東海道に移管され、相模国から武蔵国を通って下総国へ入る経路へ変更され、国府は、「市川市国府台」に置かれ国級は大国に位置づけられた。
古代末期から中世にかけて千葉氏が台頭し源頼朝を支援して鎌倉幕府創設に尽力した。
鎌倉・室町時代と守護の地位を確保し中世には千葉氏の歴代当主が下総の守護と権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて千葉介(ちばのすけ、
「千葉郡を領する(権)介」)と呼称され、最北部の結城郡を中心とした下野国との境界付近に根拠を持つ小山氏の庶流・結城氏も鎌倉幕府の創設に
貢献して独自の勢力を築き、室町時代の一時期には下野国の守護に任じられている。
15世紀前半の永享の乱やその他の関東の動きに結城氏や千葉氏も巻き込まれる。
結城氏は結城合戦で室町幕府と戦って一時滅亡に追い込まれ、千葉氏も享徳の乱における内紛で宗家は滅亡、その結果千葉氏は武蔵国に逃れた一流と千葉から佐倉に拠点を移した一流の2つに分裂することになり次第に衰えた。
かわって下総生実城に寄った小弓御所足利義明が勢威をふるい小田原の北条氏と対抗した。1538年、と1564年、の「国府台合戦」において
はじめに足利義明が敗死、また義明の後に台頭した安房国の里見氏が敗北したことにより、下総国内は小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、佐倉の千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた原氏、また高城氏らが従属下に置かれるようになった。
1590年、豊臣秀吉の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏らはこれと運命をともにした。再興された結城氏も北条氏と上杉氏や佐竹氏との間で連携と離反を繰り返すが、最終的に豊臣秀吉に従って所領を安堵されている。
徳川家康の関東入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。それらのうち比較的に規模が大きいのは古河藩(最大16万石)、佐倉藩(最大14.2万石)、関宿藩(最大7.3万石)のみで、その他の藩はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。

                 市川市元八幡駅前


「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍・義朝の嫡男・母熱田大宮司藤原季範の娘・伊豆へ20年余り流人生活、
以仁王の令旨を受け挙兵(千葉県房総から)・富士川の戦いで平家方敗走へ・鎌倉から佐竹氏を討つ・関東を固める・木曽義仲と平家滅亡
奥州藤原氏を討つ・征夷大将軍。

「葛西清重」
関東平氏の一系で、豊島常清と母(武蔵七党の総本家秩父重弘の娘)との二男として生まれ、成人後、「千葉常胤」の弟葛西重高の養子となった。
清重の活躍は、平家討伐の際、源範頼に従い中国地方を参戦し恩賞を受けた程で、 剛直で一本気な性格の為、頼朝にも深く信頼を得た人物。
(清重は、死ぬまで頼朝の護衛にあたったという。)さらに、奥州合戦の折には、阿津賀志山の戦いで、畠山重忠と先陣争いをし、夜間敵陣を迂回し、背後から攻め込み勝ち戦の一翼を担った。
又、平泉突入には 、一番槍をとり、藤原氏の宝庫を押さえ、宝物を頼朝に献じた程の華々しい戦いぶりを示した。当時、若干30歳にて、並みいる武将に引けを劣らぬ活躍をしたと言われている。(房総から江戸川を渡ると葛西氏の領地)

               千葉県市川市本八幡駅


「八幡宮の藪不知」
藪の広さは奥行き・幅ともに18mほどで、決して方向感覚を失って迷うほどの広さとは言えないが。
近年の道路拡張で一部が削り取られ、古くは、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており、昭和の末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼とした様を見ることができたが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみ。
藪の中央部が窪んでいるという地形的特徴がある。「藪」の範囲はかつてはさらに広かったとも言われるが、すくなくとも江戸時代の文献には既に現在と同程度の広さであったことが記されている。
「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という伝承は、後述するように由来には諸説あるが少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。
街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「八幡不知森(やわたしらずのもり)」と記された1857年、伊勢屋宇兵衛が建立の石碑がある。

               「葛飾八幡神社」大鳥居


          武神ー源頼朝・祭神ー息長帯姫命・誉田別命・玉依姫命


「宇多天皇」 867-931 天皇在位、887-897。
先代 光孝天皇(第七皇子)・次代醍醐天皇  母は、桓武天皇の皇子仲野親王の娘。

       9世紀末「宇多天皇」が、京都石清水八幡宮を勧請して建立した神社


                太田道灌・徳川家康など崇敬。




                  楼門


                  鐘楼


                  参道


                  拝殿


     国指定記念物「千松孫樹一樹」(歌人伊藤左千夫も描写したと云う)


                  神輿舎


                  千本銀杏


           源頼朝の「駒どめの石」ここから戦勝祈願し鎌倉へ


                        狛犬


                 市川ナシ育ての親「川上善六」の記念碑が


                       ナシ畑

日本橋室町と八重洲

2017-05-23 | syu散歩
「日本橋室町」ー中央区
東京を代表するメインストリート日本橋北詰の町。
老舗の商店が数多く軒を連ね、ビジネス街の色も持ち合わせている。
江戸城内から、常盤橋、日本橋室町、日本橋本町を通り、浅草橋に至る「本町筋」は江戸時代から明治初年まで、江戸・東京の目抜き通りであった。
地理では、日本橋地域の西側に位置し、千代田区(鍛冶町)との区境にあたる。河川で、日本橋川・ 西河岸橋・日本橋・江戸橋が。

               日本銀行と江戸桜通り


正式地名は、「日本橋室町」で、徳川家康の頃は、村があり移転さし、新たに町屋を開いた地域。
漆器商の「尼ケ崎屋」があったので、尼崎町とも呼ばれていた。日本橋北詰付近に魚河岸があったが、関東大震災で築地へ移転している。

「アダムス・三浦按針」の屋敷があった。 1564-1620 イギリス航海士。水先案内人で日本名を三浦按針。豊後国で漂流し、家康に謁見し
250石を貰っている。ここで、日本人女性と結婚している。日本に来た最初のイギリス人。
外交上の意見を開陳し、幾何学・数理学を講したと伝わる。盛んに貿易活動しとも云う。按針塚は、横須賀市にある。

           桜並木の左に日本銀行が


           4月中旬の江戸桜通り




          現在日本銀行は改装工事中


           日本橋室町3丁目付近


           日本銀行は、室町2丁目


         老舗の三越デパート入口のライオン像


                日本橋の交差点(高速7号線が)


                   日本橋


                   里程標
















「日限地蔵尊」


「日本橋西河岸地蔵寺教会」
行基菩薩が遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた際に自ら彫刻した御丈2尺8寸の御尊像を祀ったものだという。
1718年、地蔵堂として建立、正徳院と称していた。
地蔵菩薩は、天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして御利益を授かるところから、「日限地蔵尊」と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらたかな事は古来より広く世に知られ多という。
勝縁の地としてここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を数え、建立の当時は「正徳院」と呼ばれ、天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺。
その後、明治維新の廃仏毀釈と大正12年、関東大震災や戦災などによる多くの変遷を経て、今日に。
 


「一石橋」 日本橋川に架かる
江戸時代、川を隔てて北が金座をつか伝さどる「後藤邸」・南が幕府御用を受ける呉服所の「後藤縫殿助邸」であった。
共に後藤・ゴトー・五斗で合わせ「一石」で橋の名に。
もう一説は、橋のたもとに米俵をつんで、銭一貫文を米一石を引き換える店があったからとも云う。真意は?

                  一石橋


一石橋南西詰に「迷子の知らせ石」が。文京区の湯島天神の境内にも残っている。人混みで迷子が多いため。

                ビルの谷間に


必ず寄った中華料理店の姿は消えていた。

             八重洲駅前の桜通り(飲食店が多い)


             八重洲通り(向かいは、八丁堀方面)


「八重洲の名の起こり」
今から約350年前、大分県佐志に漂流したオランダ船「リーフデー号」の船長「ヤン・ヨーステン」の名前からきたともいわれている。
家康が知遇で召し抱え、貿易に力を注いだという。ヨーステンの住所が今の八重洲であった。
家康は、アダムス・ヨーステンから帆前船を建造している。

                  八重洲一丁目付近


                   東京駅八重洲口