「安房国」
国造は「阿波」の表記であり、藤原京出土木簡に「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦699年)とあるなど、郡(評)の表記にもゆれがあるが、これに先立つ和銅6年(713年)の好字令で南海道の「粟国」が「阿波国」に変更されており「安房」の表記となった。
天平13年の742年、に上総国に合したが、天平宝字元年の757年、に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランク。
「国府」-現在の南房総市府中付近に置かれ、古代末期から中世にかけて丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏などの武士団が活動し、
平安時代末期には、「源頼朝」の再起の地となる。
室町時代の守護には結城氏、上杉氏が就いた。
15世紀半ば頃より里見氏が台頭し、戦国期には安房統一を果たして上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。
豊臣秀吉による小田原城攻め以後は、安房一国が里見氏の領地。
関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の慶長19年の1614年、に「里見忠義」が「大久保忠隣」
改易に連座して伯耆国倉吉に転封。
その後は、東条藩、勝山藩、上総百首藩、北条藩、館山藩などの諸藩と、幕府領・旗本領が置かれた。
村数は、280ヵ村・明治2年の1869年、安房ではー勝山、館山、北条の3藩に、新たに長尾藩、花房藩の2藩が置かれた。
この地の幕府領・旗本領は安房上総知県事・柴山典の管轄となり、翌年に宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、
安房4郡の約5万6千石を管理し、明治4年の1872年には、廃藩置県によって木更津県に編入され、明治6年、木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。
明治30年、「安房国4郡が統合」-「千葉県安房郡」に再編。
「下総国」
律令制以前には印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。
律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のち豊田郡が加わる)。
元々東海道は海つ道(海路)であり上総国から下総国へ入る経路だったが、宝亀2年の771年、に武蔵国が東海道に移管され、相模国から武蔵国を通って下総国へ入る経路へ変更され、国府は、「市川市国府台」に置かれ国級は大国に位置づけられた。
古代末期から中世にかけて千葉氏が台頭し源頼朝を支援して鎌倉幕府創設に尽力した。
鎌倉・室町時代と守護の地位を確保し中世には千葉氏の歴代当主が下総の守護と権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて千葉介(ちばのすけ、
「千葉郡を領する(権)介」)と呼称され、最北部の結城郡を中心とした下野国との境界付近に根拠を持つ小山氏の庶流・結城氏も鎌倉幕府の創設に
貢献して独自の勢力を築き、室町時代の一時期には下野国の守護に任じられている。
15世紀前半の永享の乱やその他の関東の動きに結城氏や千葉氏も巻き込まれる。
結城氏は結城合戦で室町幕府と戦って一時滅亡に追い込まれ、千葉氏も享徳の乱における内紛で宗家は滅亡、その結果千葉氏は武蔵国に逃れた一流と千葉から佐倉に拠点を移した一流の2つに分裂することになり次第に衰えた。
かわって下総生実城に寄った小弓御所足利義明が勢威をふるい小田原の北条氏と対抗した。1538年、と1564年、の「国府台合戦」において
はじめに足利義明が敗死、また義明の後に台頭した安房国の里見氏が敗北したことにより、下総国内は小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、佐倉の千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた原氏、また高城氏らが従属下に置かれるようになった。
1590年、豊臣秀吉の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏らはこれと運命をともにした。再興された結城氏も北条氏と上杉氏や佐竹氏との間で連携と離反を繰り返すが、最終的に豊臣秀吉に従って所領を安堵されている。
徳川家康の関東入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。それらのうち比較的に規模が大きいのは古河藩(最大16万石)、佐倉藩(最大14.2万石)、関宿藩(最大7.3万石)のみで、その他の藩はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。
市川市元八幡駅前
「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍・義朝の嫡男・母熱田大宮司藤原季範の娘・伊豆へ20年余り流人生活、
以仁王の令旨を受け挙兵(千葉県房総から)・富士川の戦いで平家方敗走へ・鎌倉から佐竹氏を討つ・関東を固める・木曽義仲と平家滅亡
奥州藤原氏を討つ・征夷大将軍。
「葛西清重」
関東平氏の一系で、豊島常清と母(武蔵七党の総本家秩父重弘の娘)との二男として生まれ、成人後、「千葉常胤」の弟葛西重高の養子となった。
清重の活躍は、平家討伐の際、源範頼に従い中国地方を参戦し恩賞を受けた程で、 剛直で一本気な性格の為、頼朝にも深く信頼を得た人物。
(清重は、死ぬまで頼朝の護衛にあたったという。)さらに、奥州合戦の折には、阿津賀志山の戦いで、畠山重忠と先陣争いをし、夜間敵陣を迂回し、背後から攻め込み勝ち戦の一翼を担った。
又、平泉突入には 、一番槍をとり、藤原氏の宝庫を押さえ、宝物を頼朝に献じた程の華々しい戦いぶりを示した。当時、若干30歳にて、並みいる武将に引けを劣らぬ活躍をしたと言われている。(房総から江戸川を渡ると葛西氏の領地)
千葉県市川市本八幡駅
「八幡宮の藪不知」
藪の広さは奥行き・幅ともに18mほどで、決して方向感覚を失って迷うほどの広さとは言えないが。
近年の道路拡張で一部が削り取られ、古くは、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており、昭和の末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼とした様を見ることができたが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみ。
藪の中央部が窪んでいるという地形的特徴がある。「藪」の範囲はかつてはさらに広かったとも言われるが、すくなくとも江戸時代の文献には既に現在と同程度の広さであったことが記されている。
「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という伝承は、後述するように由来には諸説あるが少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。
街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「八幡不知森(やわたしらずのもり)」と記された1857年、伊勢屋宇兵衛が建立の石碑がある。
「葛飾八幡神社」大鳥居
武神ー源頼朝・祭神ー息長帯姫命・誉田別命・玉依姫命
「宇多天皇」 867-931 天皇在位、887-897。
先代 光孝天皇(第七皇子)・次代醍醐天皇 母は、桓武天皇の皇子仲野親王の娘。
9世紀末「宇多天皇」が、京都石清水八幡宮を勧請して建立した神社
太田道灌・徳川家康など崇敬。
楼門
鐘楼
参道
拝殿
国指定記念物「千松孫樹一樹」(歌人伊藤左千夫も描写したと云う)
神輿舎
千本銀杏
源頼朝の「駒どめの石」ここから戦勝祈願し鎌倉へ
狛犬
市川ナシ育ての親「川上善六」の記念碑が
ナシ畑